第49話 飛ぶ者を飾るな
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
朝の所長室には、新聞の音があった。
紙を開く音。折り目を正す音。机の上で一面を整える音。ヒトラーはその音を、ほとんど儀式のように扱っていた。
ユンゲは扉を叩き、返事を待ってから入った。
「今朝の新聞です」
ヒトラーは机の右前方を空けていた。そこに新聞を置く。窓から入る光が、紙面の上に斜めに落ちた。一面の見出しは、影にかからない。
彼はまず折り目を見た。
「よろしい」
ユンゲは、この部屋で一番早い肯定を聞いた気がした。
所長室の配置は、すでに定着していた。机の向き、応接椅子の距離、棚の高さ、電話の位置、新聞を置く角度。すべてに文句をつけ尽くしたあと、ヒトラーは何も言わなくなった。
何も言わない。
それが、この部屋では完成を意味していた。
ヒトラーは新聞を開いた。最初はパリ臨時大会の記事だった。ミュンヘン公共視聴室の準備が始まったことも、小さく載っている。
「“装飾工事始まる”か」
彼は見出しを睨んだ。
「装飾ではない」
ユンゲは記録帳を開いた。
「所長、装飾という表現に不満」
「不満ではない。訂正だ」
「では、訂正に不満」
「君は最近、言葉を曲げる」
「所長から学びました」
ヒトラーは返事をしなかった。
新聞の国際面に移ると、顔つきが少し変わった。
「アメリカ国務省、バルト三国の地位変更を承認せず」
ユンゲは、見出しを見た。
リトアニア、ラトビア、エストニア。親ソ政権。選挙。加盟請願。ソ連側発表。各国反応。記事の中の言葉は、いかにも外交文書らしく整っていた。だが整いすぎた言葉ほど、その下にある力を隠しているように見えた。
ヒトラーは言った。
「承認しない、という言葉は、椅子を元の位置へは戻さない」
ユンゲはペンを持った。
「記録しますか」
「するな。これは外交の話だ」
彼女は書いた。
「承認しない、という言葉は椅子を元の位置へ戻さない。所長、外交の話として記録不要との指示」
ヒトラーが横目で見た。
「君は指示の裏側ばかり書く」
「表側は新聞にあります」
そこへエルゼが入ってきた。手には見積書がある。彼女は新聞の見出しに目を落とし、短く言った。
「戻せない椅子でも、誰かが“元はそこにあった”と言っておく必要はあります」
ヒトラーは少し黙った。
「……それはそうだ」
エルゼは見積書を机に置いた。
「ミュンヘン視聴室の暗幕追加分です。こちらは、誰かが言っておくだけでは済みません。支払います」
「暗幕は必要だ」
「必要なものほど高いです」
ヒトラーは新聞を畳みかけて、また国際面を見た。
「ドナウ方面も騒がしい」
ユンゲが覗き込んだ。
ルーマニアとハンガリー。トランシルヴァニア。ウィーンでの調停案。イタリアの関与。国際連盟筋。ベッサラビアと北ブコヴィナをめぐる不安。紙面の中で、いくつもの線が重なっている。
ヒトラーは新聞の地図を指で叩いた。
「線を直す者は、いつも線だけを見ている。机の上なら、そうだろう。だが、この線の上には家がある」
エルゼは静かに言った。
「家計もあります」
「そうだ。家計もある」
ヒトラーは新聞を閉じた。
「新聞は終わりだ。今日は視聴室を見る」
ユンゲは記録帳を閉じた。
朝の所長室では、地図の上の線が動いていた。
これから向かう現場では、暗幕の線と椅子の列が動く。
その二つが同じものではないことを、彼女は分かっていた。
だが、所長はたぶん、どちらにも同じ目を向ける。
ミュンヘン公共視聴室の会場は、すでに工事の匂いがした。
木材、布、糊、金具、塗料、埃。大きなホールの壁際には受像機台の部材が並び、暗幕が仮吊りされ、入口には未完成の案内板が立っていた。パリで見た模型とは違う。こちらは実際に人が歩き、椅子を運び、釘を打つ場所だった。
ブルクドルフは木枠を押さえ、シュタイナー親方が寸法を測っていた。クレープスは床に膝をついて、椅子列の間隔を確認している。ヨードルは工程表を持ち、市側の担当者と話していた。カイテルは、いつものように少し困った顔で、全体を見守っている。
ヘンチェルもいた。
「また配電盤ですか」
ユンゲが尋ねると、ヘンチェルは当然のように答えた。
「今日は本当に配電盤です」
「昨日も本当だったのでは」
「昨日は仕様書もありました」
「今日は」
「今日は暗幕が増えました」
ユンゲは納得した。
この人の理由は、いつも少し曲がっているが、最終的には現場に必要だった。
ヒトラーは受像機台の正面に立った。
「ここは映画館ではない」
ブルクドルフが言った。
「誰も映画館とは言ってませんが」
「言っていなくても、入口が言っている」
クレープスが入口看板を見た。
「少し賑やかでしょうか」
「賑やかすぎる。ここは競技場への窓だ。入口で騒ぐな」
ゲッベルスが、ちょうどその言葉を聞く位置に現れた。
「騒がない入口は、人を集めません」
ヒトラーは振り返った。
「また来たのか」
「広告案の確認です」
「広告案は昨日見た」
「昨日は昨日の広告案です」
ヘンチェルが小さく頷いた。
「配電盤と同じです」
「君は味方を増やすな」
ヒトラーが言った。
ゲッベルスは入口看板の試作を広げた。パリ臨時大会の文字、公共視聴室の案内、競技日程、簡単な矢印。色は抑えられているが、彼の手が入ると、どうしても見出しが前に出てくる。
「“パリをミュンヘンへ”は却下されたので、“競技場の熱をこの部屋へ”にしました」
ヒトラーは即座に言った。
「熱は入れるな。受像機が壊れる」
ヘンチェルが頷いた。
「正しいです」
ゲッベルスは肩をすくめた。
「詩的な熱です」
「機械は詩を読まない」
「観客は読みます」
「観客を湯気にするな」
そのとき、会場入口のほうで市側の担当者が慌ただしく動いた。外から数人の客が入ってくる。先頭はヒムラーだった。いつも通り、書類鞄を持ち、周囲の空気を乱さずに厄介なものを持ち込む顔をしている。
その後ろに、小柄な女性がいた。
背は高くない。だが、姿勢がまっすぐだった。華やかな帽子や飾りのある服ではなく、動きやすい外出着に近い。足元も実用的で、手袋を持っている。部屋に入った瞬間、彼女は壁の装飾ではなく、天井の高さと出入口と人の流れを見た。
ユンゲは、その視線に気づいた。
飾られることに慣れた人の視線ではない。
風のある場所へ立つことに慣れた人の視線だった。
ヒムラーが一礼した。
「お忙しいところ失礼します。パリ臨時大会に合わせた祝賀飛行展の件で、ゲーリング氏より案が回ってまいりました」
ヒトラーは、すでに嫌な顔をしていた。
「飛行展なら飛べばよい」
ヒムラーは、その反応を予想していたように、書類を開いた。
「ドイツ各地で航空発展を祝う飛行展を行い、公共視聴室と連動させたいとのことです。ミュンヘンでは、昼間に飛行展、夕方から大会中継。来場者の流れを一つにまとめる案です」
ゲッベルスが目を輝かせた。
「空と画面。飛行場と視聴室。これは新聞映えしますね」
「空を見出しにするな」
ヒトラーが言った。
ヒムラーは続けた。
「それから、こちらの方を前面に出したい、と。航空発展後援会でも中心的に紹介されている方です」
女性が帽子を取った。
「ハンナ・ライチュです」
ユンゲはその名を知っていた。新聞で読んだことがある。グライダー、飛行記録、テスト飛行。女性飛行士として持ち上げられてはいるが、単なる社交欄の人物ではない。実際に飛ぶ人間だった。
ヒムラーが言った。
「ゲーリング氏は、ライチュさんが目立つ会場構成を希望されています」
ヒトラーはすぐに言った。
「飛ぶ者を飾るな」
場が止まった。
ライチュは、少しだけ笑った。
「それは、私に対する苦情でしょうか」
「あなたではない。あなたを飾ろうとする者への苦情だ」
「それなら、少し同意します」
ヒトラーは一瞬だけ彼女を見直した。
ゲッベルスは、さっそく割り込んだ。
「ですが、飛行展には顔が必要です。観客は機体だけでは覚えません。誰が飛ぶのか、誰を見に来たのか。そこをはっきりさせる必要があります」
ライチュは冷静に言った。
「誰が飛ぶかより、どこを飛ぶかを先に決めてください」
ヒムラーが書類を差し出した。
「暫定案では、飛行場入口に大きな紹介写真、会場中央に後援会の掲示、観客席正面に演壇、着陸後に花束贈呈」
ライチュは眉をひそめた。
「着陸後に人が寄ってくる導線は困ります」
ヒトラーが即座に言った。
「よろしい」
ヒムラーが少し困った顔をした。
「まだ説明の途中ですが」
「続けろ」
ライチュは書類を受け取り、図面を見た。
「この位置に幕を立てると、風が乱れます。観客席が近すぎます。機体の移動線と来賓動線が交差しています。花束贈呈は機体から離れた場所にしてください。写真の位置より、まず滑走路端を空けてください」
ヘンチェルが少し嬉しそうに頷いた。
「分かります」
ヒトラーが言った。
「君は配電盤だけ見ていろ」
「風も配線も、邪魔なものを嫌います」
ライチュはヘンチェルを見て、わずかに笑った。
「その通りです」
ゲッベルスは少し不満そうだった。
「しかし、写真を小さくすると、彼女が目立たない」
ライチュが答えた。
「飛べば目立ちます」
ヒトラーが言った。
「よろしい。あなたは看板より先に飛ぶ」
「普通、飛行士はそうです」
「普通でない者が多い」
ゲッベルスはすかさず言った。
「“看板より先に飛ぶ”。これは使えます」
ヒトラーとライチュが同時に言った。
「使うな」
二人は互いを見た。
ライチュが少しだけ笑った。
「意見が合いましたね」
ヒトラーは不機嫌そうにした。
「偶然だ」
ヒムラーは咳払いした。
「ゲーリング氏としては、航空発展後援会の成果を広く示すことも重視されています。グライダー、軽飛行機、テスト飛行、安全技術、女性飛行士の活躍。パリ大会の祝賀に合わせ、空から新時代を見せたいと」
ヒトラーは天井を見上げた。
「この男は、空に額縁をつけたがる」
ゲッベルスは言った。
「額縁があるから人は見るのです」
ライチュは静かに言った。
「空に額縁をつけると、飛ぶ場所が狭くなります」
ヒトラーは彼女を見た。
「正しい」
フランツは、横で聞きながら感心していた。
ヘンチェルは電気で所長を黙らせる。
ライチュは風で黙らせる。
どちらも、ヒトラーの言葉より前に現実がある人間だった。
会場の一角に、大きな作業机が用意された。ヒムラーが持ってきた飛行展の暫定案、ゲッベルスの広報案、ミュンヘン市側の会場図、視聴室との連絡導線図、そして朝の新聞が並べられた。
新聞の国際面は、いつの間にかフランツの手元にあった。
ユンゲがそれに気づいた。
「フランツさん、折り目」
「あっ」
彼は慌てて正しく開き直した。
ヒトラーは見ていないようで見ていた。
「一面を殺すな」
「国際面です」
「なお悪い」
ライチュが新聞の地図に目を落とした。
「バルト三国の話ですか」
ヒムラーが頷いた。
「アメリカが非承認の声明を出したようです」
ゲッベルスが言った。
「認めないと言っても、ソ連軍はそこにいます。言葉は飛べません」
ライチュは少し考えた。
「空から見ると、国境線は見えません」
ヒトラーは答えた。
「見えない線ほど、人は強く描く」
「飛ぶ者には邪魔です」
「地上にいる者には命綱だ」
ライチュは黙った。
新聞の別欄には、ドナウ方面の記事が載っていた。ハンガリーがトランシルヴァニア要求を強め、ルーマニアは列強調停を求め、ウィーンで協議が行われる可能性があるという内容だった。イタリアも関与を望んでいる、と短く付け加えられている。
ゲッベルスがそれを指した。
「こちらも線の話です。ハンガリーとルーマニア。イタリアがまた自分の顔を紙面に出そうとしている」
ヒムラーは事務的に言った。
「ドイツとしても、ルーマニアを完全に不安定にすることは望ましくありません。ソ連の動きがある以上、ドナウ方面の秩序は慎重に扱う必要があります」
ヒトラーは図面と新聞を見比べた。
「地図の上では、誰も飛ばん。だから押し合う」
ユンゲはその言葉を書いた。
「地図の上では、誰も飛ばん。だから押し合う」
ヒトラーは止めなかった。
ライチュは飛行展の図面に戻った。
「この観客席は、もう少し後ろへ。来賓席は横でいいです。正面に置くと、そこへ降りてくるように見えて危険です」
ゲッベルスが言った。
「来賓席が横では、写真になりません」
ヒトラーはすぐに言った。
「写真を小さくしろ。空を大きくしろ」
ゲッベルスは肩を落とした。
「広告としては難しい」
「広告を難しくするために私がいる」
「所長、それは商売としてどうなのです」
エルゼがいつの間にか来ていた。
「難しい広告ほど、修正費が発生します」
ゲッベルスはにこやかに言った。
「エルゼさんは、いつも正面から現実を出してきますね」
「請求書は横から出しても払われません」
ヒムラーは、飛行展案の修正を整理し始めた。
ライチュは滑走路と風向き、観客距離、安全柵、機体移動線を示した。
ヘンチェルは、視聴室と飛行展会場を結ぶ臨時放送案の電源について口を出した。
ゲッベルスは、それでも何とか見出しになる言葉を探している。
ヒトラーは、飛ぶ者を飾るなと言いながら、結局どこに観客を置けば飛ぶ者が最も正しく見えるかを考え始めていた。
ユンゲはその全体を見ていた。
屋内では、暗幕が吊られていた。
光を絞り、画面を見せるための場所。
屋外では、空を空けなければならなかった。
風を乱さず、飛ぶ者を見せるための場所。
どちらも見るための設計だった。
だが、片方は閉じることで見せ、片方は空けることで見せる。
ヒトラーは、飛行展の修正図に赤鉛筆を入れた。
「この紹介写真は小さく」
ゲッベルスが不満を漏らした。
「小さすぎます」
「飛ぶ者より大きい写真など要らん」
「飛行中の本人は、遠くて小さいですよ」
「だから空を見る」
ライチュは言った。
「機体の下に余白をください。低空通過のとき、観客の目が追えるように」
ヒトラーは頷いた。
「よろしい。余白は飾りではない」
ヘンチェルが言った。
「空にも点検口があればいいんですが」
ライチュは真顔で返した。
「あります。着陸です」
ヘンチェルは一瞬考え、頷いた。
「なるほど」
ヒトラーは二人を見た。
「技術屋同士で勝手に納得するな」
午後遅く、修正案は大きく変わっていた。
最初の案では、ハンナ・ライチュの大きな肖像、航空発展後援会の旗、ゲーリング関係者の来賓席、演壇、花束贈呈場所が中心に置かれていた。修正後の案では、それらは横へ退いた。
中央に残ったのは、滑走路への視線、観客の安全な距離、機体の移動線、風を乱さない余白、そして飛ぶ者が空へ出るための場所だった。
ゲッベルスはまだ諦めていなかった。
「せめて入口に、ライチュさんの紹介文を」
ヒトラーは言った。
「短くしろ」
「どれくらい」
「読む前に空を見たくなる程度だ」
ライチュはそれを聞いて、少しだけ嬉しそうにした。
「それなら構いません」
ヒムラーは書類をまとめながら言った。
「ゲーリング氏への説明は、少し工夫が必要ですね」
ヒトラーは鼻を鳴らした。
「“目立つ会場”にしたと言えばいい」
ゲッベルスが顔を上げた。
「所長がそれを言いますか」
「目立つものを変えただけだ」
「何が目立つのです」
ヒトラーは図面を指した。
「空だ」
ライチュは静かに頷いた。
会場を出るころには、夕方の光が建物の外壁を赤くしていた。
ユンゲは歩きながら記録帳を開いた。今日の記録は多かった。新聞、バルト、アメリカの非承認声明、ドナウ方面、視聴室装飾、祝賀飛行展、ヒムラー、ライチュ、ゲーリングの希望、ゲッベルスの広告案、ヘンチェルの配線、そして所長の赤鉛筆。
彼女は最後にまとめて書いた。
「視聴室装飾開始。祝賀飛行展案持ち込み。ハンナ・ライチュ氏、ヒムラー氏に伴われ来訪。航空発展後援会関係。ゲーリング氏、同氏を前面に出すことを希望。所長、飛ぶ者を飾るな、と発言。ライチュ氏、滑走路、風、観客距離、安全を優先。写真は小さく、空を大きく」
横からヒトラーが覗いた。
「“写真は小さく、空を大きく”は私の言葉ではない」
ユンゲは尋ねた。
「消しますか」
ヒトラーは少し黙った。
「いや。要点だ」
エルゼが後ろから言った。
「要点なら、請求書にもそう書けますね。写真を小さくした分、看板費は減ります」
ゲッベルスがため息をついた。
「広告屋泣かせの一日です」
ライチュは帽子をかぶり直した。
「飛行士には、悪くない一日でした」
ヒトラーは彼女を見た。
「飛ぶ者は、飛ぶ場所を守れ」
ライチュはまっすぐ答えた。
「はい」
それは、飾られる者の返事ではなかった。
その夜、所長室に戻った新聞は、正しく畳まれて机の右前方に置かれていた。
紙面の中では、バルト三国の地位を認めないという遠い国の声明があり、ドナウの地図では新しい調停線が語られ、欧州の国々が誰かの線の上で押し合っていた。
一方、ミュンヘンの図面では、暗幕の位置が直され、受像機台の背面に空気の逃げ道が残され、飛行展会場の中央から飾りが退けられていた。
屋内では、画面を見せるために光を絞る。
屋外では、飛ぶ者を見せるために空を空ける。
ユンゲは記録帳を閉じた。
新聞の地図には、空がなかった。
だから人は、そこに線ばかり引くのかもしれなかった。