第39話 曇りガラスの扉
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1940年3月15日。
新しい事務所の鍵は、前日に受け取っていた。
エルゼはその鍵を受け取る時、家主側の代理人の前で二度、番号を確認した。一つは表口。一つは裏口。一つは倉庫側。一つは、所長室と呼ばれている部屋の鍵だった。
ヒトラーは、その最後の鍵を見て言った。
「まだ所長室ではない」
家主側の代理人は困った顔をした。
「契約書上は、個室として」
「契約書が部屋を偉くするのではない。机が置かれ、線が通り、人が入る位置が決まって初めて部屋になる」
エルゼは鍵を封筒に入れた。
「では、名称は未定にしておきます」
「所長室という言葉を勝手に書くな」
「契約書にはもう書かれています」
「契約書は時々、先走る」
家主側の代理人は、何を返せばよいか分からない顔をしていた。
その翌朝、旧事務所には、まだ朝の冷気が残っていた。
ミュンヘンの通りには、冬戦争終結を伝える新聞の見出しがまだ残っている。一昨日は号外だったものは、今日は整理された記事になっていた。戦闘停止、講和条約、カレリア、フィンランド、ソ連。紙面の上では、雪も血も地図の線に変わる。
だが、ヒトラー意匠事務所の中では、もっと小さな線が問題になっていた。
箱に書く文字の太さである。
「太すぎる」
ヒトラーは木箱の側面を睨んだ。
そこにはフランツが書いた文字があった。
製図資料 応接横へ
フランツは筆を持ったまま言った。
「読めます」
「読めることと、締まることは違う」
「引っ越し箱ですよ」
「引っ越し箱でも、見る者は見る」
エルゼが帳簿箱の紐を結びながら言った。
「見るのは運搬人です」
「運搬人にも目はある」
「では、運搬人のために字間を詰めますか」
ヒトラーは一瞬黙った。
「詰める」
フランツは少しだけ天井を見た。
旧事務所は、これまでで一番片付いているはずなのに、これまでで一番乱れて見えた。
大きな棚はすでに空になっている。布見本は新事務所へ運ぶ箱に入り、紙筒は種類ごとにまとめられ、帳簿はエルゼの指定した順に並んでいた。壁に貼られていた予定表は剥がされ、窓際の鉢植えも、応接机の灰皿も、細い真鍮の紙押さえもなくなっている。
だが、なくなったことで、部屋の傷が見えるようになった。
壁の釘跡。
棚の跡。
机の脚が擦った床。
ストーブの周りの煤。
階段の角についた傷。
それらは、図面には出てこない線だった。
ユンゲは一階の旧帽子店部分で、搬出一覧を確認していた。
「第一便。小型箱十六。紙筒七束。布見本二箱。応接用椅子四脚。帳簿箱三。現場道具箱二。受領確認済み」
「大型箱は週明けだ」
ヨードルが日程表を見ながら言った。
「製図机は最後です。先に動かすと、今日と明日の細かい修正ができません」
クレープスは二階から図面筒を抱えて下りてきた。
「この筒は新事務所の製図室ですか」
ユンゲは札を見た。
「失敗案。保存。所長指定」
「では所長の近くですね」
エルゼが即座に言った。
「近すぎない場所です」
ヒトラーが振り向いた。
「失敗を遠ざけるな」
「近すぎると、所長が開けます」
「開けて悪いか」
「引っ越し中です」
「失敗は引っ越し中でも失敗だ」
ブルクドルフが木箱の蓋を閉めながら言った。
「失敗案なら、重くても中身は紙でしょう」
フランツが答えた。
「所長の失敗案は、紙のくせに重いんです」
「聞こえている」
「聞こえるように言いました」
ヒトラーは赤鉛筆を持ち上げたが、書く紙がなかったので、何もできなかった。
そのことに気づいて、ユンゲは少しだけ口元を緩めた。
旧事務所の二階には、まだ製図机が残っていた。
机の表面には細かい傷があった。定規の跡、烏口の跡、紙を押さえた時の小さなへこみ。大きな仕事も、小さな仕事も、怒鳴り声も、支払いの催促も、その机の上を通っていった。
ヒトラーはそこに手を置いた。
「これは最後に運ぶ」
「承知しています」
ユンゲが答えた。
「なぜ先に運ばないのか、と運搬人から確認がありました」
「運搬人に説明しろ。心臓を先に運ぶ者はいない」
エルゼが言った。
「心臓なら、もっと丁寧に扱う必要があります」
「当然だ」
「では、追加料金です」
ヒトラーは手を離した。
「心臓という比喩を取り消す」
「記録しました」
ユンゲが言った。
「消せ」
「搬出指示として残します。製図机、最後。丁寧に扱うこと」
「比喩は消せ」
「比喩は残しません」
「ならよい」
フランツは机の引き出しを開けた。
中には、古い紙が何枚か残っていた。
「所長、これは」
ヒトラーは近づいた。
一枚は、色の褪せた助手募集の控えだった。
製図補助。雑務。現場補助。
字の読める者。線を引ける者。遅刻しない者。
フランツはそれを見て、笑いそうになった。
「条件が少ないですね」
エルゼが横から覗き込んだ。
「実際には、もう一つ必要でした」
「何ですか」
「所長の声に耐えられる者」
フランツは紙を見た。
「面談で分かりました」
ヒトラーは腕を組んだ。
「私は怒鳴っていない」
「怒鳴っていました」
エルゼが言った。
「応募者が三人来て、二人は帰りました」
「線が悪かった」
「一人は線を引く前に帰りました」
「根性がなかった」
フランツは古い紙を持ち上げた。
「私はなぜ採用されたんですか」
ヒトラーはすぐに答えた。
「逃げなかった」
「それだけですか」
「最初の助手としては十分だ」
エルゼは頷いた。
「帳簿上も、十分でした。賃金も安かったので」
フランツは紙を見たまま言った。
「聞かなければよかった」
ユンゲはその紙を受け取り、保存箱へ入れた。
「開業資料として残します」
ヒトラーは眉を上げた。
「開業資料?」
「はい」
「そんな大げさなものではない」
「事務所が始まった記録です」
「始まったのは看板を出した時だ」
エルゼが言った。
「看板代は、こちらの帳簿です」
彼女は別の箱から、古い帳簿を取り出した。
革の角が擦れている。背表紙は薄くなり、何度も開かれた跡があった。
ユンゲはそっと受け取った。
「これが最初の帳簿ですか」
「最初に近いものです」
「エルゼさんは、その時から?」
「数日だけ手伝う予定でした」
フランツが言った。
「数日?」
「ええ」
ユンゲは少し考えた。
「今は何年目ですか」
エルゼは平然と言った。
「数えないことにしています」
ヒトラーが言った。
「数えろ。帳簿係だろう」
「数えると、所長に請求したくなります」
「何をだ」
「継続管理費です」
ヒトラーは黙った。
エルゼは帳簿を開いた。
「看板代、製図台、中古棚、椅子二脚、紙、鉛筆、暖房用石炭。電話はまだありません」
ユンゲは曇りガラスの扉を見た。
そこにはまだ、黒い文字が残っていた。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
意匠・建築透視図・式典会場設計
文字は何度も磨かれ、少し剥げかけている。だが、まだ読めた。
ヒトラーはその文字を見た。
「字間が広かった」
エルゼは帳簿を閉じた。
「まだ言いますか」
「最初から広かった」
フランツが言った。
「最初から言っていたんですね」
「言うべきことは言う」
ユンゲが記録帳を開いた。
「開業時の看板について。所長、字間が広いと指摘」
「書くな」
「もう帳簿に残っていますか」
エルゼは即答した。
「追加修正なし。支払い済み。所長不満。次回は自分で字割りをすると発言」
フランツが吹き出した。
ヒトラーは帳簿を睨んだ。
「余計なことまで残すな」
「余計なことほど、後で役に立ちます」
エルゼは淡々と言った。
「支払い済みの証拠として」
昼近く、運搬人が来た。
第一便は、小型箱と紙筒と布見本を中心に出す。大型箱は週明け。製図机は最後。日程は決まっている。決まっているのに、現場は決まっていないように動く。
ブルクドルフが階段に立った。
「一人で持つな。角を先に出せ。壁に当てるな。そこは狭い」
カイテルは搬出表と運搬人の受領票を照合していた。
「この箱は新事務所の受付側です。倉庫ではありません。はい、こちらの紙に署名をお願いします。いいえ、所長の署名ではありません。受領確認です」
ヨードルは日程表に線を引き直していた。
「第一便が予定より十五分遅れています。昼食を短縮すれば取り戻せます」
フランツが言った。
「昼食を短縮する前提で予定を組むのはやめてください」
「では、階段で詰まらないでください」
クレープスは搬出箱の寸法を見ていた。
「この箱は曲がりません」
ブルクドルフが睨んだ。
「箱は普通、曲がらない」
「ですから、先に椅子を下ろしてください。椅子なら角度を変えられます」
ヒトラーは階段下から叫んだ。
「この階段は最後まで事務所に敵対するつもりか」
エルゼが言った。
「階段は最初から同じです」
「だから悪い」
「それでも長く使いました」
ヒトラーは階段を見上げた。
「悪い階段でも、使い方を覚えれば上れる」
言ってから、少しだけ黙った。
ユンゲはその言葉を書こうとした。
ヒトラーが気づいた。
「それは残すな」
ユンゲはペンを止めた。
「作業指示ではありませんか」
「違う」
「では、発言記録です」
「なお悪い」
ユンゲは少し迷い、日付だけを書いた。
第一便搬出開始。
それだけにした。
二階の棚の奥から、古い封筒が見つかった。
紙は黄ばんでいて、角が丸くなっている。表には大きな字で、ライターの名前があった。
マックス・ライター。
ヒトラーはそれを見て、少し表情を変えた。
「ライターの仕事だ」
ユンゲが尋ねた。
「舞台関係ですか」
「舞台、式典、酒場、改装、何でもだ。美術家ではない。職人で、手配師で、時々借金取りだった」
エルゼが言った。
「所長に仕事を渡した、数少ない辛抱強い人です」
「辛抱強いのではない。声が大きかっただけだ」
フランツが言った。
「所長よりですか」
「比較するな」
封筒の中には、舞台背景の小さな下絵と、見積もりの控えが入っていた。
ユンゲはそれを保存箱に移した。
「こちらも開業資料へ」
「それは開業前だ」
ヒトラーが言った。
「では、開業前資料です」
「箱を増やすな」
エルゼが言った。
「分類を増やすだけです。箱は同じです」
「分類が増えると箱も増える」
「その発想は正しいです」
「なら減らせ」
「減らすには、所長が捨てる必要があります」
ヒトラーは封筒を見た。
「残せ」
「承知しました」
午後、古い修正図が出てきた。
背面パネルの図面だった。予定案より低く、左右に少しだけずれがある。紙の端には、梁、四センチ低い、搬入口二十二時、棚板代用、という書き込みが残っていた。
クレープスが見て言った。
「この現場ですね」
ヨードルも近づいた。
「工程を組み替えた日です」
カイテルが受領票を持ったまま覗いた。
「搬入口を三十分延長してもらいました」
ブルクドルフが木箱を下ろしながら言った。
「棚板を運んだ。重かった」
フランツが笑った。
「シュタイナー親方が来た日ですね」
ヒトラーは図面を見た。
「遅かった」
ブルクドルフが言った。
「来ました」
「遅かった」
ヨードルが言った。
「来なければ式典には間に合いませんでした」
クレープスが紙の端を指した。
「入口からは中央が通っていました」
カイテルが言った。
「会館側の許可も取れました」
ブルクドルフが言った。
「誰も潰れてません」
ヒトラーは不機嫌な顔で全員を見た。
「なぜ全員、余計なことを覚えている」
エルゼが言った。
「事務所の歴史です」
「歴史にするな。現場だ」
ユンゲは静かに言った。
「現場が残ると、歴史になります」
ヒトラーは彼女を睨んだ。
「ユンゲ君、君までそういうことを言うのか」
「記録係ですので」
ヒトラーは修正図を取り、保存箱へ入れた。
「これは残す」
フランツが言った。
「歴史ではないのですか」
「現場資料だ」
エルゼが小さく頷いた。
「では、現場資料として保存します」
「笑うな」
「笑っていません」
「声が笑っている」
第一便の荷物が、ようやくすべて運び出された。
扉の前に積まれていた箱が消えると、廊下が広く見えた。実際には広くなっていない。物がなくなっただけだ。
ヒトラーはその廊下を見た。
「この廊下は、こんなに広かったか」
エルゼが答えた。
「物がなければ」
「つまり、物が悪かった」
「物を増やしたのは事務所です」
「仕事が増えたからだ」
「それは、よいことです」
ヒトラーは返事をしなかった。
一階の旧帽子店部分は、ほとんど空になっていた。
かつて帽子が並び、その後は帳簿、見本帳、資料写真、現場道具が詰め込まれた棚も空だった。棚板には、長く紙を置いていた跡が残っている。
ユンゲは棚を見た。
「ここは最初から事務所だったのではないのですね」
エルゼが答えた。
「ええ。帽子店でした」
「それを借り足したのですか」
「二階だけでは足りなくなりました」
フランツが言った。
「所長は最初、帽子の棚など使えんと言っていました」
ヒトラーはすぐ言った。
「帽子の棚としては使えん」
「資料棚として使いました」
「紙のほうが帽子より重い」
エルゼが言った。
「その通りです。ですから、棚板を補強しました」
ヒトラーは空の棚を見た。
「最初から補強しておけばよかった」
「最初は帽子店でした」
「帽子屋の見通しが甘い」
ユンゲは記録しなかった。
夕方が近づく頃、曇りガラスの扉の文字を外すことになった。
新事務所には新しい表示が付く。正式な社名は、書類上も看板上も整えられる。ここにはもう、古い文字を残しておく必要がない。
だが、扉の前に立つと、誰もすぐには手を出さなかった。
黒い文字は、薄暗い廊下の光を受けていた。
Adolf Hitler Entwurfsbüro
ヒトラーは腕を組んだ。
「字間が広い」
エルゼが言った。
「最後までそれですか」
「最後だからだ」
フランツが少し笑った。
「最初もそれでしたね」
ヨードルが日程表を畳んだ。
「記録上、開業時からの継続事項です」
カイテルが言った。
「新事務所の表示では修正済みです」
クレープスが言った。
「新しい字割りは所長が確認しました」
ブルクドルフが言った。
「外すなら外します」
ヒトラーは少し黙った。
「外せ」
ブルクドルフが工具を持った。
フランツが扉を押さえた。
文字は一つずつ外された。
Adolf。
Hitler。
Entwurfsbüro。
最後の文字が外れると、曇りガラスには、うっすらと跡だけが残った。
そこに文字があったことは分かる。
だが、読めない。
ヒトラーはそれを見ていた。
ユンゲは隣に立ち、記録帳を開かなかった。
エルゼが鍵の束を取り出した。
「表口、裏口、倉庫、未定の個室。新事務所の鍵は確認済みです。旧事務所の鍵は、明日管理人へ返却します」
「今日返せ」
「まだ製図机があります」
「そうだった」
「心臓でしたか」
「その比喩は取り消した」
「では、最後の大型備品です」
「それでよい」
フランツは外した文字を小さな箱に入れた。
「これは捨てますか」
ヒトラーは即答しなかった。
エルゼが見た。
「捨てるなら、処分箱です。残すなら、開業資料です」
ヒトラーは曇りガラスを見た。
「残せ」
ユンゲはようやく記録帳を開いた。
旧事務所扉文字、保存。
ヒトラーはそれを見た。
「保存理由は書くな」
「書いていません」
「ならよい」
「ただし、分類は必要です」
「何と書く」
ユンゲは少し考えた。
「最初の看板」
ヒトラーは不満そうにした。
「看板ではない。扉文字だ」
エルゼが言った。
「では、最初の扉文字」
ユンゲは記録した。
最初の扉文字。保存。
外では、夕方の通りを荷車が通っていた。
第一便の荷物は、すでに新事務所へ向かっている。大型箱は週明け。製図机は最後。予定表の線は、まだ何本も残っている。
だが、この扉から出る荷物は、もうほとんどなかった。
ヒトラーは空になった廊下を見た。
「狭かったな」
フランツが言った。
「最初からです」
エルゼが言った。
「途中からではありません」
ヨードルが言った。
「日程上も、常に詰まっていました」
クレープスが言った。
「寸法上もです」
カイテルが言った。
「来客対応上も、限界でした」
ブルクドルフが言った。
「運ぶ側としても」
ヒトラーは全員を見た。
「一斉に言うな」
ユンゲは静かに言った。
「記録上も、最初から狭かったことになります」
「余計な記録だ」
「残しますか」
「残すな」
エルゼが鍵を封筒に戻した。
ヒトラーはもう一度、曇りガラスの跡を見た。
そこに自分の名前はもうなかった。
だが、その名前で怒鳴った年月は、箱になり、帳簿になり、図面になり、失敗案になり、第一便として運び出されていた。
ヒトラーは低く言った。
「自分の看板で怒鳴れ、か」
フランツが顔を上げた。
エルゼは何も言わなかった。
ユンゲも書かなかった。
しばらくして、ヒトラーは帽子を取った。
「行くぞ。新しい看板の字間を確認する」
フランツは外した文字の箱を抱えた。
「やっぱりそこですか」
「当然だ。看板は客より先に客を迎える」
エルゼが言った。
「新事務所の家賃も、客より先に来ます」
「締めに家賃を持ってくるな」
「移転中ですので」
ヨードルが日程表を広げた。
「新事務所到着後、第一便の開封は受付側からです。倉庫箱は奥へ。布見本は応接横。帳簿箱はエルゼさんの机の近く」
クレープスが言った。
「失敗案は、所長から近すぎない位置ですね」
カイテルが言った。
「運搬人への指示は私が伝えます」
ブルクドルフが言った。
「重いものは週明けだ。今日は小さい箱だけでいい」
ヒトラーは扉の前に立った。
曇りガラスの向こうには、薄暗い階段が見えている。
あの日も、ここは薄暗かった。
看板職人が文字を入れ、エルゼが看板代の話をし、自分は字間に文句を言った。電話はなく、椅子は揃っておらず、棚は中古で、暖房は弱かった。
それでも、扉には名前があった。
ヒトラーは扉を閉めた。
鍵は、まだ返さない。
製図机が残っている。
最後の線を引く机が。
階段を下りる時、誰かが箱の角を壁にぶつけた。
鈍い音がした。
ヒトラーは振り返った。
「誰だ」
ブルクドルフが下から答えた。
「壁です」
「壁が動くか」
「箱が動きました」
「なら箱に謝らせろ」
フランツが笑い、ヨードルが日程表を畳み、カイテルが運搬人に頭を下げ、クレープスが箱の角を見た。エルゼは受領票を確認し、ユンゲは記録帳を閉じた。
看板は外れた。
だが、怒鳴り声だけは、新しい事務所へ先に運ばれていた。