第三十三話 女王の庭に、野薔薇は咲く
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あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第三十三話 庭園でのお茶会
アザレアに腕を引かれ、アリスが連れてこられたのは、大きな衣装部屋だった。
扉が開いた瞬間、ふわりと甘い香水のような匂いが流れてくる。
壁一面には、色とりどりのドレスが花畑のように鮮やかに並んでいた。棚にはリボンや手袋、帽子、宝石のついた髪飾りが置かれ、部屋の中央には大きな姿見が三面も置かれている。
アリスは思わず息を呑んだ。
布地のひとつひとつが光を含み、レースは雪のように繊細で、刺繍糸は宝石の粉を混ぜたようにきらきらと輝いていた。
「今日、お茶会があるの」
アザレアは当然のように言った。
「あなた、私のドレスを見立ててくれないかしら?」
「は、はい。かしこまりました」
急な話に戸惑いながらも、アリスは頷いた。
アザレアは鮮やかなピンク色の髪を背中へ流し、腕を組んで立っている。
花びらのように柔らかい色なのに、ただ可憐なだけではない。光が流れるたび、淡い桃色と赤紫が髪の奥で揺れ、まるで熱を持った花が人の形を取ったようだった。
その姿だけでも十分に華やかで、下手なドレスでは髪の色に負けてしまいそうだった。
アリスは慎重にドレスを選び始めた。
「これはどうですか?」
深い黒に、赤い薔薇の刺繍が入ったドレスを差し出す。
アザレアはちらりと見ただけで、首を振った。
「重いわ。私の髪の色が沈む」
「では、こちらの色は……」
淡い金色のドレス。
「いまいち。私が着ると退屈になるわ」
「こちらは?」
淡い灰銀色に、赤いリボンのついたドレス。
「子どもっぽい」
「こちらの深い緑は……」
「母様の庭師みたい」
アリスはだんだん困ってきた。
アザレアは美しい。
けれど、その美しさは、ただ可愛いものを着せればいいというものではない。
鮮やかなピンク色の髪。紅茶色の瞳に、気位の高い立ち姿。
そのすべてに負けず、それでいて邪魔をしないドレス。
難しい。
とても難しい。
アリスが一生懸命考えながら次のドレスへ手を伸ばすと、アザレアがふいにこちらを見た。
「ルーシー」
「はい?」
「あなた、ずいぶん地味な髪の色と目の色ね」
アリスは一瞬、言葉に詰まった。
今のアリスはノアのよって、灰茶色の髪とオリーブ色の瞳になっている。本来の淡いブラウンの髪と新緑の瞳とは、少し違う。
頭には、丸みを帯びた子ぶたの耳までついていた。
「おしゃれはしているの?」
「私は……その、あまり」
アザレアはじっとアリスを見つめた。
その視線は鋭いけれど、悪意だけではなかった。
まるで退屈な棚の奥に、少し面白そうな小箱を見つけた時のような目だった。
「ふんふん」
アザレアは急に満足そうに頷いた。
「私が特別に、あなたを今からとっても素敵なレディにして差し上げますわ」
「えっ?」
アリスが返事をする間もなく、アザレアは衣装棚へ向かった。
何着ものドレスを手に取り、次々とアリスの胸元へ当てていく。
「これは駄目。あなたには濃すぎるわ」
「これは地味すぎ」
「これは可愛いけれど、あなたが着ると花瓶の横に置かれた布巾みたい」
「布巾……」
「なに?不満かしら?」
アザレアは真剣だった。
アリスはされるがまま、何着ものドレスを当てられた。
そして最後に、アザレアの手が止まる。
「これがいいわ」
選ばれたのは、淡いピンク色のドレスだった。
春の薔薇を水に溶かしたような、やわらかな色の布地。裾と袖口には、小さな野薔薇と蔦の刺繍が、同じ桃色の糸で控えめに散らされている。袖は軽く透ける素材で、胸元には細いリボンが結ばれていた。
華美すぎないのに、光を受けると花びらのようにふわりと明るく見える。
「これなら、あなたのその地味な髪と目の色にも、少しは愛嬌が出るでしょう」
言い方はひどい。
けれど、ドレスは確かに綺麗だった。
「あとはお化粧ね」
「お化粧もですか?」
「当然でしょう。まあ、素材は悪くないけれど、そのそばかすが少し田舎臭いわね」
アリスは思わず頬を押さえた。
自分では気に入っていたわけではないけれど、そんなにはっきり言われると少し傷つく。
アザレアは気にした様子もなく、アリスを化粧台の前へ座らせた。
頬に薄く色を乗せられ、唇には淡い紅を差される。睫毛を整えられ、髪はピンク色の細いリボンで綺麗にひとつに結ばれた。
アザレアの手つきは、意外なほど器用だった。
リボンの角度、前髪の流し方、頬の色の濃さまで、少しも妥協しない。
最後にアザレアは、アリスの頭から覗く子ぶたの耳をじっと見た。
「その耳まで隠そうとすると、かえって不自然ね」
そう言って、先ほど髪に使ったものよりも小さなリボンを二つ手に取る。
「少し動かないで」
「はい」
アザレアは子ぶたの耳の根元に、淡いピンク色の小さなリボンをひとつずつ結んだ。
耳がくすぐったくて、アリスは思わず肩をすくめる。
「これなら、少しくらい愛嬌があるように見えるでしょう」
「少しくらい……」
「褒めているのよ」
本当だろうか。
けれど、鏡に映る子ぶたの耳は、淡いピンク色のドレスによく馴染んでいた。
「これで完璧」
アザレアは満足そうに言った。
アリスは姿見を見つめた。
鏡の中には、いつもの自分とは少し違う少女が映っている。
灰茶色の髪は綺麗に結ばれ、オリーブ色の瞳は淡いピンクのドレスに映えて、やわらかな緑色に見えた。頬はほんのりと色づき、唇は花びらのようだった。
頭から覗く子ぶたの耳にも小さなリボンが結ばれ、いつもより少しだけ可愛らしく見える。
地味だと思っていた変装の色が、ドレスと化粧でこんなふうに変わるなんて思わなかった。
「……すごい」
アザレアは鏡越しに笑った。
「女の子はね、少し手をかけるだけで別の花になれるの。咲く場所を選べないなら、せめて咲き方くらい選ばないとつまらないでしょう?」
アリスはその言葉に、少しだけ胸を突かれた。
アザレアは意地悪で、気まぐれで、何を考えているのか分からない。
けれど、その言葉には不思議な強さがあった。
「そろそろお茶会の時間よ」
そう言って、アザレアが身につけたのは、深い赤紫のドレスだった。
鮮やかなピンク色の髪の奥に揺れる赤紫とよく馴染み、甘い花のような華やかさの中に、女王の娘らしい気高さを添えている。
どうやら、アザレア自身が着るドレスは、最初から決まっていたらしい。
アリスはそこでようやく、自分にドレスを見立てさせるという話そのものが、衣装部屋へ連れてくるための口実だったのだと気づいた。
アリスは慌てて立ち上がる。
「では、アザレア様。行ってらっしゃいませ」
アザレアが眉を上げた。
「何を言っているの、ルーシー」
「え?」
「あなたも一緒に行くのよ」
アリスは固まった。
「わ、私もですか?」
「当然でしょう。今日は母様もいらっしゃるのだから、粗相のないように気をつけるのよ」
母様。
ハートの女王。
その言葉を聞いた瞬間、アリスの血の気が引いた。
喉が小さく鳴る。
もし、ハートの女王に自分がアリスだとばれてしまったら。
ノアはどうなるのだろう。
首の錠。
契約。
罰。
白い霧の中で見た、女王に踏みつけられていたノアの姿が頭に浮かぶ。
アリスの指先が冷たくなった。
「そんな顔をしないの」
アザレアがアリスの顎を軽く指で持ち上げた。
「せっかく綺麗にしたのに台無しよ」
「でも、私は……」
「あなたはルーシー。私の友達。そうでしょ?」
「友達……?」
「嫌なの?」
アザレアが少し目を細める。
アリスは慌てて首を振った。
「い、嫌ではありません」
「なら決まり」
アザレアは満足そうに頷いた。
「さあ、こんなことをしていて遅れたら、母様に首を飛ばされてしまうわ。行きましょう」
冗談なのか、本気なのか分からない。
ワンダラーでは、その言葉が一番怖い。
アザレアはアリスの手を引き、衣装部屋を出た。
廊下を進む間、アリスの心臓はずっと騒がしかった。
ぽんぽんと弾けるポップンキャンディより、ずっと大きく、ずっと苦しい音。
中庭へ続く扉が開かれる。
その先に広がっていたのは、赤い薔薇の庭園だった。
ノアの執務室近くにある、白薔薇の中庭とは違う。
ここは、赤。
どこまでも赤。
咲き誇る薔薇は深紅で、花びらは艶やかに光っている。茎には黒に近い緑の葉が茂り、薔薇の香りは濃く、少し酔いそうなほど甘かった。
庭園の中央には、艶やかな黒檀の長いテーブルが置かれていた。
深い赤のクロスがかけられ、その上には、見たこともないような菓子が並んでいる。
宝石のように透き通ったゼリー。
薔薇の形をした砂糖菓子。
金粉のかかった小さなタルト。
湯気の色が変わる紅茶。
丸いガラスドームの中では、蝶の形をした薄いビスケットが、まるで生きているようにひらひらと飛び回っていた。
透けるほど薄い羽には、砂糖の粉が細かな鱗粉のようにきらめいている。時折、ドームの内側へ止まって羽をゆっくりと開いたかと思えば、また甘い香りを振りまきながら宙へ舞い上がった。
客人たちは皆、豪華絢爛だった。
羽根飾りの帽子をかぶった貴婦人。ハート形の眼鏡をかけた老人。鳥の翼を持つ青年。赤い宝石を首に巻いた夫人。
誰もが華やかで、会話の声まで絹のように滑らかだった。
そしてそのすべての中心にいるのは、
----ハートの女王----
アリスは、ひと目見た瞬間に息を忘れた。
豊かな赤い髪は、燃え盛る炎をそのまま束ねたように艶やかで、白い肌の上では紅い唇だけが、鋭く咲いた薔薇のように浮かんでいる。
美しい。
けれど、綺麗だと思うより先に、身体が怯えた。
女王はただ椅子に腰かけているだけだった。
それなのに、庭園を満たす薔薇の香りも、客人たちの笑い声も、風に揺れる花びらさえも、彼女の許しを得て動いているように見えた。
視線を向けられていないのに、胸の奥まで見透かされているような気がする。
薔薇よりも赤く。
棘よりも鋭く。
そこにいるだけで、誰もが頭を垂れずにはいられない。
これが、ハートの女王。
ノアの首に錠をかけ、この国のすべてを盤上に置くひと。
アリスは指先が冷えていくのを感じながら、目を逸らすことさえできなかった。
「何をしているの、アザレア」
女王の声が響いた。
甘く、美しく、そして冷たい。
「早く座りなさい」
「はい、母様」
アザレアは優雅に微笑んだ。
女王の視線が、アリスへ向く。
「そちらは?」
アリスの心臓が止まりそうになった。
手が震えそうになる。
けれど、アザレアが一歩前へ出た。
「こちらは、お友達のルーシーですわ」
「友達?」
女王の目が細くなる。
アリスは深く礼をした。
「ルーシーと申します。お招きいただき、光栄です」
声が震えなかったのは、奇跡だった。
女王はしばらくアリスを見ていた。
その視線は、服の布地も、髪の色も、瞳の奥も、すべてをほどいてしまいそうだった。
やがて、子ぶたの耳につけられた小さなリボンへ視線が止まる。
アリスは耳まで緊張で固くなるような気がした。
けれど、女王は何も言わなかった。
アリスは息を止める。
ばれたら終わりだ。
アリスだと知られたら。
ノアが隠していたと知られたら。
ノアの首の錠が、また締まる。
やがて女王は扇子をゆっくりと広げ、アリスを値踏みするように見つめた。
「まあよい。いつまで立っておる。さっさと座れ」
「はい。ありがとうございます」
アリスは静かに席へ向かった。
アザレアの隣。
女王からは少し離れているが、その視線は十分に届く場所だった。
椅子に腰を下ろすと、足元がふわふわしているような気がした。
緊張で、指先が冷たい。
アザレアが小声で囁く。
「背筋」
アリスは慌てて背筋を伸ばした。
「耳も動かさないで」
「耳は、自分では……」
「努力なさい」
無茶なことを言う。
それでもアリスは、子ぶたの耳までぴんと固めるつもりで姿勢を正した。
「カップは右手」
アリスは右手を添えた。
「笑って」
アリスはぎこちなく微笑んだ。
アザレアは横目で見て、少しだけ満足そうにした。
お茶会が始まった。
銀のポットから注がれた紅茶は、カップの中で淡い薔薇色へ変わった。香りは甘く、けれどどこか鋭い。
アリスは慎重にひと口飲んだ。
舌の上に、薔薇の香りが広がる。
甘い。
けれど、緊張で味が半分も分からなかった。
女王の周りでは、客人たちが優雅に笑っている。
けれど、その笑い声の裏には、どこか刃物のようなものがあった。誰もが女王の顔色をうかがい、誰もがアザレアの機嫌を気にしている。
ここは華やかな庭園だ。
でも同時に、薔薇の棘だらけの場所でもあった。
アリスはカップを持つ手に力を込める。
その時、女王の声がした。
「ルーシー」
アリスの心臓が跳ねた。
子ぶたの耳まで、ぴくりと動く。
「はい」
「そなた、どこでアザレアと知り合ったのじゃ?」
庭園の空気が、少し静かになった。
アリスは、女王の赤い瞳を見た。
美しい。
恐ろしい。
嘘をつけば、見抜かれる気がした。
けれど、本当のことは言えない。
アザレアは隣で、何事もないように紅茶を飲んでいる。
助け舟は出してくれない。
試しているのだ。
アリスは息を整えた。
「図書室で、お声をかけていただきました」
嘘ではない。
アザレアは確かに図書室へ現れた。
女王は扇子の奥で笑った。
「そう。アザレアが自分から友達を作るなんて、珍しいこと」
「母様」
アザレアが少しだけ不満そうに言った。
「私にも友達くらいおりますわ」
「ええ。飽きるまではね」
女王の言葉に、アザレアの紅茶色の瞳が少しだけ冷えた。
アリスはその横顔を見た。
親子なのに、そこには温かさよりも緊張がある。
アザレアは美しく笑っている。
けれど、その笑みの奥に、小さな反抗心のようなものが見えた。
女王はアリスへ視線を戻した。
「ルーシー。そなた、白兎の執務室にも出入りしているそうじゃな」
カップを持つ手が止まりそうになった。
頭の上の耳も、無意識に伏せそうになる。
アリスは必死に平静を保った。
「はい。ノアさんのお仕事を、少し手伝わせていただいております」
「……あの白兎が、のう」
女王の声は柔らかい。
しかし、その柔らかさが怖かった。
「あれは昔から、腹の内を見せぬ。甘い顔で笑いながら、わらわの目の届かぬところで勝手をする」
アリスの胸がぎゅっとなる。
「そなたも、そうは思わぬか?」
違う、と言いかけて、アリスは唇を閉じた。
ノアを庇えば、二人の関係を疑われる。
けれど、女王に合わせて頷くこともできなかった。
口の中が乾く。
膝の上で重ねた指先に、知らず知らず力がこもった。
焦ってはいけない。
嘘を重ねるのではなく、言える範囲の本当を選ばなければならない。
アリスは一度だけ静かに息を吸い、女王の瞳を見返した。
「ノアさんは……とても慎重な方だと思います」
「慎重?」
「はい。誰かを困らせないように、何かを先回りしてしまうことがあるのかもしれません」
女王の目が細くなる。
「ほう。あれの勝手を、慎重と申すか…」
アリスの背中に汗が滲んだ。
アザレアが隣で、ほんの少しだけ口元を上げる。
女王は扇子を閉じた。
「なかなか面白い娘よのう」
アリスは息を止めた。
気に入られた。
それは喜んでいいことなのだろうか。
分からない。
まったく分からない。
「アザレア」
「はい、母様」
「次の茶会にも、その娘を連れてまいれ。退屈を紛らわせるには、ちょうどよさそうじゃ」
アリスの胸が冷える。
アザレアは優雅に微笑んだ。
「承知いたしました」
女王は満足そうに紅茶を口に運ぶ。
お茶会は、また華やかに動き出した。
客人たちは笑い、菓子は美しく並び、薔薇は甘く香る。
けれど、アリスの心臓はまだ激しく鳴っていた。
ノア。
心の中で、その名を呼ぶ。
女王に近づいてしまった。
アザレアに連れてこられたことで、アリスは女王の視界に入ってしまった。
ルーシーとして。
でも、いつまで隠せるだろう。
隣で、アザレアが小声で言った。
「なかなかやるじゃない」
「……生きた心地がしません」
「慣れるわ」
「慣れたくありません」
アザレアは小さく笑った。
その笑いは少し意地悪で、少しだけ楽しそうだった。
赤い薔薇の庭園で、アリスは静かに息を吸った。
ここから先は、きっと今までよりずっと危ない。
でも、もう後戻りはできない。
ハートの女王の目が、アリスを見つけてしまったのだから。