富士学校の90式
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
文明崩壊後の世界を90式戦車に乗って見に行こう
本文
年上の陸自隊員は、90式の車体番号といくつかの表示を確認しながら、手元のメモに書き込んでいた。
「……やはり富士学校の車両ですね」
その言葉に、シオナが顔を上げた。
「富士学校?」
「静岡にある陸自の学校です。戦車や装甲車両の教育・研究に関わるところですね。第7師団の実戦部隊の車両ではありません」
サヤが90式を見上げた。
「学校の戦車だったんだ」
「学校の、と言っても本物です。ただ、運用の位置づけが違う。これがどうして東京にいたかは、災害派遣絡みの移動中だった可能性が高いでしょう」
別の隊員が車体後部をのぞき込みながら言った。
「エンジン回りに消音装備があります。完全に静かになるわけではありませんが、通常より音を抑えるためのものですね」
シオナは少し驚いた。
「だから、思っていたより音が小さかったんですね」
「ええ。普通の90式が街中を動けば、もっと響きます。あなた方が都内や市街地を通ってこられたのは、速度を出さなかったことと、この消音装備のおかげもあると思います」
若い隊員が車体側面の点検口を確認し、年上の隊員へ声をかけた。
「予備弾薬庫、空です」
「了解。砲塔側は」
「こちらも空です。砲弾なし。同軸機銃にも装填なし。弾帯もありません」
その報告を聞いて、シオナは無意識に息を吐いていた。
分かっていたはずだった。
自分たちは、撃つために90式を動かしていたわけではない。砲弾もない。車載機銃もない。武装として使う状態ではない。
それでも、改めて専門の隊員の口から確認されると、胸の奥に残っていた硬いものが少しほどけた。
年上の隊員はうなずいた。
「砲塔だけでなく、車体側の予備弾薬庫も空。同軸機銃も装填なし。完全に、戦闘を想定した積載状態ではありません」
サヤが少し安心したように言った。
「よかった。いや、最初から撃てないって聞いてたけど、なんか改めて言われると」
「大事な確認です」
隊員はそう言って、今度はシオナが最初に見つけた簡易マニュアルを手に取った。
「これが、あなたが読んだというマニュアルですか」
「はい。最初はそれしかなくて」
シオナは少し恥ずかしそうに答えた。
「本当に最低限のことしか分かりませんでした。始動、計器、止め方、動かす時の注意くらいで」
隊員はページをめくり、しばらく黙って読んだ。
やがて、隣の隊員に見せる。
「これは実運用のための操縦教本じゃありませんね」
「ですよね」
「災害派遣現場で、経験のない隊員でも、車両を駐車位置から少し動かすとか、邪魔にならない場所へ移すとか、その程度のことができるように作った簡易手順です」
シオナは目を瞬かせた。
「じゃあ、私がやってたことって」
「本来は、長距離を走るためのものではありません」
隊員ははっきり言った。
けれど、その声に責める響きはなかった。
「ただ、あなたはそれを読み違えなかった。速度を出さず、無理に砲塔も動かさず、車体の反応を見ながら走らせた。だからここまで来られたんでしょう」
シオナは返事に詰まった。
サヤが横から言った。
「シオナ、ずっと怖がってましたから」
「サヤ」
「でも本当じゃん。橋も料金所も市街地も、毎回止まるくらい慎重だったし」
年上の隊員は少し笑った。
「怖がるのは悪いことではありません。こういう車両を怖がらずに動かす方が危ない」
若い隊員が、90式の砲塔付近を見上げた。
「ただ、気になるのは砲塔ですね」
シオナがそちらを見た。
「砲塔ですか」
「はい。あなた方は、ここまで一度も砲塔を動かしていないんですよね」
「はい。動かす理由がなかったので」
「それ自体は正解です。ただ、長期間動かしていないとなると、電動機や旋回リングの状態が気になります。固着していないか、確認はしたいところです」
サヤが少し身構える。
「それって、危ないんですか」
「今すぐ車体が走れなくなる話ではありません。砲塔を戦闘用に使うわけでもない。ただ、車両としての状態把握には必要です」
別の隊員が足回りを見ながら言った。
「車体側はかなりいいです。一度、神町で履帯を外して見てもらっていますね」
「はい。葛西曹長に」
シオナが答える。
「その整備は大きいです。履帯、転輪、足回りはよく見られています。秋田でも確認を受けていますし、ここまでの走り方も無理がない。車体としては、簡易診断では万全と言っていいでしょう」
「万全……」
シオナが小さく繰り返した。
自分がずっと不安を抱えて見ていた計器。
止まるたびに確かめた車体。
橋を渡る前に何度も迷った重さ。
雪道でゆっくり動かした履帯。
それらが、別の人の目で見ても「保っている」と言われた。
それだけで、少し救われた気がした。
サヤは90式の前に立って、満足そうに腕を組んだ。
「やっぱりこの子、頑張ったんだよ」
ミズホもうなずいた。
「シオナもね」
シオナは苦笑した。
「私はただ、止まらないでって思ってただけ」
年上の隊員は、90式の車体を軽く叩いた。
「車両は、雑に扱う人間には応えません。ここまで来たのは、この90式が丈夫だったからだけではありません。あなたが無理をさせなかったからです」
その言葉に、シオナは少しだけ目を伏せた。
褒められるのは、まだ慣れなかった。
若い隊員は簡易マニュアルをもう一度見て、感心したように言った。
「でも、これで東京から大湊まで来るのは、やっぱり普通じゃないですよ」
サヤがすかさず言う。
「普通だったら終末後に戦車で温泉巡りしませんから」
ミズホが訂正する。
「温泉巡りじゃなくて、生存行動」
「結果的に温泉多めだっただけ」
「そこは否定しない」
陸自隊員たちの間に、低い笑いが広がった。
格納庫の空気が、少しだけ柔らかくなる。
年上の隊員は、簡易マニュアルを閉じてシオナに返した。
「これは、あなたが持っていてください。大湊でも写しは取れますが、原本はこの車両と一緒に旅をしてきたものです」
シオナは両手で受け取った。
ミズホの記録ノートほどではない。
でも、この薄いマニュアルも、自分にとっては同じくらい重いものだった。
最初の夜、何も分からないまま開いたページ。
意味の分からない言葉を、何度も読み返した文字。
動いてくれと祈るように見た手順。
それが、今もここにある。
シオナはマニュアルを胸の前で抱えた。
「ありがとうございます」
隊員はうなずいた。
「こちらこそ。よく運んできてくれました」
格納庫の中で、90式は静かに休んでいた。
砲弾もなく、銃弾もなく、砲塔も動かされず、ただ道を進むためだけに使われた車両。
それでも、東京から大湊まで、三人を運んできた。
戦うためではなく、つなぐために。
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