第44話 パリへの招待状
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
六月のミュンヘンは、朝から妙に明るかった。
窓際の製図台には、パリ臨時大会の公共テレビ視聴室案が広げられていた。受像機台座の正面図、案内表示の文字幅、入口から受付までの動線、競技日程掲示板の高さ。壁際ではクレープスが鉛筆を削り、ヨードルが工程表の端を押さえ、ブルクドルフが箱入りの試作パネルを片手で支えたまま、もう片方の手で汗をぬぐっていた。
ヒトラーはその箱を見ていた。
「斜めだ」
ブルクドルフは箱を持ち直した。
「今、直しました」
「今のは斜めに見えないように力で押さえただけだ。箱が納得していない」
「箱が納得するまで待つんですか」
シュタイナー親方が壁際から短く言った。
「置け」
ブルクドルフは黙って箱を置いた。
そのとき、受付のほうで扉のベルが鳴った。
ユンゲが応対に出る。しばらくして戻ってきた彼女の手には、やや厚手の封筒があった。紙質だけで、普通の請求書ではないことが分かった。封蝋はない。だが、手配と紹介を重ねた書類特有の、妙に重い気配があった。
「所長。パリ臨時大会関係です」
ヒトラーは箱から封筒へ視線を移した。
「どこからだ」
「ミュンヘン市の放送協力委員会、ドイツ側通信担当部局、それからヒムラー事務所の添え状があります」
エルゼが帳簿から顔を上げた。
「ヒムラー氏の添え状があるなら、費用の添え状もあるはずです」
「君は人間より先に項目を見る」
「人間はあとから言い訳します。項目は紙に残ります」
ヒトラーは封筒を受け取り、宛名を見た。
「アドルフ・ヒトラー意匠事務所、装飾・案内構成担当」
眉間に皺が寄った。
「装飾ではない」
ユンゲが記録帳を開いた。
「では、何としますか」
「意匠監督だ。視線構成、空間誘導、正面整理、公共視聴室全体計画」
フランツが横から覗き込んだ。
「全部入れると、封筒の幅が足りませんね」
「封筒の都合で肩書を削るな」
エルゼが封筒を受け取って開いた。
「肩書より先に、中身です」
中には数枚の書類が入っていた。パリ臨時大会組織委員会の関連文書、ドイツ側放送技術団からの説明書、ミュンヘン公共テレビ視聴室関係者への現地視察案内、そしてヒムラー事務所の丁寧すぎる添え状。
ユンゲが読み上げた。
「パリ臨時大会開会式リハーサル見学、テレビ放送設備説明会、公共視聴室構成担当者向け現地案内、関係者懇談会……」
ゲッベルスが、いつの間にか応接の入口に立っていた。
「素晴らしい。パリがミュンヘンを招いている」
ヒトラーは露骨に嫌な顔をした。
「君はなぜ、紙の気配がすると現れる」
「紙は私を呼びます」
「呼ぶな」
ゲッベルスは楽しげに封筒を見た。
「パリ臨時大会。テレビ。放送。公共視聴室。新聞。ポスター。これは一つの記事になります。いや、いくつにもなります」
「記事にするために行くのではない」
「もちろんです。記事になるために行くのです」
「同じだ」
エルゼが添え状の下段を指でたどった。
「ヒムラー氏の事務所が宿泊、入館許可、現地通訳、懇談会席順を手配。手配費は……」
彼女はそこで止まった。
「やはりありました」
ヒトラーがうんざりした顔をした。
「何だ」
「調整費です」
ゲッベルスが肩をすくめた。
「国際案件に調整費はつきものですよ」
エルゼは彼を見た。
「つきものなら、取り外せるはずです」
「それはなかなか難しい」
「難しいものほど明細が必要です」
フランツは小さく笑いそうになったが、エルゼの表情を見てやめた。
その日の午後、ヒムラー本人が事務所に現れた。相変わらず、書類と段取りだけは整っている男だった。姿勢は控えめで、声は穏やかだが、何かを自分の帳面の中に収めようとする癖があった。
「所長、これはよい機会です。フランス側は警戒していますが、放送技術と公共視聴室の構成については、ドイツ側の経験を必要としています。ミュンヘンの会場案が、パリの現場を見ることでより確かなものになります」
ヒトラーは書類を見ながら答えた。
「パリが確かな街であることは知っている」
「では、なおさらです」
「だからこそ、見に行くのだ。真似をするためではない」
ヒムラーは微笑んだ。
「もちろんです。参考視察です」
「参考という言葉は便利すぎる。盗む者も、学ぶ者も、同じ顔で使う」
ゲッベルスが横から言った。
「所長の場合は、見たあとに必ず怒りますから、盗用とは見なされにくいでしょう」
ヒトラーはにらんだ。
「君は同行しなくてよい」
「同行させてください。広告、新聞、ニュース映画、視聴室紹介。どれも私の領域です」
「君の領域は壁の余白を食う」
「所長の領域は壁を黙らせる」
ユンゲは記録帳に視線を落とした。
ヒトラーがすぐ言った。
「今のは記録するな」
ユンゲは少しだけ間を置いた。
「どちらの発言をでしょうか」
「両方だ」
「承知しました」
ペン先は止まらなかった。
同行者はそこで決まった。
ヒトラー。
ユンゲ。
フランツ。
ゲッベルス。
ヒムラーは手配元として残る。エルゼは当然、ミュンヘンに残った。カイテルは対外書類を整理し、ヨードルは公共視聴室の工程を詰め、クレープスは図面を修正し、ブルクドルフは試作台座と格闘する。シュタイナー親方は、木枠と水平を見た。
ブルクドルフは不満そうに言った。
「俺はパリに行かないんですか」
ヒトラーは即答した。
「君が行くと、パリで箱を置き直すことになる」
「それは所長が言うからでしょう」
シュタイナーが短く言った。
「残れ」
ブルクドルフは肩を落とした。
「はい」
カイテルは書類束をそろえながら言った。
「留守中の来客対応は、私がエルゼさんの指示で受けます」
エルゼがうなずいた。
「余計な約束はしないでください」
「承知しています」
ヒトラーが言った。
「カイテル、相手が軍務局長のカイテル大将と間違えても、訂正しろ」
「当然です」
「ただし、こちらの書類束は大将級に多い」
「嬉しくありません」
ヨードルは工程表を見ながら、静かに言った。
「列車は夕方発、翌朝パリ着ですか」
ユンゲが行程表を読み上げる。
「ミュンヘン中央駅夕刻発。国際夜行。寝台車、一等区画、食堂車、関係者用特別車あり。翌朝、パリ東駅着。午前に放送設備説明会、午後に開会式リハーサル見学、夕方に関係者懇談会です」
ヒトラーは初めて満足そうな顔をした。
「夜のうちに寝て移動する。合理的だ」
エルゼも行程表を見た。
「ホテル代も一泊分抑えられます。合理的です」
ゲッベルスは少し残念そうだった。
「飛行機なら、もっと記事になったのですが」
ヒトラーは鼻で笑った。
「空港に降りても街は見えん。駅から入らなければ、都市の入口を見落とす」
フランツがうなずいた。
「パリ東駅から入るわけですね」
「そうだ。東から入る。だが、入城ではない。到着だ」
その言葉のあと、事務所が一瞬だけ静かになった。
ユンゲがペンを構えた。
「記録しますか」
ヒトラーは少し遅れて答えた。
「その言葉は記録するな。誤解される」
ユンゲは「到着」とだけ書いた。
それから数日後。
夕方、ミュンヘン中央駅の屋根の下には、長い影と煤けた光が重なっていた。
ホームには夜行国際列車が入っていた。
濃い色の車体。
窓の奥の灯。
寝台車の札。
食堂車の文字。
関係者用に増結された一等車の前には、係員が立っていた。乗客は多くなかったが、ただの旅行客ばかりでもなかった。放送関係者、新聞記者、競技団体の役員、通訳らしい女性、図面ケースを持った男。誰もが少しだけ、普通の旅より硬い顔をしていた。
エルゼはホームで最後の確認をしていた。
「切符。寝台券。入館証。招待状。現地連絡先。仮払金。領収書袋。ユンゲさん、こちらです」
ユンゲは革鞄を開き、受け取った封筒を順に入れた。
「確認しました」
「所長に預けないでください」
「はい」
ヒトラーが振り向いた。
「聞こえている」
エルゼは平然と言った。
「聞こえるように言いました」
フランツは小さな鞄と図面筒を持っていた。少し緊張しているが、目は明るかった。ミュンヘンからパリへ。仕事とはいえ、鉄道で国境を越える旅だった。
ゲッベルスはホームの灯と列車の窓を見て、すでに見出しを考えている顔をしていた。
「夜行列車でパリへ。ミュンヘンの視線、西へ」
ヒトラーは即座に言った。
「却下だ」
「まだ口に出したばかりです」
「口に出た時点で遅い」
係員が乗車を促した。ヒトラーは車両の入口に足をかけ、そこで止まった。
「この車両表示は小さい」
フランツが驚いて顔を上げた。
「まだ乗る前です」
「乗る前に読めない表示は、乗ってからも役に立たん」
ユンゲが淡々と言った。
「車両表示、小さい」
「記録するな」
「業務上の所見です」
ゲッベルスが笑った。
「パリに着く前から、鉄道会社が一つ敵に回りましたね」
「敵ではない。改善対象だ」
「所長に見られたものは、たいていそうなります」
ホームの向こうで、エルゼが最後に言った。
「所長、パリでは現地で勝手に約束を増やさないでください」
「私は約束を増やさない」
「では、構想も増やさないでください」
ヒトラーは黙った。
エルゼはその沈黙だけで十分だと判断した。
「ユンゲさん、お願いします」
「はい」
列車の発車ベルが鳴った。
カイテル、ヨードル、クレープス、ブルクドルフが少し離れたところに並んでいた。ブルクドルフは腕を組み、やはり納得していない顔をしている。シュタイナー親方は帽子をかぶったまま、ただ一度だけうなずいた。
ヒトラーは窓際に立ち、ホームを見た。
「よろしい。戻るまでに、台座の高さを直しておけ」
ブルクドルフが大声で返した。
「行く前から仕事を増やさないでください!」
列車がゆっくり動き出した。
ホームの灯が後ろへ流れ、ミュンヘンの屋根が遠ざかった。窓の向こうで、エルゼがまだ立っていた。手は振らない。ただ、列車が完全に動き出すまで、帳簿を抱えたまま見ていた。
ユンゲは席に着き、鞄から記録帳を出した。
「六月、ミュンヘン発。パリ臨時大会関係者視察。所長、フランツさん、ゲッベルス氏、同行」
ヒトラーは通路の灯を見上げた。
「この灯も少し低い」
フランツは笑いをこらえた。
ゲッベルスが帽子を脱ぎながら言った。
「所長、せめてミュンヘンを出るまでは旅情を味わいましょう」
ヒトラーは窓の外を見た。
「旅情は結構だ。だが、旅情にも配置がある」
列車は西へ向かった。
兵を運ぶ列車ではなかった。
砲も弾薬も積んでいなかった。
積まれていたのは、招待状と、行程表と、ユンゲの記録帳と、ゲッベルスの余計な見出し案だった。
そしてそのすべてを乗せて、夜行列車はパリへ向かった。