第6話 文字が大きすぎる
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1924年夏
ミュンヘン
映画館というものを、ヒトラーはあまり信用していなかった。
暗い部屋に人を詰め込み、白い幕に映る影を見せる。
そこでは役者は本当にそこにいるわけではない。建物も、街も、宮殿も、戦場も、すべて光と影の薄いまやかしだった。
だが人は集まる。
そこが、気に入らなかった。
気に入らなかったが、仕事になることは認めざるを得なかった。
ミュンヘン市街地の映画館「リヒトシュピール・パラスト」は、夏の新作上映に合わせてロビーと正面入口の装飾を変えたいと依頼してきた。
大作映画ではない。
だが新聞広告とポスターを打ち、週末の客入りを増やしたいらしい。
Adolf Hitler Entwurfsbüroが担当するのは、入口正面、切符売場まわり、ロビーの掲示枠、階段脇の装飾、そして上映作品のポスターを掲げるための枠組みだった。
「枠組みが主役ではない」
映画館支配人のブルーノ・ヴァイスは、打ち合わせの冒頭でそう言った。
小柄で、髪をきれいに撫でつけ、よく磨かれた靴を履いている男だった。芸術家というより商売人で、劇場の匂いより金庫の匂いが似合っていた。
ヒトラーは不機嫌そうに図面を広げた。
「枠組みが整わなければ、主役も安く見える」
「客は女優の顔を見に来ます」
「女優の顔だけを見せたいなら、窓に顔写真を貼ればよい」
「それで客が入るなら、私はそうします」
ヴァイスは平然と言った。
フランツは、これは嫌な相手だと思った。
所長の言葉に怯えない。
怒鳴られても、あまり効かなそうだ。
しかも商売の数字を持っている。
ヒトラーはロビーの図面を指した。
「入口から入った客の視線は、まず正面奥へ流れる。そこに大きな掲示枠を置く。左右に小型ポスター。切符売場は右。左は待機列。階段脇には余計な装飾を置かない。人の流れを邪魔する」
ヴァイスは頷いた。
「悪くありません」
「悪くないではない。正しい」
「商売では、正しいだけでは足りません」
ヒトラーの眉が動いた。
「どういう意味です」
「客に入ってもらわなければ、正しいロビーも空っぽです」
その時、映画館の入口から、細身の男が入ってきた。
足取りは軽く、片手に巻かれたポスターを抱えている。黒っぽい服を着て、目だけが妙に鋭い。顔つきは神経質そうだが、口元には最初から勝つつもりで来たような笑みがあった。
ヴァイスが手を上げた。
「ゲッベルス博士、こちらです」
男は近づいてきて、軽く会釈した。
「ヨーゼフ・ゲッベルスです。広告を担当しています」
ヒトラーは、その男を見た。
「博士?」
「はい」
ゲッベルスは短く答えた。
「文学です」
「広告屋ではないのか」
「文学で食えなければ、広告で食うのです。言葉を売る点では同じです」
ヒトラーは少しだけ嫌そうな顔をした。
フランツはその表情を見逃さなかった。
所長は、最初の一言でもうこの男を嫌い始めている。
ゲッベルスはそれを気にする様子もなく、ポスターを広げた。
明るい色。
大きな女優の顔。
斜めに走る題名。
太い文字。
上映日。
劇場名。
そして下部には、短い煽り文句が入っている。
この夏、あなたはまだ本当の恋を知らない。
フランツは思わず目を瞬いた。
かなり派手だった。
ヒトラーは黙って見ていた。
黙っていたが、その沈黙は長く続かなかった。
「文字が大きすぎる」
ゲッベルスは微笑んだ。
「大きくしました」
「見れば分かる」
「では成功です」
「成功ではない。騒がしい」
「騒がしくなければ、人は振り向きません」
「振り向かせることと、品位を保つことは違う」
「品位は切符を買いません」
ヒトラーの目が細くなった。
「あなたは、客を馬鹿にしている」
「いいえ。客を信じていないだけです」
ゲッベルスは平然と言った。
「人は通りを歩いている時、劇場のために歩いているわけではありません。家に帰る。誰かに会う。腹が減っている。腹が立っている。新聞の見出しに気を取られている。そこへ、こちらを向かせる必要がある。小さく上品な文字では、通りの音に負けます」
ヒトラーはポスターを指で叩いた。
「だからといって、すべてを叫ばせればよいというものではない」
「叫ぶ場所と黙る場所を分ければよいのです」
ゲッベルスはロビーの奥を見た。
「外のポスターは叫ぶ。入口は誘う。ロビーは落ち着かせる。上映前には期待させる。幕が上がれば、黙らせる。それだけです」
ヒトラーは少しだけ黙った。
フランツは意外に思った。
ゲッベルスの言っていることは、派手だが無茶ではない。
むしろ、所長の言う「入口からの視線」と似たところがある。
ただし、言い方が軽い。
そこが所長には耐えがたいのだろう。
ヴァイス支配人は満足そうだった。
「お二人の方向性は近いようですね」
「近くない」
ヒトラーは即座に言った。
ゲッベルスも同時に言った。
「近くありません」
二人は一瞬だけ互いを見た。
そこだけは意見が一致していた。
打ち合わせは、そこから面倒なものになった。
ヒトラーはロビーを静かに締めたい。
ゲッベルスは入口と外壁を目立たせたい。
ヴァイスは客が入ればよい。
フランツは図面を持ち、三人の言葉を追うだけで精一杯だった。
「この外壁の布看板は大きすぎる」
「遠くから見せるためです」
「建物の正面を壊す」
「建物を見に来る客はいません」
「映画館は建物だ」
「映画館は体験です」
「体験は空間によって支えられる」
「その空間へ客を入れるのが広告です」
「広告が空間を汚すな」
「空間が客を追い払わないでください」
ヴァイスが手を叩いた。
「では、こうしましょう。外壁の大看板はゲッベルス博士の案。入口の柱まわりとロビー内はヒトラー所長の案。掲示枠は双方で調整。文字は目立たせる。ただし枠は締める」
ヒトラーは不満だった。
ゲッベルスも不満だった。
だがヴァイスは笑っていた。
「不満が二つあるなら、だいたい中間です」
「中間は凡庸になりやすい」
ヒトラーが言った。
「極端は客を逃がしやすい」
ゲッベルスが言った。
ヴァイスは頷いた。
「では、凡庸で客を入れましょう」
その言い方に、ヒトラーは本気で嫌そうな顔をした。
数日後、映画館の改装作業が始まった。
シュタイナー親方の木工所が掲示枠と仮設柱を担当した。
親方は現場に来るなり、ゲッベルスのポスターを見て言った。
「でかい」
ヒトラーは即座に言った。
「文字が大きすぎる」
シュタイナー親方はポスターをしばらく見ていた。
「遠くからは見える」
ゲッベルスはうれしそうに言った。
「そうでしょう」
「近くで見るとうるさい」
「それも狙いです」
シュタイナー親方は首を振った。
「変な狙いだ」
オットーは外壁の採寸をしながら笑いをこらえていた。
ヒトラーはロビーの奥に立ち、掲示枠の高さを確認していた。
「あと指二本分下げる」
フランツが測る。
「下げるんですか」
「ここでは下げる」
「花輪台は上げたかったのに」
ヒトラーはフランツを睨んだ。
「用途が違う」
「はい」
「映画館の掲示枠は、客が読むものだ。見上げさせる必要はない。視線を止めればよい」
ゲッベルスが横から口を挟んだ。
「外の文字は見上げさせます」
「あなたの文字は押しつけるだけだ」
「押しつけなければ、見てもらえません」
「見てもらうことだけを目的にすれば、何でも下品になる」
「下品でも売れれば、次に上品なものを作る金ができます」
ヒトラーは冷たく言った。
「あなたは危険な男だ」
ゲッベルスは笑った。
「広告屋としては、褒め言葉です」
「褒めていない」
「分かっています」
フランツは二人の間に立たないように、そっと位置を変えた。
この二人は、まったく違うようで、どこか似ていた。
どちらも人の視線を動かそうとしている。
どちらも人の心を自然のままにしておく気がない。
ただ、ヒトラーは空間で黙らせようとし、ゲッベルスは言葉で振り向かせようとしている。
映画館の初日。
夕方になると、リヒトシュピール・パラストの前には人が集まり始めた。
通りの反対側からでも、ゲッベルスの大きな文字は目立った。
この夏、あなたはまだ本当の恋を知らない。
ヒトラーはそれを見て顔をしかめた。
「軽い」
ゲッベルスは隣で満足そうに言った。
「人は軽いものにも金を払います」
「軽すぎる」
「重すぎると、財布を開く前に帰ります」
「あなたの言葉はすべて財布に向かうのか」
「いいえ」
ゲッベルスは少しだけ目を細めた。
「まず目に向かいます。次に耳。次に欲望。財布は最後です」
ヒトラーは黙った。
その言い方が気に入らなかった。
だが、客は立ち止まっていた。
若い男女がポスターを見上げ、何かを言い合って笑っている。
年配の男が上映時間を確認している。
二人連れの女性が、ロビーの奥をのぞき込んだ後、切符売場へ向かう。
外の広告は騒がしい。
だが、入口をくぐると空気は変わった。
ロビーの掲示枠は落ち着いていた。
ポスターの派手な色は、暗い木枠と照明で少し抑えられ、壁面に秩序を与えている。
切符売場までの動線は分かりやすく、待つ客が通路を塞がないようになっていた。
ヴァイス支配人は上機嫌だった。
「いいですね。外で捕まえ、中で落ち着かせる」
ヒトラーは言った。
「捕まえるのではない」
ゲッベルスが言った。
「迎える、でしたね」
「あなたが言うな」
「では、誘導する」
「それも違う」
ヴァイスは笑った。
「客が入れば、呼び方は何でも構いません」
上映開始前、ロビーには十分な客が入っていた。
満員ではない。
だが、悪くない入りだった。
フランツは入口脇に立ち、客の流れを見ていた。
外の大きな文字を見て立ち止まり、入口に近づき、ロビーでポスターを見直し、切符を買う。
それが何度も繰り返された。
ゲッベルスはその流れを見ている。
ヒトラーも見ている。
二人とも、客を見ているようで、客そのものではなく、客が動く仕組みを見ている。
フランツには、それが少し怖かった。
上映が始まると、ロビーは静かになった。
ヴァイス支配人は満足そうに帳簿を見ていた。
「悪くありません。週末はさらに入るでしょう」
ゲッベルスはポスターの余りを丸めた。
「新聞広告も明朝出ます。見出しは少し変えました」
ヒトラーが警戒した。
「どう変えた」
ゲッベルスは紙を見せた。
恋は、暗がりで始まる。
ヒトラーは顔をしかめた。
「さらに悪い」
「さらに良い、の間違いです」
「品位がない」
「記憶に残ります」
「悪い意味でだ」
「忘れられるより良い」
ヒトラーは返事をしなかった。
代わりに、ロビーの掲示枠を見た。
木枠は悪くなかった。
シュタイナー親方の仕事だった。
暗い木の枠が、騒がしいポスターをかろうじて壁に押さえつけている。
「枠がなければ耐えられんな」
ヒトラーが言った。
ゲッベルスは笑った。
「枠があるから、文字が騒げるのです」
ヒトラーは横目で彼を見た。
「あなたは、騒がしいものを作る男だ」
「あなたは、騒がしいものを黙らせたがる男です」
「黙らせるのではない。整える」
「私は起こすのです。眠っている客を」
「客は眠ってなどいない」
「なら、こちらを見ていないだけです」
二人はしばらく黙って、ロビーを見た。
上映室の扉の向こうから、ピアノ伴奏の音がかすかに聞こえてきた。
暗がりの中で、観客たちは白い幕を見ている。
外では大きな文字が通行人を振り向かせていた。
内では木枠と照明が、その騒がしさを少しだけ品よく見せていた。
ヴァイス支配人は、二人の間に立って言った。
「また組めますな」
「必要があれば」
ヒトラーは言った。
「利益があれば」
ゲッベルスは言った。
二人は同時に相手を見た。
そして同時に、少し嫌そうな顔をした。
その夜、事務所へ戻ると、エルゼが帳簿を開いて待っていた。
「映画館から前金分の処理は済んでいます。残金は週明けです」
「遅い」
ヒトラーは言った。
「契約通りです」
「契約が甘い」
「所長が署名しました」
ヒトラーは黙った。
フランツは、ロビーで受け取った余りのポスターを机の端に置いた。
ヒトラーはそれを見た。
大きな文字。
笑う女優。
斜めの題名。
騒がしい色。
「捨てろ」
ヒトラーは言った。
エルゼが言った。
「参考資料として一枚残します」
「何の参考になる」
「仕事の参考です」
「悪趣味の見本だ」
「仕事の見本です」
ヒトラーは不満そうにポスターを見た。
しばらくしてから、赤鉛筆を取り、ポスターの余白に小さく書いた。
外部掲示
文字量過多
ただし遠目の視認性は高い
フランツはそれを見た。
「所長、認めるんですか」
「認めていない」
「でも、視認性は高いと」
「事実を書いただけだ」
「では、使えると」
「騒がしい」
ヒトラーは赤鉛筆を置いた。
「だが、人を振り向かせる力はある」
エルゼは帳簿に目を落としたまま、少しだけ頷いた。
フランツはポスターを丸めず、そのまま資料棚へ運んだ。
棚には、退役軍人会の花輪台図面、帽子屋の看板案、菓子店の正面図、そして映画館のロビー装飾図が並んでいる。
その端に、ゲッベルス広告社のポスターが加わった。
ヒトラーは製図台に戻り、次の案件の図面を開いた。
「フランツ」
「はい」
「今後、広告屋が絡む案件では、掲示枠を先に押さえる」
「文字が大きくなるからですか」
「そうだ」
ヒトラーは不機嫌そうに言った。
「騒がしいものには、枠が要る」
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