第二十三話 愛しさが生まれる日
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 十四歳の少女アリスは、姉の結婚式の日、白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む。 そこにいたのは、白兎の姿を持つ美青年ノア。 優しく甘くアリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。 「君はこの国を選んだんだ」 失われた八年前の記憶。 薔薇の鍵。 ハートの女王。 そして、白兎の隠した小さな昨日。 守られているのか、閉じ込められているのか。 アリスは信じたい気持ちと疑う心を抱えながら、自分自身の物語を取り戻していく。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第二十三話 愛しさが生まれる日
マッドの洋館を出た時には、もう夜だった。
帰り道も、ノアはほとんど何も話さなかった。
ただ、手だけは離さないように強く握られていた。
家に戻ると、部屋には小さなランプの灯りだけがともっていた。
昼間なら明るく可愛らしい家も、今夜は少しだけ静かすぎた。
「お腹、空いたでしょう」
ノアはそう言うと、アリスの返事を待たずにキッチンへ向かった。
棚を開ける。鍋を出す。食器を並べる。野菜を取り出す。まな板を置く。
カタン、カチャリ、と音が続く。
いつもなら、ノアの台所仕事は静かで、なめらかだった。何をするにも無駄がなくて、野菜を切る音さえ心地よく聞こえる。
けれど今夜は違う。
皿が少し乱暴に触れ合う。鍋の蓋がかすかに跳ねる。棚の扉が閉まる音が、いつもより少しだけ大きい。
ノアはアリスを見なかった。
一度も。
その白い背中を見て、アリスは分かった。
ノアは怖がっている。
アリスが、もう自分を信じてくれないのではないかと。
またどこかへ行ってしまうのではないかと。
それが怖くて、目を合わせられないのだ。
「ノア」
アリスは静かに呼んだ。
ノアの兎耳が、ぴくりと動く。
「うん?」
声だけは、いつものように柔らかかった。
けれど、振り返らない。
「まず、座ってください」
「でも、夕食を作らないと。今日は色々あったし、温かいものを食べた方が――」
「夕食はあとでいいです」
「若い子はちゃんと食べないと」
「ノア」
アリスの声が、少しだけ強くなった。
ノアの手が止まる。
まな板の上には、まだ切られていないムラサキねむりかぶが置かれている。眠そうな野菜が、ふぁ、と小さくあくびをした。
こんな時まで眠そうにしないでほしい。
少しだけ、気が抜けそうになる。
けれど、今は笑って逃げてはいけない。
アリスはノアのそばへ行き、彼の手から包丁をそっと取った。
ノアは抵抗しなかった。
アリスは包丁をまな板の横へ置き、それからノアの手を引く。
「座って」
ノアは困ったように笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
アリスはそのまま、彼を食卓の椅子に座らせた。
いつもは逆だった。
ノアがアリスを座らせ、温かい食事を出し、紅茶を淹れてくれる。アリスが戸惑えば助け、怖がれば待ってくれる。
けれど今夜だけは、アリスがノアの沈黙に手を伸ばしたかった。
白兎が扉の向こうへ隠れてしまう前に。
その細い鍵穴の前で、ちゃんと名前を呼んでいたかった。
アリスはノアの正面に座った。
丸い食卓の上には、まだ何もない。
スープも、パンも、紅茶もない。
ただ、二人の間に、八年分の沈黙が置かれていた。
「話して」
アリスは、ノアの目をまっすぐ見た。
「私、知りたいです。忘れてしまったことも、……私が、どうしてここにいるのかも」
ノアの赤い瞳が揺れた。
逃げ道を探すように、一度だけ視線が横へ逸れる。
アリスは黙って待った。
どうか、また笑って遠くへ逃げないで。
声に出せば泣いてしまいそうで、アリスはただノアを見つめた。
ノアも、やがてこちらを見返した。
二人の間に、言葉にならない沈黙が落ちる。
それは冷たい沈黙ではなかった。
痛いほど切実な、逃げ場のない沈黙だった。
ノアは小さく息を吐いた。
そして、ようやく口を開いた。
「君が初めてワンダラーへ来たのは、六歳の頃だった」
アリスは黙って聞いていた。
思い出せない。
けれど、完全に知らない話にも聞こえなかった。
白兎。
薔薇園。
小さな手。
追いかけた背中。
霧の奥に沈んだ記憶の欠片が、胸の奥でかすかに揺れる。
「君は、僕を追いかけてこの不思議の世界へ来てしまった」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「本来なら、君はこちらへ来る予定ではなかった。だけど、あの日、扉のほつれに君が触れてしまった。そしてワンダラーへ入り込んでしまった」
「それで……?」
「ここで、君はとても価値のある存在だと分かった」
ノアの声は静かだった。
けれど、ひとつひとつの言葉が重い。
「この世界の均衡を守る鍵。ワンダラーの歪みを正すための、特別な役目を持つ子だと」
「私が……?」
アリスは思わず、自分の胸元に手を当てた。
そんな大きなものが、自分の中にあるとは思えなかった。
世界の均衡を守る鍵。
あまりに大きすぎて、現実味がない。
けれどノアの顔は真剣だった。
冗談でも、甘い嘘でもない。
「でも、君はまだ幼かった」
ノアは続けた。
「六歳の子どもに背負わせていいものじゃなかった。だから、僕たちは約束をした」
「約束……」
「十六歳の誕生日に、君を迎えに行くと」
十六歳。
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
アリスの胸が、ぎゅっと縮む。
「十六歳の誕生日に、一体何が起きるの……?」
ノアの顔が強張った。
それまで何とか言葉を選んでいた彼の表情が、そこで初めてはっきり崩れた。
「それは……」
ノアの喉が動く。
「君は……くっ……!」
次の瞬間だった。
ノアの首元で、紅の光が走った。
アリスは息を呑む。
首の錠。
白い霧の記憶で見た、ハートの女王にかけられた錠。
普段は見えないそれが、今、ノアの白い首に浮かび上がっていた。
赤い蔦のような鎖が、首筋に絡みついている。
薔薇の茎にも似たそれは、細いのにひどく冷たく、棘を持っていた。蔦はノアの喉元を締めあげるように巻きつき、胸元には紅い錠が脈打つように光っている。
まるで、心臓の代わりにそこだけが血を流しているみたいだった。
「ノア!」
ノアは苦しそうに喉元を押さえた。
それでも、口を開こうとする。
「アリス、君は……十六に、なったら……」
言葉が途切れる。
錠が強く締まった。
赤い蔦が首に食い込む。棘が白い肌を掠め、血が滲む。
ノアの顔が苦痛に歪む。
それでも、話そうとしていた。
契約で話せないことを、無理に破ろうとしている。
それがアリスにも分かった。
赤い蔦がさらに締めあげる。棘が食い込み、一筋、血が首筋を流れる。
「やめて!」
アリスは椅子を蹴るように立ち上がった。
ノアのそばへ駆け寄り、彼の身体を抱き寄せる。
「もういいです。話さないで」
「そんなわけには……」
「いいの!」
アリスは、ノアの頭を胸に抱くようにして強く言った。
ノアの身体が震えている。
いつもなら、怖いものからアリスを遠ざける人だった。
危ないものを先に見つけて、痛いものを先に受け止めて、何でもない顔で笑ってくれる人だった。
その人が今、アリスの腕の中で苦しそうに息をしている。
守られるばかりだった自分の手が、こんなにも頼りなく思えたことはなかった。
それでも、離したくなかった。
「私、知りたいです。でも、こんなふうに苦しむノアを見るくらいなら、今は知らなくていい」
ノアの手が、アリスの袖を掴んだ。
弱い力だった。
「ごめん……」
「謝らないでください」
「また、肝心なところで言えない」
ノアの声は、かすれていた。
「言えないままだと、君はきっと、僕のそばからいなくなる」
アリスは息を呑んだ。
ノアは目を伏せたまま、苦しそうに続ける。
「当然だよ。僕は君に隠し事ばかりして、記憶まで奪って、それでも信じてほしいなんて……そんなの、都合がよすぎる」
「ノア……」
その言葉は、あまりにも正直だった。
いつもの甘い笑顔も、軽い言い訳もない。
ただ、失うことを怖がっている。
白兎が、初めてその弱さを隠さなかった。
アリスは、彼の白い髪に頬を寄せる。
白い髪は、夜のランプの灯りを受けて、月明かりをほどいた糸みたいに淡く光っていた。けれど、その下で震えている身体は、作り物でも、物語の案内役でもない。
傷つくことを知っている、ひとりの人だった。
「じゃあ、言えるところから聞きます」
ノアが、わずかに目を見開いた。
「言えないことまで、無理に言わなくていいです。私は、ノアを苦しめたいわけじゃないから」
アリスはノアの首元に目を落とした。
赤い蔦は、少しずつ光を弱めている。
けれど棘の痕は残っていた。白い肌に薄く刻まれた赤が、ランプの灯りの下で痛々しく浮かんでいる。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
知らないままでいるのは怖い。
でも、知らされるためにノアが傷つくのは、もっと嫌だった。
アリスは袖を握りしめる。
泣きたいのを堪えるみたいに、一度だけ唇を結んだ。
「でも、嘘は嫌です」
アリスは静かに言った。
「話せないなら、話せないって言ってください。隠すなら、せめて……理由をちゃんと教えてください」
ノアは何も言えなかった。
アリスは、袖を掴む彼の手に、自分の指をそっと重ねる。
「私は、あなたと一緒にいます」
ノアの呼吸が止まった。
アリスは続ける。
「十六歳の契約が、ノアを縛っているものなら、私もちゃんと向き合います。逃げません」
「アリス……」
「ノアを解放したいんです」
ノアが、ゆっくり顔を上げた。
赤い瞳が揺れていた。
「僕を……?」
「はい」
アリスは涙を堪えながら微笑んだ。
「ノアは、ずっと私を守ろうとしてくれたんでしょう。なら今度は、私もノアを助けたい」
けれど、そこでアリスは少しだけ目を伏せた。
「でも」
ノアの指が、ぴくりと動く。
「ノアを解放できたら、その時は……私は、元の世界に帰ります」
部屋の空気が、静かに止まった。
ノアは何も言わなかった。
笑わなかった。
ただ、アリスを見つめていた。
その瞳に浮かんだものが痛くて、アリスは胸が苦しくなる。
「お姉様がいます。帰らなきゃいけない場所があるんです」
「……うん」
ノアは小さく頷いた。
とても静かな声だった。
「分かってる」
分かっている人の声だった。
けれど、平気な人の声ではなかった。
アリスは唇を噛む。
「だから、それまでは」
アリスはそっと、小指を差し出した。
ノアが不思議そうに瞬きをする。
「約束です」
「約束?」
「はい。ノアは、話せることをちゃんと話す。私は、ひとりで勝手に逃げたりしない。」
ノアは差し出された小指を見つめた。
まるで、小さな鍵でも渡されたみたいに。
「……いいの?」
アリスは頷いた。
「それで、ノアを解放するまで、一緒にいます」
アリスの声は震えていた。
けれど、逃げなかった。
「約束します」
ノアはしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと自分の小指を絡める。
白い指が、アリスの小指にそっと触れた。
壊れ物に触れるみたいに。
「……約束」
ノアの声は、ひどく小さかった。
アリスは小指をきゅっと絡める。
「約束です」
その瞬間、ノアの瞳に、言葉にならない感情が浮かんだ。
愛おしそうで。
苦しそうで。
触れてはいけない光に触れてしまった人のような目だった。
長い沈黙が落ちる。
二人は、すぐ近くで見つめ合っていた。
アリスは初めて、ノアの瞳の奥にある孤独をはっきり見た気がした。
白兎は、ずっと扉を開ける側だった。
誰かを送り出し、誰かを迎え、誰かのために道を作る。
けれど、彼自身を迎えに来る人は、誰もいなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
それは同情ではなかった。
恩返しだけでもなかった。
もっと柔らかくて、もっと苦しいもの。
名前をつけるには、まだ早い。
けれど確かに、そこに生まれ始めていた。
ノアも、それに気づいたのかもしれない。
彼の瞳が、ふっと大きく揺れた。
そして次の瞬間、はっと我に返ったように俯いた。
「……駄目だね」
「え?」
「僕はまた、君に背負わせようとしている」
「違うわ。私が選んだの」
「君はまだ子どもだ」
「ノアはすぐそれを言いますね」
「言わないと、忘れそうになるから」
その言葉に、アリスの胸が小さく跳ねた。
ノアは苦しそうに笑った。
「……忘れたら、だめなんだ」
いつものノアが少しだけ戻ったようで。
けれど、戻りきれない痛みもそこにあって。
アリスは何も言えなかった。
ノアはしばらく黙っていた。
けれど、ふいに顔を上げる。
「……手紙なら出せる」
「えっ?」
「元の世界のお姉さん宛に。君が無事だって、手紙なら送れる」
アリスは目を見開いた。
「本当に?」
「うん。扉を直接開くのは危険だけど、手紙だけなら通せる。時間のずれもあるから、届き方には少し工夫がいるけど……できる」
その瞬間、胸の中に詰まっていたものがほどけた。
お姉様。
結婚式の日に突然いなくなった妹を、きっと心配している大切な姉。
自分が生きていると伝えられる。
無事だと、知らせられる。
「ありがとう!」
アリスは思わずノアに抱きついた。
ノアの身体が、びくりと固まる。
けれどすぐに、彼の手がアリスの背中へ回った。
遠慮がちに。
壊れ物を抱くように。
「どういたしまして」
ノアの声は、少しだけ震えていた。
アリスはその胸元で目を閉じた。
帰る道は、まだ見えない。
十六歳の契約をして、ノアを助ける。
それが今のアリスに見えた、たったひとつの目標だった。
アリスはやっと少しだけ息ができた気がした。
元の世界には、大切な人がいる。
帰りたい場所がある。
でもこの世界にも、守りたい人ができてしまった。
その事実は、温かくて、少しだけ泣きたくなるほど綺麗だった。
愛しさが生まれる日は、きっと音もなくやってくる。
花が咲くみたいに派手ではなく、雷が落ちるみたいに激しくもなく。
ただ、誰かの震える手を、離したくないと思った瞬間に。
胸の奥で、小さく灯るのだ。
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