第35話 仕事納めの靴音
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1939年12月30日。
ミュンヘンの朝は、雪というより、雪になり損ねた水を石畳に撒いたような天気だった。
アドルフ・ヒトラー意匠事務所の玄関マットは、朝からすでに敗北していた。誰かが入るたびに、黒い水気が広がり、泥が縁にたまり、濡れた靴底の跡が受付の前まで伸びた。
エルゼは帳簿から目を上げずに言った。
「玄関マットをもう一枚出してください」
フランツが倉庫のほうへ向かった。
「仕事納めの日に、マットも納めることになりそうですね」
「納めるのは請求書です。マットではありません」
エルゼはそう返し、年末分の入金確認欄に線を引いた。
事務所の中は、普段よりも少しだけ落ち着かない空気だった。製図机の上には、年内に片付けるべき図面が積まれている。壁にはヨードルが作った年始予定表が貼られ、そこには赤鉛筆でいくつもの確認印が入っていた。
ヨードル本人は、その前に立っていた。
何かを処刑する前のような顔で、ただ予定表を見ていた。
クレープスが横を通りながら言った。
「ヨードルさん、その顔で予定表を見ると、予定のほうが逃げそうです」
ヨードルは振り向かずに答えた。
「顔は予定に含まれません」
そのとき、玄関の扉が開いた。
冷たい湿った空気とともに、クララ・ユンゲが入ってきた。帽子とコートには細かい水滴がついている。手袋を外す動きはいつも通り落ち着いていたが、足元だけが少し違っていた。
黒革の乗馬ブーツだった。
膝下まで伸びる、よく手入れされた革のブーツである。濡れた路面を歩いてきたはずなのに、入口で軽く足を払っただけで、床に広がる水気は少なかった。
ヒトラーは新聞を手に持ちながら、その様子を見ていた。
「ユンゲ君」
「はい」
「事務所に騎馬隊を持ち込むな」
ユンゲは帽子を脱ぎ、受付脇の掛け金にかけた。
「馬は連れてきておりません」
「ここは厩舎ではない」
「厩舎なら、もっと床が濡れております」
フランツが倉庫から新しい玄関マットを抱えて戻ってきたところで、思わず咳払いをした。笑いかけたのを隠すためだった。
ヒトラーはフランツを一瞥した。
「フランツ、笑うな。玄関は戦場だ」
「はい、所長。戦況は悪いです」
エルゼが帳簿を閉じた。
「所長、今日の玄関で一番床を濡らしていないのはユンゲさんです」
ヒトラーは眉を動かした。
「エルゼ、君は馬の側につくのか」
「床の側につきます」
ユンゲは手袋を揃えながら、静かに言った。
「オーバーシューズを入口で脱ぎ履きするより、このほうが事務所を汚しません。クリスマス休みに使ったので、手入れも済ませてあります」
「クリスマス休みに?」
ヒトラーの目が少し細くなった。
「君の趣味の乗馬か」
「はい。ミュンヘン郊外の知人の馬場です」
「年末に馬とは、実に騒がしい休みだ」
「馬は比較的静かでした」
フランツが小声で言った。
「比較対象が所長ですからね」
ヒトラーは即座に振り向いた。
「フランツ」
「はい」
「聞こえているぞ」
「聞こえるようには言っておりません」
「聞こえた時点で同罪だ」
ユンゲは席につき、記録帳を開いた。だが、いつものようにすぐペンを取るのではなく、少し間を置いた。
エルゼが気づいた。
「何かありましたか」
「はい。馬場で、フェーゲライン氏に声をかけられました」
その名前を聞いた瞬間、事務所の空気がわずかに変わった。
カイテルが書類から顔を上げた。
ブルクドルフが工具箱の蓋を閉める手を止めた。
ヒトラーは嫌そうに目を伏せた。
「仕事納めの日に、騒がしそうな名前を出すな」
ユンゲは淡々と続けた。
「乗馬関係の集まりに来ていたようです。スポーツ協会、退役軍人会、それから寄付行事の関係者もいたように見えました」
「見えました、では足りん。あの手の男は、見えている人数より机の下の人数が多い」
エルゼが頷いた。
「フェーゲライン氏の紹介案件なら、前金確認が必要です」
「前金どころではない」
ヒトラーはデスクの前から歩き出した。
「馬で始まり、寄付で膨らみ、退役軍人会で椅子が増え、スポーツ協会で旗が増え、最後には誰かが壇上に立つ。そういう案件だ」
ヨードルが予定表の前から言った。
「年始予定表に空欄はあります」
ヒトラーはそちらを見た。
「空欄は仕事を入れるための穴ではない。予定を呼吸させるための余白だ」
「では、余白として保存します」
「保存するな。狙われる」
ユンゲは記録帳に視線を落とした。
「フェーゲライン氏は、所長は評判がいいらしい、と言っていました」
ヒトラーは足を止めた。
「何と?」
「評判がいいらしい、と」
「誰の評判だ」
「所長の評判です」
「フェーゲラインが言ったのか?」
「はい、フェーゲライン氏です」
「だから信用ならん」
フランツが机の端で図面を揃えながら言った。
「褒められているのに、そんな顔をする人も珍しいですね」
ヒトラーはフランツのほうを見た。
「フランツ、評判というものはな、玄関先の雪と同じだ。外から見ると白い。中に持ち込むと床を汚す」
エルゼが即座に言った。
「その場合、掃除費は誰に請求しますか」
「評判を持ち込んだ者だ」
「ではユンゲさんになります」
ユンゲは顔を上げた。
「私は伝言を持ち帰っただけです」
「ではフェーゲラインだ」
エルゼは帳簿の横に置いていた小さな紙に、何かを書きつけた。
「フェーゲライン氏。年始相談。前金確認。掃除費未定」
ヒトラーは眉をひそめた。
「掃除費は書くな」
「では、雑費にします」
「もっと悪い」
ユンゲは、少しだけ口元を緩めた。
「フェーゲライン氏は、こうも言っていました。『少々うるさいが、仕上げは確かだとか』」
事務所が沈黙した。
フランツが、図面の端を揃える手を止めた。
クレープスが、測量用の折尺を閉じる音だけが響いた。
ヒトラーは、ゆっくりとユンゲを見た。
「少々?」
「はい」
「少々とは何だ」
フランツが小声で言った。
「そこですか」
「そこだ」
ヒトラーは胸を張った。
「うるさいことは否定せん。むしろ必要なことだ。だが、少々で済むと思われているのが問題だ」
カイテルが、確認書の束を持ったまま言った。
「所長、評判としては良いほうです」
「良い評判ほど面倒な仕事を連れてくる」
エルゼが言った。
「悪い評判でも仕事は減ります」
「それも困る」
「では、ちょうどよい評判です」
ヒトラーは返答に詰まり、代わりに机の上の新聞を手に取った。読みもしないまま、見出しだけを睨んだ。
「年末だというのに、世間は仕事を増やすことばかり考えている」
「世間でなく、フェーゲライン氏です」
ユンゲが訂正した。
「同じだ。ああいう男は、世間の顔をして扉を開ける」
ブルクドルフが工具箱を肩にかけた。
「追い返しますか」
「まだ来ていない者を追い返せるか」
「来たら追い返しますか」
「案件の中身による」
エルゼがすかさず言った。
「支払い条件によります」
ヒトラーは手を上げた。
「支払い、支払い、支払い。君は年末まで金の話か」
「仕事納めですので」
「それはもっともだ」
ヒトラーは新聞を机に置いた。
「で、そのフェーゲラインは何を頼みたいと言った」
ユンゲは記録帳を開き直した。
「年始に、冬の乗馬行事と慈善寄付を合わせた催しを考えているようです。退役軍人会の関係者も招き、スポーツ振興と乗馬文化の紹介を兼ねたい、と」
ヒトラーは目を閉じた。
「全部だ」
「はい?」
「全部入っている。馬、寄付、軍人、スポーツ、文化、紹介。こういうものは最後に必ず旗と演説が生える」
フランツが言った。
「生えるんですか」
「生える。湿った木箱に黴が生えるように」
エルゼは真顔で言った。
「旗と演説の除去費も見積もりに入れますか」
「入れろ」
ユンゲがペンを構えた。
「記録しますか」
「するな。いや、契約時には使え」
「承知しました」
ヨードルが予定表に近づき、赤鉛筆を持った。
「仮に年始案件として扱うなら、1月第2週以降です。1月2日から5日は挨拶、請求残務、図面整理。1月6日は祝日。実務開始は8日以降が妥当です」
ヒトラーは頷いた。
「よろしい。年の初めから馬に蹴られる必要はない」
ユンゲが静かに言った。
「馬は蹴っておりません」
「フェーゲラインは蹴る前に笑う」
カイテルが確認書の束を机に置いた。
「では、年始に正式な相談が来た場合は、まず内容確認書を出します」
「違う」
ヒトラーは指を立てた。
「まず椅子の数を聞け」
カイテルは一瞬だけ考え、頷いた。
「演説の有無より先に、椅子の数ですか」
「椅子の数で嘘が分かる。寄付行事と言いながら椅子が多ければ、誰かが長く話す。乗馬行事と言いながら観客席が広ければ、馬より人を見せたい。退役軍人会と言いながら壇上が高ければ、過去を飾りにするつもりだ」
エルゼが淡々と言った。
「では、確認事項。椅子の数、壇上の高さ、旗の本数、寄付箱の位置、支払い責任者」
「寄付箱は入口に置くな」
ヒトラーが即座に言った。
「なぜです」
フランツが尋ねた。
「入る前に金を取るな。出る時にも取るな。催しを見た者が、自分で歩いて行ける場所に置け。泣かせてから金を取るのもだめだ。馬を見せてから金を取るのも、まあ、程度による」
ユンゲは書きながら言った。
「程度による、ですか」
「馬が良ければな」
「所長、馬はお嫌いなのでは」
「嫌いだ。だが、下手な演説よりは馬のほうが正直だ」
ブルクドルフが笑った。
「では、馬を前に出しますか」
「出しすぎるな。馬も迷惑する」
エルゼは立ち上がり、金庫のほうへ向かった。
「所長、そろそろ年末分を締めます」
「締めろ。未払いは年を越させるな」
「相手が払わなければ越します」
「では、越す前に追え」
「銀行も休みます」
ヒトラーは舌打ちした。
「銀行はいつも重要な時に壁になる」
「壁は必要です」
「金を止める壁はいらん」
フランツは新しい玄関マットを敷き終え、濡れた古いほうを持ち上げた。
「これ、干しておきます」
「干すな」
ヒトラーが言った。
「え?」
「失敗は残す」
エルゼが金庫の鍵を手に振り返った。
「玄関マットもですか」
「違う。図面の話だ」
フランツは濡れたマットを抱えたまま固まった。
「では、これは」
「干せ」
「はい」
ヒトラーは製図机の上に積まれた紙束へ歩いた。年内に終わったもの、終わらなかったもの、終わったことにしてはいけないものが、それぞれ別の山になっている。
その一番端に、赤鉛筆で大きく斜線を引かれた会場案があった。
ゲッベルスが持ち込んだ、白すぎる盾の案だった。
ヒトラーはそれを捨てず、失敗案の箱へ入れた。
「所長、それは残すのですか」
ユンゲが尋ねた。
「残す」
「使わない案ですが」
「だから残す。使った案は現場に残る。使わなかった失敗は、こちらで飼っておかねばならん」
カイテルが言った。
「失敗を飼うのですか」
「放すとまた来る」
エルゼが金庫を閉めた。
かちり、という音がした。
その音で、事務所の一日が少し年末に近づいた。
外では雪になり損ねた雨が、まだ窓を叩いていた。窓ガラスの向こうで、馬車の車輪か自動車のタイヤか分からない音が、石畳の水を跳ねた。
ユンゲは記録帳を閉じた。
「所長。フェーゲライン氏の件は、年始相談として仮置きします」
ヒトラーは振り向いた。
「ユンゲ君」
「はい」
「来年、馬を連れてくるな」
「フェーゲライン氏は馬ではありません」
「なお悪い」
フランツがマットを持って裏口へ向かいながら、今度は遠慮なく笑った。
ヒトラーはそれを叱ろうとしたが、ブーツの音が先に耳に入った。
ユンゲが席を立ち、玄関のほうへ歩いていた。黒革の乗馬ブーツは、濡れた床をほとんど汚さなかった。きちんと手入れされた革が、弱い冬の光を受けて静かに光っていた。
ヒトラーはその足元を見て、少しだけ不機嫌そうに言った。
「床を濡らさないなら、騎馬隊も一名までは許す」
ユンゲは振り向いた。
「馬は来年も連れてきません」
エルゼが帳簿を抱えながら言った。
「その条件なら、許可記録に残せます」
「残すな」
ヒトラーは即座に言った。
「記録に残すと、来年には二名になる」
ヨードルが予定表を外し、裏返した。
「年始予定表には、まだ一名分の余白があります」
ヒトラーは顔をしかめた。
「余白に馬を書くな」
「では、フェーゲライン氏と書きます」
「馬のほうがましだ」
事務所の中で、数人が今度こそ笑った。
ヒトラーは咳払いをし、机の上の図面を揃えた。端がそろっていない紙を見つけると、年末だろうが何だろうが、きっちり直さずにはいられなかった。
やがて、壁の時計が昼を少し過ぎた時刻を示した。
エルゼが言った。
「本年分、締めます」
カイテルが確認書を束ねた。
「年始回答待ち、三件」
ヨードルが予定表を丸めた。
「年始仮置き、一件」
ブルクドルフが工具箱を持ち上げた。
「現場道具、片付け済み」
クレープスが折尺をしまった。
「寸法記録、保管済み」
フランツが裏口から戻ってきた。
「玄関マット、干しました」
ユンゲが記録帳を閉じた。
「本日の記録、終了します」
ヒトラーは全員を見回した。
「よろしい」
そして、少し間を置いてから言った。
「年を越すものは、濡らすな。靴も、図面も、契約書もだ」
エルゼが鍵を鞄に入れた。
「未払いも、できれば濡らさずに回収します」
「未払いは乾いていても腹が立つ」
「では、年始に回収します」
ヒトラーは鼻を鳴らした。
「年始から金の話か」
「仕事始めですので」
「もっともだ」
外の空は、まだ低かった。
雪になり損ねた雨は、夕方にはまた雪になるかもしれなかった。ミュンヘンの石畳は、年末の足音を吸い込みながら、黒く濡れていた。
ヒトラー意匠事務所の扉が閉まる。
その向こうで、新しい年の仕事が、まだ扉の外に立っていた。
馬の匂いを少しだけさせながら。