第50話 パリへの窓
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
9月7日の朝、所長室には、いつもより早く新聞が置かれた。
ユンゲが扉を叩くと、中からすぐに声があった。
「入れ」
ヒトラーはすでに机の前に座っていた。窓から入る朝の光は、八月のそれより少し薄い。夏の強さは残っているが、角が取れている。ミュンヘンの朝は、もう秋の入口に立っていた。
ユンゲは新聞を机の右前方へ置いた。
そこは、何度も位置を変え、ようやく決まった場所だった。紙面に影が落ちず、所長が右手で開きやすく、来客側からは見出しが斜めに読める。新聞のためだけに決められた場所ではない。だが、この部屋で新聞が最も新聞らしく見える場所だった。
ヒトラーは折り目を確認し、一面を開いた。
大きな見出しが出ていた。
「第12回オリンピック競技大会、パリ臨時大会、本日開幕」
その下には、コロンブ競技場の写真が載っていた。まだ誰も入っていない観客席と、開会式用に整えられたフィールド。写真は少し粗い。だが、紙面の中の競技場は、朝の空気を吸っているように見えた。
ヒトラーはしばらく黙って読んだ。
ユンゲは、その沈黙を記録しなかった。
「“臨時”という言葉は便利だ」
やがて彼は言った。
「間に合わせを、責任のある顔にする」
ユンゲは記録帳を開いた。
「臨時という言葉について所長所見」
「それは書くな」
「本日は開会式なので、できるだけ記録を残します」
「開会式と私の感想は関係ない」
「たぶん、あります」
ヒトラーは新聞をめくった。
二面には、各国選手団の到着、競技日程、公共テレビ視聴室の案内が載っていた。ベルリン、ハンブルク、ケルン、フランクフルト、ライプツィヒ、ミュンヘン。ドイツ国内の主要都市で、パリ大会の開会式を公共視聴できるという記事だった。
ミュンヘン会場についても、小さな囲み記事があった。
「市内公共ホールに臨時テレビ視聴室。放送技術部門、電機会社、市当局が協力。会場装飾・案内計画は市内意匠事務所が担当」
ヒトラーは眉をひそめた。
「市内意匠事務所」
ユンゲは少しだけ笑いをこらえた。
「名前が出ていないのは不満ですか」
「不満ではない。曖昧だと言っている」
「名前が出たら出たで、文字間に文句をおっしゃいます」
「出るなら正しく出せ」
エルゼが所長室に入ってきた。手には薄い封筒と帳簿がある。
「出なくて結構です。名前が出ると、追加の相談だけが増えます」
「仕事が増えるのは悪いことではない」
「支払いのない相談が増えるのは悪いことです」
ヒトラーは新聞を畳みかけて、また一面を見た。
「今日は支払いの話をするな」
エルゼは封筒を机に置いた。
「本番の日ほど支払いは動きます。追加暗幕費、会場案内板の予備、速報掲示板の差し替え紙、椅子の修正手間。すべて今日のうちに誰かが動かします」
「大会は金で開くのではない」
「閉じるのは請求書です」
ユンゲは記録しようとしたが、エルゼに目で止められた。
フランツが扉の外から顔を出した。
「迎えの車が来ました。会場へ向かえます」
ヒトラーは新聞を丁寧に畳み直した。
「一面を上に」
ユンゲが受け取る。
「はい」
「戻ったとき、ここに置け」
「承知しました」
所長室を出ると、廊下でヘンチェルと出くわした。
工具鞄を持っている。いつものように、用があるようで、用がないような顔をしていた。
「今日は本番ですね」
ユンゲが言った。
「会場へは行かれないのですか」
ヘンチェルは首を振った。
「私は呼ばれていません。あちらにはあちらの技師がいます」
ヒトラーは立ち止まった。
「当然だ。君はうちの配電盤の男だ」
ヘンチェルは少しだけ誇らしげに答えた。
「配電盤にも誇りはあります」
「配電盤に誇りを持つな」
「持たない配電盤のほうが怖いです」
フランツは小さく笑った。
ヘンチェルは、廊下の窓から差す光を見てから言った。
「会場の技師に伝える機会があれば、暗幕で換気口を塞がないように、と」
ヒトラーは少し不機嫌そうにした。
「君が行けばよい」
「私は呼ばれていません」
「呼ばれていないのに、うちには来るのか」
「ここは配電盤があります」
エルゼが後ろから言った。
「では、その配電盤を見てください。今日は所長を遅らせないでください」
「承知しました」
ヘンチェルは帽子を少し上げ、階段のほうへ向かった。
ユンゲはその背中を見送った。
彼は会場の人間ではない。
それでも、窓の後ろに空気が必要なことを、所長に覚えさせた人だった。
ミュンヘン公共テレビ視聴室は、すでに人を迎える顔になっていた。
数日前まで木材と布と金具の匂いがしていたホールは、今朝には暗い落ち着きをまとっていた。入口には案内板が立ち、受付の後ろにはパリ大会の日程が大きく貼られている。壁面には参加国一覧とパリの地図。別の壁には、ヘルシンキ開催断念からパリ臨時大会へ至る短い説明。フィンランド選手団の紹介パネルもあった。
正面には受像機台が並んでいる。
ヒトラーが「パリへの窓」と呼んだものだった。
だが、彼が最初に描いたものとは少し違う。重厚すぎた額縁は削られ、背面には放熱のための空間が残され、側面には点検口がある。正面から見れば落ち着いている。裏へ回れば、機械が機械として息をしている。
ヒトラーはしばらく黙って見た。
フランツが尋ねた。
「いかがですか」
「半分殺された」
「半分は生きています」
「それを慰めにするな」
クレープスが椅子列を確認していた。ヨードルは会場担当者と入場時間を合わせ、カイテルは市側の責任者へ挨拶している。ブルクドルフは、なぜか椅子を一脚ずつ押して揃えていた。シュタイナー親方は木枠の端を指でなぞり、問題がないか確かめていた。
技術卓には、郵政省系の放送技師と電機会社の技師たちがいた。受像機の調整、ラジオ音声の確認、予備部品、配線、信号の安定。彼らはヒトラー事務所の者ではない。こちらの仕事は、画面の中身を作ることではなく、画面を見る場所を作ることだった。
その境目を、ヒトラーは不愉快そうに、しかし分かっている顔で見ていた。
一人の技師が近づいてきた。
「最初の映像確認まで少しお待ちください。音声はラジオ経由で先に入ります」
ヒトラーは受像機を見た。
「音が先に来るのか」
「場合によります。映像が少し遅れることもあります」
「パリは時間まで分解して来るのか」
技師は真面目に答えた。
「信号はそういうものです」
ゲッベルスがその横で笑った。
「詩的ではありませんが、正確ですね」
「詩を持たない者は、すぐ正確さに逃げる」
ヒトラーが言うと、技師は困った顔をした。
エルゼが横から入った。
「映れば結構です」
技師は深くうなずいた。
「映します」
「支払い済みですから」
技師は、もう一度うなずいた。今度は少し緊張した顔だった。
開場時刻になると、市民が入り始めた。
学生、会社員、帽子をかぶった老人、スポーツ協会の腕章をつけた者、親に連れられた子ども、新聞記者、電機会社の招待客、大学関係者、退役軍人らしい男たち。華やかな服装の者ばかりではない。だが、誰もが前方の小さな画面を気にしていた。
「本当にパリが見えるのか」
「ラジオだけではないらしい」
「ベルリンのときも見た者がいるそうだ」
「画面は小さいらしいぞ」
「小さくても、パリなら見たい」
そんな声が、会場の暗い空気の中に混じった。
ヒトラーは入口の動きを見ていた。
「受付で詰まっている」
フランツが見た。
「思ったより家族連れが多いですね」
「子どもは案内板を読まん。矢印を低くしろと言っただろう」
クレープスが言った。
「低い位置にも追加しました」
「足りん」
エルゼが静かに言った。
「今日はもう壁を塗り直せません」
「塗り直すとは言っていない」
「顔が言っています」
ヒトラーは黙った。
ヒムラーも現れた。関係者席の確認に来たらしい。彼はいつものように、全員の邪魔にならない位置に立ちながら、全員の配置を見ていた。
「人の流れは悪くありませんね」
ヒトラーは答えた。
「悪くないが、良くもない」
「成功の範囲です」
「あなた方はすぐ範囲に逃げる」
ヒムラーは微笑んだ。
「範囲がなければ、調整はできません」
ゲッベルスは記者席を見ていた。
「写真は正面から撮らせたいですね。受像機と観客の顔が同時に入る」
ヒトラーが即座に言った。
「観客の顔を主役にするな」
「しかし、新聞には必要です」
「新聞はすぐ顔に逃げる」
「顔がない記事は読まれません」
「読まれない記事を書くな」
「無理をおっしゃる」
ハンナ・ライチュも短く顔を出した。航空発展後援会の関係者と一緒だった。飛行展の打ち合わせで忙しいらしく、長くはいられない。それでも、彼女は会場に入ると、まず正面の画面ではなく、天井と暗幕と人の動きを見た。
ヒトラーはそれに気づいた。
「今日は飛ばないのか」
ライチュは少し笑った。
「今日は見る側です」
「飛ぶ者でも、見る場所に縛られることがある」
「縛られるなら、安全な場所がいいですね」
彼女は受像機台の背後にある空間をちらりと見た。
「空気の逃げ道はありますか」
フランツが答えた。
「あります。いろいろありまして」
ヒトラーは言った。
「窓の後ろには部屋があるそうだ」
ライチュは意味を完全には理解しなかったようだが、うなずいた。
「なら、よいです」
開会式の予定時刻が近づくと、照明が落とされた。
完全な暗闇ではない。人が席を立てる程度の薄明かりが残る。正面の受像機だけが、これから何かを映す場所として浮かび上がっていた。
ラジオ音声が先に入った。
フランス語の案内、続いてドイツ語通訳の声。会場の後方に置かれたスピーカーから、少し乾いた音が流れた。ざわめきが静まっていく。
画面には、最初、横線が走った。
白い光、暗い帯、揺れる影。
客席のあちこちから小さな声が上がる。
「映った」
「いや、まだだ」
「何か動いている」
技師が卓で調整している。電機会社の男が受像機の一つに近づき、つまみをわずかに動かした。
ヒトラーは身を乗り出した。
「この横線は何だ」
近くの技師が答えた。
「調整中です。すぐ安定します」
「今見えている」
「はい。今、消します」
「今見えているものが問題だ」
エルゼが言った。
「所長、今日は市民が先です」
ヒトラーは口を閉じた。
映像は少しずつ形を持った。
競技場だった。
ぼやけている。遠い。輪郭は揺れている。だが、そこには観客席があり、フィールドがあり、旗があった。コロンブ競技場が、確かにミュンヘンの暗いホールの中へ入ってきた。
誰かが息を呑んだ。
フランツは、思わず受像機ではなく、観客の顔を見た。
年配の男が帽子を膝に置いている。子どもが背伸びして画面を見ている。学生たちが身を乗り出している。新聞記者が手帳を開くのも忘れている。
画面は小さかった。
だが、人の視線はそこへ集まっていた。
ゲッベルスが低く言った。
「これは記事になります」
ヒトラーは画面から目を離さずに言った。
「記事にするな。見ろ」
ゲッベルスは一瞬黙り、それから珍しく何も返さなかった。
入場行進が始まった。
ラジオ実況が国名を読み上げる。画面では、選手団は小さな影の列になって進む。旗の色は、実際ほど鮮やかには分からない。だが、音声と掲示板と画面が合わさると、そこに国が入ってくるのが分かった。
会場係が横の速報板に順番を示していく。
フランス語、ドイツ語、国名、旗の小さな絵。
テレビだけでは足りない。ラジオだけでも足りない。掲示だけでも足りない。三つが合わさって、ようやく遠い開会式は市民の前に立った。
ヒトラーはそれを見ていた。
「雑だ」
ユンゲは横に立っていた。
「何がですか」
「全部だ。映像も音も掲示も、別々に入ってくる。だが、別々のままではない」
「それは、悪いことですか」
ヒトラーは少し考えた。
「今日は、まだ分からん」
やがて、ラジオ実況の声が少し変わった。
「フィンランド選手団が入場します」
会場内の空気が動いた。
画面の中では、小さな列が現れた。旗が揺れている。映像は荒く、顔までは分からない。それでも、実況の声が補った。本来ヘルシンキで掲げられるはずだった旗。冬の戦いを越えて、パリへ来た選手たち。観客席のざわめきが、ラジオの奥で大きくなる。
パリの競技場で拍手が起きた。
最初は音として聞こえた。次に、画面の中で観客席の白い揺れとして見えた。立ち上がる人々。振られる帽子。長く続く拍手。
ミュンヘンの視聴室では、誰もすぐには動かなかった。
遠い拍手を聞いているうちに、誰かが手を叩いた。
一人だった。
次に、別の席から手が鳴った。
三人、五人、十人。
やがて、ホール全体に拍手が広がった。
パリの拍手と、ミュンヘンの拍手は、少しずれていた。
ラジオの音と、人々の手の音もずれていた。
画面の中の旗の揺れは、さらに少し遅れていた。
それでも、拍手は一つの場所へ向かっていた。
フランツは喉の奥が熱くなるのを感じた。
「所長」
ヒトラーは答えなかった。
「拍手が続いています。会場でも、ここでも」
「分かっている」
「止まりませんね」
ヒトラーは、椅子列と通路を見た。人々は立ち上がりすぎず、手を叩きながら前を見ている。通路は塞がっていない。後列の視線も死んでいない。
彼は低く言った。
「拍手を止めない設計は、必要だった」
ユンゲはすぐに書いた。
「フィンランド選手団入場。パリ、ミュンヘン双方で拍手。所長、拍手を止めない設計について発言」
「書くな」
「もう書きました」
「なら消すな」
「承知しました」
ライチュは後方で静かに拍手していた。
ゲッベルスは、手を叩きながらも新聞記者の顔を見ていた。
ヒムラーは、どの関係者がどの反応をしたか、ほとんど記録するように見ていた。
エルゼは拍手しながら、前方の受像機が無事に映り続けていることを確認していた。
その後も開会式は続いた。
開会宣言。挨拶。旗。音楽。競技場の全景。選手団の列。画面は時々乱れ、ラジオ実況がそれを補った。技師たちは調整卓に張りつき、電機会社の男が汗を拭きながら受像機の状態を見ている。
ヒトラーは何度も文句を言いかけた。
横線。
暗すぎる画面。
音声の遅れ。
掲示板の更新の遅さ。
観客席から見た受像機台の角度。
入口近くの立ち見客の位置。
だが、最後まで大声では言わなかった。
たぶん、言えば壊れるものがあった。
画面ではなく、会場の中に生まれていたものが。
式典の終盤、パリの競技場に秋の光が斜めに差している様子が映った。画面越しでは、その光はほとんど白い揺れにしか見えない。けれど実況が「秋の穏やかな光の中」と言うと、ミュンヘンの暗いホールにも、その言葉だけで光が入ったような気がした。
ヒトラーは受像機台の正面を見ていた。
フランツがそっと尋ねた。
「所長、どうですか」
「何が」
「パリへの窓は」
ヒトラーは答えなかった。
少ししてから言った。
「小さい」
フランツは苦笑した。
「はい」
「粗い」
「はい」
「遅れる」
「はい」
「だが」
フランツは待った。
ヒトラーは、画面の中の競技場を見ていた。
「閉じてはいない」
その言葉を、ユンゲは記録した。
開会式が終わると、会場の照明が少しずつ戻された。
すぐに席を立つ者は少なかった。人々はまだ受像機のほうを見ていた。画面には競技場の遠景が残り、ラジオからは今後の放送予定が流れている。子どもが親に何かを尋ね、老人が帽子をかぶり直し、記者がようやく手帳に書き始めた。
ゲッベルスは小声で言った。
「これは大きいですよ。新聞だけではない。都市の見方が変わる」
ヒトラーは返した。
「大きいと言うな。画面は小さい」
「だから大きいのです」
ヒトラーは彼を見た。
「君のそういうところが嫌いだ」
「承知しています」
エルゼが近づいた。
「映りましたね」
ヒトラーは言った。
「映っただけだ」
技師の一人が、疲れた顔で笑った。
「今日は、それが一番難しい日です」
ヒトラーはその技師を見た。
しばらくして、ほんの少しだけうなずいた。
「今日は、少しだけそうだ」
技師は、何を返してよいか分からず、軽く頭を下げた。
会場を出るころ、外は夕方に近づいていた。
昼間のミュンヘンは、いつも通りだった。馬車が通り、車が走り、店の扉が開き、人々が新聞を持って歩いている。だが、ホールの中から出てきた人々は、少しだけ違う顔をしていた。
彼らはパリへ行っていない。
それでも、パリの開会式を見たと言える。
ユンゲはそのことが不思議だった。
所長室へ戻ると、朝の新聞は机の右前方に置かれた。
一面は上を向いていた。
折り目は正しかった。
ヒトラーは新聞を見て、それから窓の外を見た。
「パリは来なかった」
ユンゲはペンを持った。
「はい」
「ミュンヘンがパリになったわけでもない」
「はい」
「ただ、穴が開いた」
「窓ではなく、穴ですか」
ヒトラーは少し不機嫌そうにした。
「窓だ。だが、まだ穴に近い」
ユンゲは記録帳に書いた。
「パリは来なかった。ミュンヘンがパリになったわけでもない。ただ、窓が開いた。ただし、まだ穴に近い。所長発言」
ヒトラーは横から見た。
「余計な部分まで書くな」
「どこが余計ですか」
「穴だ」
「重要だと思います」
ヒトラーはしばらく黙った。
「……消すな」
ユンゲは頷いた。
その日、パリはミュンヘンに来なかった。
ただ、ミュンヘンの暗い部屋に、小さな窓がひとつ開いた。
窓の向こうでは、秋の光の中で旗が揺れていた。
窓のこちらでは、人々がまだ、その粗い光を覚えていた。