第15話 古参と新人
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1931年冬
ミュンヘン
濃灰のポルシェワーゲンが納車されてから、Adolf Hitler Entwurfsbüroの前を通る者の足は、少しだけ遅くなった。
車そのものは大きくない。
むしろ小さい。
高級車のような堂々たる長い車体もなければ、商用トラックのような荷台もない。丸く、低く、どこか愛嬌すらある形をしていた。
だが、通りに停まっていると目に残った。
濃灰の車体。
控えめな側面文字。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
それを見て、通行人は一階の看板を見上げる。
看板を見て、窓の中の透視図を見る。
窓の中を見て、応接室の奥に見える図面棚を見る。
ヒトラーはそれを見て、少しだけ機嫌が良かった。
もちろん、機嫌が良いとは言わない。
「通行人の目線が低い」
彼は一階応接室の窓際で言った。
「車を見る。次に看板を見る。順序は悪くない。しかし、窓内の透視図へ入る角度が甘い」
エルゼは帳簿から顔を上げなかった。
「通行人は無料です」
「何だと」
「無料で見ている人の目線まで直し始めると、経費がかかります」
「外からの見え方は事務所の信用に関わる」
「では、信用費として上限を決めます」
ヒトラーは黙った。
帳簿に分類されると、だいたいの議論は弱くなる。
外ではブルクドルフがポルシェワーゲンを拭いていた。
納車から数日しか経っていないのに、車体にはすでに泥が跳ねていた。冬のミュンヘンの道で、車をきれいに保つのは簡単ではない。
ヒトラーは窓越しにそれを見ていた。
「布の使い方が粗い」
エルゼは言った。
「洗車用布の追加購入は認めません」
「まだ何も言っていない」
「顔が言いました」
「私の顔を読むな」
「ゲッベルスさんの真似です」
ヒトラーは不快そうにした。
その時、入口の鈴が鳴った。
入ってきた男を見て、フランツが最初に声を上げた。
「オットーさん」
男は古い帽子を取った。
少し背が丸くなっていた。
かつて現場で工具箱を抱え、布を張り、椅子を並べ、外注とやり合い、ヒトラーの怒号を浴びながら何とか会場を成立させていた男である。
オットーだった。
今はもう、事務所の現場には出ていない。
腰を痛めたこともあり、重い搬入や撤収は若い者に任せていた。郊外で小さな修理仕事や看板補修を引き受け、時々、古い知人の店を直していると聞いていた。
それでも、目だけは以前とあまり変わっていなかった。
部屋を見る目。
床を見る目。
工具の置き場所を見る目。
そして、所長の機嫌を測る目。
オットーは一階応接室を見回した。
「二階の小屋が、ずいぶん立派な顔を持ったな」
ヒトラーは即座に言った。
「小屋ではない。事務所だ」
「昔は小屋みたいだった」
「昔から事務所だ」
「昔の事務所は、客が布地見本の箱に座っていた」
エルゼが淡々と言った。
「それは事実です」
ヒトラーは不満そうにしたが、反論しなかった。
オットーは窓の外を見た。
濃灰のポルシェワーゲンが停まっている。
ブルクドルフが布を手にして、車体側面を拭いていた。
「車まで持ったのか」
「業務上必要になった」
ヒトラーは答えた。
「所長が運転するのか」
「私は現場を見る」
「つまり乗せてもらうのか」
「効率化だ」
オットーは笑った。
「便利な言葉を覚えたな」
「覚えたのではない。正しいから使っている」
オットーは車へ近づき、側面の文字を見た。
「悪くない」
ヒトラーは少しだけ顎を上げた。
「当然だ」
「少し低いが」
ヒトラーは目を細めた。
「分かるか」
「所長が言いそうなだけだ」
フランツは思わず笑いかけた。
ヒトラーは咳払いした。
ブルクドルフが車体を拭く手を止めた。
「オットーさん、お久しぶりです」
「おう。お前が今は現場を回してるのか」
「回しているというか、回されているというか」
「同じだ」
オットーはポルシェワーゲンを一周した。
「小さいな」
ヒトラーが低い声で言った。
「それはもう聞き飽きた」
「小さいが、顔はある」
その言葉には、少しだけ重みがあった。
ヒトラーは黙った。
オットーは一階へ戻り、応接卓の前に立った。
「本当に変わったな」
フランツが椅子を勧めた。
「お座りになりますか」
「座ると立つのが面倒だ」
オットーはそう言ったが、結局座った。
エルゼが茶を出した。
「珍しいな」
「元所員ですから」
「元、か」
「現場は退かれました」
「まあな」
オットーは茶を受け取り、応接室の壁に掛かった図面を見た。
退役軍人会。
映画館。
ベルナドッテ商会。
ポルシェワーゲンの車体文字案。
「仕事が増えたな」
ヒトラーは言った。
「増えすぎだ」
「所員も増えた」
「増えすぎだ」
「所長の小言も増えたか」
「それは必要な指示だ」
オットーは笑った。
その時、二階からクレープスが下りてきた。
手には車内積載案の紙を持っている。
「所長、ポルシェワーゲンの図面筒配置ですが」
オットーはその男を見た。
「クレープスか」
クレープスは軽く会釈した。
「お久しぶりです」
「まだ線は細いか」
「必要な線だけです」
「言うようになったな」
続いてヨードルが工程表を抱えて下りてきた。
「来週のアウクスブルク下見ですが、車両使用前提で組み替えました」
オットーは工程表の束を見て言った。
「相変わらず紙が多い」
ヨードルは真面目に答えた。
「減らすと現場で増えます」
「それはそうだ」
カイテルも書類を持って現れた。
「販売店から整備確認の返答が来ました」
オットーは彼を見て頷いた。
「お前は相変わらず丁寧そうだ」
カイテルは少し困ったように笑った。
「丁寧にしないと、電話を切られます」
ブルクドルフが外から戻ってきた。
「車体は拭きました。まだ下回りは泥が残ってます」
オットーはブルクドルフを見た。
「お前が一番変わったな」
「そうですか」
「昔は怒鳴る前に手が出そうだった」
「今は」
「怒鳴ってから手が出そうだ」
ブルクドルフは笑った。
ヒトラーは不満そうに言った。
「現場で無駄に怒鳴るな」
ブルクドルフが即座に返す。
「所長がそれを言いますか」
応接室に少しだけ笑いが起きた。
ヒトラーだけが笑わなかった。
だが、怒りもしなかった。
オットーは四人を順に見た。
クレープス。
ヨードル。
カイテル。
ブルクドルフ。
そして、少し離れて立つフランツ。
「もう回してるな」
ヒトラーは腕を組んだ。
「まだ粗い」
「粗くても回してる」
「粗さを認めるな」
「昔なら、所長が怒鳴って、俺が走って、フランツが紙を抱えて迷子になってた」
フランツが抗議した。
「迷子にはなっていません」
オットーは彼を見て言った。
「半分な」
「半分もなってません」
「三分の一か」
「なってません」
ヒトラーは四人組を見た。
「クレープスは線を見る。ヨードルは時間を見る。カイテルは相手を見る。ブルクドルフは人を動かす」
オットーは頷いた。
「なら、もう俺の出番は少ない」
ヒトラーはすぐに言った。
「誰もそうは言っていない」
「言わなくても分かる」
「現場は経験が要る」
「だから渡すんだ」
オットーは椅子の横に置いていた古い工具鞄を持ち上げた。
黒ずんだ革の鞄だった。
角は擦れ、持ち手は何度も修理されている。
彼はそれをブルクドルフへ差し出した。
「釘抜きと古い墨壺、それに細かい金具が少し入ってる。大したものじゃない」
ブルクドルフは戸惑った。
「いいんですか」
「現場で誰かが『それはないのか』と言った時に出せるものがあると、少し偉そうにできる」
ヒトラーが横から言った。
「工具で偉そうにするな。仕事で示せ」
オットーはすぐに返した。
「所長は赤鉛筆でずっと偉そうにしてきたじゃないか」
ヒトラーは黙った。
エルゼが茶を飲む手を止め、少しだけ口元を動かした。
フランツは下を向いて笑いをこらえた。
ブルクドルフは工具鞄を受け取った。
「ありがとうございます」
「落とすなよ」
「はい」
「それから、所長が無理を言った時は、すぐ無理と言え」
ブルクドルフはヒトラーをちらりと見た。
「もう言っています」
「ならいい」
ヒトラーは不満げだった。
だが、何も言わなかった。
その沈黙は、少しだけ別れの承認に似ていた。
しばらくして、入口の鈴がまた鳴った。
今度入ってきたのは、若い女性だった。
濃い色のコートを着て、帽子をきちんとかぶっている。手には封筒と、新聞の小さな切り抜きがあった。少し緊張しているが、背筋はまっすぐだった。
「失礼いたします」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「求人を拝見して参りました。受付兼清書係の件で」
ヒトラーは眉を寄せた。
「求人?」
エルゼは当然のように答えた。
「出しました」
「誰が」
「私が」
「なぜ」
「必要だからです」
ヒトラーは少しだけ、本気で驚いた顔をした。
「まさか、君まで辞めるのか」
エルゼは帳簿を閉じた。
「辞めません」
「ではなぜ秘書が要る」
「前から所長がおっしゃっていたでしょう。一階受付と来客記録、それに私の帳簿と契約を手伝ってくれる者が必要だと」
ヒトラーは眉間にしわを寄せた。
「私はそんなことを言ったか」
フランツが小声で言った。
「言いました」
ヨードルが工程表を見ながら言った。
「少なくとも3回」
クレープスが言った。
「私が聞いたのは2回です」
カイテルが言った。
「ベルナドッテ商会の初回面談後にもおっしゃいました」
ブルクドルフが工具鞄を抱えながら言った。
「車の書類の時にも言ってました」
ヒトラーは全員を見回した。
「皆で数えるな」
エルゼは若い女性に向き直った。
「お名前は」
「クララ・ユンゲと申します」
彼女は封筒を差し出した。
「清書、電話応対、受付簿の管理、簡単な帳簿補助の経験があります。以前は小さな商社で事務をしておりました」
エルゼは書類を受け取り、すぐに目を通した。
「字はきれいですね」
「ありがとうございます」
ヒトラーは少し警戒したようにユンゲを見た。
「受付とは、ただ客に挨拶する仕事ではない」
ユンゲは真面目に頷いた。
「はい」
「客は入口で整えねばならん」
エルゼが横から言った。
「受付です」
ヒトラーは構わず続けた。
「客は通りから入ってくる。通りの騒がしさを持ち込む。帽子を脱がず、用件を曖昧にし、二階へ勝手に上がろうとする。そういう者を一階で止める」
ユンゲは少しも笑わなかった。
「まず一階で用件を伺い、必要な方だけ二階へお通しするのですね」
ヒトラーは一瞬、表情を変えた。
「そうだ」
「お客様が応接卓に座った時、最初に見える図面はどれにすべきでしょうか」
ヒトラーは明らかに興味を持った。
「それは客による」
エルゼがすぐに言った。
「ユンゲさん、初日から全部聞いていると仕事が終わりません」
ユンゲは少し困ったようにしながらも、丁寧に答えた。
「はい。ただ、お客様によって見せる図面を変えるというのは、受付にも関係すると思いました」
ヒトラーは頷いた。
「君は見ている」
エルゼは帳簿を持ち上げた。
「見ているなら、まず受付簿です」
ユンゲは少しだけ笑った。
「はい」
オットーはそのやり取りを見て、面白そうにしていた。
「所長の話を真面目に聞く若いのが来たか」
ヒトラーはむっとした。
「私の話は真面目に聞く価値がある」
オットーは言った。
「ときどきな」
「常にだ」
「常には長い」
ゲッベルスがいれば喜びそうなやり取りだったが、幸いその場にはいなかった。
エルゼはユンゲの書類を見終えた。
「試用期間を設けます。受付、清書、電話応対、来客記録、見本棚管理、帳簿補助。契約書の扱いは私の指示を受けてください」
ユンゲは姿勢を正した。
「承知しました」
ヒトラーが言った。
「帳簿だけではなく、意匠の言葉も覚えろ」
エルゼが即座に言う。
「帳簿を先に覚えてください」
「意匠を知らぬ受付では、客を通せん」
「帳簿を知らぬ受付では、未払い客を通します」
ヒトラーは少し黙った。
「帳簿も覚えろ」
ユンゲは真面目に頷いた。
「両方覚えます」
フランツは、それが一番危ない返事だと思った。
両方覚えるということは、エルゼにも所長にも仕事を振られるということだからだ。
オットーは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、俺はそろそろ行く」
フランツが言った。
「もうですか」
「長くいると、また何か持たされる」
ブルクドルフは工具鞄を抱えて頭を下げた。
「大事に使います」
「使え。飾るな」
シュタイナー親方の言いそうな言葉だった。
オットーは入口へ向かった。
ユンゲが脇へ寄って道を空ける。
オットーは彼女に言った。
「所長の話は長い」
ユンゲは真面目に答えた。
「はい」
「だが、ときどき役に立つ」
「必要なところを書き留めます」
オットーは笑った。
「全部書くと、帳簿より厚くなるぞ」
ヒトラーが言った。
「私の話は無駄ではない」
エルゼが答えた。
「無駄な部分は清書しないでください」
ユンゲは少しだけ笑った。
ヒトラーは不満そうにしたが、どこか機嫌は悪くなさそうだった。
オットーは外に出た。
濃灰のポルシェワーゲンの前で一度立ち止まり、車体を軽く叩いた。
「いい顔だ」
ヒトラーがすぐに言った。
「叩くな。車体に響く」
「昔の所長なら、車なんか要らんと言った」
「今も要らん。必要なだけだ」
「そういうことにしとく」
オットーは帽子をかぶり直し、寒い通りへ歩いていった。
その背中は以前より少し小さく見えた。
だが、歩き方はまだ現場の人間のものだった。
フランツはしばらくその背中を見ていた。
小さな二階事務所の頃、オットーはいつも現場にいた。
所長が怒鳴り、エルゼが帳簿を閉じ、フランツが図面を抱えて走り、オットーが工具箱を持って黙って帳尻を合わせる。
あの頃の事務所は、もうない。
今は一階に顔があり、二階に製図室があり、濃灰の車があり、クレープスが線を見て、ヨードルが時間を見て、カイテルが相手を見て、ブルクドルフが人を動かす。
そして今日、ユンゲが来た。
古い現場の手が退き、新しい受付の声が入ってきた。
「フランツ」
ヒトラーの声で、彼は振り返った。
「はい」
「応接卓の椅子が低い」
エルゼがすぐに言った。
「買い替えません」
「まだ何も言っていない」
「顔が言いました」
ユンゲが椅子を見た。
「お客様が座ると、見本棚の上段が少し見えにくいかもしれません」
ヒトラーは彼女を見た。
「そうだ。座った時に、まず何が目に入るかが重要だ」
ユンゲは真面目に尋ねた。
「では、最初に見えるべきものは、素材見本でしょうか。それとも過去案件の透視図でしょうか」
ヒトラーは赤鉛筆を取った。
「客による。退役軍人会なら式典透視図。商工会なら展示会図。家具商会なら棚と布。映画館なら掲示枠。受付とは、客を見て、どの正面へ案内するかを決める仕事だ」
エルゼが言った。
「まず受付簿です」
ユンゲは少し慌てて受付簿を開いた。
「はい」
ヒトラーはまだ話し足りなさそうだった。
フランツは、これからユンゲがどれだけ所長の話を聞かされるのか考え、少しだけ同情した。
しかし同時に、彼女はただ聞くだけではないだろうとも思った。
エルゼのように止めるのではなく、フランツのように驚くのでもなく、クレープスのように線へ落とすのでもない。
ユンゲは、まず聞く。
聞いたうえで、必要なところだけを書き留める。
それはこの事務所に、たぶん必要な役割だった。
外では、オットーの背中が通りの角を曲がって消えた。
一階応接室には、新しい受付簿が開かれていた。
濃灰のポルシェワーゲンは、冬の光の中で静かに停まっている。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
その文字は、まだ少し低い。
ヒトラーはそう思っていた。
だが今日だけは、そこへ赤鉛筆を入れようとはしなかった。
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