第11話 走る看板
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1930年秋
ミュンヘン
ベルナドッテ商会の家具展示は、予想以上に客を集めた。
最初は、誰もが少し疑っていた。
スウェーデン風の軽い家具。
低い棚。
箱に入る椅子。
番号で選ぶ机。
部屋ごと見せる展示。
ドイツの重い家具に慣れた者たちからすれば、それはどこか頼りなく見えた。家具というより、まだ家に根を下ろす前の道具のようだった。
ヒトラーは初日から最後まで、その印象を変えなかった。
「軽い」
彼は何度も言った。
「椅子に威厳がない。棚が低い。机が腰を落ち着けていない。部屋全体が、引っ越しの途中のようだ」
ベルナドッテ商会の担当者イングリッド・ベルナドッテは、そのたびに静かに答えた。
「持ち帰れる家具ですから」
「家具とは持ち帰るものではない。据えるものだ」
「据える前に、運ばなければなりません」
「運ばれることを前提にした家具は、落ち着きがない」
「落ち着きのない時代には、落ち着きすぎた家具は重いのです」
ヒトラーはその言い方が気に入らなかった。
だが、展示そのものは成功した。
一階の応接室で赤鉛筆を入れた時、彼はベルナドッテ商会の展示図に正面がないと断じた。
その結果、ミュンヘン会場では入口正面に一つの居間を置いた。
明るい木の低い棚。
布張りの椅子。
壁際の書棚。
窓際の小卓。
いかにも軽い。
だが、その奥へ食堂、寝室、子供部屋、書斎が続くように配置した。客は一つの家を歩くように会場を巡った。番号札を見て、カタログに印をつけ、倉庫から受け取る仕組みを理解した。
ゲッベルス広告社は、相変わらず文字の大きな広告を作った。
新しい暮らしは、部屋ごと選べる。
ヒトラーはそれを見て顔をしかめた。
「暮らしを部屋ごと選ばせるな」
ゲッベルスは答えた。
「選べると思わせるのです」
「詐欺師の言い方だ」
「広告屋の言い方です」
ヒムラー経営組織顧問事務所は、すべての家具に番号を振った。
椅子。
棚。
脚。
天板。
引き出し。
留め具。
予備部品。
彼は、まるで家具そのものが自発的に番号を欲しているかのように、ためらいなく分類していった。
エルゼは、その番号表と請求表が一致していることだけを評価した。
「気味は悪いですが、請求漏れは減ります」
ヒトラーは言った。
「気味が悪い時点で減点だ」
エルゼは答えた。
「請求漏れがない時点で加点です」
シュタイナー親方は仮設棚と展示壁を組んだ。
倒れない。
その一点において、ヒトラーも文句を言えなかった。
「美しさには乏しい」
「倒れない」
「それだけではない」
「倒れたら、それ以下だ」
このやり取りは、もう事務所の者たちには聞き慣れたものになっていた。
展示最終日の夕方、ベルナドッテ商会のイングリッドは、応接卓の上に売上表と来場者記録を置いた。
エルゼが数字を確認する。
ヒムラーは来場者を年代別、購入額別、滞在時間別に分けた表を用意していた。
ゲッベルスは、どの広告文が一番来場者を動かしたかを、妙に得意げに説明していた。
ヒトラーは、展示会場の入口写真を見ていた。
「入口正面だけは悪くない」
イングリッドは微笑んだ。
「それは、かなり高い評価と受け取ってよろしいですか」
「家具は軽い」
「展示は」
「入口は悪くない」
「では、次の会場もお願いできますね」
ヒトラーは顔を上げた。
「次?」
イングリッドは資料を差し出した。
「アウクスブルクです。その後、ニュルンベルク、レーゲンスブルクも検討しています。ミュンヘンでの反応を見る限り、南ドイツで巡回展示を行う価値があります」
ヨードルがすぐに工程表を引き寄せた。
「日程は」
「アウクスブルク会場は3週間後に押さえています」
「3週間」
ヨードルは眉を寄せた。
「標準展示をそのまま持ち込むには、会場確認が必要です。図面だけでは危険です」
クレープスが言った。
「天井高、搬入口、窓位置、床の傾き。現地で見たほうが早いです」
カイテルは手帳を開いた。
「商会側、現地会場、地元商工会、倉庫、この4箇所との調整が必要になります」
ブルクドルフが言った。
「模型と見本を持っていくなら、鉄道だけだと面倒ですね」
ヒムラーが、待っていたように鞄から別の書類を出した。
「その点について、ベルナドッテ商会側で車両を用意できます」
ヒトラーの目が細くなった。
「車両」
「はい」
イングリッドが頷いた。
「巡回展示期間中、当商会が小型トラックを手配します。家具見本、カタログ箱、展示用模型、布地見本を運ぶためです。必要であれば、車体側面は展示告知や協力事務所名の掲示に使っていただいて構いません」
その瞬間、ゲッベルスの目が光った。
「車体側面ですか」
ヒトラーは嫌そうに彼を見た。
「食いつくな」
「街を走る広告面です」
「荷車に文字を貼るな」
「貼るのではありません。走らせるのです」
「ますます悪い」
ゲッベルスは上機嫌だった。
「止まった広告は通行人を待つ。走る広告は通行人を追い越す。素晴らしい」
「広告が人を追いかけるな」
「では、追い越すだけにします」
「同じだ」
エルゼが書類を受け取った。
「燃料費はどちらの負担ですか」
イングリッドはすぐに答えた。
「巡回展示業務に関する移動分は商会負担です。ただし、貴事務所独自の移動や寄り道は別途ご負担いただきます」
「故障時の修理費は」
「通常使用内であれば商会負担。過失があれば使用者側です」
「運転手は」
「商会側から一名手配できます。ただし、荷積みや現場での短距離移動は現場担当者の指示で行っていただいて構いません」
ブルクドルフが言った。
「なら、こっちで動かせます」
エルゼが視線だけを向けた。
「免許と責任の確認が先です」
ブルクドルフは少し肩をすくめた。
「確認してから動かします」
ヒトラーは不機嫌だった。
「自動車など、商人の見栄だ」
イングリッドは静かに言った。
「見栄ではなく、移動費の節約です」
エルゼが数字表を見た。
「鉄道運賃、馬車手配、荷運び人夫代、時間損失を考えると、巡回が続く場合は合理的です」
ヨードルも頷いた。
「日程上は有利です。午前に会場確認、午後に倉庫確認、夕方に木工所との打ち合わせができます」
クレープスが補足した。
「図面筒と模型箱を持ち歩く必要も減ります」
カイテルが言った。
「現地会場との打ち合わせ後、そのまま地元商工会へ回れます」
ブルクドルフが短く言った。
「積めます」
全員が、トラックを使う方向へ話を進めている。
ヒトラーだけが、まだ抵抗していた。
「車体に広告を入れるなど、品がない」
ゲッベルスは即座に返した。
「入れ方の問題です」
「あなたが入れれば、必ず文字が大きくなる」
「走行中に読むには大きさが要ります」
「止まった時に締まりがなくなる」
「走る時と止まる時で、見え方が違うのです」
「看板は走らん」
ゲッベルスはにやりと笑った。
「今日から走ります」
ヒトラーはその笑みが気に入らなかった。
だが、反論の材料は減っていた。
数日後。
Adolf Hitler Entwurfsbüroの一階前に、ベルナドッテ商会が手配した車両が停まった。
小型のトラックだった。
丸いヘッドライト。
少し高い運転席。
頑丈そうな荷台。
幌の側面には、仮貼りの文字が入っている。
Bernadotte Handelsgesellschaft
Möbel-Ausstellung
その下に、
Adolf Hitler Entwurfsbüro
Goebbels Reklamebüro
Himmler Organisationsberatung
と並んでいた。
ヒトラーは通りの反対側からそれを見て、開口一番に言った。
「字間が広い」
ゲッベルスは満足そうだった。
「走るので、遠目に読めるほうがよい」
「近くで見た時に締まりがない」
「近くで見る人は、もう読んでいます」
「読めばよいというものではない」
「広告は、まず読ませるものです」
「看板は、まず整えるものだ」
エルゼが書類を確認しながら言った。
「仮貼りです。出発してください」
ヨードルが懐中時計を見た。
「予定より7分遅れています」
「誰のせいだ」
ヒトラーが言うと、全員が一瞬黙った。
フランツは答えなかった。
クレープスも答えなかった。
カイテルは視線を下げた。
ブルクドルフだけが言った。
「字間です」
ヒトラーは彼を睨んだ。
荷台には、展示用の縮尺模型、布地見本、塗装見本、木材サンプル、カタログ箱、折り畳み式の小型棚、ゲッベルスが作ったポスター束が積まれていた。
ブルクドルフが荷締めを確認する。
「模型箱は固定しました。布見本は奥。カタログ箱は手前。ポスターは」
ヒトラーが言った。
「飛んでいけ」
ゲッベルスがすぐに言った。
「困ります」
ブルクドルフは真面目に答えた。
「飛ばないように縛りました」
カイテルはアウクスブルク側へ到着予定時刻を連絡し終えていた。
「現地会場、商工会、倉庫、すべて本日の訪問を了承済みです」
ヨードルは工程表を読み上げる。
「午前、会場実測。昼前、搬入口確認。午後、倉庫確認。夕方、地元木工所との調整。帰路で修正事項の整理」
クレープスは模型箱を叩いた。
「斜めに積めば、展示壁の小型模型も入ります」
ヒトラーはトラックを見た。
「小さい」
エルゼが答えた。
「燃料費も小さいです」
「車高が高い」
ブルクドルフが言った。
「荷物を積む車ですから」
「乗り降りが美しくない」
「現場車ですから」
「扉の閉まる音が粗い」
「そこまで聞きますか」
「聞こえる」
フランツは助手席側の扉を開けた。
中は広くはなかった。
座席は硬く、振動もありそうだった。だが図面筒を持って駅まで歩き、そこから列車に乗り、また馬車を探すよりは、はるかに楽に見えた。
ヒトラーは最後まで文句を言いながら乗った。
「座席が低い」
「高いと言ったり低いと言ったり忙しいですね」
ゲッベルスが言うと、ヒトラーはすぐに返した。
「車高が高く、座席が低い。つまり不統一だ」
エルゼは地上から言った。
「帰ってから車両使用費の記録を提出してください」
ブルクドルフが運転席から頷く。
「分かりました」
「燃料、駐車、現地運搬、すべてです」
「分かりました」
「分かったと言う人ほど、領収書をなくします」
「なくしません」
「ならよろしいです」
トラックは、ゆっくりとミュンヘンの通りへ出た。
車体側面の文字が、朝の光を受けて動いた。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
その文字が、初めてミュンヘンの外へ向かって走り出した。
アウクスブルクの会場は、古い商工会館だった。
図面上では十分な広さがあるように見えたが、実際には柱が邪魔だった。天井の梁も低く、窓から入る光が展示壁に直接当たりすぎる。
ヒトラーは会場に入るなり言った。
「図面が嘘をついている」
クレープスは実測を始めた。
「図面というより、古いです」
「古い図面は嘘に近い」
ヨードルは工程表に赤線を引いた。
「標準展示をそのまま入れるのは無理です。居間展示を斜めに振る必要があります」
「斜めに置くな」
ヒトラーが言った。
クレープスが測りながら答えた。
「斜めにしないと、柱で正面が割れます」
ヒトラーは会場中央に立ち、しばらく黙って柱を見た。
「柱を隠す」
ブルクドルフが言った。
「どうやって」
「棚を置く」
「ベルナドッテ商会の軽い棚で隠れますかね」
「軽いなら、二つ重ねる」
ゲッベルスが言った。
「軽い家具を重く見せる。所長の得意分野ですね」
「黙れ」
だが、案は動き始めた。
午前中に会場の実測を終え、昼前には搬入口を確認した。
鉄道で来ていたら、ここまでで一日が終わっていたかもしれない。
しかしトラックがある。
荷台の模型を降ろし、その場で配置を変えられる。
布地見本を会場の光に当てて確認できる。
ポスターを壁に仮置きできる。
木材サンプルを持って、午後には倉庫へ移動できる。
ヒトラーは不機嫌なまま、それを見ていた。
不機嫌なまま、指示を出していた。
不機嫌なまま、明らかに便利さを理解していた。
倉庫確認の後、地元木工所へ向かう途中で、ヨードルが工程表を見ながら言った。
「予定より早いです」
ヒトラーは窓の外を見ていた。
「早ければ良いというものではない」
「遅いよりは良いです」
「雑に早いのは駄目だ」
クレープスが後ろの席から言った。
「今回は雑ではありません」
ブルクドルフが運転しながら言った。
「荷物を積んだまま回れるのは楽ですね」
カイテルも頷く。
「現地との調整も、その場で済ませられます」
フランツは図面筒を膝に置いたまま言った。
「駅で荷物を抱えなくて済むのは助かります」
ヒトラーはしばらく黙っていた。
それから小さく言った。
「……使えないことはない」
エルゼがいれば、きっと同じ意味ですと言っただろう。
その日の夕方、アウクスブルクの会場裏手で、商会の用意したトラックはシュタイナー木工所のトラックと並んだ。
シュタイナー親方は、別件の納品で近くまで来ていた。
荷台には木材が積まれている。
二台のトラックは、どちらも仕事の車だった。
泥が跳ね、荷台には紐がかかり、車体側面にはそれぞれの名がある。
ヒトラーはそれを見て、顔をしかめた。
「大差ない」
フランツが尋ねた。
「何がですか」
「うちの車と、シュタイナーの車だ」
シュタイナー親方は木材の上から顔を上げた。
「うちの車で悪かったな」
「悪いとは言っていない。用途が違うと言っている」
ブルクドルフが言った。
「どちらも荷物を積む車ですからね」
「意匠事務所が木工所と同じ顔で現場に来てどうする」
シュタイナー親方は無表情で答えた。
「木工所は木を積む。意匠事務所は文句を積む」
フランツは咳をしてごまかした。
ゲッベルスは笑った。
「所長、つまり次は、事務所の顔として走る車が必要ということですね」
ヒトラーは即座に言った。
「広告屋の言い方をするな」
「では、意匠屋の言い方に直します」
ゲッベルスは車体側面の仮貼り文字を指した。
「移動する正面です」
ヒトラーは黙った。
フランツはその沈黙を知っていた。
気に入ってしまった時の沈黙だった。
カイテルが控えめに言った。
「最近、ポルシェ博士が小型実用車の構想を進めているという話があります。商用車というより、乗用と実用の中間に近いものだそうです」
ヨードルが工程表から顔を上げる。
「地方下見には向きそうです。荷物は限定されますが、図面と見本程度なら十分かもしれません」
クレープスが言った。
「模型箱は厳しいですが、縮小すれば可能です」
エルゼがいない場で、その話が出たことをフランツは少し心配した。
ヒトラーは言った。
「買うとは言っていない」
ゲッベルスは笑った。
「誰も買うとは言っていません。車体側面の文字案だけなら、今から」
「考えるな」
「まだ何も言っていません」
「顔をした」
「顔だけです」
「その顔がうるさい」
シュタイナー親方が木材を積み直しながら言った。
「車は走ればいい」
ヒトラーは振り返った。
「それが木工所の限界だ」
「走らない車よりはましだ」
「事務所の車には、走る以外の役割がある」
ゲッベルスが小さく拍手するように指を鳴らした。
「名言です」
「使うな」
「使えます」
「使うな」
夜、ミュンヘンへ戻る頃には、トラックの側面は泥で汚れていた。
Adolf Hitler Entwurfsbüroの文字にも泥が跳ねている。
一階事務所の前に車が停まると、エルゼが出てきた。
まず彼女は車を見た。
次に車体の泥を見た。
最後にヒトラーの顔を見た。
「遅くなりましたね」
ヨードルが言った。
「予定より12分遅れです」
ブルクドルフは運転席から降りて、領収書の束を差し出した。
「燃料、駐車、倉庫使用料、全部あります」
エルゼは受け取って確認した。
「よろしいです」
ブルクドルフは少し誇らしげだった。
ヒトラーは車体側面を見ていた。
「汚れている」
ブルクドルフが答えた。
「走れば汚れます」
「看板は汚してはならん」
エルゼが言った。
「リース車です」
ヒトラーは泥のついた文字を見た。
「使っている間は、こちらの顔だ」
ゲッベルスが後ろから言った。
「なら、次は最初から顔として作りましょう」
ヒトラーは答えなかった。
ただ、泥のついた仮貼りの文字を見ていた。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
字間は少し広い。
走行中の視認性を優先したせいで、近くから見ると締まりがない。
しかも泥が跳ねている。
到底、満足できるものではなかった。
だが、その文字はミュンヘンを出て、アウクスブルクへ行き、会場と倉庫と木工所を回り、また戻ってきた。
止まった看板ではない。
走る看板だった。
フランツは、荷台から図面筒を降ろしながら、ふと思った。
一階に顔を持った事務所は、今度は走る顔を欲し始めている。
ヒトラーは赤鉛筆を取り出した。
「フランツ」
「はい」
「明日、この仮貼りの文字位置を測る」
「測るんですか」
「測る」
「リース車ですよ」
「だからだ。次があるなら、同じ失敗を繰り返すな」
ゲッベルスが嬉しそうに言った。
「次があるんですね」
ヒトラーは彼を睨んだ。
「あるとは言っていない」
エルゼが領収書を揃えながら言った。
「ただし、移動費の比較表は作ります」
「作るな」
「判断材料です」
「またそれか」
「はい」
シュタイナー親方のトラックが、通りの向こうを通り過ぎた。
荷台の木材が、夜の灯りを受けて揺れている。
ヒトラーはそれを一瞥し、それから商会の用意した車の側面を見直した。
「トラックでは駄目だ」
フランツが尋ねた。
「積めましたよ」
「積めるだけなら、木工所と同じだ」
「では、何が必要なんですか」
ヒトラーは少し黙った。
その目は、もう目の前のトラックだけを見ていなかった。
「事務所の名を載せて走っても、荷車に見えないものだ」
ゲッベルスが小さく言った。
「移動する正面」
ヒトラーは返事をしなかった。
否定もしなかった。
その夜、Adolf Hitler Entwurfsbüroの一階には、アウクスブルク会場の修正図が広げられた。
クレープスは実測値を直し、ヨードルは工程を組み替え、カイテルは現地との確認書をまとめ、ブルクドルフは荷物の積み順を記録した。
エルゼは移動費の欄に数字を書き込んでいた。
ゲッベルスは、勝手に車体文字の案を紙の端に描いていた。
ヒトラーはそれを見つけ、赤鉛筆で大きく斜線を引いた。
「文字が大きすぎる」
ゲッベルスは笑った。
「走るなら、このくらい要ります」
「走る看板にも品位は要る」
「では、品位のある走る看板を作りましょう」
「作るとは言っていない」
「考えるだけです」
ヒトラーは不機嫌な顔で、アウクスブルクの会場図へ視線を戻した。
しかしその赤鉛筆は、会場図の端に、いつの間にか小さな車の側面図を描いていた。
フランツはそれを見て、何も言わなかった。
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