第29話 日曜のスープ
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
日曜日のミュンヘンは、平日より少しだけ足音が柔らかかった。
荷馬車の数は減り、商店の鎧戸は半分だけ閉まり、教会帰りの人々が黒い外套の襟を立てて通りを歩いていた。晩秋の朝は冷えていたが、雨にはならなかった。雲は低く、煙突の煙は屋根の上で横へ流れている。
アドルフ・ヒトラーは、いつもの時間より遅く自宅を出た。
休日だというのに、帽子の角度は平日と同じだった。黒っぽい外套を着て、手袋を片手に持ち、脇には新聞を挟んでいる。誰かに会う予定はない。会う予定がないことは、彼にとって休日の数少ない長所だった。
自宅から徒歩圏内の彼の事務所に一度足を向ける。
一階の受付机には、誰もいない。
ユンゲは休み。エルゼも休み。フランツも、クレープスも、ヨードルも、カイテルも、ブルクドルフもいない。
二階に上がると自身のデスクから一冊のスケッチブックを手に取る。
それは業務用というよりは、メモや私的内容を描いていることが多いスケッチブックだった。
静かな事務所を出る時、ヒトラーは窓に貼られたままの試作ポスターを一度だけ見た。
フランスへ向かう旗。
スペインの空。
国境線。
玄関扉。
この数か月、事務所の窓には遠い場所ばかりが貼られていた。
彼は鍵をかけ、通りへ出た。
日曜の朝の空気には、石炭の匂いと、湿った木箱の匂いが混じっていた。少し歩くと、パン屋の前から焼けた小麦の匂いが出てくる。さらに角を曲がると、肉屋の前で強い脂の匂いがした。
ヒトラーは眉をひそめ、道の反対側へ渡った。
肉が嫌いなわけではない。
と、彼は自分では思っていた。
肉そのものより、脂の匂いが嫌だった。焼けた脂が外套に移る。腸詰めの匂いは手袋に残る。車内に持ち込まれれば、ポルシェワーゲンの座席にまで染み込む。あれは食事ではなく、移動する匂いだ。
以前ブルクドルフが、包みに入れたソーセージを車に持ち込もうとした時、ヒトラーは即座に止めた。
「その包みを車に入れるな」
「昼食です」
「昼食ではない。移動する脂だ」
「冷めています」
「冷めた脂ほどしつこい」
「所長、車は走る看板でしたよね」
「だからだ。看板に腸詰めの匂いをつけるな」
ブルクドルフは不満そうだったが、結局ソーセージは外で食べた。
その時の匂いを思い出し、ヒトラーはさらに少し顔をしかめた。
彼が入ったのは、市場の近くにある古い食堂だった。
扉を開けると、湯気と木の匂いが混じっていた。店内は広くない。窓際に四つ、壁際に三つの小さな卓があり、奥には黒いストーブがあった。日曜の朝だけあって客は少なかったが、窓際のいつもの席にはすでに老夫婦が座っていた。
ヒトラーは足を止めた。
店の女将が気づいて近づいてくる。
「おはようございます。今日は、そちらのお席が」
「見ればわかる」
「では、奥の席で」
「奥は暗い」
「ストーブに近いですよ」
「近すぎる。熱は端から来ると顔だけを焼く」
女将は慣れていた。
「では真ん中で」
ヒトラーは真ん中の席を見た。
入口からの風が当たる。だが窓も見える。店内の客の流れも見える。妥協としては悪くない。
「そこだ」
彼は座った。
女将は注文を聞く前に言った。
「いつもの野菜スープと黒パン、ゆで卵でよろしいですか。今日はじゃがいももあります」
ヒトラーは少しだけ不満そうにした。
「いつものという言い方は怠慢だ」
「では、ご注文は」
「野菜スープ、黒パン、ゆで卵、じゃがいも。水」
「お肉は入っていません」
「肉が入っていないことと、肉の匂いがしないことは違う」
「今日は鍋を分けています」
「最初からそう言えばいい」
女将は奥へ戻った。
ヒトラーは帽子を横の椅子に置き、手袋を揃えた。卓の上には塩入れと、小さな花瓶がある。花瓶の位置が悪かった。窓からの光を受けるには左へ寄りすぎている。食事の邪魔にもなる。
彼は少しだけ花瓶を動かした。
隣の卓の老夫婦の男がそれを見ていた。
ヒトラーは視線を返した。
男はすぐ新聞へ目を落とした。
スープが来た。
湯気は弱く、しかし途切れなかった。白い皿に薄い黄金色の汁が張られ、にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、少しの青菜が沈んでいる。黒パンは固く、切り口が乾いていた。ゆで卵は殻付きのまま小皿に置かれ、じゃがいもには塩が少し振られていた。
ヒトラーはスプーンを取った。
一口飲む。
少し黙る。
「塩が前に出すぎている」
女将は離れたところから答えた。
「足りないよりはいいでしょう」
「最初に塩だけが立つ料理は、入口に看板だけ立てた会場と同じだ」
「でも食べますね」
「残す理由にはならん」
彼はスープを飲み続けた。
味は悪くなかった。野菜の甘みは残っている。玉ねぎが少し柔らかすぎるが、じゃがいもは崩れていない。黒パンは固いが、スープにつけるとよい。卵は少し茹ですぎだった。
日曜の食堂には、小さな音がたくさんあった。
スプーンが皿に当たる音。
ストーブの中で石炭が落ちる音。
新聞をめくる音。
外を通る馬の蹄の音。
奥で女将が皿を重ねる音。
ヒトラーはそれらを聞きながら、黒パンを割った。
食事というものは、会場に似ている。
匂いが入口になり、皿が中央になり、後味が出口になる。
だから脂の強い肉料理は嫌だった。肉はすぐ会場を占領する。匂いも脂も、後から来るものを押しのける。食べ終わった後まで、椅子に座っている。
彼はじゃがいもをナイフで切りながら、ふと窓の外を見た。
通りの向こうで、少年が紙袋を抱えて走っていた。母親らしい女が後ろから叱っている。市場の奥では、りんごを積んだ箱が並び始めていた。
食事を終えると、ヒトラーは硬貨を置いた。
女将が皿を下げに来る。
「今日は映画館へ?」
ヒトラーは顔を上げた。
「なぜだ」
「日曜の朝にスープを食べた日は、たいてい映画館の方へ行かれますよね」
「通ることと入ることは違う」
「先週は映画館に行くと仰られていたので」
「ニュースを見に行っただけだ」
「本編は?」
「椅子が悪かった」
女将は笑った。
「映画じゃなくて椅子ですか」
「座って見るのだ。椅子が悪ければ、画面まで悪くなる」
ヒトラーは帽子を取り、食堂を出た。
映画館は市場から少し歩いたところにあった。
正面には大きなポスターが貼られ、入口の上には電球の並んだ看板がある。昼前なので、灯りはまだついていない。切符売場の窓は磨かれていたが、横の広告板は少し傾いていた。
ヒトラーはそれを見て立ち止まった。
「右が低い」
通りかかった若い男が、不思議そうに彼を見た。
ヒトラーは構わず入口へ入った。
映画館のロビーには、薄い香水と古い布の匂いがあった。床には赤い絨毯が敷かれているが、入口付近だけ擦り切れている。切符売場の女は、彼を見ると静かに一枚を出した。
「今日もニュース映画だけですか」
「本編前まではいる」
「本編も評判ですよ」
「評判と構成は別だ」
女は何も言わず、切符を渡した。
館内は暗かった。
ヒトラーは後ろから三列目、通路側の席に座った。中央ではない。中央は観客に囲まれすぎる。前列は近すぎる。後列の端は出入りの音が気になる。後ろから三列目の通路側は、画面も見え、客席も見え、出口も近い。
彼は座った瞬間、眉をひそめた。
椅子の背が柔らかすぎる。
ほどなくニュース映画が始まった。
画面には、フランス大会の記録映像が少し流れた。観客席、走る選手、国旗、駅で手を振る人々。続いて、東方国境をめぐる会議の外観、各国代表の車列、新聞の見出し。さらにスペイン内戦の映像。遠くの煙。飛行場。瓦礫の道。子供を抱いた女。
館内は静かだった。
ヒトラーは腕を組んで見ていた。
映像はよくできていた。
よくできていることが、時々腹立たしかった。
車列の撮り方は悪くない。旗の位置もよい。だが、会議場の入口を映す時に、記者の帽子が画面の下を塞いでいた。編集が少し早すぎる。スペインの映像では、壊れた町が一瞬だけ出て、すぐ飛行機の影へ移った。
「逃げたな」
隣の男が小声で言った。
「何です?」
「編集だ」
男は困った顔をして、画面へ戻った。
ニュースの後に、短い漫画映画が流れた。
アメリカのものだった。
動物が走り、台所の皿が踊り、椅子が跳ね、影が伸び縮みした。子供たちは笑った。大人も少し笑った。
ヒトラーは笑わなかった。
だが、目は画面から離れなかった。
騒がしい。
ありえない。
椅子はあんなふうに跳ねない。皿は勝手に歩かない。影が主人の手を引くなど、馬鹿げている。
しかし、動きの順序は悪くない。
皿が落ちる前に観客の目をそこへ運んでいる。椅子が跳ねる前に、脚の向きを見せている。画面の右から左へ走らせ、次の場面で左から右へ戻している。混乱の中にも、導線がある。
ヒトラーは不機嫌そうに呟いた。
「騒がしい。だが、動きの整理は悪くない」
前の席の子供が笑った。
ヒトラーは黙った。
本編が始まる前に、彼は映画館を出た。
ロビーに出ると、支配人らしい男が声をかけてきた。
「もうお帰りですか」
「ニュースは見た」
「本編もよいですよ」
「椅子が柔らかすぎる」
「椅子ですか」
「人は物語を見る前に、椅子に負けることがある」
支配人は返答に困った。
ヒトラーは出口へ向かい、ふとロビーのポスターを見上げた。
「このポスターは十センチ低い」
支配人はさらに困った。
「はあ」
「客は切符を出す時に目線が下がる。その後でポスターを見る。低すぎると、すでに通り過ぎている」
「参考にします」
「参考にするな。直せ」
外へ出ると、昼の光が少しだけ明るくなっていた。
市場は朝より賑わっていた。りんご、玉ねぎ、チーズ、パン、花、古本、古い食器。人の声が混じり、石畳の湿った匂いに、果物と紙と馬の匂いが重なる。
ヒトラーはりんごの箱の前で立ち止まった。
赤いもの。黄色いもの。小さいもの。形の歪んだもの。
彼はひとつ取って、指で表面を確かめた。傷がある。戻す。もうひとつ。香りはよいが、重さが足りない。戻す。三つ目。形は悪いが、手に収まる。
店主が言った。
「それは甘いですよ」
「甘さだけなら砂糖で足りる」
「じゃあ何が大事で?」
「噛んだ時に水っぽくないことだ」
店主は笑った。
「りんごにも注文が多いですね」
「りんごが勝手に並んでいるのが悪い」
彼は結局、形の少し歪んだりんごを一つ買った。
そのまま市場を抜け、公園へ向かった。
日曜の公園には、家族連れが多かった。
落葉が道の端に集まり、ベンチには老人が座っている。乳母車を押す女、新聞を読む男、犬を連れた少年、帽子をかぶった老婦人。遠くの音楽堂の方から、練習なのか古い楽器の音が聞こえた。
ヒトラーは木の近くのベンチに座った。
スケッチブックを開く。
描くのは、人ではない。
あずまやの屋根。
木立の間隔。
園路の曲がり方。
ベンチの位置。
人がどこで立ち止まり、どこで道を譲るか。
彼は鉛筆を走らせた。
紙の表面は少し湿気を含んでいた。鉛筆の芯が、乾いた日よりわずかに重く当たる。手袋を外した指先は冷たい。木の幹からは、雨の後の樹皮の匂いがした。
近くのベンチに、帽子をかぶった紳士が座っていた。
横顔の鼻が目立つ。
ヒトラーはあずまやを描くつもりだったが、その紳士の横顔が画面に入り込んできた。鼻、口髭、顎。建物ほど整ってはいないが、線としては面白い。
彼はつい、紳士の輪郭を紙の端に写した。
似顔絵になった。
少し誇張された鼻。疲れた目。帽子の角度。本人よりも、本人らしい。
「上手」
声がした。
ヒトラーは鉛筆を止めた。
すぐそばに、少女が立っていた。十歳になるかならないか。薄い外套を着て、髪を後ろでまとめている。手袋の指先が少し大きい。彼女は遠慮もなくスケッチブックを覗き込んでいた。
「覗くな」
「だって見えたんだもの」
「見えたものを全部見るな」
「おじさん、絵描きさん?」
「違う」
「でも絵を描いてる」
「描いているのではない。線を確かめている」
「絵でしょ」
ヒトラーは少女を見た。
彼女は怯えなかった。好奇心だけで立っていた。
「絵は腕がないと言われた。だから建物を描くのを仕事にした」
「建物も絵でしょ」
「違う。建物は雨を避ける。絵は避けん」
少女は首をかしげた。
「でも、今の絵は人の顔も描いているよ」
「顔が勝手に入った」
「顔は勝手に入らないよ」
「この公園の配置が悪い」
少女は笑った。
その笑い声に、近くの女性が気づいた。
ベンチの少し向こうにいた母親らしい女性が、慌てて近づいてくる。落ち着いた身なりをしていたが、旅先の人間のように、少しだけ周囲を気にしていた。
「アンネ、邪魔しちゃだめでしょう」
そのドイツ語には、ミュンヘンのものではない丸さがあった。
北か。
西か。
ラインの方か。
それとも、どこか国境を越えた響きが混じっているのか。
ヒトラーは一瞬だけそれを聞き取った。
しかし、それ以上は考えなかった。
母親は頭を下げた。
「申し訳ありません。この子、絵を見るのが好きで」
「邪魔ではない」
ヒトラーはスケッチブックを閉じなかった。
「ただ、近くで動かれると線がずれる」
少女が言った。
「私は動いてないよ」
「目が動いている」
「目は動くよ」
「だから描きにくい」
母親は少し困ったように少女の肩へ手を置いた。
「行きましょう」
少女はまだスケッチブックを見ている。
「おじさん、私も描ける?」
「動かなければな」
「どれくらい?」
「鼻の線が終わるまでだ」
「私の鼻、そんなに長くないよ」
「長い短いの問題ではない。線の問題だ」
少女はまじめな顔で立った。
ヒトラーは数本だけ線を引いた。
額、髪、頬、鼻、口元。
子供の顔は難しい。大人の顔より線が少ない。線が少ないものほど、間違えるとすぐ別人になる。建物なら柱を足せる。子供の顔に柱は足せない。
彼は二枚分短く描いて、そのうちの1ページを切り取った。
「失敗作だ」
少女は受け取った。
「くれるの?」
「失敗作だからな」
「じゃあ、もらう」
「失敗作を喜ぶな」
「おじさんが描いたんでしょ」
「だから失敗作だ」
少女は絵を見て笑った。
母親がもう一度、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどではない」
少女は母親に手を引かれながら、少し歩いて振り返った。
「ママ、レヴィンおじさんのとこのお菓子食べたい」
母親は少し小さな声で言った。
「帰りに寄れるか見てみましょう」
ヒトラーの鉛筆が一瞬だけ止まった。
レヴィン菓子商会。
曲面硝子。
補強した木枠。
少し太くした看板文字。
夕方に入る光。
壊された正面。
直した正面。
そこへ、子供が菓子を買いに行く。
ヒトラーは、去っていく母娘の背中を見た。
何も言わなかった。
少女の名も聞かなかった。
母親の訛りも、家のことも、どこから来たのかも聞かなかった。
ただ、スケッチブックに描いた少女の横顔を思い出した。
「人物は、やはり苦手だ」
それから、あずまやの屋根へ線を戻した。
だが、どうしてもさっきの横顔が紙の端に残って見えた。
夕方近く、フランツは市場のそばでヒトラーを見かけた。
偶然だった。
フランツは休日の買い物で、紙袋にパンとチーズを入れて歩いていた。通りの向こうに、見慣れた帽子と外套がある。ヒトラーはりんごを一つ持って、店先の看板を見上げていた。
声をかけるべきか迷った。
休日に所長へ声をかけるのは、少し危険に思えた。
だがヒトラーの方が先に気づいた。
「何をしている」
「買い物です」
「見ればわかる」
「では、なぜ聞いたんですか」
「聞く前に答えるな」
フランツは苦笑した。
「所長は」
「歩いている」
「それも見ればわかります」
ヒトラーは不機嫌そうにしたが、怒りはしなかった。
二人は少しだけ同じ方向へ歩いた。
市場の匂いが夕方の冷気に沈んでいく。パン屋の煙突から煙が出ている。遠くで教会の鐘が鳴った。映画館の看板には、午後の回を待つ客が少し並んでいた。
フランツは聞いた。
「今日はお出かけですか」
「日曜だからな」
「それでスケッチブックを」
「休日でも線は曲がる」
「所長は、どこへ行っても正面を探しているんですね」
ヒトラーはすぐに返した。
「探しているのではない。向こうが曲がっている」
フランツは笑いそうになったが、やめた。
しばらく歩くと、レヴィン菓子商会の角が見えた。
店は開いていた。
曲面硝子には夕方の光が入り、看板の金文字は以前より少し太く、沈まずに見えた。店の前には母親と少女が立っていた。少女は小さな包みを両手で持っている。
フランツは気づかなかった。
ヒトラーは一度だけ、そちらを見た。
少女は気づかず、母親に何か話している。
店の正面は、ちゃんと店の顔をしていた。
ヒトラーは足を止めなかった。
ただ、少しだけ歩調を緩めた。
フランツが聞いた。
「あのお店、以前の」
「そうだ」
「きれいに戻りましたね」
「戻してはいない」
「え?」
「以前より少し強くした」
フランツは店を振り返った。
少女が包みを開けようとして、母親に止められている。
「よかったですね」
ヒトラーは顔をしかめた。
「何がだ」
「店が続いていて」
ヒトラーは答えなかった。
少し歩いてから、言った。
「正面は、使われて初めて直ったことになる」
フランツはその言葉を覚えておこうと思った。
事務所に戻る頃には、もう暗くなり始めていた。
ヒトラーは一階の鍵を開け、机の上にりんごを置いた。赤くはない。少し黄色く、片側が歪んでいる。見栄えは悪いが、香りはよかった。
フランツは入口で別れようとしたが、ヒトラーが言った。
「上がるなら上がれ」
「よろしいんですか」
「パンとチーズを持ったまま立っていると、入口が貧しく見える」
「では、少しだけ」
二階は冷えていた。
ストーブは消えている。机の上には、この間の空のイベントで使った縮小見本がまだ端に置かれていた。国境展示の地図筒もある。フランス大会のポスター見本も残っている。
仕事の紙ばかりだった。
その真ん中に、ヒトラーはスケッチブックを置いた。
フランツは、ちらりと紙の端に見えた横顔に気づいた。
「あれ、人物ですか」
「失敗作だ」
「子供ですか」
「動いた」
「子供は動きます」
「だから苦手だ」
ヒトラーはスケッチブックを閉じた。
フランツは買い物袋を置きながら尋ねた。
「今日も所長らしく過ごされたんですか」
ヒトラーは眉をひそめた。
「何だそれは」
「食堂に行って、映画館に行って、公園で絵を描いて、市場でりんごを買う。所長らしい休日です」
「ニュースを見た。椅子は悪かった。公園の配置も悪い。りんごは並べ方が悪い」
「でも休日です」
ヒトラーは少し黙った。
窓の外には、日曜の夜が降りていた。
通りは平日より早く静かになり、馬車の音も少ない。遠くで誰かが笑い、すぐに消えた。街灯の光が事務所の窓に映っている。
ヒトラーは机の上のりんごを手に取った。
「休日は、仕事でないものの曲がり方を見る日だ」
フランツは首をかしげた。
「それは休めていますか」
「知らん」
ヒトラーはりんごを置いた。
「だが、仕事の線ばかり見ていると、線が硬くなる」
フランツは少し驚いた。
所長が、自分の線についてそんなことを言うのは珍しかった。
「だから、人物も描くんですか」
「人物は苦手だ」
「苦手でも描くのですか?」
「苦手なものを避けると、得意なものまで痩せる」
その言葉は、ヒトラー自身にも少し意外だったようだった。
彼はすぐに不機嫌そうな顔へ戻った。
「今のは忘れろ」
「忘れません」
「忘れろ」
「受付簿があれば記録されますね」
「今日はユンゲ君がいなくてよかった」
フランツは笑った。
ヒトラーは笑わなかった。
だが、怒りもしなかった。
翌朝、ユンゲが出勤すると、一階の受付机に小さな包みが置かれていた。
レヴィン菓子商会の包み紙だった。
中には焼き菓子が二つ入っていた。
誰が置いたのか、書かれていない。
ユンゲが二階へ持って上がると、ヒトラーはすぐに言った。
「私ではない」
「まだ何も聞いていません」
「聞く顔をしていた」
エルゼが包み紙を見た。
「レヴィン菓子商会ですね」
「知らん」
「昨日、通りましたか」
「通りは誰でも通る」
フランツは黙っていた。
ユンゲは焼き菓子を皿に置いた。
「お茶を入れますか」
ヒトラーは顔をしかめた。
「甘すぎる菓子は朝に向かん」
エルゼが言った。
「では誰かお客様に」
「食べないとは言っていない」
ユンゲは少しだけ笑いそうになり、こらえた。
受付簿には、何も書かなかった。
書くほどの事件ではなかった。
ただ、日曜の翌朝、意匠事務所の机の上には、焼き菓子の匂いが少しだけ残った。
ヒトラーは窓際に立ち、通りを見ていた。
昨日の少女の顔は、もうそこにはない。
母親の訛りも聞こえない。
レヴィン菓子商会の包み紙だけが、皿の横で静かに畳まれている。
彼は低く言った。
「菓子の包みは悪くない」
ユンゲが聞き返した。
「何ですか」
「包み紙だ。文字の太さが前より良い」
フランツが横で言った。
「所長が直した看板と合わせたんでしょうか」
ヒトラーはすぐに返した。
「合わせたなら、もう少し余白を取るはずだ」
エルゼが帳簿を開きながら言った。
「では、食べてから文句を言ってください」
ヒトラーはしばらく皿を見た。
それから、焼き菓子を一つ取った。
少しだけ齧る。
香ばしいバターの匂いがした。
彼は眉をひそめた。
「甘さが前に出すぎている」
ユンゲは言った。
「でも、食べるんですね」
ヒトラーはもう一口齧った。
「残す理由にはならん」
窓の外では、月曜日のミュンヘンが動き始めていた。
馬車が通り、店が開き、新聞売りが声を出す。
遠い国境も、遠い空も、また紙に載って事務所へやって来るだろう。
けれどその朝だけ、事務所の中には、野菜スープと黒パンと、映画館の暗がりと、公園の湿った樹皮と、レヴィン菓子商会の焼き菓子の匂いが、ほんの少しだけ残っていた。
休日の線は、仕事の線より少し柔らかかった