第47話 正面に置かれた顔
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
懇談会場の扉が開くと、ロビーとは違う種類の光があふれていた。
ホテルのロビーは、新聞と革椅子と低い声の場所だった。だが、その奥の広間は、笑顔とグラスと名刺のために整えられていた。壁にはパリ臨時大会のポスターが掛けられ、中央には白いクロスのテーブルが置かれ、端には小さな演奏台まで用意されている。シャンパンの泡が細いグラスの中で上がり、給仕たちが人と人の間を、目立たない速さで通り抜けていた。
ユンゲは、入る前に一度だけ振り返った。
ロビーの小卓には、まだ新聞が開かれていた。パリ臨時大会の記事。その下のバルト海沿岸の地図。さらに別欄には、イタリアとバルカンの記事があった。アルバニア駐留部隊、ギリシャ国境、ローマ紙、アドリア海秩序。
彼女はそれを覚えたまま、広間に入った。
ゲッベルスは、入った瞬間に顔を変えた。
ロビーで新聞を読んでいたときの顔ではない。視線の行き先を素早く見極め、人の集まりの中心を探し、挨拶する相手を選ぶ顔だった。
「懇談会というのは便利ですね」
フランツが小声で尋ねた。
「何がですか」
「皆が自分から顔を並べに来る。こちらが探す手間が省けます」
ヒトラーが横から言った。
「君は顔を名刺の代わりにする」
「所長は名刺の文字間にも文句をつけます」
「文句ではない。調整だ」
ユンゲは記録帳を開きかけたが、広間の明るさに少し戸惑い、いったん鞄に戻した。
記録するには、見るものが多すぎた。
フランス側の放送関係者、パリ臨時大会の組織委員、新聞社の人間、電機会社の技術者、建築家、映画関係者。ドイツ側の視察団も、昼間よりさらに整った服装で集まっていた。朝に説明室でケーブルを見ていた技術者たちも、夜にはきちんとした上着を着て、グラスを持っている。
その変化が、ユンゲには面白かった。
昼間、彼らは機械と図面のそばにいた。
夜、彼らは言葉と顔のそばにいる。
シュペーアは、すでに一人のフランス人建築家と話していた。背筋を伸ばし、笑みを崩さず、相手の話を聞きながらも、広間全体の高さや壁の位置を測っているように見える。彼は人を見ているようで、同時に空間も見ている。
そのそばに、黒いドレスの女性が立っていた。
姿勢がよかった。
ただ立っているだけなのに、周囲の人間が少しだけ距離を取る。顔立ちは鋭く、目は相手を通り抜けるように動く。年齢は若くはない。だが、若さとは別の強さがあった。柔らかい笑みを浮かべても、その笑み自体が一つの構図になっていた。
ゲッベルスが低く言った。
「レニ・リーフェンシュタール監督です」
フランツが少し驚いた。
「監督が、ここに?」
「パリ大会のニュース映画、記録映像、公共視聴室紹介の関係で相談を受けているそうです。彼女が来るなら、映像の話になります」
ヒトラーは彼女を見た。
「映像の話なら、顔が大きくなる」
ゲッベルスは笑った。
「まだ挨拶もしていませんよ」
「顔を見れば分かる」
レニはこちらに気づき、グラスを持ったまま近づいてきた。
「アドルフ・ヒトラー意匠事務所の所長さんね」
ヒトラーは一礼した。
「ヒトラーだ」
「存じています。ミュンヘンの視聴室案で、フランス側の椅子を怒らせた方」
フランツが小さく咳をした。
ヒトラーは顔色を変えなかった。
「椅子は怒らん。椅子を置いた者が怒る」
レニは笑った。
「噂より面白いわ」
ユンゲは思わず記録帳を開いた。
ヒトラーが横目で見た。
「記録するな」
「監督の発言です」
「なお悪い」
レニはユンゲに目を向けた。
「あなたが記録係?」
「クララ・ユンゲです」
「いい仕事ね。人は、記録されると思うと少しだけ嘘を整える」
ユンゲは、すぐに答えられなかった。
ヒトラーが代わりに言った。
「整えない者もいる」
レニは彼を見た。
「あなたのこと?」
「私は元から整っている」
ゲッベルスが、うっかり吹き出しそうになった。
「所長、それは少し」
「少し何だ」
「いえ、整っております」
レニは楽しげに笑った。
「今夜は退屈しなさそう」
広間の一角で、懇談会の短い挨拶が始まった。フランス側の担当者が、パリ臨時大会の意義と、各国技術者の協力に感謝を述べた。ドイツ側の放送関係者も礼を返した。言葉は丁寧だった。だが、丁寧すぎる言葉には、互いに相手を測っている気配があった。
挨拶が終わると、人々はまた小さな群れに分かれた。
ゲッベルスは、さっそくレニとシュペーアを同じ輪に引き込んだ。ヒトラー、フランツ、ユンゲもその場に残る。テーブルの上には軽い料理とグラスがあり、新聞の話題が自然に戻ってきた。
ゲッベルスが言った。
「ロビーの新聞をご覧になりましたか。イタリアがまたアルバニアからギリシャ方面を見ているようです」
レニはグラスを傾けた。
「ローマは、見ているだけでは済まない街でしょう」
シュペーアが静かに言った。
「アルバニア駐留部隊の増強、国境付近の小競り合い、アドリア海秩序。言葉だけなら、どれももっともらしい」
ヒトラーは皿の上の小さな前菜を見ていた。
「あの男は、いつも入口ではなく横の扉を探す」
フランツが尋ねた。
「ムッソリーニのことですか」
「名前は言っていない」
ゲッベルスが即座に言った。
「顔が言っています」
ヒトラーは少し不機嫌そうにした。
「顔が大きすぎるのだ。新聞に載るたび、紙面を狭くする」
レニは、その言葉に興味を示した。
「顔が大きい。いい表現ね」
「よくない。大きければよいと思っている顔は、たいてい中身が騒がしい」
「映画では、大きな顔ほど便利よ」
ヒトラーはすぐに反応した。
「だから映画は危険だ」
ゲッベルスが笑った。
「監督の前でそれを言いますか」
レニは気にしていなかった。
「危険でなければ、映画にする意味がないわ」
フランツは、会話の温度が急に変わったのを感じた。
新聞の中のイタリアの記事から、映画の話へ移ろうとしている。だが、それは雑談というより、誰かが舞台の照明を少し暗くしたような移り方だった。
レニが言った。
「チャップリンが、今度は独裁者を笑う映画を作っているそうよ」
ゲッベルスは、待っていたように頷いた。
「アメリカで秋に公開されるという噂です。地中海の独裁者。ローマ趣味の大きな男が、地図の前で踊るとか」
シュペーアが薄く笑った。
「背景は想像できます。柱、階段、旗、大きすぎる執務机」
ヒトラーが言った。
「椅子も大きいだろう。ああいう男は、椅子で身長を補う」
フランツは思わず言った。
「所長、かなり具体的ですね」
「一般論だ」
ユンゲが記録帳を持った。
「記録しますか」
「するな。一般論を記録する必要はない」
レニが微笑んだ。
「一般論ほど、あとで誰の話だったか分かるものよ」
ゲッベルスは話を続けた。
「噂では、脇にドイツ風の軍服官僚も出るそうです。小さな国の権威主義者。儀礼、机、命令書、肩章。そういうものを大げさにした人物です」
ヒトラーは鼻で笑った。
「それなら、机の幅を間違えるだろう」
シュペーアが尋ねた。
「どう間違えるのです」
「独裁者を笑わせたいなら、机を広くするな。広い机は孤独を大きく見せる。笑わせたいなら、狭い机に書類を積め。大きな命令を出したい男が、紙に埋もれる」
レニはじっとヒトラーを見ていた。
「あなた、喜劇の才能があるのね」
「ない。机の才能だ」
ゲッベルスが楽しそうに言った。
「椅子、机、顔、地図。チャップリンに助言できますね」
「助言する義理はない」
「ですが、映画としては使える」
「映画は使いすぎる」
レニの目が細くなった。
「何を?」
「顔を」
その場が少し静かになった。
レニはグラスを置いた。
「映画は顔を逃がさない。観客は、顔から目を逸らせない。遠くの行進より、近くの目のほうが人を捕まえる」
ヒトラーは答えた。
「捕まえる必要がないものまで捕まえる」
「それが映画よ」
「だから危険だと言っている」
ゲッベルスが言った。
「宣伝には必要です。顔がなければ、人は覚えません」
ヒトラーは彼を見た。
「君は人間をポスターにする」
「所長は人間を正面に立たせます」
シュペーアが静かに入った。
「建築は、その顔の後ろを作ります。柱、階段、天井の高さ。顔だけでは持ちません」
ヒトラーは即座に言った。
「顔を支えるために柱を立てるな。柱が先だ」
シュペーアは興味深そうに首を傾けた。
「しかし、人は柱そのものを見に来るわけではありません」
「柱を見ない者ほど、倒れたときに驚く」
レニはそのやり取りを楽しむように見ていた。
「あなたは顔を嫌っているようで、顔の位置には誰よりうるさい」
「私は顔ではなく、正面を作る」
レニはすぐに返した。
「正面に置かれた顔は、大きくなる」
その言葉が、広間の灯りの中に残った。
ユンゲはそれを書いた。
「正面に置かれた顔は、大きくなる。リーフェンシュタール監督発言」
ヒトラーが言った。
「それも記録するな」
ユンゲは静かに返した。
「監督の発言です」
「君は便利な言い訳を覚えた」
「所長から学びました」
フランツは、グラスを持ったまま視線を落とした。
彼はこの場の華やかさに、昼間とは違う疲れを感じていた。パリのホテル。白いクロス。シャンパン。映画監督。建築家。広告屋。意匠家。話題は映画の喜劇だった。だが、彼らが語っているのは、笑いそのものではなかった。
顔をどう置くか。
人をどう立たせるか。
どの高さから見せるか。
どの背景で大きくするか。
それは、昼間に競技場で聞いたカメラ台の話と似ていた。全景を見せるか、人間を見せるか。拍手を止めるか、流れの中に置くか。
レニが言った。
「チャップリンの独裁者には、東方の男も出るらしいわ。笑わない人物。軍人なのか、秘密警察の長なのか、噂だけだけれど」
ゲッベルスが頷いた。
「笑劇の中で一番怖いのは、笑わない男だそうです」
ヒトラーは少しだけ新聞のほうを思い出したような顔をした。
「笑わない顔は、余白を食う」
シュペーアが尋ねた。
「余白ですか」
「周囲が笑っているほど、笑わない顔の周りだけ空く。そこに人は勝手に意味を置く」
レニは満足そうに言った。
「だから、カメラはそこへ寄る」
「寄るな」
「寄るわ」
「だから映画は危険だ」
レニは笑った。
「同じところへ戻ってきたわね」
ゲッベルスはグラスを持ち上げた。
「危険なものほど、使い道があります」
ヒトラーは彼を見た。
「君は火事を見ても、照明計画を考えるだろう」
「燃えているものは、人を振り向かせますから」
「最低だ」
「効果的です」
ユンゲは、そのやり取りを記録しなかった。
記録帳に残すには、あまりにもそのままだった。
少し離れたところでは、フランス側の担当者が笑いながら別の客と話していた。音楽が低く流れ、給仕が新しいグラスを配っている。誰かがパリ大会の開会式について語り、別の誰かがテレビ受像機の数を話している。
広間は華やかだった。
だが、ロビーの新聞の下段には、バルト海沿岸の地図があった。別欄には、アルバニアからギリシャ方面へ伸びる小さな記事があった。今ここで話されている独裁者の喜劇は、まだ未公開の映画にすぎない。だが、新聞の中の小さな顔たちは、すでに地図の上で動いていた。
フランツは、レニの横顔を見た。
彼女は美しいものを美しく撮る人間なのだろう。だが、それだけではない。彼女は、人間が最も逃げにくい角度を知っているように見えた。
シュペーアは、背景を作る男だった。
ゲッベルスは、見出しをつける男だった。
ヒトラーは、正面を決める男だった。
レニは、その正面から逃がさない女だった。
ユンゲは、そこまで考えてから、記録帳に短く書いた。
「懇談会。映画、広告、建築、正面について会話。チャップリン新作の噂。地中海の独裁者を題材とするらしい。監督、映画は顔を逃がさない旨。所長、映画は顔を使いすぎる旨」
そのとき、レニがユンゲに声をかけた。
「あなたは、何を書いているの」
ユンゲは一瞬迷った。
「記録です」
「全部?」
「いいえ」
「なぜ?」
ユンゲは、ヒトラーのほうを見た。彼はゲッベルスとシュペーアの会話に割り込んで、どうやら柱と広告幕の位置について文句を言っている。
「全部書くと、何が大事か分からなくなります」
レニは頷いた。
「編集ね」
「記録です」
「同じことよ」
ユンゲは、少し困った。
「違います」
レニは笑った。
「あなたはそう思っていたほうがいいわ」
その言葉は、ユンゲの中に小さく残った。
懇談会は続いた。
ゲッベルスは、チャップリンの映画が公開されたら新聞でどう扱われるかを語り、シュペーアは独裁者の背景に必要な階段の幅について冗談のように話した。レニは時々笑い、時々まったく笑わずに相手を見た。ヒトラーは、笑われる独裁者の椅子の大きさ、机の狭さ、顔の位置、地図の扱いに次々と口を出した。
「地図を広げるなら、端を重しで押さえろ」
ゲッベルスが言った。
「映画の話です」
「映画でも地図は丸まる」
シュペーアが笑った。
「独裁者が地図と格闘する場面は、たしかに使えます」
レニが言った。
「大きな地図ほど、端が浮く。そこを押さえようとして、本人が小さく見える」
ヒトラーは少しだけ満足そうにした。
「分かっているではないか」
「あなたの喜劇の授業ね」
「授業ではない。地図の扱いだ」
フランツは、ようやく少し笑った。
笑える話ではあった。
だが、笑いきることはできなかった。
大きな顔。
小さな椅子。
狭い机。
浮き上がる地図の端。
笑わない東方の男。
横の扉を探す地中海の男。
それらは、喜劇の材料だった。
同時に、新聞記事の材料でもあった。
夜が深くなると、懇談会の空気は少し緩んだ。客たちは名刺を交換し、翌日の再会を約束し、ホテルの廊下へ散り始めた。レニは最後にヒトラーへ言った。
「あなたのミュンヘン視聴室、見てみたいわ」
ヒトラーは即答した。
「まだ完成していない」
「未完成のほうが面白い」
「完成してから見ろ」
「完成したものは、作った人の言い訳が減るでしょう」
ヒトラーは少し不機嫌そうにした。
「言い訳ではない。説明だ」
レニは笑った。
「では、説明が残っているうちに見たいわ」
ゲッベルスはすぐに言った。
「それはよい。監督に撮っていただければいいのです、ミュンヘン視聴室の紹介映像として」
ヒトラーが遮った。
「勝手に撮るな」
レニはヒトラーを見た。
「撮られたくないの?」
「撮るなら、何を撮るか先に決めろ」
「それを決めるのが監督よ」
「だから危険だと言っている」
また同じところへ戻った。
ユンゲは記録しなかった。
広間を出ると、ロビーの灯りは少し落ちていた。新聞は小卓から片づけられていた。だが、ユンゲにはまだ紙面が見えているようだった。競技場の記事、バルトの地図、イタリアとギリシャの見出し。
フランツが隣で言った。
「疲れましたね」
「ええ」
「映画の話だったはずなのに、あまり映画を見た気がしません」
ユンゲは少し考えた。
「まだ公開されていませんから」
「そういう意味ではなく」
「分かります」
二人はしばらく黙って歩いた。
階段の手前で、ユンゲは記録帳を開いた。最後に一行だけ書き足す。
「正面に置かれた顔は、笑われても小さくならない」
彼女はその一行を見つめた。
それは所長の言葉ではなかった。監督の言葉そのものでもなかった。自分の言葉に近かった。
少し迷ったが、消さなかった。
その夜、ホテルの窓の外では、パリの灯がまだ残っていた。
広間の中で語られた顔たちは、映画の中のものだった。
新聞の中の顔たちは、地図の上にあった。
ユンゲは記録帳を閉じた。
明日になれば、また予定表が開かれる。
放送設備、視聴室、競技場、会場図、席順。
だがその前に、彼女はしばらく、何も記録せずに窓の外を見ていた。