第23話 応接室のオリンピック
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1936年8月1日
ミュンヘン
その日のAdolf Hitler Entwurfsbüroは、珍しく静かだった。
静かと言っても、仕事がないわけではない。
二階にはまだポルシェワーゲン販売店の標準図面が残っている。
一階の棚には、ベルリン大会関連地方展示の資料が積まれている。
退役軍人会館改修の確認書も、宿泊施設ロビーの意匠案も、商工会の観光案内ブースの見積書もある。
ただ、嵐のような日々は過ぎていた。
シュタイナー組が来られなかった退役軍人会館の一件を乗り切り、南ドイツ展示の主要な納品も終わり、駅前案内所の看板も据えられた。
ポルシェワーゲンの販売店も、どうにか大会前の客を迎えられる状態になっている。
街には、まだ慌ただしさがあった。
だが事務所の中には、ひとまず息をつけるだけの空白があった。
その空白の中へ、ヒトラーが箱を抱えて入ってきた。
フランツが最初に気づいた。
「所長、それは」
「ラジオだ」
ヒトラーは短く答えた。
エルゼが帳簿から顔を上げた。
「経費ですか」
「私物だ」
「では経費にはしません」
「するな」
「しません」
「ただし、ここに置く」
エルゼはペンを止めた。
「私物を事務所に置く理由は」
「大会の状況確認だ」
「娯楽では」
「国際行事の情報収集だ」
「では情報収集機器として経費に」
「私物だと言った」
「では私物として記録します」
「記録するな」
「事務所に置くなら記録します」
ヒトラーは少しだけ困った顔をした。
箱の中のラジオは、思ったよりも重かった。
木製の箱に丸い目盛り。布張りのスピーカー。つまみが二つ。
新しい機械の匂いがした。木と油と、少しだけ温まった金属の匂い。
ブルクドルフが外から戻ってきて、それを見た。
「ついに買ったんですか」
「ついに、とは何だ」
「前から食堂や販売店のラジオを気にしていましたから」
「気にしていたのではない。置き方を見ていた」
フランツはラジオを持ち上げようとした。
「どこに置きますか」
「受付の横は駄目だ」
ヒトラーはすぐに言った。
「ユンゲ君の声が死ぬ」
ユンゲは受付簿から顔を上げた。
「私の声が、ですか」
「受付の声は入口の柱だ。そこへ機械の声を重ねるな」
フランツは応接卓を見た。
「では、応接卓の上は」
「駄目だ。客が機械を見る」
「窓際は」
「通りの音と混じる」
「棚の上は」
「高すぎると音が見下ろす」
フランツは手を止めた。
「音が見下ろすんですか」
「ある」
ヒトラーは当然のように言った。
「音にも高さがある」
エルゼが言った。
「高さがあるなら、置き台も必要になりますね」
ヒトラーはすぐに反応した。
「今ある棚でよい」
「新しい台は買いません」
「誰が買うと言った」
「顔が言いました」
ヒトラーは黙った。
結局、ラジオは一階応接室の奥、見本棚の端に置かれた。
受付の声を邪魔しない。
応接卓からは見えすぎない。
窓の外の馬車や自動車の音とも混じりにくい。
ヒトラーは少し離れて聞き、つまみの角度を直した。
「雑音が多い」
ブルクドルフが言った。
「ベルリンは遠いですから」
「遠いことを理由に音を濁すな」
「私に言われても」
ユンゲは受付簿の横に小さく書いた。
ラジオ
応接室奥
受付声を妨げない位置
エルゼがそれを見て言った。
「私物です」
ユンゲは一行足した。
所長私物。
ヒトラーはそれを見て不満そうにしたが、何も言わなかった。
午後、ラジオの周りに人が集まり始めた。
最初はフランツだった。
次にブルクドルフ。
それからクレープスが図面を持ったまま下りてきた。
ヨードルは工程表を閉じ、カイテルは電話の受話器を置いた。
エルゼは帳簿を閉じたが、完全には手放さなかった。
ユンゲは受付簿を開いたまま、耳だけを応接室の奥へ向けていた。
ゲッベルスも来た。
「これはいい。事務所に音が入りましたね」
ヒトラーは顔をしかめた。
「騒がしくするな」
「私はまだ何もしていません」
「顔がしている」
ヒムラーも来た。
なぜ来たのか、誰も聞かなかった。
聞けば、何か表を出される気がしたからだ。
やがて、ラジオからベルリンの音が流れ始めた。
かすかな雑音。
遠いざわめき。
アナウンサーの声。
競技場の空気が、電波に乗って、ミュンヘンの一階応接室へ届いた。
ベルリンオリンピックの開会式だった。
ラジオは、音だけを運んできた。
旗の色は見えない。
競技場の大きさも見えない。
行進する選手の顔も、観客席も、空の明るさも見えない。
ただ、歓声が聞こえた。
足音のような響きが聞こえた。
アナウンサーが国名を読み上げる声が聞こえた。
時々、拍手が波のように膨らみ、すぐに雑音の向こうへ引いた。
ヒトラーは黙って聞いていた。
ゲッベルスは途中で言った。
「語尾が弱いですね」
「君が喋るよりましだ」
「私はもっと響かせます」
「だから駄目なのだ」
ヒムラーは、各国選手団の入場順を聞きながら小さく頷いた。
「順序は整っています」
エルゼが言った。
「人を分類しないでください」
「分類ではありません。進行順です」
「似ています」
ユンゲは笑いそうになったが、受付簿へ目を戻した。
クレープスはラジオの木箱を見ていた。
「意外と大きいですね」
ヨードルは時計を見た。
「進行は予定より少し押しています」
カイテルは言った。
「それでも、式典としては整っています」
ブルクドルフは腕を組んで聞いていた。
「現場は大変でしょうね」
その言葉に、全員が少しだけ黙った。
この数年、事務所は「見せる」ための仕事をいくつも請けた。
販売店。
展示室。
案内所。
退役軍人会館。
観光ブース。
宿泊施設のロビー。
南ドイツ産業展示。
ベルリンの競技場そのものに関わったわけではない。
けれど、ドイツが自分を見せるために整えた無数の入口の、いくつかに線を引いてきた。
だからラジオから聞こえる歓声は、遠いようで、少しだけ近かった。
ヒトラーは言った。
「大会とは競技だけではない」
フランツは彼を見た。
「はい」
「駅を降りる。看板を見る。宿へ入る。飯を食う。会場へ向かう。案内所で迷う。車に乗る。椅子に座る。そういうものまで含めて大会だ」
エルゼはすぐに言った。
「そのすべてを当事務所が請けるわけではありません」
「分かっている」
「分かっている顔ではありません」
ユンゲが言った。
「受付簿では、まず契約窓口を確認します」
ヒトラーは少し不満そうにした。
しかし、どこか安心したようにも見えた。
ラジオから、また大きな歓声が流れた。
それは一階応接室の紙の上に薄く降った。
帳簿。
受付簿。
赤鉛筆。
工程表。
ポルシェワーゲンの鍵。
退役軍人会館の花輪台図面。
ベルリン大会関連地方展示の導線案。
そのすべてが、しばらくの間、同じ音を聞いていた。
フランツは窓の外を見た。
濃灰のポルシェワーゲンが停まっている。
通りの向こうの食堂からも、かすかにラジオの音が漏れていた。
人々が立ち止まり、店先に耳を傾けている。
この世界では、ラジオは一つの党の声ではなかった。
少なくとも今、この瞬間は。
食堂の音。
商店の音。
事務所の音。
遠い競技場を、それぞれの場所へ運んでくる音だった。
ヒトラーはつまみを少し直した。
「遠い」
フランツが尋ねた。
「ベルリンがですか」
「いや」
ヒトラーは少し黙った。
「音は遠い。だが、ここまで来る」
ゲッベルスが言った。
「だからラジオは強いのです。紙より速く、ポスターより広い」
ヒトラーは彼を見た。
「広ければよいというものではない」
「もちろん。だから番組には構成が要る」
「広告屋が番組まで語るな」
ヒムラーはラジオを見ながら、静かに言った。
「いずれ、音だけでは足りなくなるかもしれません」
エルゼが嫌な予感を覚えた顔をした。
「どういう意味ですか」
ヒムラーは眼鏡を直した。
「ベルリンでは、映像を見せる試みもあると聞きます。家庭では無理でしょうが、公共視聴室のようなものなら、いずれ案件になるかもしれません」
ゲッベルスがすぐに反応した。
「映像ですか。それは広告になりますね」
ヒトラーは眉を寄せた。
「音だけでも置き場所に困るのに、映像まで置く気か」
ヒムラーは落ち着いて言った。
「置き場所、視聴人数、入退場、座席配置、待機列、上映時間、技術係、故障時の案内。意匠と運営の両方が必要になります」
エルゼは低く言った。
「また書類が増えますね」
「増えます」
「認めないでください」
ユンゲは受付簿の端に小さく書いた。
テレビ
公共視聴室
将来案件の可能性
要警戒
フランツはそれを見て、少し笑った。
だが、ヒムラーの言葉は妙に的確だった。
音が事務所に入ってきた日、次に映像が来る話をする。
怪しい。
しかし、あり得ないとは言い切れなかった。
ヒトラーはラジオを見た。
「音にも入口が要る」
エルゼが即座に言った。
「ラジオ台の追加発注はしません」
「まだ何も言っていない」
「顔が言いました」
ヒトラーは黙った。
ラジオからは、まだベルリンの歓声が流れていた。
遠い競技場の音が、ミュンヘンの一階応接室に満ちている。
外では、人々が店先で耳を澄ませていた。
オリンピックはベルリンで始まった。
だがその日、Adolf Hitler Entwurfsbüroの応接室にも、小さなオリンピックがあった。
帳簿と受付簿と赤鉛筆の間に置かれた、木箱のラジオ。
そこから流れる音を、皆がしばらく黙って聞いていた。
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