第14話 濃灰のポルシェワーゲン
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1931年冬
ミュンヘン
ポルシェワーゲンの販売代理店は、ミュンヘン市内の大きな通りから少し入った場所にあった。
高級車を扱う店のような重々しさはない。
磨かれた床、壁に掛けられた数枚の写真、価格表、整備受付の小さな机、そして奥に置かれた丸い小型車。
それだけだった。
ヒトラーは店に入るなり、車を見た。
新聞写真で見た時よりも、実物はさらに丸く見えた。
低い鼻先。
なめらかに流れる屋根。
短い後部。
細い窓。
高級車の威厳はない。
だが、雑ではなかった。
「丸い」
ヒトラーは言った。
フランツは隣で小さく頷いた。
「新聞写真より丸いですね」
「写真は嘘をつく。実物はさらに丸い」
販売主任の男は、どう答えるべきか迷った顔をした。
「空気抵抗を考えた形です。ポルシェ博士の設計思想では、無駄な装飾を避け、実用性と小型化を」
「装飾を避けることと、顔を失うことは違う」
ヒトラーは車の前に立ち、腕を組んだ。
「だが、線は悪くない」
販売主任は少し安心したようだった。
ゲッベルスは、その横で車体の側面ばかり見ていた。
「ここに文字が入りますね」
「まだ入れん」
ヒトラーは即座に言った。
「入れるなら、どのくらいの大きさか考える必要があります」
「君が考える必要はない」
「広告としては」
「意匠としてこちらで考える」
「つまり考えるんですね」
ヒトラーは返事をしなかった。
エルゼは車ではなく、机の上に置かれた価格表を見ていた。
頭金。
月々の支払い。
保証。
整備費。
納期。
彼女の目は、車体の曲線よりも数字の列を冷静に追っていた。
「ローン条件は、事業用として申請すればこの表の通りですか」
販売主任は頷いた。
「はい。御社の場合、すでにベルナドッテ商会の巡回展示案件があると伺っています。継続契約の書類をご提示いただければ、審査は通りやすいかと」
ヒトラーは胸を張った。
「当然だ。これは趣味の車ではない」
ゲッベルスが横から言った。
「所長の趣味がかなり入っていますが」
「意匠判断だ」
エルゼは書類から顔を上げずに言った。
「趣味であれば経費にはしません」
「だから事業用だと言っている」
「では、私用利用は禁止です」
「当然だ」
「所長の気分で休日に見に行く、というのも禁止です」
ヒトラーは少しだけ黙った。
「何を見に行くというのだ」
「道路です」
フランツは思わず咳払いした。
ヒトラーは不満そうにしたが、否定しなかった。
クレープスは後席のあたりを覗き込んでいた。
「図面筒は斜めにすれば入ります。小型見本箱は二つまで。布地見本は薄型なら問題ありません」
「大型模型は」
ヒトラーが尋ねた。
「無理です」
「模型を縮めるな」
「大型模型はトラックです。下見はこれで十分です」
ヨードルはすでに手帳へ何かを書いていた。
「ミュンヘンからアウクスブルク、日帰り可能。ニュルンベルクは条件付き。レーゲンスブルクも早朝出発なら現実的です。鉄道と馬車の組み合わせより、かなり組みやすくなります」
カイテルは販売主任に質問していた。
「整備はこの店で受けられますか。地方で故障した場合は」
「提携の整備工場をご案内できます。まだ台数が多くありませんので、部品取り寄せには時間がかかることもあります」
「部品供給の目安を書面でいただけますか」
「用意します」
ブルクドルフは運転席に座っていた。
「思ったより狭いですね」
ヒトラーは運転席を見た。
「君らが運転する」
「だから狭いと言ってるんです」
「狭さは運転者の姿勢で補え」
「補えない狭さもあります」
「なら痩せろ」
ブルクドルフは笑った。
「所長が運転すれば解決しますよ」
ヒトラーはきっぱり言った。
「私は現場で図面を見る。運転までしていたら、会場を見る目が鈍る」
ゲッベルスが言った。
「つまり楽をしたい」
「効率化だ」
販売主任は、この事務所がどういう人々なのか、だんだん分からなくなってきた顔をしていた。
色見本が出された。
黒。
濃灰。
深緑。
明るいクリーム。
青みがかった灰。
ヒトラーは最初に黒を見た。
「重すぎる。車体が小さいのに、葬列のようになる」
販売主任はすぐに黒の札を下げた。
次にクリーム色を見る。
「軽薄だ。家具ならまだしも、事務所の車だ」
深緑。
「田舎の郵便車のようだ」
青みがかった灰。
「冷たい。冬の朝に見るだけで寒い」
最後に、濃灰の見本が残った。
ヒトラーは黙った。
エルゼが見た。
ゲッベルスも見た。
フランツも、だいたい分かった。
ヒトラーはしばらく黙ってから言った。
「悪くない」
エルゼは書類に書き込んだ。
「濃灰ですね」
「悪くないと言っただけだ」
「では、濃灰で仮記入します」
「仮だ」
「注文書では本記入になります」
ゲッベルスは濃灰の見本を見ながら言った。
「文字は白か、明るい灰で縁取りですね」
ヒトラーは即座に反応した。
「縁取りは要らん」
「走行中の視認性を考えれば」
「広告屋の発想だ。車体の線を壊すな」
「では文字を少し大きく」
「大きくするな」
「読ませる気はあるんですか」
「読ませる。だが叫ばせない」
エルゼが静かに言った。
「文字が増えれば塗装費も増えます」
ヒトラーは頷いた。
「名前だけでよい」
ゲッベルスが肩をすくめた。
「顔に履歴書を貼るな、ですね」
「分かっているなら黙れ」
車体側面に入れる文字は、最終的に一行になった。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
業務内容は入れない。
住所も入れない。
電話番号も入れない。
ゲッベルスは不満だった。
エルゼは満足だった。
ヒトラーは、満足していないふりをしていた。
販売主任が、何気なく言った。
「実はポルシェ側でも、将来的にはこうした車を専門に扱う販売店や展示室を、各地に置きたいという話があるようです」
ヒトラーの目が動いた。
「専門に扱う展示室?」
「ええ。今は代理店頼みですが、この車は少し特殊です。高級車として見せると違う。商用車として見せても違う。家庭用にも仕事用にも使える車として、どう見せるべきか、販売側も探っているようでして」
ヒトラーは車体をもう一度見た。
丸い。
小さい。
威厳はない。
だが、人の目に残る。
「つまり、車に合った正面がない」
販売主任は首を傾げた。
「正面、ですか」
ゲッベルスが笑った。
「所長、それは仕事の匂いがしますね」
「まだ匂わせるな」
「しかし、専門展示室なら、広告も必要になります」
「広告屋はすぐ匂いを嗅ぐ」
エルゼが販売主任へ向き直った。
「その話が正式になる場合は、当事務所へ直接ご連絡ください。ヒムラー経由ではなく」
フランツは思わずエルゼを見た。
販売主任はヒムラーの名を知らないらしく、少し困惑した。
「ヒムラー?」
「こちらの事情です」
エルゼはそう言って、淡々と名刺を差し出した。
契約書が出された。
購入者欄。
ローン条件。
事業用車両。
車体色。
納車予定。
車体文字。
エルゼがすべて確認した。
「問題ありません。ただし、車体文字の修正費が別途発生する場合、事前承認なしでは支払いません」
販売主任は頷いた。
「承知しました」
ゲッベルスが言った。
「文字案については私が」
「あなたは黙ってください」
エルゼが言った。
ヒトラーはペンを取った。
「これは購入ではない」
エルゼは書類を指した。
「購入契約書です」
「事務所機能の拡張だ」
「購入者欄に署名してください」
「事務所機能の拡張として」
「購入者欄です」
ヒトラーは不満そうにしながら署名した。
アドルフ・ヒトラー。
ペン先が紙を離れた時、ゲッベルスが小さく拍手しかけた。
ヒトラーは睨んだ。
「式典ではない」
「納車時には式典にしましょう」
「しない」
「記念写真くらいは」
「不要だ」
フランツは思った。
たぶん撮る。
数週間後。
濃灰のポルシェワーゲンが、Adolf Hitler Entwurfsbüroの一階前に納車された。
冬の冷たい朝だった。
通りにはまだ薄く雪が残り、石畳は濡れて光っていた。
ポルシェワーゲンは、オペル・ブリッツよりずっと小さかった。
荷物車ではない。
木工所のトラックでもない。
丸い車体に、濃灰の塗装。
側面には控えめな文字。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
ヒトラーは通りの反対側から車を見ていた。
その顔は、明らかに機嫌が良かった。
だが第一声は、やはりこうだった。
「文字が少し低い」
フランツは言った。
「納車おめでとうございます、ではないんですか」
「おめでたい車体に、低い文字は要らん」
エルゼはすぐに言った。
「修正費は出ません」
「今すぐ直せとは言っていない」
「いずれ直せとも言わないでください」
「検討だ」
「検討費も出ません」
ゲッベルスは車体側面を見て、少し悔しそうだった。
「悪くありません。かなり控えめですが、悪くない」
「当然だ」
ヒトラーは言った。
「君の案を使わなかったからだ」
「私の案を少しは参考にしたでしょう」
「していない」
「文字の位置は、私が言った範囲に近い」
「偶然だ」
「便利な偶然ですね」
ブルクドルフは運転席に座り、ハンドルを握った。
「狭い」
「またそれか」
ヒトラーが言った。
「いや、本当に狭いです」
クレープスは後席と荷室を見ていた。
「図面筒は斜め。布地見本は二つまで。小型見本箱は助手席側を使えば入ります」
ヨードルはもう日程表を出していた。
「来週のアウクスブルク下見は、この車で行けます。トラックは搬入日のみで済みます」
カイテルは受領書を確認していた。
「販売店への受領確認、保証書、整備先一覧、すべて揃っています」
エルゼは帳簿に記入した。
「月々の支払いは来月からです」
ヒトラーは車体を見たまま言った。
「支払いの話は、納車の日にするものではない」
「納車の日だからです」
「情緒がない」
「ローンには情緒がありません」
シュタイナー親方も来ていた。
納車を見に来たのではない、と本人は言った。
近くで別件の寸法を測るついでだと言った。
だが、彼は車の周りを一周した。
「小さい」
ヒトラーはため息をついた。
「なぜ皆それを言う」
「見れば分かる」
「小さいことは欠点ではない」
「荷物は積めん」
「これは荷物車ではない」
「なら何だ」
ヒトラーは少しだけ胸を張った。
「事務所の顔だ」
シュタイナー親方は、濃灰の車体と側面文字を見た。
「顔なら、汚すな」
「当然だ」
「冬道は汚れる」
「洗う」
「誰が」
ヒトラーはブルクドルフを見た。
ブルクドルフは運転席から顔を出した。
「やっぱり私ですか」
「運転する者が、車体を知る」
「洗車係とは聞いてません」
エルゼが言った。
「職務分担に追加します」
ブルクドルフは諦めたように笑った。
ゲッベルスは鞄から紙を取り出した。
「納車記念の小さな新聞広告ですが」
「出すな」
「小さくです」
「小さくても出すな」
「では、事務所内記録として」
「記録ならよい」
「写真を撮りましょう」
「不要だ」
フランツはエルゼと目を合わせた。
エルゼはすでに写真師への支払い予定を帳簿に控えていた。
結局、写真は撮られた。
一階の前に濃灰のポルシェワーゲンを置き、所長を中心に、フランツ、エルゼ、クレープス、ヨードル、カイテル、ブルクドルフが並んだ。
シュタイナー親方は少し離れて立った。
ゲッベルスは、最初は遠慮しているふりをしていたが、気づけば写る位置にいた。
ヒムラーはなぜかいた。
ベルナドッテ商会のイングリッドも、巡回展示の打ち合わせという名目で来ていた。
ヒトラーは撮影直前まで言っていた。
「記念ではない。記録だ」
フランツは言った。
「はい。記録です」
ゲッベルスが小声で言った。
「記録は、後で記念になります」
ヒトラーは聞こえないふりをした。
写真師が声をかけた。
「そのままで」
冬の光が、濃灰の車体を鈍く照らしていた。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
文字は少し低い。
少なくともヒトラーはそう思っていた。
だが、通りから見た時、その文字は車体の線に馴染んでいた。
派手ではない。
叫ばない。
しかし、目に残る。
撮影が終わると、ゲッベルスが言った。
「良い写真です」
ヒトラーは返した。
「車体文字の位置確認用だ」
「そういうことにしておきます」
エルゼが帳簿を閉じた。
「では、最初の運用日は来週です。アウクスブルク下見」
ヨードルが頷く。
「予定を組みました」
クレープスが言った。
「積載案も作ります」
カイテルが言った。
「先方へ車両到着予定を知らせます」
ブルクドルフが運転席でため息をついた。
「では、私が運転ですね」
ヒトラーは当然のように言った。
「君らが運転する前提だと言ったはずだ」
「所長は」
「私は会場を見る」
ゲッベルスがまた言った。
「効率化ですね」
「そうだ」
ヒトラーは濃灰のポルシェワーゲンを見た。
トラックではない。
荷車ではない。
木工所と同じ顔ではない。
事務所の名前を乗せて、都市と都市の間を走るもの。
彼は小さく言った。
「トラックではない顔が要る」
フランツは聞こえたが、聞き返さなかった。
ヒトラーは車体の側面を指で軽く叩いた。
「名前を運ぶなら、汚すな」
ブルクドルフが言った。
「走れば汚れます」
「だから洗う」
「やはり私が」
「運転する者が、車体を知る」
エルゼが静かに付け加えた。
「洗車道具は経費に入れます。ただし上限を決めます」
ゲッベルスが笑った。
シュタイナー親方は、車体をもう一度見て言った。
「小さいが、悪くない」
ヒトラーは少しだけ満足そうにした。
「分かればよい」
イングリッド・ベルナドッテは、濃灰の車を見て言った。
「これで次の展示も、少し早くなりますね」
ヒトラーは答えた。
「早くするためだけではない」
「では」
「正面を運ぶためだ」
ゲッベルスがすぐに言った。
「それを広告と」
「言うな」
冬のミュンヘンの通りに、濃灰のポルシェワーゲンが停まっていた。
一階に顔を持った事務所は、今度は走る顔を手に入れた。
その顔はまだ小さく、後席は狭く、荷物も多くは積めない。
だが、Adolf Hitler Entwurfsbüroの名を乗せて、これからミュンヘンの外へ出ていく。
ヒトラーはそれを見て、もう一度だけ言った。
「文字が少し低い」
エルゼは即座に答えた。
「修正費は出ません」
そして事務所の者たちは、寒い通りで少しだけ笑った。
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