第二十一話 アリスが選ぶ手
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第二十一話 アリスが選ぶ手
マッドの洋館の広間には、まだ白い霧の名残が漂っていた。
窓から差す月明かりは青白く揺れ、壁に掛けられた奇妙な帽子たちの影を、長く、歪ませている。テーブルの上には、冷めた紅茶と、食べかけのカップケーキ。さっきまでそこにいたチェシャ猫の笑い声が、まだ空気の隅にこびりついているようだった。
アリスは、ノアの手を握ったままだった。
黒い霧の中で助けられてから、ずっと。
離そうと思えば、いつでも離せたかもしれない。
ノアへの不信感は、消えるわけじゃない。
それなのに、手を離せなかった。
白い霧の中で見たものが、胸の奥でまだ熱を持っていたからだ。
―傷だらけになって誰かを守るノア。
―女王に踏みつけられ、首に錠をかけられたノア。
―幼いガルの手を離さなかったノア。
―泣きながら、幼いアリスの記憶を封じたノア。
あれが本当の記憶なのか、チェシャ猫が混ぜた夢なのか、アリスにはまだ分からない。
けれど、痛みだけは本物のような気がした。
「よく来たね。ノア」
マッドが静かに言った。
黒いシルクハットをかぶった長身の男は、相変わらず絵画のように美しかった。長い黒髪は月光を吸い込み、紫の瞳は夜の底みたいに深い。
ただ、その整いすぎた顔の口元に、白いクリームがついていた。
アリスは一瞬、目を瞬かせた。
今、この空気で。
この美貌で。
口元にクリーム。
言うべきか迷っていると、ロビンが大きくため息をついた。
「マッド、口…」
「口?」
「クリーム!」
ロビンは布巾をひったくるように掴み、マッドの口元をごしごし拭いた。
「客の前でキメ顔すんなら、せめてケーキ食った跡くらい消せよ!」
「私はキメ顔などしていない」
「してた! めちゃくちゃしてた!」
「これは思考している顔だ」
「クリームつけて思考すんな!」
ネムリがロビンの袖に隠れながら、くすっと笑った。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
けれど、ノアは笑わなかった。
アリスの手を握る指先に、かすかな力が入っている。いつもの柔らかな白兎ではない。彼は静かに、けれど鋭くマッドを見ていた。
「マッド」
ノアの声には、甘さの下に冷えた刃があった。
「貴方、時計に細工をしましたね」
ロビンが顔を上げた。
ネムリも不安そうに瞬きをする。
マッドはロビンに拭かれた口元を指で確かめ、それから何事もなかったように微笑んだ。
「君をここへ招くには、少し道案内が必要だったからね」
「道案内?」
ノアの目が細くなる。
「アリスを樹海へ落とすことが、貴方の言う道案内ですか…」
「本来なら、君が来るはずだった」
マッドは悪びれもせずに言う。
ロビンが気まずそうに耳を伏せた。
「お、俺は頼まれただけだからな!時計にちょっと細工しろって」
ノアの視線が、すっとロビンへ向いた。
「ロビン」
「なんだよ」
「余計なことをした自覚はある?」
「……ちょっとはある」
「ちょっとでは済まないよ」
ノアの声は静かだった。
ロビンは、うっと言葉を詰まらせる。
マッドは楽しげに目を細めた。
「だが、結果としてもっと良いものを見つけた」
紫の瞳が、アリスへ向いた。
ただ見られただけなのに、胸の奥がきゅっと縮む。
マッドはゆっくりと手を伸ばした。
長い指。白く、しなやかで、冷たそうな手。
「さぁ、アリス」
その名前を呼ばれた瞬間、アリスの身体が強張った。
ルーシーの仮面は、もうこの男の前では意味をなしていない。
そう分かってしまった。
灰茶色の髪も、オリーブ色の瞳も、子ぶた娘の姿も。その向こうに隠していたものまで、マッドの紫の瞳は見ている。
「こっちへおいで」
マッドの声は低く、甘かった。
ノアの砂糖菓子のような甘さとは違う。もっと夜に近い。黒い紅茶に一滴だけ毒を落としたような、静かで危うい甘さ。
「白兎は、君に随分と隠し事をしているようだ」
アリスは答えられなかった。
それは本当だったから。
「君も見ただろう。彼は君の記憶を封じ、隠し、閉じ込めた」
言葉が、一つずつ胸に落ちていく。
否定できない。
ノアは何も言わなかった。
ただ、アリスの手を握る力がわずかに強くなった。
強引ではない。
けれど、その指先から、余裕のなさが伝わってくる。
一度逃げられているから。
時計塔から飛び降りたアリスの背中を、見てしまったから。
また手を離されたら、今度こそ届かない場所へ行ってしまうと、そう思っているみたいだった。
アリスは、ノアの指の震えに気づいた。
いつものノアなら、こんな時でも笑っていたはずだ。
甘い顔で、軽い皮肉を言って、相手の言葉をふわりとかわす。そうして、自分の本心を誰にも掴ませない。
でも今は違う。
ノアは、怖がっている。
アリスがどちらを選ぶのか。
怖がっている…。
「アリス」
マッドの手が、さらに近づく。
「私のところへ来れば、君の知りたいことを全部教えてあげるよ。君が本当は何のためにこの不思議の国へ呼ばれたのか…そして、元の世界への帰り方も…ね」
知りたい。
その気持ちは、たしかにあった。
いつも知りたくて、胸の奥が落ち着かなかった。
なぜ自分なのか。
薔薇の鍵とは何なのか。
ハートの女王は何を望んでいるのか。
ノアは何を背負っているのか。
でも。
アリスは、ノアの手を見た。
白い指が、ぎゅっとアリスを握っている。
縛るようではなく、失いたくないと訴えるように。
怖いくらい不器用な手だった。
アリスは息を吸った。
そして、今度は自分からノアの手を強く握り返した。
ノアの赤い瞳が揺れる。
アリスはそのまま、ノアの腕に掴まった。
逃げない。
今は、逃げない。
その意思を、自分の手で伝えるように。
「行けません」
アリスは言った。
声は震えていた。
けれど、引かなかった。
「私は、ノアと帰ります」
ノアの息が、ほんの一瞬止まった。
その気配が、腕越しに伝わってくる。
マッドは驚かなかった。
ただ、やれやれというように肩をすくめる。
「君はいつもノアを選ぶ」
その声には、呆れと、納得と、少しだけ寂しさが混じっていた。
「昔も……今も」
アリスの胸が痛む。
また、自分の知らない自分の話だ。
けれどもう、知らないまま怯えて目を逸らすのは嫌だった。
マッドは椅子に腰を下ろし、冷めた紅茶のカップを指先で回した。
「それにしても、何故こんな時期に?」
その一言で、部屋の空気が変わった。
ロビンもネムリも黙る。
ノアの指が、また少し強くアリスを握った。
「約束は、アリスの十六歳の誕生日のはずだろう」
アリスは息を呑んだ。
十六歳の誕生日。
そんな具体的な時期を聞いたのは、初めてだった。
ただ帰るための手掛かりを探していたはずなのに、その一言だけで、自分が知らない大きな約束の中心に立たされている気がした。
「十六歳の、誕生日……?」
小さく呟く。
ノアは目を伏せた。
言いたくないのだと、分かった。
けれど、もう誤魔化せないところまで来ている。
マッドは静かに続けた。
「白兎。君は二年も早くアリスをワンダラーへ連れてきた。いったい何があった?」
ノアはしばらく黙っていた。
古い館が、みしりと小さく軋む。
その音が、やけに大きく聞こえた。
ノアはアリスの方を見ないまま、静かに口を開いた。
「向こうの世界で、予想外のことが起きた」
アリスはノアを見上げた。
彼の横顔は、言葉を選び、感情を押し殺し、ぎりぎりのところで立っている人のものだった。
「僕が必要と判断したので、連れてきた」
マッドの紫の瞳が細くなる。
「接触が禁忌と知りながら?」
ノアは黙った。
アリスは息を呑む。
まさか、あの時、禁忌を破っていたなんて…。
あの薔薇園での痛みに、勝手に触れようとしないノア。
これまでの沈黙が、ただの隠し事ではないのだと気づいた瞬間、胸の奥が熱く痛んだ。
「そのせいで歪みが生じている」
マッドが言う。
「森も、扉も、夢も、以前よりずっと不安定だ。君が隠しても、女王が気づくのは時間の問題だぞ」
「分かっています」
「それなら、こちらにいた方が安全だろう」
マッドの視線が、アリスへ戻る。
「この屋敷は女王の目が届きにくい。時々、チェシャ猫のような面倒なものはいるが、それはまあ、よくある害虫のようなものだ」
どこかでチェシャ猫が「失礼~」と笑った気がしたが、たぶん気のせいだ。
ノアが笑った。
甘い笑顔だった。
でも、目だけは笑っていなかった。
「ここが安全……?」
その声が、静かに冷える。
「最初から、ルーシーがアリスだと分かっていたんでしょ」
マッドは答えなかった。
ただ、薄く笑う。
「それで時計に細工をした。相変わらず、手段を選ばない人ですね。アリスを手に入れたいからって、少々強引すぎます」
マッドは笑った。
「アリスに逃げ出されておいて、よく言う……」
「それはどうでもいい」
「どうでもよくはないと思うがね」
「どうでもいいんです」
ノアは即答した。
ロビンが小声で「いや、そこはどうでもよくねぇだろ」と呟いたが、誰も拾わなかった。
ノアはアリスの前に、ほんの少し立つように身体を動かした。
庇うように。
隠すように。
けれど、アリスの手は離さない。
「アリスのことは、僕が責任を持って守ります」
その言葉に、アリスの胸がどきりとした。
責任。
それはきっと、軽い意味ではない。
ノアはずっと責任を背負ってきた。
そして全部、自分の中に抱え込んできた。
なのに、今またアリスのことを「責任を持って守る」と言う。
胸が熱くなる。
苦しくなる。
嬉しいのか、悲しいのか、分からなかった。
アリスはノアの腕を掴む手に、そっと力を込めた。
「ノア」
ノアがこちらを見る。
赤い瞳が揺れている。
「私は、物じゃありません」
ノアの表情が止まった。
「だから、誰かが“手に入れる”ものでも、“守られるだけ”のものでもありません」
ロビンが目を丸くする。
ネムリは不安そうにアリスを見ている。
マッドは、面白そうに目を細めた。
アリスは続けた。
「でも、今はノアと帰ります」
ノアの瞳が、わずかに見開かれる。
「逃げるためじゃなくて、ちゃんと話を聞くために」
アリスはまっすぐ見上げた。
「帰ったら、話してください。私がどうすれば帰れるのか、薔薇の鍵が何なのか……それから、ノアが私に何を隠しているのか」
ノアはすぐには答えなかった。
けれど、以前のようなはぐらかす笑顔に逃げなかった。
それが今は、少しだけ嬉しかった。
「……分かった」
ノアの声は、とても静かだった。
「話すよ」
マッドが小さく笑った。
「やれやれ。野薔薇のお嬢さんは、白兎を選んでも白兎の檻には入らないらしい」
「檻なんて必要ありません」
アリスが言うと、ノアがほんの少しだけ困ったように笑った。
「耳が痛いな」
「聞こえているなら、よかったです」
ロビンがぼそっと呟く。
「なんか、白兎が叱られてるとこ初めて見た」
ネムリが小さく頷く。
「お姉ちゃん、強いね」
アリスは少し顔が熱くなった。
マッドは頬杖をつき、紫の瞳で二人を見ている。
「では、白兎。次にどうする?」
ノアの表情が変わった。
柔らかな白兎の顔ではない。
ハートの女王の側近としての顔。
扉を開け、閉じる者の顔。
「城へ戻ります」
マッドの眉がわずかに上がる。
「正気か」
ノアは静かに答えた。
「ええ。ルーシーとして、僕と一緒にいてもらう」
「女王の目の下に置くつもりか」
「だからこそです」
ノアの赤い瞳が、月明かりの中で冷たく光った。
「隠し場所は、遠ければ安全というものではありません。見られている場所ほど、堂々としていれば疑われにくい」
マッドは喉の奥で笑った
「また囲う気か?」
「守るんです」
「同じに聞こえる」
「違います」
ノアは即答した。
けれどアリスは、その横顔を見つめながら思った。
違うかどうかは、これからだ。
守ることと、隠すこと。
その境目を決めるのは、ノアの言葉だけではない。
アリス自身が見て、聞いて、選ばなければならない。
アリスはノアの手を握ったまま、静かに息を吸った。
物語は、まだ何ひとつ終わっていない。
むしろ、ここから始まるのかもしれない。
十六歳の誕生日。
ハートの女王。
八年前の約束。
少し早く開かれた扉。
そして、白兎が背負う鎖。
それでも今、アリスは自分の意志でノアの隣に立っていた。
逃げるためではなく。
何も知らないまま甘えるためでもなく。
怖いから手を取るのでもない。
この白兎を、ただ信じたいと思った。
怖いところもある。
分からないことも、まだ多すぎる。
それでも、白い霧の中で見た痛みが、アリスの胸に残っている。
ノアの手は、まだ少し冷たかった。
けれど、アリスはその手を離さなかった。
離したくないと、思ってしまった。
その気持ちに、まだ名前はつけられない。
けれど胸の奥で、小さな薔薇の芽のように、何かが静かに息づき始めていた。
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