第32話 大きすぎる柱
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
東プロイセンから戻って数日後、ミュンヘンの空は妙に白かった。
雨は降っていない。だが、光だけが薄く、建物の輪郭が粉をかぶったように鈍っている。市役所の石壁も、通りの馬車も、窓辺に並ぶ植木鉢も、どこか乾いた紙の上に置かれた模型のように見えた。
フランツはポルシェワーゲンのハンドルを握り、慎重に石畳を進んでいた。
後席にはヒトラーが座っている。膝の上には新聞。横には、市役所と商工会に提出してきた書類の控えが置かれていた。東プロイセン巡回展の開催報告、展示貨物の損傷届、遅延理由の説明、国境駅での停車記録、搬入時間変更届。
仕事そのものは終わった。
だが、仕事が終わると、紙が始まる。
ヒトラーは新聞を広げたまま、車の揺れに顔をしかめていた。
「道が悪い」
フランツは前を見たまま答えた。
「市役所前は石畳ですから」
「石畳にも、よい石畳と悪い石畳がある」
「新聞が読みにくいんですか」
「国際情勢が読みにくいのは、道のせいではない」
フランツはそれ以上言わなかった。
車内には、革の匂いと紙の匂いがあった。朝の冷えた空気がまだ窓際に残り、ヒトラーが新聞をめくるたびに、乾いた音が小さく鳴った。
記事はイタリアだった。
アルバニア方面。
アドリア海。
保護。
安定化。
ローマの歴史的責任。
ムッソリーニの演説。
新聞には、大きな身振りで群衆の前に立つムッソリーニの写真が載っていた。背景には柱があり、旗があり、古代ローマを思わせる意匠がこれでもかと並べられている。
ヒトラーは鼻で笑った。
「声もでかい。態度もでかい。柱もでかすぎる」
フランツはバックミラー越しにちらりと見た。
「イタリアですか」
「ローマ帝国の衣装を着て、やっていることはアドリア海の小国相手のコソ泥だ」
「新聞には、保護と安定化とあります」
「泥棒はたいてい、戸口で何かもっともらしいことを言う」
「かなり辛口ですね」
「辛口ではない。柱が大きすぎるのだ」
フランツは少し笑いそうになった。
「柱ですか」
「柱で威張る者は、足元を見られたくない。ローマを名乗る者ほど、柱を雑に使う」
ポルシェワーゲンは市場の横を抜け、事務所のある通りへ入った。
ヒトラーはまだ新聞を見ている。アルバニアの記事の下には、別の見出しがあった。
日独伊、反共協力の強化へ
三国接近、欧州と東方の新たな防波堤
防共広報週間、各地で準備
ヒトラーは眉を動かした。
「紙面は海を畳みすぎる」
「何ですか」
「日本とイタリアとドイツを、同じ幅に並べている」
「反共協力の記事ですか」
「協力と同格は違う」
フランツは事務所前に車を止めた。
ヒトラーは新聞を畳まずに降りた。降りてすぐ、車体側面の文字を見た。濃灰の車体に、控えめに入った Adolf Hitler Entwurfsbüro の文字。
彼は一瞬だけ目を細めた。
「汚れている」
フランツも見た。
「帰ったら拭きます」
「帰った」
「はい、いま戻りました」
「なら拭け」
「書類を上げてからで」
「汚れは待たせると自分を正当化する」
フランツは諦めて、布を取り出した。
ヒトラーは新聞と書類を持って事務所へ入った。
一階では、ユンゲが受付机を整えていた。エルゼはすでに二階にいるらしく、上から帳簿を閉じる音が聞こえた。クレープスは奥で、東プロイセンから戻った展示台の補修に使った工具を片づけている。
ユンゲが顔を上げた。
「お戻りなさい」
「戻る以外に方法がない」
「市役所は」
「紙が増えた」
「いつものことですね」
「いつものことを当然にするな」
ヒトラーは二階へ上がった。
机に書類を置き、新聞を広げ直す。アルバニアの記事をもう一度読み、次に日独伊の反共協力の記事へ目を移した。
そこへ、階段を上がってくる足音がした。
静かで、整っていて、嫌なほど迷いがない。
ヒトラーは新聞から目を離さずに言った。
「また来たな」
扉が開いた。
ハインリヒ・ヒムラーが立っていた。片手に黒い書類鞄、もう片方に細長い筒を持っている。後ろには、小柄な男が続いた。ゲッベルスだった。こちらは筒を二本抱え、顔にはすでに何かを売り込む時の笑みがある。
エルゼは帳簿机から顔を上げた。
「ご予約は」
ヒムラーは軽く会釈した。
「本日は、防共協力広報週間の件で」
ヒトラーは新聞を畳んだ。
「新聞の続きが歩いて来た」
ゲッベルスは笑った。
「それなら、紙面から会場へ進めるわけです」
「紙面から出てくるな。インクが落ちる」
ヒムラーは気にせず、机の上に書類を並べた。
「表向きは、市民向けの防共理解促進です。講演、写真展示、資料配布、街頭掲示、新聞広告、後援会加入受付。ドイツ、イタリア、日本の反共協力を、過度に軍事同盟と見せず、しかし十分に強く印象づける必要があります」
エルゼがすぐに言った。
「軍事同盟ではないのですね」
「正式には違います」
「では、同盟と読める表現は避けるべきです」
ゲッベルスが肩をすくめた。
「広告としては弱くなります」
エルゼは帳簿を開いた。
「契約としては強くなります」
ヒトラーは低く言った。
「広告屋はすぐ柱を増やす。経理はすぐ柱を削る。今回は経理が正しい」
ヒムラーは別紙を差し出した。
「会場構成の分類案です。第一分類、欧州防共協力の歴史。第二分類、コミンテルンの脅威。第三分類、イタリア王国との協力関係。第四分類、日本との対ソ情報交換。第五分類、三国共同広報。第六分類、参加者意識区分。第七分類、反共信頼度登録」
エルゼのペンが止まった。
「第六分類と第七分類は、当事務所の業務外です」
ヒムラーは穏やかに答えた。
「意識把握は、次回以降の動員に有用です」
「動員は当事務所の業務ではありません」
「後援会加入受付と連動すれば」
「しません」
ヒトラーが新聞を指で叩いた。
「客を箱に入れるな。椅子に座らせろ」
ヒムラーは書類を一枚引いた。
「では、参考資料として」
「参考にする者が出る。出すな」
「所長は、人の分類を嫌いますね」
「君は好きすぎる」
ユンゲが一階から上がってきて、来客用の記録帳を開いた。ゲッベルスはその横で、嬉しそうに筒を机へ置く。
「では、視覚面を」
「不吉な言い方だ」
ヒトラーが言うと、ゲッベルスは最初の筒を広げた。
大きなポスター案だった。
背景には、三本の巨大な柱。
左にイタリア。中央にドイツ。右に日本。
三国の旗は同じ大きさで、柱の上に掲げられている。
下には太い文字。
反共の三本柱
欧州と東方を守る協力
ヒトラーはしばらく黙って見ていた。
その沈黙を、ゲッベルスは好意的に解釈したらしい。
「力強いでしょう」
ヒトラーは言った。
「柱が大きすぎる」
ゲッベルスは笑みを崩さなかった。
「柱は協力の象徴です」
「大きすぎる柱は、屋根より先に自分を見せる」
「市民には分かりやすい」
「分かりやすい嘘は、嘘の中でも一番始末が悪い」
ヒムラーが横から言った。
「防共協力としては、三者の連携を印象づける必要があります」
「連携と同格は違う。距離も違う。欲しいものも違う。声の大きさも違う。三本柱にすると、同じ屋根を支えているように見える」
ゲッベルスはすぐ返した。
「それが狙いです」
「だから悪い」
ヒトラーはポスターの三つの旗を指した。
「ドイツの旗を、コソ泥と野蛮人の旗と同じ大きさにするな」
部屋の空気がわずかに止まった。
ユンゲのペンが止まる。
フランツが階段の途中で顔を上げる。
エルゼは表情を変えないが、帳簿に置いた指だけが動かなかった。
ヒムラーは、その言葉を分類しそうな目をした。
ゲッベルスだけが、面白そうに笑った。
「所長、それをそのまま使えば、かなり強い」
「使うな」
「もちろん使いません。ですが、感情は分かります」
「分かるな」
エルゼが静かに言った。
「政治的にも商業的にも、不適切です」
ヒトラーは新聞を指で押さえた。
「私は礼儀の話をしていない。大きさの話をしている」
フランツがゆっくり部屋へ入ってきた。
「日本については、以前は評価されていましたよね」
「ロシアを破った。それは認める」
ヒトラーは言った。
「遠い東の小国がロシアを破った。軍の規律と近代化は見事だった。木版画の線、余白の使い方、工芸の整理にも見るべきものはある」
ユンゲは少し驚いた顔をした。
「お嫌いではないのですか」
「嫌いではない。だが、今は大陸で泥を跳ね上げている。日露戦争の日本は、遠くから見ればよく整っていた。今の日本は、紙面の上で騒がしすぎる」
ゲッベルスがすかさず言った。
「ならば、日本の余白を活かした意匠で」
「余白を学べと言った。旗を増やせとは言っていない」
ヒムラーは控えめに口を挟んだ。
「日本は対ソ牽制として有用です」
「有用という言葉は、人間にも国にも使いすぎるな」
「しかし、実際に有用です」
「遠すぎる。思想で船は速くならん」
ゲッベルスは次の案を広げた。
今度は、三国の旗を背景に、赤い放射線が東から広がり、西には古代風の柱が立っている。中央にはドイツの鷲と、反共の標語。イタリア側にはローマ風の月桂冠。日本側には強い旭日的な意匠。
ヒトラーは一目で顔をしかめた。
「うるさい」
ゲッベルスは少し得意げだった。
「街頭向けです。通行人を止めるには、このくらい」
「止めるな。足を乱すな」
「広告は足を止めるものです」
「止めた後に読む場所がない。光線が多すぎる。柱が多すぎる。旗が大きすぎる。月桂冠は嘘くさい。東の放射はさらに悪い」
「全部ですか」
「全部だ」
「では何を残せば」
「文字を残せ」
ゲッベルスは露骨に嫌な顔をした。
「文字だけでは弱い」
「君の文字は強すぎる。少し弱くなれ」
ヒムラーが別の紙を取り出した。
「会場内では、三国を三つの柱として並べるのではなく、三つの区画として整理する案もあります」
ヒトラーはすぐに言った。
「区画も危ない」
「危ない?」
「区画にすると、君は人を入れ始める」
ヒムラーは沈黙した。
エルゼが言った。
「今回は、展示資料、講演壇上、街頭掲示、新聞広告、後援会加入受付までです。参加者の分類、意識調査、信頼度登録は契約範囲外。よろしいですね」
ヒムラーはうなずいた。
「よろしいです」
ヒトラーは疑わしそうに見た。
「よろしいと言う時ほど、よろしくない顔をしている」
ゲッベルスはまだポスター案を見ていた。
「所長、三国を同じ大きさにしないとなると、協力に見えません」
「なら、協力を大きさで見せるな」
「何で見せるのです」
「距離だ」
「距離?」
「近く見せるな」
ヒトラーは机の上の紙を引き寄せ、鉛筆を取った。
「ドイツを中央に置くな。中央に置くと、他の二つを引き寄せたくなる。地図は広げろ。海を畳むな。イタリアは南にある。日本は遠い。遠いものを近く描くと、紙の方が嘘をつく」
フランツが会場図を出した。
「では、会場中央は」
「三国ではなく、防共協力の説明。コミンテルン、対ソ警戒、情報交換、通商上の注意。イタリアは地中海とバルカンの事例として横へ置く。日本は東方の対ソ情報交換としてさらに別枠。旗は下部に小さく」
ゲッベルスは言った。
「旗を小さく?」
「旗は大きくすると、説明を食う」
「市民は旗を見るのです」
「だから小さくしろ」
「逆では」
「旗だけ見て帰る客は、最初から来なくていい」
ヒムラーはメモを取っていた。
「では、三本柱案は」
「却下」
「柱を細くする案は」
「却下」
「一本柱案は」
「柱を出すな」
ゲッベルスが言った。
「タイトルが死にます」
「死なせろ」
「反共の三本柱は分かりやすいのですが」
「分かりやすいものを何度も殺して、ようやく見られるものになる」
ユンゲは記録帳に書いた。
防共協力広報週間
会場装飾・掲示物配置
三本柱案、却下
三国旗同寸案、却下
同盟表現、不可
防共協力として修正
イタリア古代風意匠、過剰
日本放射表現、過剰
参加者意識区分、対象外
反共信頼度登録、対象外
少し迷ってから、最後に一行を足した。
柱は増やさず
フランツが横から覗いた。
「作業指示ですか」
ユンゲはうなずいた。
「今回は、本当に作業指示です」
ヒトラーは、ゲッベルスの案を赤鉛筆で次々に潰していった。
柱を消す。
放射線を消す。
月桂冠を消す。
旗を縮める。
標語を短くする。
三国を同列に見せる台座を消す。
地図の距離を戻す。
ゲッベルスはそれを見ながら、ため息をついた。
「広告が痩せます」
「太りすぎていた」
「痩せすぎると目立ちません」
「痩せたものが全部弱いと思うな。余白は骨だ」
ゲッベルスは少しだけ笑った。
「日本の余白ですか」
「勝手に東へ逃げるな」
ヒムラーは、修正案を見て言った。
「しかし、参加者には三者の結束を印象づけたいところです」
ヒトラーは新聞を持ち上げた。
「結束などと書けば、イタリアは柱を建て、日本は光を出し、君は参加者を箱に入れ、ゲッベルスは字を大きくする。誰も椅子に座らん」
エルゼが言った。
「会場は座席数から決めます」
「そうだ」
ゲッベルスが笑う。
「椅子から反共を始めるのですか」
ヒトラーは即座に答えた。
「客が座れない反共は、立ち話だ」
午後遅くまで、修正は続いた。
最終案は、最初のものとはかなり違っていた。
会場中央には、巨大な柱も三国旗もない。
あるのは、低い展示台と、三つの離れた地図。
ドイツの周辺には欧州の共産主義運動と対ソ警戒の資料。
イタリアの部分には地中海、バルカン、アルバニア方面の記事が控えめに並ぶ。
日本の部分には日露戦争の古い写真、対ソ国境、そして現在の日中戦争をめぐる新聞記事が、過度な装飾なしで置かれる。
三国の旗は、各説明板の下部に小さく載るだけだった。
街頭ポスターは、白地に黒い文字が中心になった。
防共協力広報週間
講演・展示・資料配布
欧州と東方における反共連絡
下部に、小さく三国の印。
ゲッベルスは不満そうだった。
「弱い」
ヒトラーは見た。
「読める」
「読めるだけでは」
「読めない広告よりましだ」
「街頭では負けます」
「何に」
「派手なものに」
「派手なものは最初だけ勝つ。二度目は疲れる」
ヒムラーは書類をまとめた。
「では、この方向で見積もりを」
エルゼが言った。
「参加者分類を外した見積もりです」
「承知しています」
「信頼度登録も外します」
「承知しています」
「承知したものを、別紙で戻さないでください」
ヒムラーは少し微笑んだ。
「努力します」
ヒトラーが言った。
「努力ではなく、やめろ」
夕方、ゲッベルスとヒムラーが帰った後、事務所には紙と鉛筆の匂いが残った。
ユンゲは修正案を整理していた。
フランツはポスターの縮小見本を乾かしている。
エルゼは見積書を書き始めていた。
クレープスは、柱を消された会場図を見て、少し安心したような顔をしている。
ヒトラーは机の上の新聞をもう一度広げた。
ムッソリーニの写真がまだそこにあった。
大きな柱。
大きな身振り。
大きな言葉。
小さな国。
ヒトラーは低く言った。
「柱で立っているように見せる者ほど、足元が騒がしい」
フランツが顔を上げた。
「イタリアのことですか」
ヒトラーは新聞を畳んだ。
「広告のことだ」
少し間を置いて、付け足した。
「同じだ」
窓の外では、ポルシェワーゲンの車体が夕方の光を受けていた。フランツが拭いたため、側面の文字は少しだけ明るく見えた。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
走る看板。
移動する正面。
ヒトラーはそれを見て、新聞の三国見出しを思い出した。
新聞は遠いものを近く置く。
広告は違うものを同じ大きさにする。
政治家は柱を増やす。
顧問は人を分類する。
広告屋は字を大きくする。
そして、どれも正面を欲しがる。
ヒトラーは赤鉛筆を置いた。
「柱は少ない方がよい」
ユンゲが聞いた。
「会場の話ですか」
「全部だ」
その日の記録帳には、最後までその一行が残った。
柱は増やさず。
それは本当に作業指示だった。
だが、誰もその通りにするとは限らなかった。