第43話 新聞の中の将軍たち
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1940年5月下旬。
ミュンヘンの通りは、少しずつ夏の気配を帯び始めていた。
新事務所の窓は午前の光を受け、ガラス越しに製図台の白い紙を明るくしている。部屋の奥には、パリ臨時大会公共テレビ視聴室のための資料が積まれていた。
受像機の寸法表。
椅子の配置案。
暗幕の布見本。
入口案内板の文字案。
競技日程掲示の下書き。
頼みもしないのに電源と配線についてヘンチェルが赤鉛筆で書き込んだ注意書き。
その全てが、机の上でまだ互いに場所を奪い合っていた。
ヒトラーは、視聴室の正面構図を見ていた。
「受像機が低い」
フランツが顔を上げた。
「技術者側の指定高さです」
「技術者はいつも低いところから物を見る」
「放熱と修理のためだそうです」
「窓を修理口にするな」
エルゼは帳簿机で、見積書を発注元別に分けていた。
「窓でも修理口でも、項目を分けないと請求できません」
「エルゼ、君はパリへの窓を帳簿の枠に押し込めている」
「窓枠です」
「そういう返しは不要だ」
ユンゲが新聞を持って入ってきた。
「今朝の新聞です」
ヒトラーは片手を伸ばした。
「パリか」
「パリです」
「また大きすぎる見出しか」
「今日は少し落ち着いています」
ヒトラーは新聞を広げた。
一面には、パリ臨時大会の記事が並んでいた。
オランダ、パリ大会通過輸送に協力。
ベルギー、選手団宿泊調整で仏側と協議。
オランダ・ベルギー・ルクセンブルク、輸送と放送協力で協議。
ドイツ主要各都市の公共テレビ視聴室、設計協議進む。
ヒトラーは紙面をしばらく眺めた。
「オランダとベルギーの名が、随分おとなしい顔で載っている」
ユンゲは記録帳を開いた。
「おとなしい顔、ですか」
「国境、動員、関税、検問。そういう顔ではない」
エルゼが言った。
「ない方がよろしいでしょう」
「よろしい」
ヒトラーはそう言ってから、もう一度見出しを見た。
「鉄道、宿泊、放送線路。国名というものは、使い方次第で物騒にも実用的にもなる」
フランツが紙面を覗いた。
「放送線路という表現は、少し変ですね」
「変だが、意味は通る。鉄道と違って、列車が走らないのがよい」
「信号は走ります」
奥からヘンチェルの声がした。
彼は配電盤横で、前回持ち帰った接続表を見直していた。
ヒトラーはそちらを見た。
「信号まで走らせるな。部屋が混む」
ヘンチェルは顔を上げずに答えた。
「混むのは観客です。信号は混むと乱れます」
「技術者は詩を混雑させる」
「詩では映りません」
「それはもう聞いた」
ユンゲが紙面の下の方に目を落とした。
「所長、こちらに国防省人事と機械化部隊研究の記事があります」
「新聞の下は、たいてい厄介なものを隠している」
ヒトラーは新聞を少し折り、下段の小さな欄を読んだ。
国防省人事および機械化部隊研究。
彼の眉が動いた。
「妙な名前が並んでいる」
カイテルは、製図室の脇で書類束を整理していた。
ヨードルは、視聴室の入場導線を工程表に落としていた。
クレープスは、七列目の椅子の角度を定規で確認していた。
ブルクドルフは、受像機台座用の木箱を運んでいた。
ヒトラーは新聞を少し高く上げた。
「まず、ヴィルヘルム・カイテル大将、軍務局長として標準装備計画を調整とある」
カイテルが書類束を抱えたまま顔を上げた。
「私は軍務局長ではありません」
「分かっている」
「大将でもありません」
「それも分かっている」
「標準装備計画も調整しておりません」
ヒトラーは新聞から目を離さずに言った。
「君は今、標準書類束を整理している」
カイテルは一瞬だけ考えた。
「承知しました。急ぎます」
「そういうところは似ているかもしれん」
エルゼが言った。
「似ているなら、こちらの書類も早く片づけてください」
カイテルは深く頷いた。
「承知しました」
ヒトラーは次の見出しを読み上げた。
「アルフレート・ヨードル少将、陸軍総司令部作戦部へ」
ヨードルは工程表から顔を上げた。
「私でもありません」
「当然だ。君は今、作戦部ではなく視聴室の入場順を直している」
ヨードルは手元の表を見た。
「こちらも一種の作戦です」
ヒトラーは頷いた。
「その通りだ。客は軍より勝手に動く」
フランツが笑った。
「軍よりですか」
「軍人は命令を聞く。客は看板を見ても曲がらん」
ヨードルは真面目な顔で言った。
「入口を二つに分けた場合、新聞社関係者と一般客が交差します」
「交差させるな」
「そのために工程を組み直しています」
「よろしい。少将より役に立つ」
ヨードルは少し困った顔をした。
「比較対象が大きすぎます」
「新聞はいつも比較対象を大きくする」
ヒトラーは次を読んだ。
「お次は元ソ連大使館武官ハンス・クレープス大佐、第7軍団参謀長に」
クレープスは定規を置いた。
「私はソ連大使館に勤務したことはありません」
「していたら困る」
「第7軍団にもおりません」
「それも困る」
「大佐でもありません」
「見れば分かる」
クレープスは、少しだけ新聞を見た。
「第7軍団ですか」
「君は第7列目を見ろ」
ヒトラーは、彼の手元の椅子配置図を指した。
「画面に対して角度が悪い」
クレープスはすぐに図面へ目を戻した。
「はい。そちらの方が現実的な問題です」
「よろしい」
ヘンチェルが奥から言った。
「七列目を詰めすぎると、後方通路が狭くなります」
クレープスは頷いた。
「承知しています。椅子を三度だけ振ります」
ヒトラーは新聞を下ろしかけ、再び上げた。
「三度で済むか」
「四度だと、八列目と揃いません」
ヒトラーは少し満足そうにした。
「新聞の中の参謀長より、こちらの方が細かい」
エルゼが言った。
「細かすぎる時もあります」
「細かくなければ、七列目が乱れる」
「七列目が乱れても、請求額は変わりません」
「それが問題だ」
ブルクドルフが、木箱を床に置いた。
「問題なら、この箱の置き場所も問題だ」
ヒトラーは最後の見出しを読み上げた。
「そして、歩兵連隊長ヴィルヘルム・ブルクドルフ中佐、歩兵支援戦車の必要性を主張…歩兵を支援するのか、歩兵に支援されて戦う戦車なのか、もっと正面を整えた言い方をしろ」
ブルクドルフは箱の上に手を置いた。
「俺は戦車より、この箱を支援してほしい」
窓際で棚板の寸法を測っていたシュタイナー親方が、短く言った。
「持て」
「今置いたところだ!」
「なら、正しい場所へ持て」
ブルクドルフは顔をしかめた。
「正しい場所が決まっていないから置いたんだ」
ヒトラーが新聞をたたんだ。
「歩兵支援戦車より、受像機支援台座だ」
ブルクドルフは少し考えた。
「それは俺の仕事なのか」
シュタイナー親方が言った。
「持つ者の仕事だ」
「結局俺か」
ヒトラーは、事務所の四人を見回した。
カイテルは書類束を抱え、ヨードルは工程表を押さえ、クレープスは椅子配置図に定規を当て、ブルクドルフは木箱に手をかけていた。
新聞の中には、同じ姓を持つ将軍たちがいた。
事務所の中には、同じ呼び名で返事をする男たちがいた。
だが、立っている場所はまるで違った。
「我が事務所は、名前だけなら将軍が集まっているな」
エルゼは即座に言った。
「将軍手当は出ません」
カイテルは真面目に答えた。
「承知しました」
ヨードルは工程表に目を戻した。
「階級より工程です」
クレープスは図面に小さな線を足した。
「第7列目を修正します」
ブルクドルフは木箱を持ち上げ直した。
「将軍なら、この箱を持たなくて済むのか」
シュタイナー親方は、今度は見もせずに言った。
「持て」
「分かったよ!」
ヒトラーは少しだけ機嫌よく言った。
「新聞の中の将軍より、ここで箱を持つ者の方が役に立つ」
ブルクドルフの顔が、一瞬だけ明るくなった。
ヒトラーは続けた。
「ただし、箱の置き方は悪い」
「結局それか」
フランツが笑い、ユンゲは記録帳に視聴室の打ち合わせ事項だけを書いた。
彼女は、将軍たちの記事までは記録しなかった。
新聞は、テーブルの端に置かれた。
紙面の中央にはパリ臨時大会があった。
オランダとベルギーは、降伏ではなく輸送と宿泊と放送線路のために載っていた。
フランスは、戦場ではなく競技場の準備で載っていた。
ドイツは、戦車ではなくテレビ技術と公共視聴室で大きく載っていた。
その下に、国防省の人事欄があった。
そこには、ヴィルヘルム・カイテル、アルフレート・ヨードル、ハンス・クレープス、ヴィルヘルム・ブルクドルフの名が、整った活字で並んでいた。
ヒトラーは新聞をもう一度見た。
「標準装備計画、か」
フランツが言った。
「戦車の記事ですか」
「まだ戦車とは書いていない。だが、役人は標準という言葉が好きだ。標準にすれば、混乱が減ると思っている」
クレープスが図面から顔を上げた。
「実際、整備と補給には必要です」
「必要だ。だから危険なのだ」
ヨードルが尋ねた。
「危険なのですか」
「標準化されたものは、数を増やしやすい。数を増やしたものは、置き場所を要求する。置き場所を要求するものは、最後に人間を押し出す」
エルゼが静かに言った。
「椅子もですか」
ヒトラーは、視聴室の配置図を見た。
「椅子もだ」
ヘンチェルが配電盤横から言った。
「受像機もです」
シュタイナー親方が棚板を叩いた。
「棚もだ」
ブルクドルフが箱を抱えたまま言った。
「箱もか」
「箱は最初から人を押し出している」
ヒトラーは言った。
「だから置き方が大事なのだ」
エルゼはため息をついた。
「それで、今日中に受像機台座の初案は出ますか」
ヒトラーは新聞をたたみ、製図台の上へ置いた。
「出す」
ユンゲが記録帳に書いた。
受像機台座、初案本日中。
ヒトラーはそれを見た。
「“パリへの窓”と書け」
ユンゲは書いた。
パリへの窓。
ヘンチェルが言った。
「窓なら、背面を開けてください」
「またそれか」
「またです」
「詩の背面を開けるな」
「機械の背面です」
エルゼが言った。
「詩と機械の区別も、見積書には必要ですか」
「不要だ」
「では、装飾と技術調整で分けます」
「それでいい」
事務所の午後は、そのまま受像機台座の話に戻った。
新聞の中の将軍たちは、活字の中に残された。
事務所の四人は、紙と箱と椅子の間を動いていた。
歴史は、名前を残していた。
だが、その名前の置き場所までは、同じにしなかった。