第24話 割られた正面
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 A. Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
ベルリンの夏が終わった。
ミュンヘンの通りから、外国語のざわめきが少しずつ消えていった。
駅前に残っていた案内板は外され、宿屋の窓に貼られていた競技予定表も、片隅からめくれ始めていた。新聞はまだオリンピックの余韻を書き立てていたが、街の人々の足取りは早く、店先の会話はもう次の仕入れや家賃や税金のことに戻っていた。
アドルフ・ヒトラー意匠事務所でも、応接室の隅に置かれたラジオだけが、まだ少しばかり夏の名残を引きずっていた。
「そこではない」
ヒトラーは机の上の図面から顔を上げずに言った。
ブルクドルフが、ラジオを棚の上へ戻そうとしていた手を止める。
「何がですか」
「高さだ」
「高さ?」
「音が出る物にも高さがある。棚の上では高すぎる。耳に落ちてくる。窓際では外へ逃げる。応接室に置くなら、人の声と同じ高さだ」
ブルクドルフはラジオを抱えたまま、しばらく考えた。
「つまり、どこですか」
ヒトラーは赤鉛筆で図面に線を引いた。
「そこだ。机の横だ」
エルゼが帳簿から顔を上げた。
「そこは通路です」
「通路ではない。余白だ」
「人が通れば通路です。ラジオ台の追加発注はしません」
ヒトラーは鼻を鳴らした。
「誰がそんなことを言った」
「所長が、いま言いかけました」
フランツは清書台の前で、笑わないように口元を押さえた。ユンゲは受付机で来客簿を整理していたが、ペン先を止めてほんの少しだけ目を伏せた。
オリンピックのために持ち込まれた仕事は、ようやく山を越えていた。
地方展示の案内図、販売店の臨時看板、宿泊業者向けの街路誘導板、商工会館の壁面装飾。どれも小さな仕事ではなかったが、終わってしまえば紙束と領収書になった。
しかし街そのものは、終わったあとに別の顔を見せた。
外国人客を意識して磨かれていた駅前の硝子は曇り、警官の立ち姿も少し遠くなった。昼間は変わらない。だが夕方になると、脇道の影が前より深く見えた。
その日の午後、受付の扉が遠慮がちに開いた。
入ってきた男は、帽子を両手で持っていた。背は高くない。灰色の外套は上等だったが、肩のあたりに埃がついていた。整えた口髭と、いかにも商人らしい丁寧な目つきがあった。
ユンゲが立ち上がった。
「ご用件をうかがいます」
男は一度、事務所の中を見た。
応接机。見本棚。壁に掛けられた透視図。奥へ続く階段。そのすべてを確認してから、静かに名乗った。
「レヴィンです。レヴィン菓子商会の」
ユンゲのペン先が止まった。
その名は知っていた。
ミュンヘンの古い通りの角にある店だった。菓子と輸入茶、焼き菓子、贈答用の箱を扱う店である。季節ごとに飾り窓を変え、夕方には店内の灯りが曲面硝子に柔らかく映る。ユンゲも何度か前を通ったことがあった。
ただし、その店の名前は最近、別の意味でも聞かれていた。
ユダヤ系の商店。
そう呼ばれることが増えていた。
エルゼが顔を上げる。フランツも振り向いた。
ヒトラーだけが、しばらく図面を見たままだった。
「所長」
エルゼが短く呼ぶ。
ヒトラーはようやく顔を上げた。
レヴィンは帽子を持ったまま、軽く頭を下げた。
「店の正面を壊されました。硝子と木枠、それから看板を。修繕をお願いしたい」
ヒトラーの顔が、露骨に曇った。
「レヴィン菓子商会」
「はい」
「あの角の店か。菓子と茶葉の」
レヴィンは少し驚いたように目を上げた。
「ご存じでしたか」
「通りに正面を出している店を、見ずに歩くほど暇ではない」
それが褒め言葉なのかどうか、誰にもわからなかった。
ヒトラーは椅子の背にもたれた。
「硝子は大きな曲面だったな。入口は右に半歩引いてある。軒下の飾りは古い。古いが、線は悪くない。看板の文字は少し細すぎる」
レヴィンは帽子を握る手に力を入れた。
「その看板も、割られました」
「誰にだ」
少し間があった。
「国家社会主義ドイツ労働者党の腕章をした若者たちです」
室内が静かになった。
ブルクドルフがラジオを持ったまま固まっていた。クレープスは製図机から顔だけを上げ、ヨードルは工程表の紙をめくる手を止めた。カイテルは電話機の横で小さく息を吐いた。
ヒトラーは口元を歪めた。
「あのビアホール騒擾以来、ろくなことをせん連中だ」
誰も口を挟まなかった。
ヒトラーは赤鉛筆を机に置いた。
「ユダヤ人の店を壊す暇があるなら、線の引き方でも勉強しろ」
その言葉は、助け舟には聞こえなかった。
レヴィンの顔も、ユンゲの顔も、少しだけ硬くなった。フランツは胸の奥に、小さな引っかかりを覚えた。
所長は怒っている。
だが、その怒りはやはり、人のためではない。
壊された人間ではなく、壊された正面を見ている。
エルゼが先に動いた。
「被害届は」
「出しました」
「警察の控えはありますか」
「ここに」
レヴィンは外套の内側から折りたたんだ紙を出した。エルゼは受け取って内容を確認する。
「保険は」
「硝子の一部だけです。木枠と看板は、店持ちになるでしょう」
「支払い条件は、通常の修繕契約と同じになります。追加破損が出た場合は別契約です。夜間作業を希望しますか」
レヴィンは目を伏せた。
「昼間の方が安全なら、昼間で」
「安全をこちらに任せる契約はできません」
エルゼの声は冷たく聞こえたが、いつもより正確だった。
「できるのは、正面の修繕です」
レヴィンは小さくうなずいた。
「それで構いません」
ユンゲは来客簿を開き、新しい欄に書いた。
レヴィン菓子商会
店頭破損修繕依頼
加害者は国家社会主義ドイツ労働者党関係者と思われる
依頼主、報復を懸念
要慎重対応
ヒトラーは立ち上がった。
「現場を見る」
エルゼが眉をひそめる。
「今からですか」
「図面で割れた硝子は直らん」
「契約前です」
「では契約しろ」
「現場確認後に見積もりです」
「では現場を見に行く」
エルゼは溜息をついた。
「ブルクドルフ、車を」
ブルクドルフはようやくラジオを棚ではなく、ひとまず椅子の上に置いた。
「はい」
「ラジオは椅子ではない」
ヒトラーが言った。
「今は椅子です」
エルゼが言った。
誰も笑わなかった。
濃灰のポルシェワーゲンは、まだオリンピック期間中の埃を薄く被っていた。
車体の横には、控えめに Adolf Hitler Entwurfsbüro の文字が入っている。ヒトラーはその文字の位置を見るたびに、いまだに少し低いと思っていた。
ブルクドルフが運転席に座り、ヒトラーとレヴィンは後部座席へ乗った。フランツも同行した。エルゼとユンゲは事務所に残り、必要書類と見積用紙を整えると言った。
車が走り出すと、ヒトラーは窓の外を見たまま黙った。
街は何事もなかったように動いていた。パン屋の前に客が並び、新聞売りが見出しを叫び、路面電車が軋んで曲がっていく。けれど、角をひとつ曲がるごとに、貼り紙の破れや落書きが目についた。
フランツは、助手席の後ろから所長の横顔を見た。
「所長」
「何だ」
「あの店を、前から見ていたんですか」
「見ていた」
「なぜです」
ヒトラーは少しだけ不機嫌そうに眉を動かした。
「正面があったからだ」
「正面」
「古い通りの角で、硝子を曲げて光を受けていた。入口を真正面に置かず、少し逃がしていた。あれで客は、一度足を止める。足を止めさせる店は、正面を知っている」
ヒトラーは続けた。
「ただし看板の文字は弱かった。贈答用の箱の飾りに比べて、入口が少し負けていた。菓子の店なら甘さを見せるな。甘さは中に入ってからでいい」
「今後の店づくりの参考にさせてもらいます」
レヴィンが隣で小さくなりながら答えた。
「それを、覚えていたんですか」
フランツが言った。
ヒトラーは鼻で笑った。
「忘れるほど、街はよくできておらん」
それ以上、誰も言わなかった。
レヴィン菓子商会の前には、すでに何人かの通行人が立ち止まっていた。
店の正面は、まるで顔の片側を殴られたようだった。
曲面硝子は割れ、残った破片が枠に白く光っていた。入口横の木部には鈍器で叩かれた跡があり、細い飾り柱は途中で折れている。看板は外れかけ、金文字の一部が削られていた。扉の下には、粉々になった硝子と包装紙が混じっていた。
店内からは、甘い匂いがかすかに漏れていた。
ヒトラーはしばらく黙って立っていた。
通行人の一人が、彼の顔に気づいて何か囁いた。ヒトラーは聞こえないふりをした。
レヴィンが店の鍵を開ける。
「中も少し荒らされましたが、商品棚は無事です。奥までは入らなかったようです」
ヒトラーは入口に立ち、壊れた木枠を見た。
「叩いた順序が悪い」
レヴィンが振り向いた。
「何ですか」
「壊すにも順序がないと言ったのだ」
フランツは思わず目を伏せた。
ひどい言葉だった。
だが、ヒトラーは本気で怒っていた。壊された相手にではなく、壊し方に。破壊の無知に。線を知らない者が、線のあるものを割ったことに。
ヒトラーは折れた飾り柱に触れた。
「ここを先に叩いている。馬鹿だ。力が逃げる。だから硝子だけが散り、枠が汚く残る。看板も外すなら左右の金具を見ればいいものを、文字の上から殴っている。品がない」
レヴィンは黙っていた。
ヒトラーは店の正面から一歩下がった。
「元通りにはしない」
レヴィンの表情が変わる。
「それでは困ります。うちは、昔からこの形で」
「昔からの形が壊されたのだ。元に戻すだけでは、壊された日だけが残る」
ヒトラーは通りの向こうへ目をやった。夕方の光が、細い雲の下から斜めに入ってきていた。
「硝子は同じ曲面にする。入口の位置も変えん。だが木枠の内側に補強を入れる。飾り柱は細すぎた。前と同じ形に見せて、芯を太くする。看板の文字は少し太くしろ。遠くから見えすぎる必要はないが、削られて負ける文字では駄目だ」
レヴィンは低い声で言った。
「それは、修繕ですか」
「修繕だ」
「新装ではなく」
「新装にする金があるなら、最初からそう言え」
ヒトラーはレヴィンを見た。
「正面を作り直す。以前より少し強くする。それだけだ」
レヴィンは返事をしなかった。
店の奥から、年配の女性が顔を出した。レヴィンの妻だろうか。彼女はヒトラーを見て、怯えたようにすぐ奥へ下がった。
ヒトラーも、それを見た。
一瞬だけ、口元が固くなった。
だが何も言わなかった。
フランツは、その一瞬を見逃せなかった。
所長は、わかっているのだろうか。
自分の名が、この店の人々にどう聞こえるかを。
あるいは、わかっていてなお、図面の話だけをしているのだろうか。
フランツが手帳を開く。
「所長、見積もりに必要な寸法はどうしますか」
「クレープスを呼ぶ。いや、呼ばなくていい。フランツ、測れ」
「はい」
「入口幅、硝子枠、看板の金具位置、飾り柱の残存部分。木材はシュタイナーに確認する」
フランツは巻尺を取り出した。
ブルクドルフは割れた硝子を踏まないように、通行人を少し遠ざけた。
「見物じゃない。通るなら通れ」
その声は大きかったが、いつもの現場の声だった。怒鳴り声ではなく、場所を作る声だった。
ヒトラーは店の前に立ち、通りの幅を見た。
「ここは夕方が勝負だ」
レヴィンが聞き返した。
「夕方?」
「昼は通行人が商品を見る。夕方は、店の灯りが通りから見られる。割られた硝子の代わりに安い平硝子を入れると、光が死ぬ。客は戻らん」
「高くなりますか」
「なる」
「どのくらい」
「エルゼに聞け。私は金額を言うと怒られる」
その言い方だけが、少し事務所の日常に戻っていた。
レヴィンは初めて、小さく息を吐いた。
その夜、事務所の二階では、図面の上に灯りが落ちていた。
クレープスが寸法を整理し、ヨードルが工程を組み、カイテルが硝子業者と木工所へ電話をかけた。ブルクドルフは現場の片付け手順を紙に書き、フランツは正面図を起こした。
ユンゲは受付簿の該当欄に、赤ではなく黒インクで追記した。
現場確認済
元形状維持
内部補強
看板文字修正
夜間作業なし
昼間短期施工
ヒトラーは清書前の図面を見ていた。
「違う」
フランツが肩を落とす。
「どこですか」
「ここだ。飾り柱の線が真面目すぎる。菓子商会だぞ。役所の玄関ではない」
「少し曲げますか」
「曲げるな。柔らかく見せろ。曲げることと柔らかいことは違う」
「難しいです」
「だから仕事になる」
エルゼが帳簿を閉じた。
「見積もりはこれで出します。追加警備費は入れません」
「なぜだ」
「警備は業務外です」
「では作業中に連中が来たらどうする」
「警察を呼びます」
ヒトラーは不満そうにした。
「警察が来るまでに硝子が割れる」
「硝子を守るために事務所が乱闘をする契約ではありません」
「乱闘などせん」
「所長が現場に出ると、結果的に似たものになります」
ヒトラーは黙った。
カイテルが電話を置いた。
「シュタイナー親方、明日の朝に木材だけ見に来るそうです。作業員は出せないが、材の選定は手伝うと」
ブルクドルフが笑った。
「親方は来るんだな」
「少しだけだそうだ」
ヒトラーは図面から目を離さずに言った。
「少し来れば十分だ。来ないよりはましだ」
エルゼがユンゲに書類を渡した。
「明朝、レヴィン商会へ契約書を持って行きます。受付簿の写しは出さないこと」
「はい」
ユンゲは受け取った。
そのとき、一階の扉が叩かれた。
全員が少しだけ動きを止めた。
カイテルが立ち上がろうとしたが、エルゼが手で制した。
「ユンゲ」
「はい」
ユンゲは階段を下りた。
一階は薄暗かった。通りに面した窓の外に、男が二人立っている。腕章は見えなかったが、姿勢と目つきで用件はだいたいわかった。
ユンゲは扉を細く開けた。
「ご用件をうかがいます」
「所長に会いたい」
「お名前とご用件を」
「国家社会主義ドイツ労働者党ミュンヘン支部の者だ」
ユンゲは、受付机へ戻って来客簿を開いた。
男たちは扉の外で待っている。
ペン先が紙に触れた。
国家社会主義ドイツ労働者党
ミュンヘン支部関係者
用件不明
二階へ上げず
ユンゲは扉へ戻った。
「本日は予定がありません。ご用件は書面でお願いします」
「急ぎだ。ユダヤ人の店の件で」
「書面でお願いします」
「所長はいるんだろう」
「書面でお願いします」
男の一人が扉に手をかけた。
その瞬間、階段の上からヒトラーの足音がした。
ユンゲは振り返らなかった。
「所長」
二階からエルゼの声が飛んだ。
「出ないでください」
足音が止まる。
男が薄く笑った。
「いるじゃないか」
ユンゲは扉を細く開けたまま、男の目を見た。
「書面でお願いします」
「小娘が」
その声は低かった。
だが扉はそれ以上開かなかった。
奥からブルクドルフの重い足音が近づいた。
「受付で止まっている客は、客じゃない」
男たちは一瞬だけ奥を見た。
ブルクドルフは何も持っていなかった。ただ、現場で資材を運ぶ人間の肩と腕をしていた。
ユンゲはもう一度言った。
「書面でお願いします」
男たちは舌打ちをして、扉から離れた。
「覚えていろ」
「受付簿には残します」
ユンゲはそう答えて、扉を閉めた。
鍵をかける音が、一階に小さく響いた。
二階へ戻ると、ヒトラーが階段の途中で立っていた。
顔が赤い。
「なぜ私を止める」
エルゼが机の前に立っていた。
「所長が出ると、修繕が政治になります」
「私は政治などせん」
「なら、出ないでください」
ヒトラーは何か言いかけた。
だが言わなかった。
ユンゲは受付簿を抱えたまま、静かに階段を上がった。
「用件不明。書面要求。二階へ上げず、と記録しました」
ヒトラーはユンゲを見た。
そして、ふんと鼻を鳴らした。
「用件は明らかだ」
「受付上は不明です」
エルゼが言った。
「正式な用件を言えない客は、用件不明です」
ヒトラーは赤鉛筆を手に取った。
「では、そうしておけ」
翌朝から作業は始まった。
割れた硝子が取り外され、残った破片は布で包まれた。木枠は一度外され、内側に補強材が入れられた。シュタイナー親方は朝だけ現れて、壊れた飾り柱を見た。
「細いな」
ヒトラーは腕を組んだ。
「細いが、悪くはなかった」
「なら芯を太くしろ」
「そのつもりだ」
シュタイナーは折れた木片を手に取り、匂いを嗅いだ。
「材が古い。似たのを探すと高い」
「高くなると言った」
「客は払うのか」
「払わせる」
「ならいい」
親方はそれだけ言って、木材の候補を三つ挙げて帰った。
フランツはその後ろ姿を見送った。
「親方、本当に少しだけ来ましたね」
ブルクドルフが工具鞄を開けながら言った。
「少しでも、来ると違う」
その工具鞄は、オットーから受け継いだものだった。中には古い鑿、釘抜き、曲尺、布で包まれた小さな水平器が入っていた。
ブルクドルフは水平器を取り出した。
「現場で誰かが『それはないのか』と言った時に出せるものがあると、少し偉そうにできる」
フランツは笑った。
「オットーさんの言葉ですか」
「そうだ」
ヒトラーが振り向いた。
「笑っている暇があるなら、入口の線を見ろ。水平は気分で決めるな」
「はい」
昼過ぎ、曲面硝子が届いた。
通りにはまた人が集まった。昨日と違い、今日は見物人よりも、様子をうかがう者が多かった。誰も大きな声は出さない。だが、店の前で職人たちが正面を戻していることを、皆が見ていた。
レヴィンは店内から何度も出てきては、作業を見守った。
妻らしい女性も、奥の棚を整えながら、時折こちらを見た。
ヒトラーは彼女と目を合わせなかった。
合わせないようにしているのか、合わせる必要がないと思っているのか、フランツにはわからなかった。
看板の文字は、前より少しだけ太くなった。
金色は派手ではない。けれど夕方の光を受けると、以前より文字の輪郭が沈まなくなった。入口横の飾り柱は、前と同じように見えて、根元の力が違っていた。
ヒトラーは少し離れて全体を見た。
「灯りをつけろ」
レヴィンが店内に入り、照明を入れた。
曲面硝子に、柔らかい光が戻った。
通りの向こうから見ると、店は昨日までの傷をすべて忘れたようには見えなかった。だが、ただ傷を隠しただけでもなかった。壊された場所に、もう一度、店としての顔が立っていた。
ヒトラーは腕を組んだ。
「前より、夕方の光は入る」
レヴィンはしばらく黙っていた。
それから、帽子を取った。
「ありがとうございます」
ヒトラーはすぐに顔をしかめた。
「礼は不要だ。請求書は出す」
「それでも、ありがとうございます」
「請求書を見てから言え」
レヴィンは少しだけ笑った。
店の奥で、女性が新しい包装紙を棚に戻していた。彼女はヒトラーの方を見なかった。ただ、割れていない硝子越しに、通りへ灯りがこぼれるのを見ていた。
ヒトラーは帽子をかぶり直した。
「帰るぞ」
帰りの車内では、誰も長く話さなかった。
ポルシェワーゲンの窓から、夕方のミュンヘンが後ろへ流れていった。オリンピックの旗が外された街。新聞売りの声が遠ざかる街。誰かが割った正面を、誰かが直している街。
事務所に戻ると、エルゼが待っていた。
「完了ですか」
「完了だ」
「請求書を出します」
「高くしすぎるな」
エルゼは目を細めた。
「所長がそれを言うのは珍しいですね」
「安くしろとは言っておらん。高くしすぎるなと言った」
「違いは帳簿で判断します」
「帳簿はいつも冷たい」
「冷たくない帳簿は危険です」
ヒトラーは返事をせず、二階へ上がった。
ユンゲは受付机に座り、来客簿を開いた。
レヴィン菓子商会の欄に、最後の一行を書き足す。
修繕完了
追加警戒継続
それから、別の欄を開いた。
国家社会主義ドイツ労働者党
ミュンヘン支部関係者
用件不明
書面要求
二階へ上げず
ユンゲはその最後の行を、少し濃くなぞった。
二階では、ヒトラーがまたラジオの位置に文句を言っていた。
「やはりそこでは音が低い」
エルゼの声が返る。
「では、明日考えてください。今日は請求書です」
フランツは階段の途中で立ち止まり、事務所の窓から外を見た。
通りの向こうに、夕方の光が細く残っていた。
割られた正面は、元には戻らない。
戻らないものを、まるで元からそうであったかのように見せることも、たぶん違う。
けれど、立て直すことはできる。
少しだけ強く。
少しだけ、光が入るように。
ユンゲのペン先が、受付簿の上で静かに止まった。
二階へ上げず。
その線もまた、この事務所の正面だった。
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