第3話 自分の看板で怒鳴れ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代末、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1923年11月
ミュンヘン
Adolf Hitler Entwurfsbüroの二階事務所では、朝から帳簿の整理が続いていた。
一揆の騒ぎから数日が過ぎていたが、ミュンヘンの街にはまだ落ち着きが戻っていなかった。通りでは新聞売りが声を張り上げ、酒場では誰かが昨夜聞いたばかりの噂を、まるで自分の目で見た事実のように語っていた。
警官の姿も多かった。
そのせいで、事務所に来る客の足は鈍っていた。
式典会場の仕事も、講演会の演壇も、退役軍人会の集まりも、しばらくは様子見になる。誰もが慎重になっていた。慎重になるのは結構なことだが、慎重な客は支払いも慎重になる。
ヒトラーはそれが気に入らなかった。
「政治団体の仕事は当面受けん」
製図台の前で、ヒトラーは言った。
若手所員のフランツは、昨日回収した布を棚に戻しながら顔を上げた。
「全部ですか」
「全部だ」
「退役軍人会もですか」
「退役軍人会は政治団体ではない。式典を行う団体だ」
「講演会は」
「内容による」
「内容を確認するんですか」
「当然だ」
ヒトラーは赤鉛筆を机に置いた。
「会場を作る者は、会場に集まる者の性質を見なければならん。椅子を並べれば済むと思っているなら、倉庫番でもやっていればいい」
事務机のほうで帳簿をめくっていたエルゼが、静かに言った。
「開業当初は、そこまで客を選んでいませんでした」
ヒトラーの眉が動いた。
「選べなかっただけだ」
「つまり同じです」
「違う」
「帳簿の上では同じです」
エルゼは表情を変えずに、古い帳簿を一冊持ち上げた。
革の角が擦れ、背表紙の文字は少し薄れている。開業から間もない頃の帳簿だった。
フランツが興味を示した。
「それ、古い帳簿ですか」
「この事務所を始めた頃のものです」
「へえ」
フランツは布を畳む手を止めた。
「所長は、最初からミュンヘンで独立していたんですか」
ヒトラーはすぐには答えなかった。
不機嫌そうに椅子の背にもたれ、窓の外を見た。
通りの向こうで、新聞を持った男たちが立ち話をしている。彼らの声はここまでは届かない。ただ、身振りだけが大きかった。
「最初から独立している者などいない」
ヒトラーは言った。
「たいていは、誰かの下でひどい線を直すところから始まる」
フランツは首をかしげた。
「ひどい線を直すところから、ですか」
「そうだ」
ヒトラーは立ち上がり、棚から古い筒を取り出した。
中には、古い透視図の写しが何枚か入っていた。
紙は黄ばんでいた。端は少し傷んでいる。だが線は硬く、建物の正面だけは妙にはっきりしていた。
「ウィーンだ」
フランツは図面を覗き込んだ。
「ウィーンで描いたんですか」
「清書した。描いたと言うには、まだ人の図面に近すぎる」
エルゼが古い帳簿を閉じた。
ヒトラーはしばらくその紙を見ていた。
事務所の中に、石畳を走る馬車の音が遠く聞こえた。
1907年
ウィーン
若いアドルフ・ヒトラーは、紹介状を握りしめていた。
紙は薄かった。
だが、その紙がなければ、彼には次に叩く扉がなかった。
ウィーン美術アカデミーには落ちた。
その事実は、彼の胸の中でまだ熱を持っていた。自分は認められなかった。自分の絵は拒まれた。人物画が弱い。生命感がない。絵画として硬い。そんな言葉が、何度も頭の中で反響していた。
だが、最後に教授は別のことを言った。
君は人間を見ていない。
建物を見ている。
絵筆だけで食う道を探すな。
定規と図面で食う道を探しなさい。
それが紹介状になった。
紹介先は、ウィーン市内の建築装飾工房だった。
そこは立派な設計事務所ではなかった。
大きな建物を設計する場所でもなかった。
舞台装飾、店先の飾り、展示会の仮設正面、看板下絵、建築透視図の清書、式典会場の背景装飾。そうした仕事を請け負う、忙しく、埃っぽく、騒がしい工房だった。
親方は紹介状を読み、ヒトラーの持ってきた水彩画を見た。
「人間は下手だな」
最初の言葉がそれだった。
若いヒトラーは唇を噛んだ。
親方は気にせず、何枚かの絵をめくった。
「だが、建物は見ている。窓の数を間違えない。屋根の傾きも覚えている。正面の癖もつかんでいる」
親方は机の上を指で叩いた。
「雑用からだ」
ヒトラーは顔を上げた。
「私は絵を」
「雑用からだ」
親方はもう一度言った。
「道具を洗う。紙を運ぶ。線を清書する。人の引いた線をなぞる。塗り見本を作る。文句があるなら帰れ」
ヒトラーは帰らなかった。
帰る場所はあった。
だが、帰ったところで何も始まらないことも分かっていた。
最初の仕事は、定規を拭くことだった。
次に、紙を切ることだった。
それから、先輩職人の引いた線をインクで清書した。
線の太さを間違えれば怒鳴られた。
影の濃さを間違えれば紙を捨てられた。
装飾の繰り返し模様を少しずらせば、最初からやり直しになった。
ヒトラーは怒った。
何度も怒った。
だが、手は覚えた。
定規の置き方。
烏口の角度。
建物の正面を重く見せるための線。
窓の奥行きを出す影。
安い木材を石に見せる塗り。
布で壁を厚く見せる工夫。
入口から見た時、人の目がどこへ向かうか。
彼は人間を描くのは苦手だった。
だが、人間が何を見るかについては、妙に執着した。
数年のうちに、彼は透視図の補助や看板下絵を任されるようになった。
そして工房には、ウィーンだけでなく他の街からも仕事が来た。
その中に、ミュンヘンの仕事があった。
最初は劇場の舞台背景だった。
次は展示会の仮設正面。
その次はビアホールの改装案だった。
ミュンヘンはウィーンとは違っていた。
帝都の重さはない。
だが、街には妙な活気があった。芸術家、商人、職人、学生、軍人、退役軍人、酒場の主人、劇場の宣伝屋。誰もが少し大きな声で話し、自分の街に何か特別なものがあると信じているようだった。
若いヒトラーは、それを嫌いではなかった。
ミュンヘンの仕事で彼を覚えた男がいた。
マックス・ライターという舞台装飾業者だった。
太った男で、声が大きく、いつもチョークの粉を上着につけていた。劇場の仕事も、式典の仕事も、ビアホールの小改装も受ける。美術家ではない。職人であり、手配師であり、時には借金取りでもあった。
ライターはヒトラーの描いた透視図を見て言った。
「線が硬い」
ヒトラーはむっとした。
「だが使える」
ライターは紙を持ち上げた。
「柔らかい線は客を喜ばせる。硬い線は職人を助ける。どこに柱を立てるか、どこに布を垂らすか、どこを正面に見せるか。これなら分かる」
ヒトラーは何も言わなかった。
褒められたのか、けなされたのか判断しにくかった。
ライターは笑った。
「ミュンヘンに来ることがあれば訪ねてこい。小仕事ぐらいはある」
その言葉を、ヒトラーは覚えていた。
1913年になる頃、彼の中でウィーンは狭くなっていた。
工房の仕事はある。
だが、ウィーンには彼を押し返すものが多すぎた。
失敗した街。
認められなかった街。
彼を雑用から始めさせた街。
そして何より、彼がいつまでも誰かの線を清書している街だった。
一方でミュンヘンには、少なくとも自分の線を覚えている男がいた。
それだけで十分だった。
ミュンヘンへ移った後も、暮らしは楽ではなかった。
小さな部屋に住み、透視図を描き、商店の正面案を直し、劇場関係の小仕事を拾った。
ライターは約束通り、仕事を回した。
多くは面倒な仕事だった。
予算が少ない。
納期が短い。
依頼主の注文が曖昧。
現場の寸法が間違っている。
ヒトラーはそのたびに怒った。
しかし、仕事は仕上げた。
彼はまだ独立など考えられる立場ではなかった。
ただ、ミュンヘンには少しずつ顔ができていった。
あの硬い線の男。
正面にうるさい男。
人の図面にも赤を入れる男。
安い材料をやけに重く見せる男。
そんな評判だった。
1914年
ミュンヘン
戦争が始まった。
街の空気は変わった。
劇場も酒場も広場も、急に同じ方向を向いたようになった。旗が増え、歌声が増え、勇ましい言葉が増えた。
ヒトラーも志願した。
彼は伝令兵となり、前線へ行った。
そこには正面などなかった。
入口もなかった。
観客席もなかった。
塹壕は泥で、空は砲煙で、道は砲弾で途切れていた。
彼は走った。
命令を持って走った。
泥の中を走り、砲声の間を走り、壊れた木と破れた鉄条網のそばを走った。
そこでは、演壇の高さも、布の影も、仮設柱の見栄えも何の意味も持たなかった。
ただ、命令があり、距離があり、生きて戻るか戻らないかがあった。
彼は負傷した。
勲章も得た。
戦友も失った。
戦争は彼の中に怒りを残した。
屈辱も残した。
だが、この世界の彼には、戦争の前から知っている線があった。
戻るべき職能があった。
それは温かい居場所ではなかった。
彼を慰めるものでもなかった。
だが、定規はそこにあった。
1919年
ミュンヘン
戦争が終わった後の街は、勝利の街ではなかった。
兵士たちは戻った。
だが戻った者たちの顔は、出て行った時の顔とは違っていた。
金は足りず、仕事は細く、政治の言葉だけがやけに大きくなっていた。誰もが何かに怒っていた。誰もが何かを失ったと思っていた。
ヒトラーも怒っていた。
だが、彼は演説台には向かわなかった。
向かったのは、ライターの作業場だった。
ライターは少し老けていた。
腹は相変わらず出ていたが、声の大きさは少しだけ落ちていた。
「生きていたか」
再会の挨拶はそれだけだった。
「仕事は」
ヒトラーが尋ねた。
ライターは肩をすくめた。
「まともな仕事は少ない。だが、まともでない仕事ならある。退役軍人会。追悼式。講演会。商店の改装。安く、早く、立派に見せろと言う連中ばかりだ」
「いつものことだ」
「そうだ。いつものことだ」
ライターは古い図面筒を一本投げた。
「手始めに、会館の正面案だ。金は安い。客はうるさい。現場は狭い」
ヒトラーは図面筒を受け取った。
「なら、正面だけは広く見せる」
ライターは笑った。
「そういうところだけは変わらんな」
ミュンヘンでの仕事は、そこから再び始まった。
最初は外注だった。
次に臨時所員のように扱われた。
さらに、オットー・グラーフという装飾設計事務所の仕事を手伝うようになった。
グラーフは痩せた男だった。
髪をきっちり撫でつけ、服はいつも地味で、声を荒らげることは少なかった。だが仕事には厳しく、金にはもっと厳しかった。
グラーフの事務所では、ヒトラーは便利な男だった。
透視図を描ける。
現場に出られる。
客に説明できる。
安物をそれなりに見せられる。
ただし、便利な男は、扱いやすい男ではなかった。
「この案では入口が死んでいる」
「客の希望だ」
「客は入口が死んでいることに気づいていない」
「気づいていないなら黙っていればいい」
「気づいていない客に、気づかせるのが我々の仕事だ」
グラーフは何度も額を押さえた。
ヒトラーは同僚の図面にも赤を入れた。
親方の案にも口を出した。
依頼書にも文句を言った。
客の前でも引かなかった。
「予算内でできますか」と聞かれれば、普通なら「努力します」と答える。
ヒトラーは違った。
「予算内で威厳まで求めるのは無理です。威厳を削るか、費用を増やすか、どちらかです」
客は怒った。
だが、後になって別の客を連れて来ることもあった。
「言い方は気に入らないが、仕上がりは良かった」
そういう客が少しずつ増えた。
決定的だったのは、ある退役軍人会館の改装案件だった。
グラーフの事務所は、予算に合わせた控えめな案を出した。
狭い入口。
低い庇。
薄い背面装飾。
安い照明。
悪くはなかった。
だが、何も残らない案だった。
ヒトラーはその案を見て怒った。
「これは会館ではない。倉庫に旗を足しただけだ」
グラーフは言った。
「予算に合わせた」
「予算に屈しただけだ」
「同じことだ」
「違う」
「違わん」
その日の夜、ヒトラーは勝手に別案を描いた。
入口の幅は変えられない。
ならば、左右の壁面に縦の影を作る。
庇は高くできない。
ならば、正面に視線を上げる装飾線を入れる。
照明は増やせない。
ならば、光を当てる場所を絞る。
本物の柱は立てられない。
ならば、布と木枠で柱らしさを作る。
翌朝、グラーフはその別案を見て顔をしかめた。
「誰が頼んだ」
「誰も」
「なら、なぜ描いた」
「元の案が低すぎる」
「またそれか」
グラーフは紙を丸めようとした。
しかし、その前に依頼主が来た。
そして見てしまった。
机の端に置かれた、ヒトラーの別案を。
退役軍人会の代表は、しばらく黙ってその図面を見ていた。
「これは誰の案ですか」
グラーフは答えなかった。
ヒトラーが答えた。
「私です」
代表はうなずいた。
「こちらでお願いします」
グラーフの顔色が変わった。
「こちらは正式案ではありません。予算も」
「予算は少し足します」
「少しでは」
「では、もう少し足します」
代表は図面を指で押さえた。
「この会館には、こういう正面が必要です」
ヒトラーは何も言わなかった。
勝ち誇った顔をしない程度の分別は、彼にもあった。
ただし、目は明らかに勝ち誇っていた。
案件は成功した。
会館の入口は実際より広く見えた。
背面は本物より重く見えた。
来賓は満足し、退役軍人たちは黙って頷いた。
その沈黙が、会場の成功を示していた。
だが、グラーフの事務所では成功だけでは済まなかった。
数日後、グラーフはヒトラーを呼んだ。
部屋には二人だけだった。
机の上には、例の会館の完成写真と、帳簿と、数枚の未処理図面が置かれていた。
グラーフはしばらく黙っていた。
ヒトラーは腕を組んで立っていた。
「ヒトラー君」
「はい」
「君はうちの所員としては最低だ」
ヒトラーの眉が動いた。
「客の前で怒鳴る。親方の案に赤を入れる。依頼書に文句を言う。同僚の仕事を勝手に直す。こちらがまとめた話を、君は一晩でひっくり返す」
グラーフは完成写真を指で叩いた。
「だが、図面屋としては悪くない」
ヒトラーは黙っていた。
「それが厄介だ」
グラーフは椅子にもたれた。
「ただの無能なら追い出せる。ただの有能なら雇っておける。君はそのどちらでもない。有能で、うるさく、面倒で、そして客が君の案を覚える」
ヒトラーはようやく口を開いた。
「私が正しいからです」
グラーフは深く息を吐いた。
「そういうところだ」
沈黙が落ちた。
外では馬車の音がした。
グラーフは引き出しから封筒を出した。
「退職金というほどのものではない。未払い分と、今回の成功報酬だ」
「私は辞めろと言われているのですか」
「違う」
グラーフは静かに言った。
「私の会社からは出て行けと言っている」
ヒトラーの目が鋭くなった。
グラーフはその目を避けなかった。
「自分の看板で怒鳴れ」
その言葉は、部屋の中にまっすぐ落ちた。
ヒトラーは何も言わなかった。
グラーフは続けた。
「うちの看板の下で怒鳴るな。君の言葉で客を怒らせるなら、君の名前で怒らせろ。君の図面で客を納得させるなら、君の名前で納得させろ」
封筒が机の上を滑った。
「小さな部屋なら知っている。市街地の古いビルの二階だ。日当たりは悪い。階段も狭い。だが家賃は安い」
「なぜそこまで」
「君がここにいると、うちの事務所がうるさい」
グラーフは即答した。
「そして、君が外にいれば、仕事を外注できる」
ヒトラーは封筒を見た。
それから、完成写真を見た。
退役軍人会館の正面は、写真の中でも妙に重く見えた。
安い材料だった。
狭い入口だった。
しかし、正面だけは死んでいなかった。
ヒトラーは封筒を取った。
「家賃はいくらです」
グラーフは初めて少し笑った。
「最初にそれを聞くなら、独立できるかもしれん」
数週間後。
市街地の古いビルの二階に、曇りガラスの扉があった。
一階には帽子店が入っていた。
階段は狭く、壁は少し湿っていた。
部屋は広くなかった。
製図台を一台入れると、それだけで半分が埋まった。棚は中古で、椅子は揃っていなかった。電話はまだない。暖房も弱い。窓から見えるのは、向かいの建物の壁だった。
だが、扉には文字が入った。
Adolf Hitler Entwurfsbüro(アドルフ・ヒトラー意匠事務所)
意匠・建築透視図・式典会場設計
看板職人は、扉の前で筆を片づけていた。
ヒトラーは腕を組み、文字を見ていた。
「字間が広い」
看板職人は振り返った。
「読めますよ」
「読めることと、締まることは違う」
「これ以上詰めると、名前が重くなりすぎます」
「名前は重くてよい」
看板職人は困った顔をした。
そこへ、エルゼが帳簿を持って階段を上がってきた。
彼女はまだ正式な事務員ではなかった。
知人の紹介で、帳簿と書類を数日手伝うはずだった。
だが扉の前で看板職人と所長予定者が字間について言い争っているのを見て、すぐに状況を理解した。
「看板代は支払い済みですか」
ヒトラーは彼女を見た。
「済んでいる」
「では、これ以上直すと追加料金です」
ヒトラーは黙った。
看板職人も黙った。
エルゼは扉の文字を見た。
「読めます」
ヒトラーは不満そうだった。
「締まりが足りない」
「まず読めることです」
「締まりも必要だ」
「それは次の看板で」
ヒトラーはしばらく扉を睨んでいた。
やがて、渋々うなずいた。
「次は私が字割りをする」
看板職人は明らかにほっとした顔をした。
エルゼは帳簿を開いた。
「最初の仕事はどうなったんですか?」
「退役軍人会の講演会場だ」
「支払い条件は」
「半金前払い」
「よろしいでしょう」
ヒトラーは部屋に入り、製図台の前に立った。
何もない部屋だった。
だが、彼の名前の看板が扉にあった。
それは豪華ではなかった。
祝花もない。
客もいない。
酒も音楽もない。
ただ、中古の製図台と、安い棚と、弱い暖房と、帳簿を持った事務員がいた。
そして図面を置く場所があった。
ヒトラーは定規を取り出した。
「では始める」
エルゼは帳簿に日付を書いた。
看板職人は階段を下りていった。
扉の黒い文字だけが、薄暗い廊下に残った。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
それから数年後。
1923年11月の事務所で、フランツは古い透視図を見ていた。
「グラーフさんは、その後も仕事をくれたんですか」
ヒトラーは図面筒を棚に戻した。
「くれた」
「追い出したのに」
「外注先としては便利だったのだろう」
エルゼが言った。
「今でも年に数件あります」
フランツは感心したように頷いた。
「じゃあ、喧嘩別れではなかったんですね」
ヒトラーは鼻を鳴らした。
「喧嘩をしたまま仕事をすることはできる」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
ヒトラーは製図台に戻った。
机の上には、菓子店の正面案が広げられている。
入口の庇。
窓枠。
看板の位置。
扉の幅。
そのどれもが小さな問題だった。
だが、彼にとっては小さくなかった。
フランツは古い帳簿をエルゼに返した。
「所長」
「何だ」
「グラーフさんの言ったこと、今でも覚えているんですか」
ヒトラーは赤鉛筆を持ったまま、少しだけ黙った。
それから言った。
「忘れるような言葉ではない」
「自分の看板で怒鳴れ、ですか」
ヒトラーは図面に線を引いた。
「そうだ」
外では、また新聞売りの声が響いていた。
ミュンヘンの政治はまだ騒がしかった。
だが二階の事務所では、別の騒がしさが続いていた。
「フランツ」
「はい」
「この菓子店の看板案だが」
「はい」
「字間が広い」
フランツは少しだけ天井を見た。
エルゼは帳簿を閉じた。
ヒトラーは赤鉛筆で、看板の文字と文字の間に細い線を入れた。
「読めることと、締まることは違う」
その声は、数年前に曇りガラスの扉の前で聞こえた声と、少しも変わっていなかった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。