第51話 空の見本市
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
祝賀飛行展の朝、所長室に届いた新聞は、いつもより少し厚かった。
パリ臨時大会が始まってから、新聞は紙面を増やしていた。競技結果、写真、各国選手団の短評、ラジオ放送予定、公共視聴室の案内、各地の観覧風景。政治面や国際面が消えたわけではない。ただ、ここ数日はスポーツ面が紙面の正面を奪い返していた。
ユンゲは新聞を抱え、所長室の扉を叩いた。
「入れ」
ヒトラーは机の前にいた。窓から入る朝の光は、さらに秋らしくなっている。机の右前方は空いていた。新聞の場所だった。
ユンゲはそこへ新聞を置いた。
「今朝の新聞です」
ヒトラーは折り目を確認した。
「よろしい」
一面には、パリ大会の競技写真が載っていた。競技場を走る選手、観客席、掲示板、表彰式の小さな写真。見出しには、フランス語から訳された競技名や、ドイツ選手団の結果が並んでいる。
ヒトラーはしばらく読み、少し鼻を鳴らした。
「写真が多すぎる」
ユンゲは記録帳を開いた。
「大会紙面、写真量について所長所見」
「書くな。写真が多いというだけだ」
「新聞が大会を見せようとしているのでは」
「見せようとしているなら、余計に整理が要る。写真は窓ではない。壁に開いた穴だ。多すぎる穴は壁を弱くする」
ユンゲは書いた。
「写真は窓ではない。壁に開いた穴。多すぎる穴は壁を弱くする」
ヒトラーは少し顔をしかめた。
「そういうところだけ早い」
彼は次の面を開いた。
「ミュンヘン公共視聴室、連日の盛況。パリの熱気、市民に届く」
その記事には、開会式当日の様子が載っていた。暗いホールに並ぶ椅子、受像機台、観客の顔。画面は小さく写っているが、前列の人々が身を乗り出しているのが分かる。端に、アドルフ・ヒトラー意匠事務所が手がけた正面装飾も少しだけ写っていた。
ユンゲは横から覗いた。
「好評ですね」
「“熱気”はよくない」
「そこですか」
「熱気など入れたら受像機が困る」
「比喩です」
「比喩でも困る」
エルゼが入ってきた。
「比喩で請求が増えなければ結構です」
ヒトラーは新聞を少し持ち上げた。
「好評らしい」
「それは良いことです」
「良いが、見出しが落ち着かん」
「見出しが落ち着いても、客が来なければ意味がありません」
「客は来ている」
「なら、もっと良いことです」
エルゼは机に小さな封筒を置いた。
「本日の祝賀飛行展の招待券です。所長とユンゲさん、フランツさん。三名分」
ヒトラーは眉をひそめた。
「三名?」
「車で行くなら運転手が必要です」
「ブルクドルフでいい」
「今日は会場の椅子の追加修正があります」
「カイテルは」
「市側への報告です」
「ヨードル」
「工程表です」
「クレープス」
「図面です」
「エルゼ」
「行きません」
即答だった。
ヒトラーは不満そうに黙った。
ユンゲが言った。
「フランツさんが運転されるそうです」
「フランツが?」
「昨日、自分から申し出ていました」
「ポルシェワーゲンをぶつけるな」
扉の外から、フランツの声がした。
「聞こえています」
「聞こえるように言った」
フランツが顔を出した。
「所長、車は準備できています。燃料も確認済みです。道順も」
「道順は地図で見ろ」
「見ました」
「地図を雑に畳むな」
「今日は畳んでいません」
「ならよろしい」
ヒトラーは新聞をさらにめくった。
祝賀飛行展の記事が出ていた。
「本日、ミュンヘン航空祝賀飛行展。ハンナ・ライチュ氏、展示飛行へ」
記事には、航空発展後援会、パリ臨時大会関連行事、スポーツ航空と技術発展、ドイツ各地での祝賀飛行展の予定などが書かれている。別の欄には、ゲーリングの名前も出ていた。
ヒトラーは少し嫌そうな顔をした。
「ゲーリング氏の名前が、空より大きい」
エルゼが言った。
「新聞ではよくあります」
「空は紙面に入らない。だから余計に大きく書くな」
ユンゲが競技結果の下にある小さな国際記事に目を止めた。
「こちらは……」
ヒトラーも見た。
見出しは小さかった。
「日本、海南島方面より仏領インドシナ北部への圧力強める」
記事は短かった。日本側が中国戦線安定と軍需物資流入遮断を理由に、仏領インドシナ当局へ軍事通過や鉄道監視、飛行場使用に関する要求を強めているという内容だった。海南島周辺からの部隊移動、北部国境地帯への圧力、フランス側の警戒。まだ進駐という言葉は使われていなかったが、紙面の端に置かれたその記事は、細い針のようだった。
フランツが所長室に入ってきた。
「日本ですか」
ヒトラーは記事を読んでから、新聞を机に置いた。
「日本人は競技場ではなく、戦場で目立つ」
ユンゲはペンを持った。
「記録しますか」
「するな。これは新聞の隅の記事だ」
「隅にあるので、記録します」
ヒトラーは彼女を見た。
「君は隅を拾うようになった」
「所長が、隅に線が出るとおっしゃるので」
ヒトラーは少し黙った。
「不参加の国が、裏で別の入場行進をしている」
フランツは顔をしかめた。
「入場行進ですか」
「海南島から北へ。競技場なら旗を持つ。あちらは兵を持つ」
エルゼが低い声で言った。
「フランスは今、パリ大会の最中です」
「だからだ」
ヒトラーは新聞を畳んだ。
「大会の光が強ければ、隅で動く者は影を使う」
ユンゲはそのまま書いた。
エルゼは封筒を机の端へ寄せた。
「行かれるなら、そろそろ。祝賀飛行展の会場は混みます」
「新聞はここに置け」
ユンゲは一面を上にして、机の右前方に戻した。
ヒトラーは一度それを見た。
競技結果。視聴室好評。祝賀飛行展。
そして隅の日本。
彼は帽子を取った。
「行くぞ」
事務所の前に、濃灰のポルシェワーゲンが停まっていた。
フランツは運転席に座り、やや緊張した顔でハンドルを握っている。ヒトラーは後席の右側に乗り、ユンゲはその隣に座った。フランツは振り返った。
「出します」
「急ぐな」
「はい」
「遅れるな」
「はい」
「曲がるときは」
「分かっています」
「分かっている者ほどぶつける」
ユンゲが小声で言った。
「所長、出発前です」
ヒトラーは口を閉じた。
車はゆっくりと動き出した。
ミュンヘンの街は、パリ大会の期間中らしく、ところどころにポスターや小さな旗があった。カフェの窓には競技結果が貼られ、新聞売りの声には「パリ」「ミュンヘン視聴室」「飛行展」という言葉が混じる。子どもたちが空を見上げている。まだ何も飛んでいないが、空を見る日だということを知っている顔だった。
フランツは慎重に車を走らせた。
「所長、今日の会場は飛行場寄りの広場です。航空発展後援会の仮設席と、市民観覧区域が分かれています」
「看板は」
「修正後の案が採用されたそうです。ライチュさんの写真は入口側に小さく、空域図と安全案内が中央に」
「よろしい」
ユンゲは窓の外を見た。
「ゲーリング氏は不満でしょうか」
ヒトラーは短く答えた。
「不満でも飛行機は飛ぶ」
フランツが言った。
「ゲーリング氏は、欧州航空展示会の件で上機嫌だそうです」
「何だそれは」
「イギリスで開催する航空展示会の計画をまとめたとか。ロンドン郊外で、各国の軍用機、民間機、グライダー、航空技術を展示するという話です」
ヒトラーは少しだけ眉を動かした。
「イギリス人が許したのか」
「許したから話が進んだのでは」
「彼らは芝生にうるさい」
ユンゲは思わず笑いそうになった。
「そこですか」
「飛行機は芝生を傷める」
フランツが言った。
「滑走路の問題では」
「同じだ。空の話をする者は、たいてい地面の面倒を見ない」
車は市街を抜け、飛行展の会場へ向かった。
会場には、すでに多くの人が集まっていた。
遠くに仮設の観覧席が見える。安全柵。誘導板。航空発展後援会の旗。市民区域の案内。空域図。飛行順を示す掲示板。ヒトラー事務所が直接手がけたものではない部分も多いが、ヒムラーから持ち込まれた後で修正した線がいくつか残っていた。
入口の大きな写真は、思ったより控えめだった。
ハンナ・ライチュの肖像は、過剰に飾られていない。紹介文は短い。彼女の記録と飛行予定だけが載っている。大きく空いた余白には、飛行経路と観客への注意が示されていた。
ヒトラーはそれを見て言った。
「少しは分かっている」
ユンゲが記録帳を開いた。
「入口案内、所長評価。少しは分かっている」
「それは書くな」
「良い評価なので」
「なおさらだ」
フランツは車を指定場所に停めた。降りると、空気は少し乾いていた。風がある。旗が揺れている。滑走路のほうから、機体を動かす音が聞こえた。
ヒムラーが迎えに来た。
「お越しいただきありがとうございます」
ヒトラーは周囲を見た。
「私は飛ばない」
「承知しております。ですが、会場構成の関係者として席をご用意しました」
「関係者ではない。口を出しただけだ」
「それを関係と呼びます」
ヒトラーは不服そうだったが、何も言わなかった。
そのとき、やたらと明るい声が聞こえた。
「おお、来たか!」
ゲーリングだった。
彼は上機嫌そのものだった。大柄な体をゆったりと揺らし、周囲の関係者を従え、まるで会場全体が自分の応接室であるかのように歩いている。服装は軍そのものというより、航空関係の式典服に近かった。だが、どこにいても目立つ。彼の周囲だけ、声の大きさが半段上がる。
「ヒトラー君、君の口うるさい修正のおかげで、看板が小さくなったぞ」
ヒトラーは即答した。
「空が大きくなった」
ゲーリングは大笑いした。
「言うではないか。空は私のものだと思っていたが、今日は君にも少し貸してやろう」
「借りない。返せなくなる」
ゲーリングはますます愉快そうだった。
「今日は良い日だ。ライチュ嬢は飛ぶ。市民は空を見る。パリ大会は盛況。そして私は、もっと大きな空をまとめてきた」
ゲッベルスがいつの間にか近くにいた。
「ロンドン郊外の欧州航空展示会ですね」
ゲーリングは胸を張った。
「そうだ。イギリス人と話をつけた。欧州航空展示会。ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、スウェーデン、できればチェコやポーランドの技術者も呼ぶ。戦闘機、旅客機、グライダー、エンジン、航法、無線。空で競えばよい。撃ち合うより安い」
ヒトラーは横目で見た。
「あなたがそれを言うと高くつく」
ゲーリングは指を鳴らすように笑った。
「航空は金がかかるものだ」
エルゼがいなくてよかった、とユンゲは思った。
いたら必ず何か言っていた。
ゲーリングは続けた。
「イギリス人も自慢したいものがある。彼らの戦闘機、彼らの防空技術、彼らのレーダー。フランス人は高速機を見せたい。イタリア人は曲芸をしたがる。スウェーデン人は堅実な顔をして、よくできた機械を持ってくる。皆、空に顔を出したいのだ」
ヒトラーは言った。
「顔を出しすぎると、空が狭くなる」
ゲーリングは肩をすくめた。
「君は何でも狭くするな」
「あなたは何でも大きくする」
「大きいほうが見える」
「小さいものを見せる技術を覚えろ」
ゲッベルスが嬉しそうに二人を見ていた。
「この会話だけで記事になります」
「するな」
ヒトラーとゲーリングが同時に言った。
ゲッベルスは満足そうに笑った。
滑走路のほうで、歓声が起きた。
ハンナ・ライチュが現れた。
彼女は飛行服に近い実用的な服装で、髪をまとめ、周囲の挨拶に短く応じていた。花束を受け取るような顔ではない。彼女の目は機体と風を見ていた。整備員と短く話し、滑走路の端を見、旗の揺れを確かめる。
ヒトラーはその様子を見ていた。
「よろしい」
ユンゲが尋ねた。
「何がですか」
「看板を見ていない」
ライチュはこちらに気づき、近づいてきた。
「所長さん。今日は看板より先に飛びます」
ヒトラーは少し不機嫌そうにした。
「その言葉は使うなと言った」
「使える言葉でしたので」
ゲッベルスが即座に言った。
「私もそう思います」
ヒトラーは無視した。
「風は」
ライチュは空を見た。
「少しあります。悪くありません。観客席を下げたのは正解でした。低空で見せるところは、予定より少し高めにします」
ゲーリングが大きく頷いた。
「安全第一だ。だが見せ場は頼むぞ」
ライチュは淡々と答えた。
「見せ場は、無理をしないときに一番よく見えます」
ヒトラーは小さく言った。
「よく分かっている」
ゲーリングは聞き逃さなかった。
「君が褒めるとは珍しい」
「私は飛行を褒めたのであって、あなたを褒めていない」
「分かっている。だから珍しいのだ」
ライチュは短く笑い、機体のほうへ戻った。
しばらくして、飛行が始まった。
最初は軽飛行機の編隊だった。祝賀らしく、過度に低くはない。空を横切る機体に、観客は歓声を上げた。子どもたちが帽子を振る。男たちが双眼鏡を上げる。女たちは日差しを避けながら空を見上げる。
次に、グライダーの展示があった。
音が少なくなる。
それまで会場を満たしていたエンジン音が消え、空に白い機体が静かに滑った。観客の声も少し落ちる。飛行機を見るというより、空の動きを見る時間になった。
ユンゲは、ライチュが言っていた「空からは国境線は見えない」という言葉を思い出した。
だが、今朝の新聞には、海南島と北部仏印の記事があった。
飛行場。鉄道。国境。軍事通過。
地図の上では、空も地上に縛られる。
ライチュの番になると、会場の空気が変わった。
機体が滑走を始める。見せるためではなく、飛ぶための動きだった。観客はそれを見る。余計な看板が中央にないことが、今になって効いていた。視線は、自然に機体へ向かう。空が広く残っている。ヒトラーはそのことを、少しだけ満足そうに見ていた。
ライチュは上がった。
機体は空を切り、旋回し、光を受け、遠ざかり、戻ってきた。無理な派手さはない。だが、正確だった。高さ、角度、速度、戻る位置。観客は、何が難しいのか完全には分からないまま、それでも正しさを見ていた。
ゲーリングは上機嫌だった。
「見たか。これだ。これをロンドンでもやる。イギリス人に見せてやる。いや、イギリス人にも見せてもらう。空は競争が似合う」
ヒトラーは空を見たまま言った。
「競争と戦争を混ぜるな」
ゲーリングは少しだけ目を細めたが、すぐに笑った。
「分かっている。今日は見本市の話だ」
「見本市なら、見本だけを置け。威嚇を飾るな」
「君は相変わらず飾るなと言う」
「飾る者ほど、中身を隠す」
ゲッベルスが言った。
「しかし、空軍というものは威容も必要です」
ヒトラーは返した。
「威容は、必要な者が勝手に見る。わざわざ塗るな」
そこへヒムラーが、新聞を持って近づいてきた。会場内の報道控え所で配られた午後版らしい。
「日本の記事が大きくなっています」
ユンゲが受け取った。
午前の新聞より、見出しが少し大きい。
「東京、仏印経由の援蒋物資遮断を強く要求」
その下に、海南島方面、北部仏印、鉄道、飛行場という語が並んでいた。まだ決定的な言葉はない。だが、進んでいる。見出しの余白が、それを隠せていなかった。
ゲーリングは新聞を覗き込んだ。
「アジアの話か」
ヒトラーは言った。
「空を飛ぶ者は国境線を見ない。だが、軍は滑走路を見つける」
ライチュの機体が、ちょうど遠くで旋回していた。
ユンゲは空と新聞を見比べた。
ライチュは空に余白を必要としている。
日本は地図の余白に兵を進めようとしている。
ゲーリングは少し低い声になった。
「仏印の飛行場か」
ヒムラーが頷いた。
「日本側は、中国戦線上の必要と説明するでしょう。しかしフランス政府は断固反対するでしょう。パリ大会の期間中でもあります。印象は悪い」
ゲッベルスが言った。
「不参加の国が、閉幕前に新聞の隅を汚し始めたわけです」
ヒトラーは新聞から目を離し、空を見た。
「隅は、放っておくと入口になる」
ユンゲはその言葉を書いた。
ライチュの機体が戻ってきた。
着陸は静かだった。観客は一瞬遅れて拍手した。飛んでいる間よりも大きな拍手だった。機体が止まり、整備員が近づく。ライチュが降りると、花束を持った係員が近づこうとしたが、誘導係がきちんと待たせた。彼女が安全な位置まで歩いてから、花束が渡された。
ヒトラーはそれを見て言った。
「よろしい」
ゲーリングは満足そうに頷いた。
「いい会場になった。君の小言も、たまには役に立つ」
「私は会場を作っていない」
「口は出した」
「それは認める」
ゲーリングは豪快に笑った。
「では、ロンドンの展示会にも口を出すか?」
ヒトラーは即座に言った。
「出さない」
「なぜだ。イギリスの空だぞ」
「イギリスの空なら、イギリス人が文句を言えばいい」
ゲッベルスが言った。
「所長がロンドンで文句を言う記事は、相当売れます」
「売るな」
フランツは少し笑った。
ユンゲは、会場の人々を見た。
空を見上げる市民。
誇らしげな航空関係者。
上機嫌なゲーリング。
新聞を読むヒムラー。
見出しを探すゲッベルス。
そして、空よりも余白と線を見ているヒトラー。
その日、ミュンヘンを始め欧州の空は戦場ではなかった。
機体は人を脅すためではなく、見せるために飛んでいた。空は広く、観客席は下げられ、看板は小さく、写真は横に退けられていた。飛ぶ者が、飛ぶ者として見える場所が作られていた。
だが、新聞の中のアジアでは、別の空が準備されていた。
飛行場。
鉄道。
北部仏印。
海南島。
援蒋ルート。
軍事通過。
ユンゲは記録帳を開き、最後に書いた。
「祝賀飛行展。ライチュ氏、展示飛行成功。ゲーリング氏、欧州航空展示会を英国で開催予定と語る。会場、空を大きく見せる構成。新聞、日本の仏印圧力を報道。所長、隅は放っておくと入口になる、と発言」
帰りのポルシェワーゲンでは、フランツが朝より少し落ち着いて運転していた。
ヒトラーは後席で黙っていた。ユンゲは記録帳を閉じ、窓の外を見ていた。夕方の空には、まだ飛行展の余韻が残っているようだった。
フランツが言った。
「所長、今日の空は良かったですね」
ヒトラーは少し間を置いて答えた。
「空が良かったのではない」
「では」
「空を邪魔しなかったのが良かった」
ユンゲはその言葉を、記録帳を開かずに覚えた。
ミュンヘンの空では、飛ぶ者のために余白が空けられていた。
新聞の中のアジアでは、その余白に、先に軍の線が引かれようとしていた。