第三十二話 ポンポンなる図書室
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あらすじ
ノアとの気まずい朝を抜け出し、図書室でガルと笑い合うアリス。 けれど、ポンポン弾ける甘い時間の前に、アザレアが現れて――。
本文
第三十二話 ポンポンなる図書室
朝食の時間は、いつもより少し静かだった。
窓辺のレースカーテンが、朝の光を透かしながらやわらかく揺れている。外の畑では、ムラサキねむりかぶが眠たげに口を開き、小さな欠伸をこぼしていた。
いつもなら、その声につられてアリスが笑い、ノアが「朝から眠そうだね」と声をかける。
けれど今日は、二人とも何も言わなかった。
食卓には、香ばしく焼けたパンと、湯気の立つ野菜のスープ、それから薄く切られた果物が並んでいる。料理も、窓から差し込む光も、いつもと変わらずあたたかい。
それなのに、二人の間に流れる空気だけが、どこかぎこちなかった。
「……スープ、熱くない?」
先に沈黙へ耐えられなくなったように、ノアが尋ねた。
アリスはスプーンを持ったまま、小さく頷く。
「大丈夫です」
「パン、もう一枚いる?」
「まだあるので、大丈夫です」
「そう」
「はい」
また、会話が途切れた。
ノアは何かを言いたそうにしていた。けれど、言葉を選びすぎて、どれも口にできなくなってしまったように見える。
アリスも同じだった。
昨日起きたことが、まだ胸の中で絡まっている。
写真立ての中にいた、金色の髪の美しい女性。
いっそ、誰なのか尋ねてしまえば、少しは楽になるのだろうか。
けれど、どうしても聞けなかった。
あの人は誰ですか、と口にした瞬間、自分の胸に生まれた感情まで、ノアに見つかってしまうような気がする。
ノアにとって、自分はただの子どもなのに。
そう思うたび、言葉は喉の奥へ沈んでいった。
アリスはスープをひと匙すくいながら、そっとノアの様子を窺った。
けれど、ノアもちょうどこちらを見ていたらしい。
赤い瞳と目が合った途端、二人はほとんど同時に顔を逸らした。
まるで、悪戯を隠していることが見つかった子ども同士のようだった。普段なら、どちらかが笑ってしまったかもしれない。
けれど今日は、そんな小さな可笑しささえ、うまく笑いに変えることができなかった。
その時だった。
コン、コン。
窓ガラスを叩く、小さな音がした。
アリスとノアが同時に顔を上げると、窓枠の向こうに、昨日の花ネズミがちょこんと座っていた。
黒くつややかな毛に、花びらのように薄い耳。黒曜石を思わせる小さな目をきょろきょろ動かしながら、細い鼻をひくひくさせている。
ノアの眉が、わずかに動いた。
「……花ネズミ?」
声が少し低くなる。
花ネズミは聞こえなかったふりをするように、ふいっと顔を逸らした。
その姿を見て、アリスは昨夜のことを思い出した。
「あ……そうだった」
アリスは持っていたスプーンを静かに置き、ノアへ向き直った。
「ノア、ごめんなさい。昨日、勝手にあなたの部屋へ入ってしまったんです」
まっすぐ謝ると、ノアは少し驚いたようにアリスを見つめた。
やがて、その赤い瞳から、張りつめていたものがゆっくりとほどけていく。
「あの子たちから聞いたよ。花ネズミから、種を助けてくれたんだって?」
「はい。でも、勝手に入ったことには変わりありません……」
「大丈夫だよ」
ノアは穏やかに首を振った。
「むしろ、助けてくれてありがとう。あの子たちは少し……いや、かなり騒がしいけれど、無事でよかった」
窓の外で、花ネズミがふん、と鼻を鳴らす。
まるで、自分は何も悪くないと言っているような態度だった。
ノアが窓を開けると、花ネズミは待っていましたとばかりに、するりと部屋の中へ入ってきた。テーブルの端へ前足をかけ、アリスを見上げながら鼻を鳴らしている。
「約束の葉っぱですね」
アリスは席を立ち、朝摘んでおいたムラサキねむりかぶの新鮮な葉を持ってきた。
花ネズミはそれを受け取ると、嬉しそうに頬袋へ詰め込んでいく。小さな頬がみるみる膨らみ、左右で不格好な丸になった。
その姿を眺めていたノアが、ふと何でもないことのように尋ねた。
「アリス。昨日、僕の部屋で何か見た?」
葉を渡していたアリスの指が、ぴたりと止まる。
銀色の写真立てと、そこに写っていた今まで見たこともないノアの自然な姿が、ありありと浮かんだ。
思い出しただけで、胸の奥がまた細く痛んだ。
「……特には」
出てきたのは、自分でも分かるくらい不自然な答えだった。
ノアは何も言わず、しばらくアリスの顔を見ていた。
きっと、嘘だと気づいている。
それでも彼は、無理に問いただそうとはしなかった。
「そう」
ただ静かに、それだけを返した。
その優しさが、かえってアリスの胸を苦しくさせる。
花ネズミは二人の間に漂う空気など気にも留めず、葉を頬いっぱいに詰めたまま窓枠へ飛び乗った。満足そうに尻尾を揺らし、そのまま畑の方へ走り去っていく。
あとに残ったのは、ムラサキねむりかぶの甘い香りと、少しだけやわらいだ、それでもまだぎこちない沈黙だった。
*
朝食を終えた二人は、いつものようにハートの城へ向かった。
城へ着く頃には、空は白く晴れ渡り、中庭の薔薇には朝露がきらきらと光っていた。長い廊下を歩くたび、アリスの胸元にある薔薇のペンダントが、小さく揺れて光を弾く。
執務室へ入ったノアは、いつものようにアリスの机へ書類を置こうとした。
けれど、途中で何かを思い直したように手を止める。
「今日は、別の仕事を頼んでもいい?」
「別の仕事ですか?」
「図書室の古書整理。古い本を種類ごとに分けて、傷んでいるものに印をつけるだけでいいよ」
思いがけない頼みに、アリスは目を瞬かせた。
「私ひとりで行ってもいいんですか?」
「うん」
ノアはやさしく笑った。
「図書室なら安全だし、司書猫たちもいるからね。ただし、赤い背表紙で、端に歯形がついている本には触らないこと」
「また、噛む本ですか?」
「読書熱が強すぎるんだ。読まれるのを待てなくて、先に読者を読もうとする」
「本の方が、こちらを読んでくるんですね」
「そういうこと」
アリスは思わず笑った。
ノアもつられるように、ほんの少し目元を和らげる。
昨夜から二人の間に居座っていたぎこちなさが、そこでようやく少しだけ薄くなった。
ノアは、気を使ってくれているのだ。
以前のように鍵をかけて閉じ込めるのではなく、ひとりで部屋の外へ出る仕事を任せ、自分を信じていることを行動で示そうとしてくれている。
その不器用な気遣いが分かったからこそ、アリスも素直に頷くことができた。
「分かりました。行ってきます」
「迷った時は、近くの肖像画に聞くといいよ。たまに嘘を教えるけれど、基本的には親切だから」
「基本的には……」
余計に不安になる説明だった。
それでもアリスは、ノアから書類とペンを受け取り、執務室を出た。
ハートの城の図書室は、想像していたよりもずっと広かった。
高い天井へ届きそうな本棚が幾重にも並び、迷路のように奥へ続いている。赤や黒、金、深緑の背表紙が隙間なく詰められ、その間を、羽の生えた本が時折ぱたぱたと飛んでいく。
窓から差し込む朝の光は、空気中の埃を金色に照らし、古い革表紙へ静かな艶を与えていた。
紙とインクの匂いに包まれながら、アリスは懐かしむように小さく息を吸う。
元の世界の屋敷にも、大きな書庫があった。
けれど、ここの本たちは、あちらの本よりもずっと賑やかだった。眠って小さないびきをかいているもの。ぶつぶつと物語の続きを呟いているもの。アリスが近づくと、慌てて背表紙を正し、きちんと本棚に並び直すもの。
司書猫の一匹に案内されて、古書整理用の机へ向かうと、そこにはすでに先客がいた。
黒茶色の髪から、狼の耳が覗いている。
静かな青い瞳が、手元の古書からアリスへ向けられた。
「ガルさん」
アリスが声をかけると、ガルは頁から顔を上げた。
「ルーシーさん」
そうして、読んでいた本を静かに閉じた。
「図書室のお仕事ですか?」
「はい。ノアさんに、古書の整理を頼まれました」
「そうですか」
ガルは少しだけ目を細める。
「彼も、少しは学んだようですね」
思いのほか厳しい言葉に、アリスは小さく笑った。
「ガルさんは、ノアさんに厳しいんですね」
「厳しくしておかないと、あの人はすぐに全部をひとりで決めてしまいますから」
「……それは、少し分かります」
「ガルさんも、図書室でお仕事ですか?」
「ええ。古い記録に、確認したいことがありまして」
ガルは積み上げられた本へ視線を落とした。
「大変そうですね」
「あなたの古書整理ほどではありません。こちらの本は、少なくとも噛みついてはきませんから」
真面目な顔で言われ、アリスは小さく笑った。
ガルもほんの少しだけ目元をやわらげ、机の向かい側に空いている椅子を示した。
アリスはそこへ腰を下ろし、自分に任された古書を一冊ずつ確かめ始めた。
二人はそれぞれ別の仕事をしながら、時折ぽつり、ぽつりと言葉を交わした。
この国へ来たばかりの頃は、何もかもが不思議で、驚いてばかりだったこと。喋る花や、勝手に動く食器、気分で行き先を変える道にも、少しずつ慣れてきたこと。
アリスのそんな他愛ない話に、ガルは古い記録へ目を通しながら、静かに耳を傾けてくれていた。
急かすことも、茶化すこともせず、ただ穏やかに相槌を打ってくれる。
その落ち着いた反応が、アリスには心地よかった。
ワンダラーの住人たちは、どこか掴みどころのない者が多い。
ノアも、マッドも、ロイドも、アザレアも、言葉の裏側に別の意味を隠している。
けれどガルは、この不思議な国の住人の中では一番、アリスの知る人々に近い感覚を持っているように思えた。
落ち着いて話すことができる。
それが今のアリスには、ありがたかった。
アリスが少し高い場所へ本を戻そうとして身を伸ばした時、ポケットから小さな包みが滑り落ちた。
ころん、と机の上へ落ちたのは、昨日ノアからもらったポップンキャンディだった。
「あっ」
アリスが慌てて拾い上げると、ガルの視線がその包みへ向いた。
「菓子ですか?」
「はい。昨日、いただいたんです」
そう口にした途端、少しだけ胸が複雑になる。
子どもに一番人気。
ノアが何気なく言ったあの言葉は、まだ小さな棘のように残っていた。
アリスは胸に残る棘を振り払うように、包みをガルへと差し出した。
「ガルさんも食べますか?」
「私が?」
「はい。口の中で弾けて、面白いんですよ」
ガルは掌に乗せられた、小さな菓子を見つめた。
すると脳裏に、昨日の街で見たノアの姿が浮かぶ。
菓子屋で「子どもに一番人気」と聞いた途端、これならきっと喜ぶとでも言いたげに、嬉しそうに笑っていた白兎。
あの人は、本当にただ、アリスを喜ばせたかったのだ。
それなのに、どこか少しずつずれている。
その不器用さが可笑しくて、ガルは思わず口元を緩めた。
アリスが驚いたように目を丸くする。
「ガルさん、笑った」
「えっ、笑っていましたか?」
「はい。笑顔、すごくいいです」
「……そうですか」
ガルは少しだけ居心地悪そうに目を逸らした。
そんな様子が珍しくて、アリスはくすっと笑う。
「このお菓子、そんなに好きなんですか?」
「私がですか?」
「だって、これを見て笑っていたので」
ガルは一瞬、どう答えるべきか迷うように黙った。
ノアがどんな顔でこの菓子を選んでいたかを話そうかとも考えた。
けれど、それは自分が代わりに伝えることではない気がした。
ガルは小さく首を振る。
「いえ。少し、思い出したことがあっただけです」
「思い出したこと?」
「大したことではありません」
そう言って話を閉じるガルに、アリスは不思議そうな顔をしながらも、それ以上は尋ねなかった。
自分の分の包みを開き、キャンディを口へ放り込む。
すぐに、舌の上で賑やかな音が弾けた。
ポン!
ポポン!
ポンポンポン!
「んっ……」
どんなものか分かっていても、突然口の中を跳ね回られると、やはり可笑しい。
小さなうさぎが舌の上をぴょんぴょん駆け回っているようで、アリスはこらえきれずに笑った。
その楽しそうな顔を見て、ガルも少し迷った末にキャンディを口へ入れる。
直後、いつもは静かな彼の口元で、場違いなほど明るい音が鳴り始めた。
ポン!
ポンポン!
ポポポン!
何が起きても冷静そうなガルの口の中から、止めようのない賑やかな音が響いてくる。
アリスはとうとう声を上げて笑った。
ガルも口元を押さえたまま、肩を小さく震わせている。
二人が顔を見合わせると、まるで応えるように、また音が鳴った。
ポンポン!
ポポン!
静かな図書室に、あまりにも間の抜けた音が響き渡る。
司書猫の一匹が本棚の陰から顔を出し、呆れたように尻尾を揺らした。
その時だった。
「何をしているの?」
背後から、冷ややかな声が落ちてきた。
アリスとガルは、笑った顔のまま同時に振り返る。
図書室の入り口に、アザレアが立っていた。
髪は丁寧に巻かれ、肩の上で幾重にも重なる花びらのように揺れている。身にまとった淡いピンクのドレスは、可愛らしい色合いでありながら隙なく整えられ、その胸元ではハート形の宝石が静かに光っていた。
紅茶色の瞳は相変わらず退屈そうでありながら、その奥には、目の前のものをひとつ残らず見透かそうとする鋭さが宿っている。
ガルは即座に表情を引き締め、立ち上がって礼をした。
「アザレア様」
アリスも慌てて椅子から立ち上がり、その隣で頭を下げる。
「アザレア様」
けれど、口の中のキャンディは空気を読むつもりなどないらしい。
ポン!
ポポン!
ポンポン!
礼をした姿勢のまま、アリスは必死に口元を引き締めた。
隣のガルも真顔を保っているが、頬がわずかに動いている。
アザレアの眉が、ぴくりと跳ねた。
「……ポンポン、ポンポン、うるさいわね!」
「す、すみません!」
アリスが慌てて謝った、その途中でも。
ポンッ!
ひときわ元気な音が鳴った。
アザレアは額へ手を当て、深いため息をつく。
「まったく。城の図書室で、いったい何をしているの」
「申し訳ありません」
ガルがいつもの真面目な顔で謝った。
その直後、彼の口の中からも、控えめに音が鳴る。
ポン!
アザレアは半眼になった。
「あなたまで、何をしているの。ガル」
「……不覚でした」
あまりにも真面目な声だったため、アリスはまた笑いそうになり、慌てて俯いた。
そんな二人をしばらく眺めていたアザレアは、呆れたように息を吐き、それからアリスへ視線を移した。
「それより、あなた」
「わ、私ですか? ポンッ」
返事と一緒に音が鳴り、アリスは両手で口を押さえた。
アザレアの眉間に、くっきりと皺が寄る。
「そう。あなたよ。少し、一緒に来てくださる?」
「えっ」
アリスは思わずガルを見る。
先ほどまで笑っていたガルの表情は、すでに静かな警戒へ変わっていた。
「アザレア様。どちらへお連れになるおつもりですか」
「少し話をするだけよ。取って食べたりはしないわ」
ガルは答えず、じっとアザレアを見つめている。
その視線に気づいたアザレアは、不満そうに唇を尖らせた。
「何、その目。私をチェシャ猫と一緒にしないでちょうだい」
アリスはポケットの中へ手を入れ、残っているキャンディの包みに触れた。
その指先が、さらに奥にある銀色の狼の鈴へ触れる。
以前、ガルから渡されたものだ。
何かあれば鳴らすようにと言われた、小さな鈴。
アリスは立ち上がり、ガルへ小さく頭を下げた。
ガルは何も言わなかった。
ただ、わずかに目を細め、アリスのポケットへ一瞬だけ視線を落とした。
――何かあれば、鈴を使ってください――
声に出さなくても、その青い瞳がそう伝えていることは、アリスにも分かった。
安心させるように、小さく頷き返す。
けれどアザレアは、そんなやり取りには目も向けず、もうずかずかと先へ歩き出していた。
アリスは慌てて、その後を追う。
図書室を出る直前、口の中に残っていた最後のキャンディが、小さく弾けた。
ポン!
前を歩いていたアザレアが、ゆっくり振り返る。
「……まだ鳴っているの?」
「すみません……」
アリスが肩をすぼめて謝ると、アザレアはまた呆れたようにため息をついた。
けれど、廊下へ向き直る直前、その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
けれどアリスには、それが微かな笑みに見えた。
二人が廊下の向こうへ消えていったあとも、ガルは図書室の扉を見つめたまま動かなかった。
アザレアがアリスをどこへ連れていき、何を話すつもりなのか。
ただの気まぐれならばいい。
けれど、ハートの女王の娘が見せる気まぐれほど、厄介で、先の読めないものはなかった。
やがてガルは静かに椅子へ座り直したものの、閉じた古書へ手を伸ばすことはなかった。
図書室には、二人が笑った名残のような甘い菓子の香りと、もう聞こえないはずのポップンキャンディの余韻だけが、いつまでもふわりと残っていた。