第18話 博士と所長
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1932年秋
ミュンヘン
ヒムラーが持ち込んだ厄介な書類は、結局、仕事になった。
ポルシェワーゲン販売展示室
南ドイツ地区モデル店舗計画
エルゼは最後まで「契約前」と言い続けた。
ヒトラーは最後まで「受けるとは言っていない」と言い続けた。
ゲッベルスは最後まで勝手に広告文案を考え続けた。
ヒムラーは最後まで「予備提案です」と言い続けた。
そして数週間後、応接卓の上には正式な契約書が置かれた。
エルゼは署名欄を確認し、支払い条件を確認し、前金の入金予定を確認し、最後にヒトラーの前へ書類を置いた。
「正式契約です」
ヒトラーは書類を見た。
「販売店には正面がない」
「契約書にはあります」
「何がだ」
「署名欄です」
ヒトラーは不満そうにペンを取った。
「事務所機能の拡張だ」
「今回は販売展示室の意匠契約です」
「分かっている」
「では、そこに署名してください」
ヒトラーは署名した。
Adolf Hitler
エルゼはそれを見届けて、すぐに書類を引き取った。
「これで正式に仕事です」
ゲッベルスが横から言った。
「広告文案も正式に」
「別契約です」
エルゼは一言で止めた。
ヒムラーは、まるで最初からそうなることを知っていたような顔で頷いた。
「では、現地確認に移れます」
ヒトラーは彼を睨んだ。
「まだ君の指示ではない」
「もちろんです。工程上の確認です」
ヨードルが工程表を広げた。
「販売店予定地、技術展示室、既存代理店、周辺道路、整備工場。この順で確認します。昼食は途中で取ります」
ブルクドルフが言った。
「ポルシェワーゲンで行くんですか」
「当然だ」
ヒトラーは言った。
「ポルシェワーゲンの販売店を見に行くのに、トラックで行く者があるか」
フランツは少しだけ笑いそうになった。
ポルシェワーゲンを買う前の所長なら、自動車など商人の見栄だと言っていた。
今では、その車で販売店予定地へ向かうのが当然になっていた。
ただし、ヒトラーはまだ言い張っていた。
「必要だから使っているだけだ」
誰も反論しなかった。
反論しなくても、皆分かっていた。
翌朝、濃灰のポルシェワーゲンは一階事務所の前に停まっていた。
車体はブルクドルフが前日に磨いていた。
冬ほどではないが、秋の湿った空気が車体に薄い冷たさを残していた。
ヒトラーは側面の文字を見た。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
「まだ少し低い」
エルゼは入口から言った。
「修正費は出ません」
「毎回言わんでよい」
「毎回おっしゃるので」
ユンゲは手帳と受付簿の写しを鞄に入れていた。
今回、彼女も同行する。
販売展示室には受付が必要になる。
試乗予約、ローン相談、部品問い合わせ、整備受付、納期確認。
そのすべてを、客が最初に持ち込む場所がどこになるのか見る必要があった。
エルゼは出発前にユンゲへ言った。
「所長の言葉を全部記録しないように」
「はい」
「ヒムラーさんの表も、全部信じないように」
「はい」
「ゲッベルスさんの広告文案は、契約後です」
「はい」
「ポルシェ側の説明は、数字と条件を確認してください」
「はい」
ヒトラーが横から言った。
「私の説明も聞け」
エルゼは言った。
「必要なところだけです」
ユンゲは少し困ったように微笑んだ。
「必要なところを逃さないように聞きます」
ヒトラーは満足そうだった。
「よろしい」
ブルクドルフが運転席に乗り、ヒトラーは助手席へ座った。
後席にフランツとユンゲ。
図面筒と小型見本箱は足元に押し込まれた。
相変わらず狭い。
ブルクドルフはハンドルを握りながら言った。
「何度乗っても狭いですね」
ヒトラーは即座に返した。
「狭いと思う者は、積むものを減らせ」
「人間は減らせません」
「姿勢を整えろ」
「車内でまで姿勢ですか」
「車内だからこそだ」
ポルシェワーゲンは、ゆっくりとミュンヘンの通りへ出た。
販売店予定地は、市内の自動車販売店が集まり始めている通りに面していた。
だが、午前中にそこへ行く前に、一行は予定通り食堂へ寄ることになった。
ヨードルの工程では、昼食は短く、しかし省略しないことになっていた。
「食事を抜くと、午後の現地確認で判断が粗くなります」
ヨードルはそう言った。
ヒトラーはそれを聞いて、
「工程表に昼食まで入れるな」
と文句を言ったが、結局従った。
食堂は、商工会館近くの小さな店だった。
木の扉を開けると、温かい空気と、煮込みの匂いが出てきた。
湯気。
油。
酢漬けのキャベツ。
黒パン。
焼いたソーセージの脂。
石炭ストーブの少し焦げた匂い。
外の湿った空気から入ると、その匂いは一度に身体へまとわりついた。
ブルクドルフはすぐに顔を明るくした。
「いい匂いですね」
ヒトラーは顔をしかめた。
「脂が強い」
「食堂ですから」
「車に匂いが残る」
「まだ食べてません」
「食べた者が乗る」
「そこまで言いますか」
フランツはメニューを見た。
肉料理が多かった。
ソーセージ。
豚肉の煮込み。
レバー団子入りスープ。
じゃがいも。
キャベツ。
黒パン。
安く腹を満たすには、そういうものが一番だった。
不況の中では、外で食事をするだけでもまだ余裕のある方だった。
店の隅には、パンとスープだけで済ませている男もいる。
別の席では、二人で一皿の煮込みを分けていた。
ユンゲはそれを静かに見ていた。
ヒトラーは席につくと、店員に言った。
「野菜スープ。卵。黒パン。肉は要らん」
ブルクドルフは小声でフランツに言った。
「私はソーセージを」
ヒトラーは聞こえていた。
「車内で脂の匂いを残すな」
ブルクドルフは少し悩んだ。
「では、ここで食べきります」
「服に残る」
「では何を食べろと」
エルゼがいれば、食費精算の項目に戻しただろう。
ユンゲが助け舟を出すように言った。
「じゃがいもとスープなら、匂いは残りにくいかもしれません」
ブルクドルフは少し悲しそうにした。
「そうですね」
結局、ブルクドルフは煮込みを諦め、じゃがいもとスープを頼んだ。
フランツはレバー団子入りスープを頼もうとして、一瞬ヒトラーの顔を見た。
ヒトラーは新聞を読んでいるふりをしていた。
フランツは小さく咳払いし、普通のスープにした。
運ばれてきた野菜スープは、湯気が立っていた。
にんじん、玉ねぎ、じゃがいも。
塩気は強い。
だが冷えた身体にはありがたかった。
ヒトラーは一口飲んだ。
そして眉を寄せた。
「塩が前に出すぎている」
ブルクドルフは黒パンをちぎりながら言った。
「スープにも前後があるんですか」
「ある」
ヒトラーはスプーンを置いた。
「最初に塩だけが立つ料理は、入口に看板だけ立てた会場と同じだ」
ユンゲは手帳を開きかけた。
ヒトラーは見た。
「それは書かなくてよい」
ユンゲは少し迷ってから、手帳を閉じた。
「受付には関係が薄いと思いました」
「判断が早くなったな」
「ありがとうございます」
フランツはスープを飲んだ。
確かに塩は強かった。
だが、悪くはない。
寒い日なら、このくらいの塩気の方が身体に残る。
不況の食堂で、客が求めるのは繊細な味ではなく、午後まで働ける温かさなのだろう。
店の奥では、労働者風の男たちが安いパンをかじっていた。
小さなラジオからは、ベルリン大会準備委員会の話題と、失業対策の道路工事の話が聞こえてくる。
共和国は弱っていた。
だが食堂の鍋は煮えている。
道路は造られている。
車は売られようとしている。
人々は少しでも安く腹を満たし、午後の仕事へ戻っていく。
ヒトラーはゆで卵の殻をむきながら言った。
「食堂にも正面が要る」
ブルクドルフはじゃがいもを潰しながら言った。
「食堂は腹が満ちればいいんじゃないですか」
「そういう店は長く残らん」
「腹が満ちれば客は来ます」
「客は腹を満たしに来る。だが、また来る理由はそれだけではない」
ユンゲは今度は手帳を開いた。
「また来る理由」
ヒトラーは卵に塩を少しだけ振った。
「入口の明るさ。席の向き。湯気の見え方。客が皿を受け取る順序。最初に匂うもの。最後に残る味」
フランツは思った。
所長は本当に、何でも会場にしてしまう。
食堂を出る頃には、ブルクドルフが少し不満げだった。
「やっぱりソーセージにすればよかった」
ヒトラーは言った。
「車が臭くならずに済んだ」
「私の気分は少し悪くなりました」
「それは食事の選択を誤ったからだ」
「所長が止めたんです」
ポルシェワーゲンに戻ると、車内は外の冷気で少し冷えていた。
座席からは、革と油と金属の匂いがした。
新車の匂いはまだ消えていない。
そこへ食堂の湯気と黒パンの匂いが、服についたまま少しだけ入り込む。
ヒトラーは車内で一度鼻を動かした。
「ソーセージを食べていたら、ここで分かった」
ブルクドルフは黙ってエンジンをかけた。
販売店予定地は、思ったより間口が狭かった。
通りに面してはいる。
しかし奥行きが取りにくい。
入口の位置も悪い。
隣の店が派手な看板を出しているため、こちらの正面が負ける。
ヒトラーは予定地の前に立って、すぐに言った。
「車を真正面に置くな」
ポルシェ側の販売担当者は戸惑った。
「入口から車が見えた方がよいのでは」
「見えるだけでは駄目だ。そこで目が止まる。止まった目は奥へ行かない」
クレープスは同行していなかったが、ヒトラーは彼がいれば測らせただろう場所を自分で見ていた。
「斜めだ」
フランツが図面を広げる。
「入口に対してですか」
「そうだ。側面を見せる。丸みを見せる。正面から置けば、丸いだけだ。斜めに置けば、流れが見える」
ユンゲは予定地の入口に立った。
客として入るなら、どこを見るか。
車。
色見本。
ローン相談の机。
整備受付。
部品棚。
多すぎる。
「お客様は、最初に何を尋ねるでしょうか」
販売担当者は答えた。
「価格でしょう」
ヒトラーは首を振った。
「違う」
ユンゲは少し考えた。
「自分に必要かどうか、でしょうか」
ヒトラーは彼女を見た。
「そうだ」
販売担当者は驚いた顔をした。
ヒトラーは続けた。
「価格はその後だ。最初に金の話を見せるな。客は買えるかどうかの前に、自分がこの車に乗る人間かどうかを考える」
ユンゲは手帳に書いた。
価格の前に、自分の車かどうか。
ヒトラーは予定地の奥を見た。
「受付は入口から少し奥だ。客をすぐ椅子に座らせるな。車を見て、色を見て、用途を聞かれてから座る」
販売担当者はしきりに頷いた。
そして午後、一行は技術展示室へ向かった。
そこは販売店予定地よりも整っていた。
壁にはポルシェワーゲンの構造図。
エンジン部品。
車体断面。
座席の骨組み。
タイヤ。
塗装見本。
小さな模型。
金属と油の匂いがした。
食堂の湯気とは違う。
冷たく、乾いていて、どこか正確な匂いだった。
ヒトラーは展示室に入ると、すぐに車体断面図の前で足を止めた。
「後席が狭い理由はここか」
販売担当者が説明しようとした時、奥から別の男が歩いてきた。
年配の技術者だった。
丸みのある顔。
白髪まじりの髪。
眼差しは穏やかだが、こちらを見る目は鋭い。
販売担当者が姿勢を正した。
「ポルシェ博士」
フランツは思わずヒトラーを見た。
ヒトラーも少しだけ背筋を伸ばした。
フェルディナント・ポルシェ博士は、展示室の車体断面図とヒトラーを交互に見た。
「後席が狭い、という話でしたかな」
ヒトラーは言った。
「狭い」
販売担当者が少し慌てたが、ポルシェ博士は笑った。
「よく言われます」
「小ささを理由に、客を畳むな」
ポルシェ博士は車体図を指した。
「畳んでいるのではありません。必要な寸法を残しているのです」
「必要な寸法と、納得できる寸法は違う」
ポルシェ博士は、その言葉に少しだけ興味を示した。
「なるほど。あなたは車を売る側の方ではない」
「会場を作る側だ」
「では、納得できる寸法を、どう見せますか」
ヒトラーは断面図を見た。
「まず、客に後席から見せるな」
ポルシェ博士は笑った。
「それは販売側には厳しい」
「狭さは隠せん。だが順序は変えられる」
ヒトラーは展示車の前に立った。
「最初に見るべきは、車体の外だ。丸み。小ささ。扱いやすさ。次に運転席。そこから見える前方。後席は最後だ。客が車の用途を理解してから座れば、狭さは小ささの一部になる。最初に座れば、ただ狭いだけだ」
ポルシェ博士は腕を組んだ。
「面白い」
ヒトラーは少しだけ顎を上げた。
「当然だ」
フランツは、そこで少し安心した。
二人はすぐに喧嘩をするかと思ったが、どうやら別の方向へ行きそうだった。
ポルシェ博士は、展示車の扉を開けた。
「では、運転席を見ていただきたい」
ヒトラーは乗り込まなかった。
まず扉の音を聞いた。
軽い音だった。
「扉の音が軽い」
ポルシェ博士は頷いた。
「軽く作っています」
「軽さを音で言い訳するな」
「重くすれば燃費に響きます」
「燃費を理由に品位を落とすな」
「品位で坂は登れません」
ブルクドルフが後ろで小さく笑った。
ヒトラーは振り返って睨んだ。
ポルシェ博士も少し笑っていた。
「あなたは、車の顔を見る」
「あなたは、車の足を見る」
「走らなければ車ではありません」
「見られなければ売れん」
「その通りです」
二人はしばらく車体の前で話し込んだ。
曲線。
重心。
乗り降り。
ドアの開き。
後席への入り方。
荷物の積み方。
車体色。
販売店での置き方。
試乗前に何を説明するか。
ポルシェ博士は、走るための理由を語った。
ヒトラーは、見せるための順序を語った。
どちらも、相手の領分へ踏み込みすぎるとすぐに言い返した。
だが、二人とも話をやめなかった。
途中、ポルシェ側の事務員がコーヒーを運んできた。
白いカップ。
小さな砂糖皿。
湯気。
ヒトラーは一口飲んだ。
少しだけ目を動かした。
「まろやかだ」
ユンゲは驚いた。
「所長がコーヒーを褒めるのは珍しいですね」
ポルシェ博士はカップを持ったまま尋ねた。
「普段のコーヒーは違いますかな」
ヒトラーは答えた。
「エルゼのコーヒーは帳簿の味がする」
ポルシェ博士は眉を上げた。
「帳簿の味?」
「苦く、逃げ場がなく、飲み終わるまで責任を取らされる」
ユンゲは笑いをこらえた。
フランツは下を向いた。
ブルクドルフははっきり笑った。
ポルシェ博士も少し笑った。
「それはそれで、よいコーヒーかもしれませんな」
「仕事には必要だ」
ヒトラーはもう一口飲んだ。
「だが客には出すな」
ポルシェ博士はカップを見た。
「販売店のコーヒーにも設計が要りますか」
「要る」
ヒトラーは即答した。
「客は車を見る前に、椅子に座ることがある。最初に口へ入るものが苦すぎれば、車まで硬く見える。甘すぎれば軽く見える。まろやかなら、話が始まる」
ユンゲは手帳に書いた。
販売店のコーヒー
苦すぎず、甘すぎず
話が始まる味
ポルシェ博士は興味深そうにそれを見た。
「あなたの事務所では、受付の方もそこまで記録するのですか」
ヒトラーは言った。
「必要なところだけだ」
ユンゲは小さく頷いた。
「必要だと思いました」
ポルシェ博士は笑った。
「よい事務所ですな」
ヒトラーはすぐに言った。
「まだ粗い」
フランツは思った。
所長にとって、それはかなり高い評価だった。
コーヒーの後、話はさらに具体的になった。
販売展示室では、車体を真正面に置かない。
斜めに置き、側面の丸みを見せる。
後席の狭さは、最初に見せず、用途説明の後に触れる。
ローン相談は入口から見えすぎない位置。
整備受付は奥だが、隠しすぎない。
部品棚はヒムラーの番号表に従うが、客に番号を押しつけない。
受付は、試乗予約と用件確認を分ける。
コーヒーは、エルゼのように苦くしない。
最後の項目をヒトラーが言うと、ユンゲは困った顔をした。
「それは書いてよろしいのでしょうか」
「書くな」
ポルシェ博士は愉快そうに笑った。
夕方、展示室を出る時、ポルシェ博士はヒトラーと並んでポルシェワーゲンを見た。
「私は、車が無理なく走る形を考えます」
ヒトラーは言った。
「私は、客が無理なく納得する正面を考える」
ポルシェ博士は車体の丸い屋根を見た。
「では、この車にはまだ正面が足りませんか」
ヒトラーは首を振った。
「車にはある」
そして、販売店予定地の方角を見た。
「売る場所にない」
ポルシェ博士はゆっくり頷いた。
「なら、お願いする価値がありそうです」
ヒトラーは答えなかった。
その代わり、帽子を少し直した。
フランツには分かった。
かなり機嫌が良い。
帰りのポルシェワーゲンの中は、少しコーヒーの香りが残っていた。
食堂の塩気。
黒パン。
革と油。
技術展示室の金属の匂い。
まろやかなコーヒー。
一日の匂いが、狭い車内に少しずつ混ざっていた。
ブルクドルフは運転しながら言った。
「博士とは、ずいぶん話が合いましたね」
ヒトラーは窓の外を見ていた。
「合ったのではない。領分が違っただけだ」
フランツが言った。
「違うから話せたんですか」
「同じものを別の側から見ているなら、話はできる」
ユンゲは手帳を閉じた。
「車には正面がある。売る場所にない」
ヒトラーは後ろを見た。
「それは書いてよい」
「はい」
ポルシェワーゲンは夕方の道をミュンヘンへ戻っていった。
道の先には、まだ騒がしい共和国の街がある。
壁にはビラが貼られ、食堂では鍋が煮え、販売店では車が売られ、技術者は図面を引いている。
その中で、意匠事務所の所長は、丸い小型車の売り場に正面を作ろうとしていた。
そしてその日の記録には、ユンゲの字でこう残された。
ポルシェ博士
技術側責任者
車の形への理解深い
コーヒーまろやか
販売店には正面が必要
作品統計
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