第19話 来賓は黙っていない
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1933年新春
ミュンヘン
ポルシェワーゲン販売店の開業式は、朝から少し騒がしかった。
店は新しい自動車販売通りの一角にあった。間口は広くないが、通りから中がよく見える。入口を入ると、展示車が真正面ではなく少し斜めに置かれていた。側面の丸みが見え、奥の色見本とローン相談の机へ視線が流れる。
整備受付は奥にある。
だが隠れすぎてはいない。
部品棚は番号順に整えられている。
ただし客に番号を押しつけるほど前には出ていない。
それは、Adolf Hitler Entwurfsbüroが引いた線だった。
ヒトラーは店の前に立ち、黙ってその線を見ていた。
今日は来賓だった。
ポルシェワーゲン販売店の開業式に、意匠を担当した事務所の所長として招かれている。主役はポルシェ側であり、販売店であり、商工会の来賓であり、新聞記者だった。
だからヒトラー事務所の者たちは、本来なら並んで祝辞を聞き、展示車の覆い布が外されるのを眺め、記念写真に収まればよい。
しかし、ヒトラーは黙っていなかった。
「布が甘い」
隣にいたフランツが小さく振り向いた。
「今日は来賓です」
「来賓にも目はある」
展示車には薄い布がかけられていた。開業式の合図で販売主任がそれを外し、車体を披露する段取りになっている。
ヒトラーはその布の端を見ていた。
「軽すぎる。落ち方に品がない」
フランツは言った。
「布にも品が要るんですね」
「現れるものには、現れ方が要る」
少し離れた場所では、ゲッベルスが自分の作った開業ポスターを満足げに眺めていた。
新しい道路に、新しい車を。
太い文字。
明るい斜線。
丸い車体を強調する図案。
ヒトラーはそれを見て顔をしかめた。
「やかましい」
ゲッベルスは聞こえていた。
「開業式です。少しは祝祭感が必要です」
「祝祭感と騒音を混同するな」
「客の足を止めるには、多少の音が要ります」
「文字に音を出すな」
エルゼが横から言った。
「今日は別契約です」
「分かっている」
「分かっている顔ではありません」
ヒトラーは黙った。
ユンゲは受付台の近くに立っていた。
今日は販売店側の受付係が主に動いている。ユンゲはあくまで来賓側の一人だったが、彼女の目は自然と入口へ向かった。
客がどこで止まるか。
誰が名前を告げるか。
新聞記者がどこで詰まるか。
商工会の来賓が誰に挨拶するか。
試乗希望の客が、誰に声をかければよいか迷っているか。
彼女は手帳を開いた。
エルゼがそれを見て言った。
「今日は仕事ではありません」
ユンゲは少し慌てた。
「はい」
「ただし、見ておくのはよいことです」
「はい」
ヒムラーは、すでに販売店の隅で試乗予約表を見ていた。
ポルシェ側の販売員に対して、静かに何か説明している。
「午前の来客と午後の試乗希望者は、同じ名簿に載せない方がよろしいでしょう。見物客、購入相談、試乗希望、整備相談。この四つが混ざると、受付で詰まります」
販売員は少し困った顔をしていたが、メモは取っていた。
エルゼは遠くからそれを見て言った。
「また表が増えますね」
カイテルが頷いた。
「増えますね」
クレープスは店内の車の角度を見ていた。
「入口から見ると、少し左へ寄っています」
ヨードルは工程表ではなく、開業式の進行表を見ていた。
「覆い布を外す時間が少し遅れています」
ブルクドルフは店の外に置かれた別の展示車を見ていた。
「思ったより車が多いですね」
販売店は、開業に合わせてポルシェワーゲンのほかにも数台の小型車を用意していた。比較用の他社車、少し大きめの実用車、商用寄りの車、そして色違いのポルシェワーゲン。
ヒトラーはそれらを順に見た。
「これは重く見える」
販売主任が振り向いた。
「こちらは比較用の小型車でして」
「小型車なのに背伸びしている。車体を大きく見せようとして、かえって鈍い」
次の車を見る。
「これは軽すぎる。靴底の薄い外套のようだ」
さらに次の車。
「窓が大きいのは悪くない。だが客室が見えすぎる。見せることと、覗かせることは違う」
色違いのクリーム色のポルシェワーゲンを見て、彼は一瞬で言った。
「車が菓子に見える」
販売主任は苦笑した。
「女性のお客様には評判がよい色です」
イングリッド・ベルナドッテが横から言った。
「明るい色は、部屋に置く家具と同じで、暮らしに近く見えることがあります」
ヒトラーは彼女を見た。
「車は家具ではない」
「けれど、買った後は暮らしに入ります」
「だからこそ、軽く見せすぎるな」
イングリッドは少しだけ笑った。
「所長は相変わらずですね」
「相変わらずで悪いか」
「いいえ。だから展示が締まります」
ヒトラーは返事をしなかった。
褒められた時の沈黙だった。
やがて開業式が始まった。
販売主任が挨拶をした。
商工会の来賓が、新しい道路時代と小型車の普及について短く話した。
新聞記者が写真機を構えた。
ポルシェ博士本人は来ていなかった。
かわりに、ポルシェ側の技術主任が短い挨拶をした。
「この車は、特別な人のためだけではなく、仕事を持つ人、家族を持つ人、都市と都市の間を移動する人のために作られています」
ヒトラーはその言葉を聞いていた。
悪くない。
ただし、少し長い。
覆い布を外す段になると、販売主任が展示車の横に立った。
布は、予定通りに外された。
だが、左側が少しだけ引っかかった。
ヒトラーの眉が動いた。
フランツは小声で言った。
「何も言わないでください」
「言っていない」
「顔が言いました」
「私の顔を読むな」
車体が現れると、店内から小さな拍手が起きた。
丸い車体。
控えめな光沢。
入口から見て、真正面ではなく斜めに見える形。
その奥に色見本。
さらに奥にローン相談。
整備受付は、必要になった時に初めて目へ入る。
ヒトラーは黙っていた。
自分の店ではない。
自分の車でもない。
しかし、そこには自分の線があった。
ゲッベルスはポスターの前に立ち、新聞記者に説明していた。
「この車は、新しい道路の時代に合わせた車です。速さだけではなく、親しみやすさを売るべきです」
ヒトラーは横から言った。
「親しみやすさを売るな。車を売れ」
ゲッベルスは笑った。
「車を売るために、親しみやすさを見せるのです」
「見せすぎると軽くなる」
「見せなければ近づきません」
「広告屋はすぐ近づけたがる」
「意匠屋はすぐ遠ざけたがる」
エルゼが言った。
「今日は来賓です」
二人は同時に黙った。
少しだけ。
式典後、販売主任が一行へ近づいた。
「せっかくですから、試乗なさいますか」
ヒトラーは一瞬、ポルシェワーゲンを見た。
そして言った。
「免許を持っておらん。誰か運転しろ」
販売主任は少し驚いた顔をした。
フランツも、毎度のことながら少し戸惑った。
ブルクドルフが手を上げた。
「私が運転します」
ヒトラーはすぐに言った。
「荒くするな」
「まだ乗ってません」
「乗れば荒くなる」
「所長は私の運転を信用していないんですか」
「信用しているから言っている。信用していなければ乗らん」
ブルクドルフは少し考えた。
「それは褒めていますか」
「注意だ」
試乗車は、店の前に出された。
運転席にブルクドルフ。
助手席にヒトラー。
後席にフランツとユンゲ。
ユンゲは手帳を持っていたが、開くかどうか迷っていた。
ヒトラーが言った。
「試乗中に全部書くな。揺れる」
「はい」
ブルクドルフがエンジンをかけた。
車はゆっくりと動き出した。
開業式の来客が少し道を空け、新聞記者が写真を撮った。
発進してすぐ、ヒトラーが言った。
「粗い」
ブルクドルフは前を見たまま答えた。
「普通です」
「普通が粗い」
「では誰が運転しても粗いです」
「開き直るな」
「走り出して十歩も進んでません」
「最初の十歩で印象は決まる」
フランツは後席で窓の外を見た。
ミュンヘンの通りはまだ冬の名残を抱えていた。石畳は湿り、車輪の跡に黒い水が残っている。街角にはポルシェワーゲン販売店の開業ポスターが貼られ、その横に政治団体のビラが重なっていた。
新しい車。
古い不安。
同じ壁に貼られている。
最初の角に差しかかった時、ブルクドルフが慎重に曲がった。
ヒトラーは言った。
「遅い」
「荒くするなと言いました」
「遅く曲がれとは言っていない」
「どうしろと」
「曲がる前に、車体の重さを考えろ」
「考えています」
「考えてその曲がりなら、もっと考えろ」
ユンゲは思わず手帳を開きかけた。
フランツが小声で言った。
「これは受付には関係ないと思います」
ユンゲは小さく頷いて閉じた。
通りを短く進み、少し広い道へ出る。
ポルシェワーゲンは軽く走った。
大きな車ではない。
だが街の中では扱いやすい。
狭い道を抜け、荷馬車を避け、短い距離で止まる。
その動きは、重い車にはないものだった。
ヒトラーは窓の外を見ていた。
「客に最初から長く走らせるな」
ブルクドルフが聞いた。
「なぜです」
「車の癖が分からんうちに長く走れば、客は不安だけ持ち帰る」
ユンゲは今度は手帳を開いた。
ヒトラーは続けた。
「最初は短く、分かりやすい道だ。曲がる、止まる、また走る。それで十分だ」
ユンゲは書いた。
試乗は短く
曲がる
止まる
また走る
ブルクドルフが言った。
「それなら今の道は悪くないんじゃないですか」
「最初の角が狭い」
「店の前の道です」
「だから悪い。客は最初に窮屈さを覚える。少し先まで押してから始めろ」
「車を押すんですか」
「比喩だ」
フランツは思った。
所長の比喩は、時々かなり面倒だ。
試乗を終えて店へ戻ると、販売主任が感想を求めた。
「いかがでしたか」
ヒトラーは車から降り、車体を見た。
「悪くない」
販売主任は明らかに安心した。
フランツも少し驚いた。
ヒトラーは続けた。
「ただし、試乗経路が悪い。最初の角が狭すぎる。あれでは車が窮屈に見える」
販売主任はすぐにメモを取った。
「試乗経路を変更します」
ヒムラーが横から言った。
「試乗経路の標準化が必要ですね。受付で希望時間、運転経験、同乗者数を確認し、短距離試乗と購入相談後試乗を分けるべきです」
エルゼが言った。
「また書類が増えます」
ヒムラーは頷いた。
「増えます」
「認めないでください」
ゲッベルスが言った。
「試乗後に渡す小冊子も必要です。乗った後なら、人は読む気になります」
ヒトラーは睨んだ。
「また文字を増やす気か」
「必要な文字です」
「君の必要はいつも多い」
ユンゲは試乗受付の台を見た。
販売店の若い受付係が、見物客と試乗希望者と新聞記者に同時に声をかけられ、少し詰まっている。
ユンゲはそっと近づき、声をかけた。
「試乗希望の方はこちらの紙へ。新聞の方は販売主任へ。購入相談の方は奥の机へご案内すると流れが分かれます」
受付係は驚いたが、すぐに頷いた。
「ありがとうございます」
それを見ていたエルゼが、少しだけ目を細めた。
「仕事をしていますね」
ユンゲは戻ってきて言った。
「来賓ですが」
エルゼは答えた。
「来賓にも目はありますから」
ヒトラーが振り向いた。
「それは私の言葉だ」
「必要なところだけ使いました」
ヒトラーは何か言おうとして、やめた。
開業式は午後まで続いた。
新聞記者は写真を撮り、商工会の来賓は車体を褒め、販売主任は何度も同じ説明を繰り返した。
ヒムラーは試乗予約表に手を入れ、ゲッベルスはポスターの前で話し、シュタイナー親方は展示台の脚を一度だけ触って、
「倒れんな」
と言った。
それだけで、展示台は合格したらしい。
イングリッドは色見本の前で、家庭用に買いたいという夫婦と話していた。
フランツはその様子を見ながら、販売店というものが単に車を置く場所ではないことを感じていた。
客は車を見る。
だが同時に、自分の暮らしを見る。
自分の仕事を見る。
月々の支払いを見る。
整備の心配を見る。
遠くへ行けるかもしれないという想像を見る。
販売店は、それらを順番に並べる場所だった。
夕方近く、開業式が落ち着いた頃、ヒトラーは店の外に出て看板を見上げた。
ポルシェワーゲン販売店。
新しい看板は、まだ少し硬い。
通りの中で馴染むには時間がかかるだろう。
フランツが隣に立った。
「今日は来賓でしたね」
ヒトラーは言った。
「来賓にも責任はある」
「何の責任ですか」
「見てしまったものへの責任だ」
フランツは返事をしなかった。
少し離れた場所で、エルゼが販売主任と話していた。
「本日の追加修正案については、別見積もりになります」
販売主任は苦笑しながら頷いている。
ヒトラーはそれを聞いて言った。
「まだ修正案とは言っていない」
エルゼは遠くから答えた。
「顔が言いました」
ゲッベルスが笑った。
ヒムラーは何かを手帳に書いていた。
ユンゲは受付台の動きを最後まで見ていた。
ブルクドルフは試乗車の泥はねを見て、
「やっぱり汚れますね」
と言った。
ヒトラーは自分の濃灰のポルシェワーゲンを見た。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
その文字は、冬を越えて少しだけ街に馴染んできていた。
販売店の看板も、いずれ馴染むだろう。
ただし、その前に少し直すべきところがある。
「フランツ」
「はい」
「販売店の布は替えろ。試乗経路も直す。受付台は半歩右だ」
「来賓でしたよね」
「見てしまった」
「はい」
「なら、直す」
エルゼの声が飛んだ。
「別見積もりです」
ヒトラーは少し不満そうにした。
だが、否定はしなかった。
夕方のミュンヘンに、開業式のポスターが揺れていた。
新しい道路に、新しい車を。
ヒトラーはそれを見て、まだやかましいと思った。
だが客は足を止めていた。
その点だけは、認めざるを得なかった。
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