第42話 導火線は新聞の端に
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1940年5月10日。
新事務所は、ようやく事務所らしい顔をし始めていた。
受付の机にはユンゲの記録帳が置かれ、応接の端には来客用の灰皿が、図面から最も遠い位置に追いやられていた。製図室の紙筒棚はシュタイナー親方の指示通り窓から少し離され、失敗案の箱は、ヒトラーから近すぎず、遠すぎない場所に置かれている。
ヒトラーはその箱を見ていた。
「まだ遠い」
エルゼは帳簿机から顔を上げずに言った。
「近すぎると、所長が開けます」
「開けて悪いか」
「今日は来客があります」
「来客と失敗は関係ない」
「関係づけるのが所長です」
フランツは製図台の前で笑いをこらえた。
その時、ユンゲが新聞を持って入ってきた。
「今朝の新聞です」
ヒトラーは新聞を受け取った。
紙面の中央には、パリの文字が大きく出ていた。
第12回大会、テレビ中継計画進む
ベルリン大会の技術、パリ臨時大会支援へ
ドイツ主要都市に公共視聴室設置案
ヒトラーはしばらくその見出しを見ていた。
「大きすぎる」
ユンゲは淡々と答えた。
「大きなニュースです」
「大きなニュースでも、紙面の重心を壊してよい理由にはならん」
エルゼが言った。
「所長、仕事になる可能性があります」
ヒトラーは新聞を下ろした。
「それは別だ」
「別ではありません」
ユンゲが記事を指した。
「ベルリン、ハンブルク、ケルン、フランクフルト、ライプツィヒ、ミュンヘン。主要都市に公共テレビ視聴室を設ける案、とあります」
フランツが覗き込んだ。
「ミュンヘンも入っていますね」
「当然だ」
ヒトラーは紙面を叩いた。
「パリの競技場を、ミュンヘンで見る。これはただの機械展示ではない。遠方の競技場へ開く窓だ」
エルゼはペンを持ったまま言った。
「窓でしたら、費用がかかります」
「費用の話を窓の前に置くな」
「窓は無料ではありません」
ユンゲは記録帳を開いた。
「公共テレビ視聴室。ミュンヘン会場。問い合わせ可能性あり」
ヒトラーは頷いた。
「可能性ではない。来る」
「まだ来ていません」
「来る。こういうものは必ず来る。誰かが椅子を並べ、誰かが入口を間違え、誰かが機械を箱のまま置こうとする」
フランツが言った。
「それで所長が怒る」
「怒らせる方が悪い」
午前のうちに、電話が鳴った。
ユンゲが受話器を取り、名前を書き留めた。
ミュンヘン市の文化行事担当。
放送技術部門。
地元新聞社。
電機メーカーの代理人。
スポーツ協会。
同じ案件に、いくつもの名前が付いていた。
ユンゲは受話器を置いたあと、少しだけ息をついた。
「公共テレビ視聴室の件で、午後に打ち合わせ希望です」
ヒトラーは新聞をたたんだ。
「ほら見ろ」
エルゼはすぐに言った。
「発注元が多すぎます」
「仕事が大きいということだ」
「請求先が曖昧ということです」
「エルゼ、君は祝賀の鐘を聞いても請求先を探すのか」
「祝賀の鐘を鳴らした人に請求します」
午後、最初に来たのはゲッベルスだった。
彼は新聞を片手に、もう片方に紙筒を抱えていた。事務所に入るなり、受付の位置を褒める前に、新聞を掲げた。
「所長、時代が窓を求めています」
ヒトラーは眉をひそめた。
「その言い方をやめろ」
「なぜです」
「私が言う前に、君が言うと安くなる」
ゲッベルスは笑った。
「では、別の言葉にしましょう。パリをミュンヘンへ持ってくるのです」
「パリは持ってこない。映像を受けるだけだ」
「同じことです」
「同じではない。持ってくるなら税関が要る」
ユンゲが小さく言った。
「映像には税関はありません」
ヒトラーはすぐに返した。
「だから危険なのだ」
ゲッベルスは紙筒を広げた。
そこには、公共視聴室の告知ポスター案が描かれていた。
大きな文字。競技場の線画。受像機の前に集まる人々。パリの塔、五輪の輪、ドイツ各都市の名。強い斜線。強い言葉。
ヒトラーは一目見て言った。
「騒がしい」
「人を集めるためです」
「人が集まる前に、文字が押し合っている」
「活気です」
「混雑だ」
ゲッベルスは肩をすくめた。
「混雑は、成功した行事の証拠です」
「混雑は導線設計の敗北だ」
エルゼが言った。
「どちらにせよ、見積もりは分けてください。装飾、案内表示、ポスター、受像機台座、説明パネル、日程掲示、新聞写真用正面構図」
ゲッベルスは感心したように見た。
「エルゼさんは、夢を項目に分解しますね」
「夢では請求できません」
ヒトラーは強く頷いた。
「そこだけは正しい」
「所長も同意されましたね」
「記録するな」
ユンゲは記録していた。
次に来たのは、放送技術部門の男と、電機メーカーの代理人だった。
彼らは図面より先に、電源容量、配線、暗幕、放熱、受像機の配置、機器交換の動線を口にした。
ヒトラーはすぐに不機嫌になった。
「機械を置けば終わりではない。見る者がどこに立ち、どこへ目を向けるかが問題だ」
技術者は落ち着いて答えた。
「映らなければ、見る者はどこにも目を向けません」
ヒトラーはしばらく黙った。
「あなたはヘンチェル技師の親類か」
「違います」
「言い方が似ている」
その名前が出たところで、当のヘンチェルが事務所の奥から出てきた。
彼はこの日も、建物側の電気と換気の確認に来ていた。正式にはビル管理会社の地区担当技師であって、事務所の所員ではない。だが新しい電気スタンド、電話線、暖房弁の調整が続いているため、最近は出入りが多かった。
ヘンチェルは受像機の仕様書を見た。
「これだけ置くなら、発熱を見ておいた方がいいです」
ヒトラーは言った。
「画面の周囲を空けろと言うつもりか」
「空けてください」
「画面の周囲を空けたら、ただの箱だ。これはパリへの窓だ」
ヘンチェルは仕様書から顔を上げた。
「窓なら、開けられるようにしてください。修理します」
ゲッベルスが笑った。
ヒトラーは笑わなかった。
「あなた方は詩を持たない」
ヘンチェルは淡々と言った。
「詩では信号は安定しません」
エルゼはその間に、紙を一枚追加した。
「お二人とも、納期は安定させてください」
ユンゲは書いた。
受像機周辺装飾。放熱、修理動線、暗幕、観客視線、新聞撮影位置、要調整。
ヒトラーはその文字を覗いた。
「“パリへの窓”も書け」
「はい」
「ただし、技術者には見せるな」
ヘンチェルが言った。
「見えています」
「では読まないでもらいたい」
「配線図ではありませんので」
打ち合わせが進むにつれ、案件の輪郭が見えてきた。
正式名はまだ長すぎた。
第12回オリンピック競技大会パリ臨時大会
公共テレビ視聴室
ミュンヘン会場装飾・案内計画
ヒトラーはその名前を聞いて、顔をしかめた。
「長い」
ユンゲは書き取りながら言った。
「正式名です」
「正式名は、時々、人を遠ざける」
エルゼが言った。
「契約書には必要です」
「なら契約書に閉じ込めておけ。看板には出すな」
ゲッベルスはすぐに口を挟んだ。
「一般向けには、もっと短くできます。『ミュンヘンからパリを見る』」
ヒトラーは即座に言った。
「安い」
「では『パリへの窓』」
「それは私の言葉だ」
「良い言葉は使うべきです」
「君が使うと騒がしくなる」
「使われない言葉は死にます」
「使いすぎる言葉も死ぬ」
ヘンチェルが言った。
「看板の話は、電源容量が決まってからがいいでしょうね」
エルゼは頷いた。
「正しい順序です」
ヒトラーはヘンチェルを睨んだ。
「機械はいつも、人の詩を配線の後ろへ追いやる」
「配線が燃えると、詩も燃えます」
「不愉快なほど正しい」
午後遅く、打ち合わせはいったん終わった。
ゲッベルスはポスター案を置いていった。
技術者は受像機の寸法表を置いていった。
ヘンチェルは、部品の都合で配電盤の確認日をもう一日増やすと言った。
エルゼは、発注元ごとに費用項目を分けるため、新しい帳簿紙を出した。
ユンゲは、問い合わせの分類を作った。
装飾。
案内。
ポスター。
技術展示。
放送設備。
新聞写真。
競技日程掲示。
参加国紹介。
灰皿は、依然として応接の端にあった。
ヒトラーは新聞をもう一度広げた。
紙面の中央は、明るかった。
パリ。競技場。テレビ。公共視聴。未来技術。欧州協力。
しかし、新聞の端には小さな記事が並んでいた。
ロンドン、チェンバレン内閣改造論高まる。
チャーチル海軍大臣、東洋艦隊増強を主張。
英仏蘭、極東植民地防衛協議。
日本、中国戦線の長期化続く。
アメリカ、対日輸出管理を継続。
蘭印石油交渉、難航。
ユンゲが、ヒトラーの視線に気づいた。
「オリンピック以外も気になりますか」
「大きな見出しは西を向いている」
ヒトラーは言った。
「パリ、競技場、テレビ、窓。まったく明るい顔だ」
「よい知らせでは」
「よい知らせだ。だが端を見ろ」
ユンゲは新聞の端を見た。
「チャーチル海軍大臣、東洋艦隊増強を主張」
ヒトラーは指で小さな見出しを押さえた。
「大きな船を遠い海へ置けば、安心できると思うのだろう」
エルゼが言った。
「安心は請求項目にありません」
「船も同じだ。置くだけでは守れん。屋根がない」
フランツが首をかしげた。
「屋根ですか」
「空だ」
ヒトラーは新聞をたたんだ。
「港に置いた家具が壊される時代だ。外へ出せば安全、という話でもない」
ゲッベルスがまだいたら、言葉に飛びついただろう。
だが、彼はもう帰っていた。
残っていたのは、所員と、帳簿と、受像機の寸法表と、新聞だけだった。
ユンゲは記録帳を開いた。
「記録しますか」
ヒトラーはすぐには答えなかった。
窓から入る光は、もう夕方の色を帯びていた。
事務所の奥では、ヘンチェルが配電盤の蓋を閉じる音がした。
「導火線は消えたように見える」
ヒトラーは低く言った。
「だが、新聞の端は乾いている」
ユンゲはペンを止めた。
「記録しますか」
「するな。こういう言葉は、後で当たると不愉快だ」
エルゼが帳簿を閉じた。
「では、見積書だけ記録します」
「見積書も火をつける」
「支払いが遅れた場合だけです」
フランツは受像機台座の寸法表を広げた。
「所長、台座の初案は明日からでいいですか」
ヒトラーは新聞を机に置いた。
「今日からだ」
「もう夕方です」
「パリへの窓は、箱の上に置いて済む話ではない」
ヘンチェルが奥から言った。
「窓なら、壁も要ります」
ヒトラーは振り向いた。
「壁は私が決める」
ヘンチェルは淡々と返した。
「電線は私が見ます」
ユンゲは、結局そこだけ記録した。
パリ臨時大会公共テレビ視聴室。
ミュンヘン会場装飾・案内計画。
初回打ち合わせ開始。
新聞の端は、書かなかった。
だが、紙面の端の小さな活字は、折りたたまれても消えなかった。