第40話 パンと塩
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1940年3月下旬。
新事務所には、まだ事務所の顔がなかった。
看板は出ている。鍵もある。机も入った。受付、応接、製図室、帳簿机、倉庫、所長の個室と呼ばれている部屋も、一応は決まっている。
だが、床には藁くずが残り、壁際には未開封の木箱が並び、紙筒は仮置きのまま斜めに立てかけられていた。応接用の椅子は四脚あるが、そのうち一脚はまだ布でくるまれている。製図室の窓は明るすぎ、倉庫の棚はまだ足りず、帳簿机の位置については、朝から三度も議論が起きていた。
ヒトラーは新しい受付の前に立ち、腕を組んでいた。
「受付はここだ。客をここで止める。奥へ入れるな」
ユンゲは記録帳を開き、ペンを走らせた。
「受付、来客停止位置。確認」
「停止ではない。受け止めるのだ」
「受付、来客受け止め位置。確認」
「言葉が硬い」
「所長の指示ですので」
ヒトラーは不満そうに鼻を鳴らした。
ユンゲはこの日も、搬入作業のための格好をしていた。薄いブラウスの上に濃色の上着を重ね、細身の乗馬風ズボンを黒革の膝下ブーツに入れている。荷物の間を歩くには都合がよく、裾が箱に引っかかることもない。
ヒトラーは、それを何度も見ていた。
見ていないふりをしながら、何度も見ていた。
「ユンゲ君」
「はい」
「君は今度は、ラインラント監視団の警備にでも志願するのか」
ユンゲは記録帳から顔を上げた。
「本日は荷物搬入です」
ヒトラーは机の上に置かれた新聞を指で叩いた。
「パリではダラディエが椅子を降り、レノーが座るらしい。フランス人は内閣という椅子を動かすのが好きだ。そのうちライン川の橋にも、もっと椅子を並べるだろう」
新聞には、フランス内閣移行の記事が載っていた。
冬戦争終結後の外交責任。対ソ警戒。対独政策の再検討。ヘルシンキ大会問題。ラインラント監視体制の見直しを求める声。
記事の片隅には、ラインラントの保安監視をめぐり、フランス議会内で議論が強まっているという小さな見出しもあった。
ドイツ側の警察部隊、国境保安、鉄道警備、退役軍人団体の動き。国際監視員の巡回。非武装地帯の段階的緩和。
それらは、戦争ではなかった。
だが、平和と呼ぶには書類が多すぎた。
ユンゲは新聞に目を落とした。
「橋より、製図机を守ります」
「その製図机は、この事務所の橋だ」
「では、落とさないよう監視します」
エルゼが帳簿机の位置を確認しながら言った。
「製図机より先に、帳簿机の位置を確定してください」
ヒトラーは振り向いた。
「帳簿は入口に近すぎるな。金の匂いを客に嗅がせるな」
「未払いの匂いなら、客にも嗅いでいただきたいです」
「エルゼ、事務所の品位を帳簿で壊すな」
「品位は請求できません」
ユンゲが記録した。
帳簿机、入口より奥。応接から直接見えない位置。
フランツは製図室で、紙筒の束を抱えていた。
「所長、この箱はどこですか」
箱には、太い字で「失敗案。保存」と書かれている。
ヒトラーはすぐに答えた。
「近くに置け」
エルゼもすぐに答えた。
「近すぎない場所です」
「失敗を遠ざけるな」
「近すぎると、所長が開けます」
「開けて悪いか」
「棚がまだありません」
「棚がないから、失敗が床に落ちる」
「ですから、棚が必要です」
ヒトラーは少し黙った。
その瞬間、廊下から低い声がした。
「棚を測りに来た」
全員が振り向いた。
シュタイナー親方が立っていた。
帽子をかぶり、分厚い外套を着て、片手に道具袋を持っている。もう片方の腕には、布で包んだものを抱えていた。
ヒトラーは眉を上げた。
「遅い」
シュタイナーは室内を見回した。
「呼ばれた時間だ」
「もっと早く来るべきだった」
「棚はまだ立てる場所が決まっていない」
エルゼが言った。
「それは事実です」
ヒトラーはエルゼを見た。
「事実を敵に回すな」
シュタイナーは返事をせず、受付から製図室、倉庫、応接を順に見た。
「広いな」
ヒトラーは少しだけ満足そうにした。
「正確には、ようやく人間が曲がれる」
「木も曲がれる」
「木を曲げるな。棚はまっすぐ作れ」
シュタイナーは道具袋を床に置き、布包みを受付机の上に置いた。
ヒトラーはそれを見た。
「木材ではないな」
「パンと塩だ」
「私は棚を頼んだ」
「棚は後で来る」
「なぜパンが先だ」
シュタイナーは短く答えた。
「人間が先に食う」
事務所の中が、一瞬だけ静かになった。
エルゼが布を開いた。中には丸いパンと、小さな塩入れがあった。飾り気のないものだった。高価ではない。派手でもない。だが、そこに置かれると、机が少しだけ事務所らしく見えた。
ユンゲは小さく言った。
「移転祝いですね」
ヒトラーはすぐに言った。
「祝いを勝手に持ち込むな」
シュタイナーは動じなかった。
「新しい仕事場だ」
「仕事場は祝われるためにあるのではない」
「働くためにある。だからパンだ」
エルゼが塩入れを見た。
「塩は保存できます」
ヒトラーは彼女を睨んだ。
「エルゼ、帳簿で祝いを説明するな」
「帳簿ではありません。保管性です」
フランツが笑いをこらえた。
ブルクドルフは応接用の椅子を運びながら言った。
「親方、棚はどこから測りますか」
シュタイナーはパンを置いたまま、倉庫の壁を指した。
「奥からだ。床が少し傾いている」
ヒトラーは即座に反応した。
「傾いている?」
クレープスがすでにしゃがんで床を見ていた。
「わずかです。箱を置くには問題ありません。棚は脚で調整したほうがいいです」
シュタイナーは頷いた。
「そうする」
ヒトラーは二人を交互に見た。
「今のやり取りを、私を通さずに決めるな」
クレープスは立ち上がった。
「床は所長を通しても水平にはなりません」
ユンゲは思わず記録帳へペンを落としかけた。
ヒトラーがすぐに言った。
「それは記録するな」
「はい」
「本当にするな」
「作業指示ではありませんので」
「作業指示でなくても危険な発言はある」
ヨードルは日程表を持って入ってきた。
「倉庫棚の採寸が今日中に終われば、来週の大型箱開封に間に合います。製図室の紙筒棚は優先順位を上げるべきです」
「また紙が増える」
ヒトラーは言った。
「日程表です」
「紙が増えることに変わりはない」
カイテルは応接から顔を出した。
「運搬人への受領確認は終わりました。第一便、大型箱、製図机、すべて搬入完了です。未開封箱は残っていますが、運搬自体は終了しています」
ユンゲはそれを聞き、記録帳に書いた。
搬入完了。
ヒトラーはすぐに覗き込んだ。
「完了ではない」
ユンゲはペンを止めた。
「運搬は完了しています」
「棚がない。箱が開いていない。机がまだ納得していない」
「机は発言しません」
「だから私が見る」
エルゼが言った。
「では、搬入作業完了、整理継続、としておけばよろしいですか」
ヒトラーは少し考えた。
「それならよい」
ユンゲは書き直した。
搬入作業完了。整理継続。
新聞が風で少しめくれた。
レノー組閣の記事がまた見えた。
ヒトラーは新聞を取り上げた。
「フランス人は、椅子を動かせば部屋が変わると思っている」
フランツが言った。
「こちらも、今日は椅子を動かしています」
「こちらは正しい位置に動かしている。パリは座る者を替えているだけだ」
エルゼが応じた。
「座る者が替われば、支払い方も替わることがあります」
「フランス内閣を帳簿で見るな」
「内閣も予算を持ちます」
「だから倒れるのだ」
ヒトラーは新聞をたたみ、応接机の上に置いた。
その応接机の端に、灰皿があった。
ヒトラーはそれを見つけた瞬間、顔をしかめた。
「これはなぜ来た」
ユンゲは搬入一覧を確認した。
「応接用灰皿です」
「旧事務所に置いてきてよかった」
エルゼが言った。
「備品一覧にあります」
「削れ」
「来客が減ります」
「煙草を吸う客は減ってよい」
「支払う客もいます」
ヒトラーは灰皿を睨んだ。
「煙草は紙を殺す。布も殺す。写真も殺す。客の息も殺す」
フランツが言った。
「息は元から煙で―」
「黙れ」
エルゼは冷静だった。
「来客のみ、応接で許可された場合に限る。製図室、帳簿机、布見本、資料写真の近くは禁止。使用後は即時処理。それで旧事務所でも続けてきました」
ヒトラーは不満そうにした。
「開業当初の悪習だ」
「客を選べなかった頃の名残です」
「今は選べる」
「完全には選べません」
ユンゲは灰皿を持ち上げた。
「応接の端に置きますか」
ヒトラーはすぐに言った。
「図面から最も遠い場所だ」
「応接端、図面より遠隔。記録します」
シュタイナーが倉庫から言った。
「木くずの近くに置くな」
ヒトラーは頷いた。
「そこだけは正しい」
シュタイナーは無表情に返した。
「いつも正しい」
「そこまでは言っていない」
灰皿は応接の端に置かれた。
パンと塩は受付机の上に残された。
ヒトラーはその二つを見比べた。
「こちらは食える。あちらは臭う。なぜ客は臭う方を好む」
エルゼが言った。
「客に聞いてください」
「聞いたら怒る」
「所長がですか」
「当然だ」
シュタイナーは倉庫の壁を測り終え、今度は製図室に入った。
「紙筒棚はここだ」
ヒトラーはすぐに製図室へ行った。
「窓に近すぎる」
「光が入る」
「紙を焼く」
「布を掛ければいい」
「布を掛けるなら、最初から窓を作るな」
「俺が作った窓ではない」
クレープスが横から言った。
「窓と棚の間に二十センチ空ければ、布も掛けられます」
ヨードルが日程表に書き込んだ。
「紙筒棚、窓から二十センチ。採寸確定」
ヒトラーは二人を見た。
「決めるのが早すぎる」
シュタイナーは短く言った。
「早い方が棚は来る」
ヒトラーは一瞬黙った。
「……それはそうだ」
フランツが小声で言った。
「珍しい」
「聞こえている」
「聞こえるように言いました」
午後が夕方に変わる頃、新事務所は少しだけ静かになった。
運搬人は帰り、最後の受領票にはカイテルの確認印が押された。ブルクドルフは空の木箱を倉庫前に積み、クレープスは棚位置の寸法を清書し、ヨードルは翌日以降の整理予定をまとめていた。
エルゼは帳簿机に座り、初めてそこで帳簿を開いた。
ユンゲは受付の内側に立ち、入口から見える景色を確認した。
客が入れば、まず受付。右に応接。奥は見えすぎない。製図室への扉は半分隠れ、倉庫はさらに奥。旧事務所のように、階段で客と箱が詰まることはない。
同じ階だった。
本当に、同じ階だった。
ヒトラーは中央に立ち、そのことを口に出さなかった。
代わりに言った。
「床が広い」
エルゼは帳簿から顔を上げずに言った。
「家賃も広いです」
「締めに家賃を持ってくるな」
「移転後ですので」
シュタイナーはパンを切った。
誰に許可を取るでもなく、持ってきた布包みからナイフを出し、厚く切った。塩を少しだけ添えた。
ヒトラーはそれを見た。
「図面の上で切るな」
「切っていない」
「粉を落とすな」
「落ちる」
「落とすな」
シュタイナーはパンを一切れ差し出した。
「食え」
ヒトラーはすぐには受け取らなかった。
「私は祝賀会を許可していない」
「会ではない」
「では何だ」
「パンだ」
その答えは強かった。
ヒトラーは反論を探したが、パンには反論がしにくかった。
結局、彼は受け取った。
エルゼにも、ユンゲにも、フランツにも、カイテルにも、ヨードルにも、クレープスにも、ブルクドルフにも配られた。
立ったままの小休止だった。
椅子はある。応接もある。だが、誰も座らなかった。全員がまだ、ここを完全な事務所として扱うには早いと思っているようだった。
ユンゲはパンを受け取り、塩を少しだけ付けた。
「移転祝いとして記録します」
ヒトラーが言った。
「記録するな」
エルゼが言った。
「移転祝いとして処理しないと、パンの扱いが曖昧になります」
「パンを会計に入れるな」
「では寄贈です」
シュタイナーが言った。
「祝いだ」
ユンゲは記録した。
シュタイナー親方、移転祝いとしてパンと塩を持参。
ヒトラーはそれを見た。
「“祝い”という言葉を小さく書け」
「文字の大小は記録内容に影響しません」
「する。見た目に影響する」
「では、通常の大きさで」
「ユンゲ君、最近強情になったな」
「事務所が広くなりましたので」
フランツが笑った。
ヒトラーはパンをかじった。
しばらく黙っていた。
そして言った。
「塩をこぼすな」
エルゼが尋ねた。
「それは祝辞ですか」
「作業指示だ」
ユンゲが記録帳を見た。
「移転祝い、作業指示。塩をこぼさないこと」
「違う」
シュタイナーが言った。
「同じだ」
ヒトラーは親方を睨んだ。
「あなたは棚を作れ」
「作る」
「いつ来る」
「材料が揃えば」
「遅い」
シュタイナーはパンを食べながら言った。
「来る」
その言葉に、フランツが少しだけ顔を上げた。
ヨードルが日程表を畳んだ。
クレープスが寸法紙を整えた。
カイテルが受領票を揃えた。
ブルクドルフが腕を組んだ。
かつて、夜の現場でシュタイナー親方が木材を積んで来た日があった。遅かった。だが来た。その一言で、背面パネルが立ち、式典は間に合った。
今度は棚だった。
そして、この事務所そのものだった。
ヒトラーは新しい床を見た。
受付。応接。製図室。倉庫。帳簿机。未定の個室。失敗案の箱。最初の扉文字。来客用灰皿。パンと塩。
まだ整ってはいない。
だが、部屋の線は見えた。
新聞の上では、パリの内閣が変わり、ラインラントの監視体制がまた議論され、冬戦争の地図には新しい線が引かれていた。
この事務所の中でも、線は引かれていた。
机の線。
客の線。
紙の線。
金の線。
棚の線。
ヒトラーはパンの欠片を皿に置き、言った。
「明日から、ここを事務所にする」
エルゼが言った。
「今日からではないのですか」
「今日はまだ、パンの粉がある」
「明日もあります」
「なら掃除しろ」
ユンゲが記録帳を閉じた。
「1940年3月。新事務所、搬入作業完了。整理継続。シュタイナー親方、パンと塩を持参」
ヒトラーは頷かなかった。
だが、否定もしなかった。
その代わり、新しい看板の方を見た。
「字間は、まだ少し詰められる」
エルゼは帳簿を閉じた。
「もう支払い済みです」
ヒトラーは沈黙した。
シュタイナーが短く言った。
「食え」
パンはまだ残っていた。
塩も、こぼれていなかった。