第12話 新聞の中の道路
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1931年初夏
ミュンヘン
Adolf Hitler Entwurfsbüroの一階応接室では、朝の新聞が毎日数紙、応接卓の端に積まれるようになっていた。
誰が読み始めたのかは、はっきりしない。
最初はエルゼだった。
入金遅延の出そうな業界を確認するため、経済面を読む必要があった。
次にカイテルが、各都市の会館使用規制や警察発表を確認するようになった。
ヨードルは交通欄と鉄道時刻の変更を見る。
クレープスは新しい道路や建築計画の記事を切り抜く。
ゲッベルスは広告欄を見る。
ヒムラーは商工会と企業再編の記事に印をつける。
そしてヒトラーは、すべてに文句を言うために読んだ。
その朝も、彼は応接卓に新聞を広げたまま、不機嫌な顔をしていた。
「また議会が揉めている」
フランツは見本棚の整理をしながら顔を上げた。
「いつものことでは」
「いつものことだから腹が立つ」
ヒトラーは紙面を指で叩いた。
「会議を増やし、委員会を増やし、演説を増やし、何も決めん。椅子ばかりが傷む」
エルゼは帳簿に目を落としたまま言った。
「椅子が傷むなら、修理費は請求できます」
「そういう話ではない」
「では、当事務所の業務ではありません」
ヒトラーは黙った。
その返しは強かった。
一階応接室は、すでに事務所の顔としてよく働いていた。
通りに面した窓には、退役軍人会の式典透視図、映画館ロビーの装飾案、ベルナドッテ商会の家具展示図、そして事務所の車体文字案が掲げられていた。
旧クライン帽子店の棚は補強され、布地見本と塗装見本、木材片、カタログ束を収めている。
奥の応接卓には、来客が座る。
二階へ上げるのは、本当に図面を見せる必要のある客だけになった。
一階は顔。
二階は頭。
その言い方をヒトラーは気に入っていた。
ただし、誰かがそれを口にすると不機嫌になる。
その日、新聞の一面には政治の記事が並んでいた。
保守派内閣の不安定さ。
大統領府の権限強化を求める声。
失業者の増加。
反共集会。
労働者団体の抗議行動。
ポーランドとの国境問題。
フランスの警戒。
ソ連への不信。
再軍備をめぐる議論。
共和国はまだ、声の多いままだった。
いや、以前より声が多くなっていた。
街の壁には相変わらずビラが貼られた。
右の団体も、左の団体も、保守市民連盟も、労働者協会も、退役軍人会も、農民組合も、商工会も、みな演壇を欲しがった。
そのたびに、誰かが会場を必要とした。
だから事務所には仕事が来た。
ヒトラーは政治を嫌っているわけではなかった。
むしろ、偏見も怒りも、不満も持っていた。
敗戦への恨みも、共和国への軽蔑も、彼の中から消えてはいない。
だが彼は、政治団体というものを信用していなかった。
特に、支払いの遅い政治団体を。
ミュンヘン一揆の夜以来、彼はその点だけは一貫していた。
「政治屋は、演壇に立つ前だけは金を持っている顔をする」
彼は新聞を畳みながら言った。
「終わった後は、椅子を壊し、壁を汚し、請求書を見て急に思想を語り始める」
フランツが苦笑した。
「全部が全部、そうですか」
「そうでない団体は、前金を払う」
エルゼが頷いた。
「それは正しいです」
カイテルが一階へ下りてきた。
手には問い合わせの束がある。
「保守市民連盟から講演会の会場相談です。前金条件には応じるとのことです。ただし、演壇背面の文言について意匠事務所側にも助言を求めたいと」
ヒトラーは即座に顔をしかめた。
「文言は広告屋か本人たちにやらせろ」
「そう返しますか」
「私は演壇を設計する。そこで何を言うかまでは、契約金に入っておらん」
エルゼが淡々と言った。
「入っていても困ります」
「当然だ」
ヒトラーは新聞を指で押さえた。
「喋る者は、喋る者で責任を持て。こちらは壇上がきしまず、客席が詰まらず、壁が汚れず、撤収できるようにする。それだけだ」
フランツが言った。
「それが良い政治ですか」
ヒトラーは少し考えた。
「少なくとも、会場を荒らさん政治は悪くない」
ちょうどその時、入口の鈴が鳴った。
ゲッベルスだった。
いつものように、彼は来るだけで少し部屋の空気を騒がしくした。
黒い鞄を抱え、片手に新聞を持っている。
その顔には、すでに何か面白いものを見つけた時の笑みが浮かんでいた。
「所長、読みましたか」
ヒトラーは嫌そうに言った。
「何をだ」
「道路です」
ゲッベルスは新聞を広げた。
そこには、新しい自動車道路区間の開通式を伝える記事が載っていた。
広い路面。
緩やかな曲線。
新しい橋。
整えられた法面。
式典に並ぶ役人と技術者たち。
失業対策、産業振興、交通網整備、国土の近代化。
記事の見出しは、そういう言葉で飾られていた。
ヒトラーはその写真をしばらく見た。
政治面を読んでいた時の顔とは少し違っていた。
「道路には正面がない」
彼は言った。
フランツは首をかしげた。
「道路ですから」
「だが、軸線はある」
ヒトラーは写真を近くへ引き寄せた。
「見ろ。路面の線が、遠くへ逃げている。橋の位置も悪くない。法面が少し整いすぎているが、悪くはない」
クレープスが図面を持って下りてきた。
写真を覗き込む。
「見通しが良いですね。曲線がゆるい」
ヨードルも新聞を見た。
「これが広がれば、移動時間が読めるようになります。巡回展示には有利です」
カイテルが言った。
「地方会場の下見範囲も広がります。鉄道駅から離れた会場でも、現実的になるかもしれません」
エルゼはすぐに言った。
「車両購入の話にはしていません」
ヒトラーは新聞から目を離さずに答えた。
「誰もそんな話はしていない」
ゲッベルスが笑った。
「所長が道路写真を褒める時は、たいてい車の話になります」
「褒めていない」
「では、評価している」
「見ているだけだ」
「広告屋は、それを関心と呼びます」
ヒトラーは睨んだ。
「広告屋は何でも勝手に呼ぶ」
外の通りから、オペル・ブリッツのような小型トラックが通り過ぎる音がした。
ベルナドッテ商会の巡回展示で使ったリース車を思い出したのか、フランツは窓の外を見た。
あのトラックは便利だった。
ミュンヘンからアウクスブルクへ。
会場、倉庫、木工所、商工会。
一日で回れた。
ヒトラーは文句ばかり言っていたが、戻ってから何度も車体文字の位置を測っていた。
「トラックは荷物を積むには良い」
ヒトラーは新聞を畳みながら言った。
「だが顔にならん」
ゲッベルスがすぐ反応した。
「その話、私は好きです」
「私は好きではない」
「でも続けてください」
「黙れ」
その時、エルゼが別の新聞を差し出した。
「こちらも読むべきです」
ヒトラーは受け取った。
経済面と技術面の間に、小さな写真付きの記事があった。
ポルシェ博士、小型大衆車構想を発表。
写真は鮮明ではなかった。
だが、そこには丸みを帯びた小型車の姿があった。
低い車体。
流れる屋根。
短い前部。
丸い後部。
高級車の威厳はない。
商用トラックの力強さもない。
しかし、妙に一度見たら覚える形をしていた。
ヒトラーは黙った。
フランツが横から覗き込む。
「丸いですね」
「丸い」
ヒトラーは不機嫌そうに言った。
「丸すぎる。車体に正面がない」
「車の正面は前では」
「そういう話ではない」
彼は写真を指で押さえた。
「だが、線は切れていない。屋根から後ろへ流れる形は悪くない。小さいが、貧相ではない。余計な飾りも少ない」
ゲッベルスはにやにやしていた。
「気に入ったんですね」
「気に入っていない」
「では、どうしてそんなに細かく見ているんです」
「欠点を見ている」
「褒めているように聞こえます」
「耳が悪い」
エルゼが言った。
「気に入ったんですか」
「気に入っていない」
「では、なぜ切り抜こうとしているんですか」
ヒトラーの手は、新聞の端に置かれていた鋏へ伸びかけていた。
彼は一瞬止まり、それから堂々と鋏を取った。
「資料だ」
ゲッベルスが小さく手を叩いた。
「走る看板の資料ですね」
「違う」
「では、移動する正面」
ヒトラーは黙った。
その沈黙を、事務所の者たちはだいたい理解していた。
気に入ったのだ。
かなり。
ブルクドルフが外から戻ってきた。
服には木屑がついている。シュタイナー木工所へ棚の補修依頼を出しに行っていたのだ。
彼は新聞の写真を見た。
「小さいですね」
「見れば分かる」
ヒトラーが答えた。
「荷物はあんまり積めませんよ」
「荷物を積む車は別にある」
「では何に使うんです」
ヒトラーは写真を見たまま言った。
「事務所の顔として使う」
応接室が静かになった。
エルゼが帳簿を閉じた。
「つまり、買う話ですか」
「検討だ」
「買う人は、たいてい検討と言います」
「私は買うとは言っていない」
「価格も出ていません」
「だから検討だ」
ヨードルが工程表の端に小さく書き込み始めた。
ヒトラーはそれを見逃さなかった。
「何を書いている」
「仮に小型車が導入された場合の地方下見日程です」
「書くな」
「検討資料です」
「検討するとは言ったが、資料を作れとは言っていない」
「資料がなければ検討できません」
エルゼが頷いた。
「それは正しいです」
クレープスも写真を見ながら言った。
「図面筒と小型見本箱なら載るかもしれません。模型は縮小が必要です」
「模型を車に合わせて縮めるな」
ヒトラーが言った。
クレープスは真面目に答えた。
「車に合わせるのではなく、用途に合わせます」
カイテルが手帳を開いた。
「ポルシェ博士の事務所、あるいは販売代理店に問い合わせますか」
「まだ早い」
「では、情報収集のみ」
「それも早い」
ゲッベルスが言った。
「車体側面の文字案だけなら、今から考えられます」
「考えるな」
「でも、丸い車体に文字を置くのは難しいですよ。平面ではない。曲面です。これは広告屋としても研究価値があります」
ヒトラーはその言葉に、うっかり反応した。
「曲面に文字を置くなら、直線の看板とは違う。側面の膨らみを殺してはならん。文字が車体の線に負けても、勝ちすぎても駄目だ」
ゲッベルスは嬉しそうに言った。
「ほら、もう考えている」
ヒトラーは黙った。
フランツは、ポルシェ博士の小型車の写真をもう一度見た。
たしかに、トラックとは違った。
オペル・ブリッツは便利だった。
荷物を積めた。
現場を回れた。
だが、木工所のトラックと並ぶと、結局は仕事の車だった。
一方、この丸い車は違う。
荷物は少ししか積めない。
威厳もない。
高級車でもない。
だが、通りを走れば目に残る。
事務所名を載せれば、ただの運搬ではなく、事務所そのものが移動しているように見えるかもしれない。
ゲッベルスは写真を指で叩いた。
「この形は覚えられます。高級車に見せる必要はありません。見た者に、あの丸い車、と言わせればよい。広告としては強い」
ヒトラーは少しだけ頷きかけて、途中で止めた。
「つまり、形が一つの看板になっている」
「そうです」
「君に同意したわけではない」
「結果としては同意しています」
「黙れ」
エルゼは冷静だった。
「価格、維持費、燃料費、保険、修理費、運転担当、私用利用の禁止。この六点が分からない限り、購入はありません」
ヒトラーは言った。
「誰も購入とは言っていない」
「では、検討にはこの六点が必要です」
「検討はする」
「では調べます」
ヒトラーは返答に詰まった。
フランツは、そのやり取りを見て、すでに勝負は半分ついていると思った。
外では新聞売りが、また別の見出しを叫んでいた。
共和国は相変わらず騒がしい。
国境問題も、失業も、左右の衝突も、保守派内閣の不安定さも、すべて紙面に並んでいる。
その中に、新しい道路と、新しい車の記事があった。
ドイツは不安定だった。
だが、不安定なまま、道路を作り、車を作り、都市と都市をつなごうとしていた。
ヒトラーは政治面の記事には文句を言い、道路写真には軸線を見つけ、小型車の写真には正面がないと文句を言った。
そして切り抜いた。
夕方になると、ポルシェ博士の小型車の記事は、事務所の資料棚に入れられた。
棚には、退役軍人会の花輪台図面、映画館ロビーの広告枠、ベルナドッテ商会の展示配置図、オペル・ブリッツの車体文字案が並んでいる。
その横に、丸い小型車の写真が収まった。
フランツはそれを見た。
所長は気に入っていないと言った。
だが、気に入っていないものは資料棚に入らない。
ヒトラーは応接室の窓際に立っていた。
通りには車が増えていた。
まだ馬車も多い。
荷車もある。
徒歩の人々もいる。
だが以前より、自動車の音が街に混じるようになっていた。
「トラックではない顔が要る」
ヒトラーは小さく言った。
フランツは聞き返した。
「何ですか」
「何でもない」
ヒトラーは新聞を畳んだ。
「明日、車体側面の文字配置について資料を出せ」
ゲッベルスがすぐに顔を上げた。
「私が」
「君ではない」
「しかし広告面です」
「意匠面だ」
エルゼが言った。
「購入前に文字配置資料を作るのですか」
ヒトラーは堂々と答えた。
「購入するとは言っていない」
「では何の資料ですか」
「検討資料だ」
エルゼは少しだけため息をついた。
「承知しました。検討費は記録しておきます」
ゲッベルスは嬉しそうに笑った。
ヨードルは日程表を作り始めた。
クレープスは写真の寸法比を推測しようとしていた。
カイテルは問い合わせ先を書き出した。
ブルクドルフは窓の外を見て、丸い車が実際に荷物を積めるのか考えていた。
フランツは資料棚の切り抜きを見た。
新聞の中の道路は、紙面の奥へ続いていた。
その先に、丸い車が走っている。
そしてその車の側面には、まだ何も書かれていない。
ヒトラーは赤鉛筆を持ち、新聞の余白に小さく線を引いた。
まるで、まだ存在しない車体の上に、事務所の名を置く場所を探しているようだった。
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