第45話 夜行列車の正面
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
列車がミュンヘンを離れてしばらくすると、窓の外の灯は、街のものではなくなった。
駅の天井を支えていた鉄骨も、ホームの人影も、エルゼが帳簿を抱えたまま立っていた姿も、すでに夜の後ろへ流れていた。窓に映るのは、客室の淡い灯りと、座席に腰を下ろした自分たちの顔だった。
ユンゲは、膝の上に革鞄を置いたまま、しばらく黙っていた。
列車は、事務所とは違う音を立てていた。製図台の上で定規が擦れる音でもなく、ブルクドルフが木箱を置く音でもなく、エルゼが帳簿を閉じる音でもない。車輪が継ぎ目を拾うたびに、客室の壁と窓枠と荷棚が、まるで一つの家具のように小さく鳴った。
フランツは向かいの席で、落ち着かない様子で図面筒の紐を直していた。
「すごいですね」
彼は小声で言った。
「何がですか」
「全部です。窓も、椅子も、壁も。私は、こういう列車には一生乗らないと思っていました」
ユンゲは少しだけ笑った。
「私もです」
「ユンゲさんは、もう少し慣れているかと」
「まさか」
彼女は指先で座席の布地に触れた。深い色の張地は、事務所の応接椅子よりずっと柔らかかった。だが、それは単に座り心地がよいというより、座る者に姿勢を求める柔らかさだった。沈み込みすぎない。背中を預けることは許すが、だらしなく崩れることは許さない。
「こういう椅子は、人を少し緊張させます」
フランツは納得したようにうなずいた。
「分かります。どこに手を置けばいいのか迷います」
「所長なら、それにも文句を言います」
そのとき、通路側でヒトラーの声がした。
「この個室の読書灯は低すぎる」
フランツはユンゲを見た。
ユンゲは記録帳を開きかけ、やめた。
ヒトラーは客室の扉のそばで、備え付けの小さな灯りを見上げていた。ゲッベルスは帽子を脱ぎ、すでに旅の余裕を楽しむような顔で立っている。
「夜に移動し、朝に着く。これはよろしい。時間を食わない」
ヒトラーはそう言ってから、すぐに続けた。
「だが、寝るための部屋だからといって、朝のことを考えなくてよいわけではない。朝になれば人は外を見る。この窓は小さい」
ゲッベルスが肩をすくめた。
「所長、列車がミュンヘンを出てから、まだ一時間も経っていません」
「時間の問題ではない」
「窓の問題ですか」
「正面の問題だ」
フランツは、やはり始まった、という顔をした。
やがて給仕が食堂車の用意を知らせに来た。
一行は細い通路を進んだ。車両と車両の継ぎ目を渡るとき、足元が一瞬だけ不確かになり、外の風の匂いが差し込んだ。次の車両に入ると、空気が変わった。温かく、少し甘く、金属と布と料理の匂いが混じっている。
食堂車は、すでに明るかった。
白いテーブルクロスが揺れないように整えられ、銀器が列車の振動に合わせてわずかに光を返していた。小さな花瓶には、派手すぎない花が挿してある。窓の外は黒く、そこに食堂車の内部が映っていた。席に着くと、自分たちが夜の中に浮かんでいるように見えた。
ゲッベルスは満足そうに周囲を見た。
「これはいい。夜行列車での夕食。パリへ向かう視察団。見出しになります」
ヒトラーはメニューを見ながら言った。
「食事に見出しをつけるな」
「つけなくても、絵にはなります」
「絵になるために食べるのではない」
ユンゲはメニューの文字を追った。ドイツ語とフランス語が並んでいた。前菜、スープ、魚料理、肉料理、チーズ、果物、菓子。彼女は、どこからどのナイフを使うのか一瞬迷い、隣の給仕の手つきを見てから、何食わぬ顔で姿勢を整えた。
最初に出されたのは、卵と野菜の小さな前菜だった。次に澄んだコンソメ。揺れる列車の中で、スープ皿は不思議なほど静かだった。フランツはそれだけで感心していた。
「こぼれないものですね」
「こぼさないように作られている」
ヒトラーは皿を見た。
「皿の縁がよろしい。列車で出すスープの皿としては、分かっている」
ゲッベルスが笑った。
「所長、食堂車に来て最初に褒めるのが皿ですか」
「皿を軽んじる者は、客の膝を軽んじている」
ユンゲは記録帳を出そうとしたが、食事中であることを思い出して、膝の上の手を止めた。
魚料理が出た。白身魚に淡いソースがかかり、付け合わせの野菜は皿の端に控えめに置かれていた。料理は上等だったが、押しつけがましくはなかった。香りも強すぎない。
ヒトラーは黙って食べた。
その次に、肉料理が出た。仔牛肉の薄い切り身に、軽いソース。じゃがいもと若い豆。肉はあるが、皿全体を支配してはいない。フランツは少し意外そうにヒトラーを見た。
ヒトラーは普通にナイフを入れ、少し食べた。
フランツは迷った末に言った。
「所長、肉料理は……よろしいのですか」
ヒトラーは顔を上げた。
「何がだ」
ユンゲも静かに言った。
「肉はお嫌いなのかと」
ヒトラーはナイフを止めた。怒ったわけではない。ただ、質問の位置を直すような顔だった。
「嫌いなのではない。匂いが強いのが気に食わん」
ゲッベルスが面白がった。
「肉の匂いですか」
「肉が皿の上で演説する必要はない」
フランツは、どう返せばよいか分からない顔をした。
ヒトラーは皿を指した。
「これは分かっている。肉を主張させすぎていない。オペラ座のような顔をしていても、見せるべきは役者だという点を心得ている」
ユンゲはついに記録帳を開いた。
「肉料理について、所長所見あり」
「食事中に書くな」
「好みの確認です」
「私の胃袋を資料にするな」
ゲッベルスはグラスを持ち上げた。
「皿の上でも演説禁止。これは使えますね」
「使うな」
フランツは笑いをこらえながら、肉料理を少し口に運んだ。
「たしかに、重くないですね」
「肉は舞台装置だ。役者になるなと言っている」
「では、ブルクドルフさんが昼に食べるソーセージは」
言ってから、フランツは少し後悔した。
ヒトラーは即座に顔をしかめた。
「あれは料理ではない。場末の映画館が、流行作品の看板をごてごて並べているだけの騒音だ」
ゲッベルスが声を出して笑った。
「ブルクドルフが聞いたら怒りますよ」
「怒るなら、まず匂いを改めろ」
ユンゲは淡々と書いた。
「ブルクドルフ氏の昼食に関する所長発言、本人不在のため保留」
「それも書くな」
「本人不在なので、保留です」
フランツは下を向いて、今度こそ笑いをこらえきれなかった。
食後にチーズと果物が出され、最後に菓子とコーヒーが運ばれた。ヒトラーはコーヒーにはあまり手をつけず、鉱泉水を選んだ。ユンゲは紅茶を頼んだ。フランツは出されたコーヒーを緊張しながら飲み、少し苦そうな顔をしたが、何も言わなかった。
食堂車を出るころには、列車はさらに深い夜の中に入っていた。
食後の懇談は、サロンカーで行われた。
そこは食堂車とはまた違う車両だった。壁には木目が深く出ており、真鍮の金具が小さな灯りを受けていた。ソファは向かい合わせに置かれていたが、ただ座るための配置ではなかった。誰が中央に座るか、誰が聞き役に回るか、誰が壁際から眺めるか。それが、言葉にしなくても決まってしまうような空間だった。
ユンゲは入った瞬間、それを感じた。
フランツも小声で言った。
「これは……すごいですね」
「ええ」
「座っていいんでしょうか」
「座るために置いてあるはずです」
「でも、座るだけでは済まない感じがします」
ユンゲはうなずいた。
「椅子に座る前から、こちらが試されているようです」
サロンカーの片側では、主催側の担当者が翌日の予定を説明していた。
「明朝、パリ東駅に到着後、各位のお荷物は宿泊先へ回送されます。午前中は放送設備説明会。午後に開会式リハーサル見学。夕刻より関係者懇談会となります。詳細な順序は、明朝、駅到着後にお配りいたします」
列車の揺れに合わせて、グラスの中の酒が小さく光った。シャンパン、ラインワイン、コニャック。ユンゲはその種類を見ただけで、普段の事務所の応接とは違う世界にいることを改めて感じた。
ゲッベルスは当然のようにグラスを受け取った。
ヒトラーは一度断りかけたが、給仕が差し出した小さな杯を見て、結局受け取った。ほんの少しだけ口をつける。
ゲッベルスが目ざとく言った。
「所長が飲むとは珍しい」
「飲むためではない。断ると、相手が酒の配置を勝利だと思う」
ユンゲは横から見ていた。
「それは一杯飲む理由として成立していますか」
フランツが小声で言った。
「かなり所長らしい理由ではあります」
そこへ、一人の若い男が近づいてきた。
背は高く、身なりは整っていた。派手ではないが、自分がどう見られるかをよく知っている服装だった。顔には礼儀正しい笑みがある。ただ、その礼儀正しさの奥に、物を測るような目があった。
「失礼いたします。ベルリンから参りました。アルベルト・シュペーアです」
ゲッベルスがすぐに反応した。
「ベルリンの建築関係の方ですね」
「公共施設と展示構成の関係で、今回の視察団に加えていただきました」
シュペーアはヒトラーのほうを向いた。
「所長のお仕事は、以前から拝見しています」
ヒトラーは杯を持ったまま、相手を見た。
「どの仕事だ」
「昨年のベルリンでの東方交通・通商連絡展。それから、防共協力広報週間の会場構成です」
フランツは少し姿勢を正した。ユンゲも記録帳を手にした。
シュペーアは言葉を選ぶように続けた。
「政治的には角の立ちやすい題材でした。ですが、正面の取り方が巧みでした。角を、正面の中へ包み込んでいた」
ヒトラーの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。まんざらでもない顔だった。
だが、返す言葉はやはりそのままではなかった。
「角は勝手に立たん。政治家が立たせるんだ」
シュペーアは興味深そうに聞いていた。
「では、意匠家はそれを隠すのですか」
「違う。立てるなら、しっかりした柱を立てろと言っている」
「柱」
「布で覆った角は、いずれ誰かに刺さる。柱なら、誰もがそこにあると分かる」
ゲッベルスが笑みを浮かべた。
「これは見出しになりますね」
ヒトラーは即座に言った。
「するな」
「では、見出しではなく、構成に使いましょう」
シュペーアが言った。
「建築と広告を合わせれば、その柱は遠くから見えます。近づく前に、人の歩く向きが決まる」
ゲッベルスは楽しそうにうなずいた。
「その通りです。壁面、導線、見出し、写真。客は自分で歩いているつもりで、実は見せたい順に見ていく」
ヒトラーは顔をしかめた。
「君たちは、すぐ人を見上げさせたがる」
ゲッベルスが返した。
「所長は人を正面に立たせます」
シュペーアが静かに言った。
「同じことを、別の素材でしているように見えます」
その場の空気が、少しだけ澄んだように冷えた。
ユンゲは、それを感じた。
豪華なサロンカーだった。灯りは柔らかく、酒は上等で、椅子は深く、窓の外には夜が流れていた。だが、その中心で話されているのは、人をどう歩かせるか、人をどう見上げさせるか、人をどう正面へ向けるか、ということだった。
フランツも同じものを感じたのか、少し黙っていた。
その沈黙を破ったのは、ヒトラーだった。
「それにしても、このソファは悪い」
ゲッベルスは呆れた。
「今、その話に戻りますか」
「戻るも何も、最初から目障りだ。このサロンは人を休ませるためではない。人を偉そうに見せるために作られている」
シュペーアが微笑んだ。
「それは悪いことですか」
「悪いとは言っていない。目的を隠すなと言っている」
ゲッベルスはグラスを揺らした。
「目的を隠すのも技術です」
「君の技術は、隠したものが大きすぎる」
ユンゲは記録帳に短く書いた。
「サロンカーにて、シュペーア氏と会話。建築、広告、正面、柱について」
それ以上は書かなかった。
夜が深くなるにつれ、懇談は少しずつ散っていった。
ゲッベルスは、まだシュペーアと壁面広告の話をしていた。ヒトラーは途中から興味を失ったように見せながら、時々、相手の言葉の端を拾っては不機嫌そうに訂正していた。フランツは何度かユンゲのほうを見たが、声はかけなかった。
やがて係員が、それぞれの寝台区画へ案内した。
ユンゲに割り当てられた個室は、小さかった。
しかし、その小ささは貧しさではなかった。ベッドは折り畳まれ、壁には小さな洗面台が収まっていた。鏡、金具、読書灯、荷物を置く棚。窓には厚いカーテンがあり、引くと外の夜が消えた。
ユンゲはしばらく立ったまま、部屋を見ていた。
ミュンヘンの事務所で、彼女は受付に座り、電話を取り、記録をつけ、所長の言葉を拾ってきた。雨の日には黒い乗馬ブーツで出勤し、床が濡れないように気をつけながら、応接の来客を案内した。そこから夜行国際列車の寝台個室まで来たことが、少し信じられなかった。
鞄を開け、招待状の封筒、入館証、翌日の予定表を確認する。エルゼから預かった仮払金の封筒も確かめた。記録帳を出して、机代わりの小さな板に置く。
彼女はペンを持った。
書くべきことは多かった。
だが、すべてを書けばよいわけではなかった。
肉が皿の上で演説する必要はない。
角は勝手に立たん。政治家が立たせるんだ。
立てるなら、しっかりした柱を立てろ。
このサロンは人を休ませるためではない。人を偉そうに見せるために作られている。
どれも、所長らしい言葉だった。
滑稽で、苛立たしく、時々正しく、そして時々、正しいからこそ厄介だった。
ユンゲは少し考えたあと、短く書いた。
「夕食、食堂車。所長、肉料理を口にする。肉そのものより匂いと過剰な主張を嫌う旨。サロンカーにて主催側説明。シュペーア氏、所長に接近。会場構成を評価。所長、角と柱について発言。ゲッベルス氏、建築と広告の連携に関心。」
そこまで書いて、彼女はペンを置いた。
列車が揺れた。
小さな鏡の中で、自分の顔も揺れた。少し疲れていた。少し高揚していた。茶色の髪の後れ毛が、襟元に落ちている。彼女はピンを外し、髪をほどき、洗面台を開いた。小さな蛇口から水を出す。水は列車の振動に合わせて、わずかに細く太くなった。
外では、線路が続いている。
彼女はカーテンを少しだけ開けた。窓の外は暗く、遠くに小さな灯が流れていた。それが村なのか、駅なのか、工場なのか、分からなかった。
パリへ向かっている。
ユンゲはその事実を、ようやく身体で感じた。
寝台に横になると、天井が近かった。列車の音が体に伝わってくる。遠い車両から、誰かの笑い声が微かに聞こえた。グラスの触れる音。通路を歩く足音。やがてそれも消え、車輪の音だけになった。
彼女はしばらく眠れなかった。
目を閉じると、サロンカーの灯りと、シュペーアの静かな目と、ヒトラーがグラスを置いた音が浮かんだ。ゲッベルスの声が、壁面、導線、見出し、写真、と並べていく。人が自分で歩いているつもりで、実は見せたい順に見ていく。
彼女は寝返りを打った。
列車の中では、誰もが同じ方向へ運ばれていた。
それを便利だと思うか、危ういと思うかは、その人が何を見ているかで変わるのだろう。
朝は、ノックの音で始まった。
「おはようございます。間もなく朝食のご用意ができます」
ユンゲは目を開けた。しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。天井が近い。壁が鳴っている。窓の外が薄く明るい。
列車の中だった。
彼女は起き上がり、カーテンを開けた。外には、淡い灰色の朝が広がっていた。畑と、低い家並みと、時折見える倉庫。駅を通過するとき、看板の文字がフランス語になっていることに気づいた。
ユンゲは小さな洗面台を開いた。
水で顔を洗い、髪をまとめ直す。後れ毛を押さえ、ブラウスの襟を整えた。鏡の中の自分は、昨夜より少し硬い顔をしていた。彼女は濃い色の上着を着て、記録帳を鞄に入れ、入館証の封筒を確認した。
通路に出ると、フランツが少し眠そうな顔で立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
彼は小声で言った。
「眠れましたか」
「少しは」
「私は、洗面台を開けたり閉めたりしていたら、寝るのが遅くなりました」
ユンゲは笑った。
「子供みたいですね」
「否定できません」
食堂車の朝は、夜とは違っていた。
灯りはついていたが、主役は窓の外の朝だった。夜の食堂車が舞台なら、朝の食堂車は作業場に近かった。給仕の動きも早く、客の顔には眠気が残っていた。テーブルにはパン、バター、ジャム、卵、果物、コーヒー、紅茶が並んだ。
ヒトラーはすでに席に着いていた。窓の外を見ている。
ゲッベルスも来ていたが、こちらは朝から紙片に何か書いていた。
フランツが席に着く。
「おはようございます、所長」
ヒトラーは窓から目を離さずに言った。
「朝の食堂車は悪くない」
ゲッベルスが顔を上げた。
「昨夜の食堂車はお気に召さなかったので?」
「夜は灯りが人を飾りすぎる。朝は皺も眠気も隠さない」
フランツが苦笑した。
「それは、褒めているのですか」
「半分はな」
ゲッベルスが言った。
「朝の皺では宣伝になりません」
ヒトラーはようやく彼を見た。
「だから君は朝に弱い」
ユンゲは記録帳を出そうとして、やめた。
この言葉は、記録しなくてもよいと思った。
朝食は簡素だったが、整っていた。焼きたてではないが温められたパン。固すぎない卵。バターとジャム。フランツは昨日の夕食より安心したように食べていた。ユンゲも紅茶を飲みながら、窓の外を見た。
線路の数が増え始めた。
貨物車、信号機、倉庫、低い煙突、濡れた屋根。遠くに街が近づいている気配があった。だが、それは絵葉書のパリではなかった。まだ塔も大通りも見えない。最初に見えるのは、都市の裏側だった。
ヒトラーはそれを見ていた。
「パリは、駅に着く前から自分を見せようとしている」
フランツが窓に顔を寄せた。
「まだ郊外では」
「都市は郊外で油断する。そこを見る」
ゲッベルスが紙片をしまった。
「所長、到着早々に郊外批評ですか」
「到着前だ」
「なお悪い」
ユンゲは今度は記録帳を開いた。
「朝、パリ接近。所長、郊外について所見あり」
ヒトラーが言った。
「郊外ではない。入口だ」
ユンゲは書き直した。
「入口」
列車は速度を落とした。
車内の空気が変わった。乗客たちは鞄を閉じ、帽子を取り、上着を整えた。通路を歩く係員の声に、フランス語が混じる。ゲッベルスは鏡も見ずに帽子の角度を直し、フランツは図面筒の紐を二度確認した。ヒトラーは立ち上がり、コートの前を払った。
ユンゲは鞄の中を最後に確認した。
招待状。
入館証。
予定表。
記録帳。
エルゼから預かった封筒。
すべてある。
やがて列車は、パリ東駅の屋根の下へ入った。
鉄とガラスの天井。ホームの声。新聞売りの声。荷物を運ぶ台車の音。ミュンヘンとは違う湿り気と、石と煙の匂い。窓の外に、パリの文字が見えた。
ユンゲは記録帳を開き、短く書いた。
「6月23日、朝。パリ東駅着」
列車が止まった。
扉が開き、外の空気が入ってくる。
ヒトラーは降りる前に、車両の行先表示を見た。昨夜、ミュンヘンで文句をつけた表示だった。
「やはり小さい」
フランツは荷物を持ったまま言った。
「所長、パリに着きました」
「だから言っている。到着する者に読ませる表示が小さい」
ゲッベルスが笑った。
「パリへの第一声がそれですか」
ヒトラーは帽子を手に取り、ホームを見た。
「第一声ではない。昨夜から言っている」
ユンゲはため息に近い息を吐き、記録帳に一行だけ追記した。
「到着直後、所長、表示に不満」
彼女は帳面を閉じた。
ホームには、朝のパリがあった。
征服された街ではなかった。
沈黙した街でもなかった。
大会関係者を迎える駅員がいて、放送技術者が荷物を確認し、新聞記者が手帳を開き、通訳が名前を呼んでいた。
ヒトラーはその中へ降りた。
ユンゲは、彼の一歩後ろでホームに足を下ろした。
フランツが続き、ゲッベルスが帽子を整えた。
夜行列車は、彼らを運んできただけだった。
何かを占領したわけではない。
ただ、ミュンヘンの一つの意匠事務所が、招待状と記録帳を持って、パリの朝に到着した。