第53話 10月の線引き
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
10月に入ると、新聞の紙面から、9月の光はほとんど消えていた。
パリ臨時大会の写真は、まだスポーツ面や特集欄に残っている。エッフェル塔、競技場、選手団、公共テレビ視聴室、閉会式の旗。だが、一面の正面に戻ってきたのは、競技場の白線ではなかった。
国境線だった。
ユンゲが所長室に新聞を持って入ると、ヒトラーは机の前で立っていた。
「そこだ」
新聞を置く前に言われたので、ユンゲは手を止めた。
「はい」
「少し右だ」
ユンゲは新聞を机の右前方へ置いた。
「さらに右」
「ここですか」
「違う。影が入る」
ユンゲは半歩ずらした。
「では、ここで」
ヒトラーは無言で新聞を見た。どうやら許容範囲だったらしい。
ユンゲはもう慣れていた。所長室における新聞の位置は、図面台の寸法より細かい。
ヒトラーは一面を開いた。
その瞬間、眉間の皺が深くなった。
「誰だ」
「何がでしょう」
「この折り方をした者だ」
ユンゲは紙面を覗いた。
国際面に、バルカンと黒海周辺の地図が載っていた。ルーマニア、ベッサラビア、北ブコヴィナ、ドナウ、カルパチア山脈、黒海。新聞の折り目は、ちょうどドナウ川の途中を横切っていた。
「新聞社だと思います」
「地図の上で折るな」
「新聞です」
「新聞だからだ。地図は折ったところから破れる」
ユンゲは記録帳を開いた。
「地図は折ったところから破れる」
「それは書いてよい」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。折り目を直せ」
ユンゲが新聞を丁寧に開き直すと、ヒトラーはようやく記事を読み始めた。
一面の見出しは、9月末から続いていた問題をさらに大きくしていた。
「日独防共協定、見直し協議へ」
その下には、仏領インドシナ北部への日本軍進出を受け、ベルリン政府が東京との協定関係を再検討する方針であると書かれていた。日本側は中国戦線上の必要と主張している。だが、ベルリン政府筋は、防共協定はソ連の拡張主義に対する安全保障協力であり、フランス領インドシナへの軍事圧力を正当化するものではない、と述べていた。
ヒトラーは紙面を指で押さえた。
「ようやく書いたか」
ユンゲは聞いた。
「協定見直しのことですか」
「北を見張ると言って、南の窓を割る者と組むな」
「以前も、そうおっしゃいました」
「二度言わせる紙面が悪い」
ユンゲは書いた。
「二度言わせる紙面が悪い」
「それは書くな」
「もう書きました」
ヒトラーは少しだけ顔をしかめたが、止めなかった。
フランツが所長室に顔を出した。
「今朝の新聞ですか」
「今朝の地図だ」
「新聞ではなく」
「今日は地図だ。新聞は地図を運ぶための紙になっている」
フランツは机の横から見た。
「日本との協定見直しですね」
「見直しでは足りん。まず看板を下ろせ」
「防共協定そのものは、ソ連への警戒として必要では」
「必要な看板ほど、掛ける場所を選べ」
そこへエルゼが入ってきた。手には帳簿と請求書があった。
「防共協定の話ですか」
フランツがうなずく。
「日本の仏印進出で、ドイツ政府が見直しに入るそうです」
エルゼは紙面を見ずに言った。
「共同請求書に、名前を残したくないのでしょう」
ヒトラーは新聞から顔を上げた。
「外交を請求書にするな」
「後から支払いが来るものは、だいたい請求書です」
「君は世界を会計帳簿で見る」
「所長は世界を椅子と窓で見ます」
フランツは咳払いをした。
ユンゲは記録しようか迷った。迷った末に、書かなかった。エルゼがこちらを見たからだった。
新聞の二面には、イタリアの記事があった。
「ローマ、ギリシャ方面に圧力強める」
「アルバニア国境に部隊集結」
「通商・港湾協定改定要求か」
ヒトラーはその見出しを見て、深く息を吐いた。
「今度は地中海か」
フランツが言った。
「全面侵攻ではないようです。港湾使用、通商監督、軍事顧問受け入れ、国境警備協力……そういう要求だと」
「服の上から体を測る仕立屋だ」
「どういう意味ですか」
「入る前から、部屋の寸法を自分のものにしている」
ユンゲは書いた。
そのとき、受付のほうで声がした。
「おはようございます。まだイタリアが熱いうちに来ました」
ゲッベルスだった。
彼は帽子を手に、いつものように、何か面白いものを見つけた顔で入ってきた。だが、その目には少し疲れがあった。9月の明るい紙面が終わり、また政治面が新聞の中心に戻ってきたせいかもしれない。
「イタリアの記事はご覧に?」
ヒトラーは新聞を軽く持ち上げた。
「見た」
ゲッベルスは笑った。
「チャップリンが脚本を直すか、追加シーンを撮りたがるでしょうね」
フランツが思い出したように言った。
「パリで話題になった、あの映画ですか」
「ええ。地中海の独裁者が、隣国へ芝居がかった要求を突きつける。少し前なら戯画でしたが、今朝の新聞を見ると、現実のほうが脚本へ寄ってきた」
ヒトラーは不機嫌そうに言った。
「脚本家を助ける政治家など、ろくなものではない」
ゲッベルスは肩をすくめた。
「しかし、観客には分かりやすい」
「分かりやすい愚かさは、愚かさを小さくしない」
ゲッベルスはその言葉を気に入ったようだった。
「それは良い」
「使うな」
「まだ何も言っていません」
「顔が言っている」
ゲッベルスは笑った。
エルゼは新聞を横目で見ながら言った。
「イタリアは、ギリシャで何をしたいのでしょう」
ゲッベルスが答えた。
「見られたいのでしょう。パリ大会ではフランスが中心になり、航空展示会ではイギリスとドイツが並ぶ。ローマは、地中海で自分の舞台を作りたい」
ヒトラーは短く言った。
「地中海に鏡を置くと、あの男は自分の顔しか見ない」
フランツは思わず笑いそうになったが、すぐに止めた。
ゲッベルスは、今度こそ完全に記憶した顔をした。
「それも使いたいですね」
「使うな」
「では、心の中でだけ」
「心の中にも印刷機を置くな」
ユンゲは書かないように努めた。
書きたかったが、書けば止められることも分かっていた。
新聞の地図は、さらに東へ目を向けさせた。
ルーマニア。
ベッサラビアと北ブコヴィナの喪失は、まだ新しい傷だった。ソ連の圧力で奪われた地域。国境の線が押し戻され、地図の色が変わった場所。紙面には、ルーマニア政府がドイツ、フランス、イギリスに対し、対ソ防衛協力と軍事・技術援助を求めていると書かれていた。
別欄には、ブカレストの混乱も載っていた。
「外国軍事顧問受け入れに賛否」
「対ソ防衛強化派と主権警戒派が対立」
「油田・鉄道・橋梁防衛が焦点」
フランツは地図を見た。
「ルーマニアは、ドイツだけでなくフランスやイギリスにも援助を求めているんですね」
ゲッベルスが言った。
「そのほうが見栄えがいい。ドイツだけを呼べば、ドイツの影が濃くなる。英仏を並べれば、欧州の安全保障に見える」
ヒトラーは冷たく返した。
「見栄えで兵は止まらん」
「ですが、見栄えで議会は通ることがあります」
エルゼが言った。
「国内で割れているようですね」
ヒトラーは新聞の地図を見つめた。
「外国人を入れるな、という者は正しい」
フランツは少し意外そうにした。
「そうなのですか」
「主権とは、部屋の鍵だ。知らない者に渡したくないのは当然だ」
ユンゲは記録した。
ヒトラーは続けた。
「だが、入れなければ守れない、という者も正しい」
「両方正しいのですか」
フランツが聞いた。
「だから危ない」
所長室は少し静かになった。
ヒトラーは紙面の地図を指でなぞった。
「正しいもの同士が向かい合うと、部屋は狭くなる。椅子を下げる者がいなければ、いずれ机が倒れる」
ユンゲは、その言葉を丁寧に書いた。
ドナウ川の線が、紙面を横切っている。
山脈、油田、鉄道、国境。
地図は、競技場のようにきれいではない。
線が多すぎる。
しかも、その線のどれもが、誰かの生活と不安を抱えていた。
午後になる少し前、ヒムラーが来た。
いつものように、来る理由はあった。
そして、いつものように、その理由は少し早すぎた。
受付で応対したユンゲが製図室に案内すると、ヒムラーは薄い封筒を一つ、厚い封筒を二つ、さらに筒に入れた図面を持っていた。
エルゼはそれを見た瞬間に言った。
「正式依頼ですか」
ヒムラーは穏やかに首を振った。
「まだです。予備提案です」
「予備提案で封筒が三つあるのですか」
「関係団体が多いものですから」
ヒトラーは所長室から出てきた。
「関係団体が多い仕事は、責任者が少ない仕事だ」
ヒムラーは微笑んだ。
「ですから、見え方を整える必要があります」
「見え方を整える前に、責任者を整えろ」
「それは、私の担当ではありません」
「では、誰の担当だ」
「まだ決まっていません」
ヒトラーは目を細めた。
「帰れ」
エルゼが止めた。
「話だけ聞きましょう。帰すのはその後でもできます」
ヒムラーは封筒を大机に置いた。
「ミュンヘン市、商工会、退役軍人会、いくつかの保守系団体、それから東欧通商関係者が、共同で展示を企画しています。正式にはまだ調整中ですが、ドナウ安全保障協定の締結に合わせ、一般向けの説明展示を行いたいとのことです」
フランツが聞いた。
「ドナウ安全保障協定?」
ヒムラーは頷いた。
「ドイツ、フランス、イギリスが原則合意した、ルーマニア支援とドナウ流域の安全保障協力です。軍事顧問、技術援助、鉄道・橋梁・油田・通信・防空の整備支援。表向きは、ルーマニアの安定と通商路の保護。実質的には、対ソ防衛線の構築です」
ゲッベルスがまだ製図室に残っていた。彼は小さく口笛を吹くような顔をした。
「パリ大会の展示が終わったと思ったら、今度はドナウですか」
ヒムラーは言った。
「時代は休みません」
ヒトラーは新聞を持ってきて、大机に広げた。
「時代ではない。人間が休まないだけだ」
ヒムラーは封筒から紙を取り出した。
「仮称は、ドナウ防共展です」
「却下だ」
即答だった。
フランツが言った。
「まだ受けてもいません」
「受ける前に却下できるものは、先に却下する」
ヒムラーは落ち着いていた。
「では、ドナウ安全保障協定展示、ではいかがでしょう」
「長い」
エルゼが言った。
「長い名前は印刷代が増えます」
ヒトラーは鋭く返した。
「意味を削って安くするな」
エルゼは少し笑った。
「では、長くてもよろしいと」
「よろしいとは言っていない」
ユンゲは記録帳を開いた。
ヒトラーは新聞地図のドナウ川を指した。
「ドナウは防共の看板柱ではない。川だ。流れだ。通商路であり、町であり、橋であり、港であり、畑であり、船着き場だ。それを“防共”の二文字で塞ぐな」
ヒムラーは少し身を乗り出した。
「それを展示で説明したいのです」
「説明する前に、名前で壊すな」
ゲッベルスが言った。
「ですが、短い名前は報道しやすい」
ヒトラーは彼を見た。
「報道しやすい愚かさは、愚かさを小さくしない」
ゲッベルスは笑った。
「先ほどより少し変えましたね」
「君のせいだ」
ヒムラーは別の紙を出した。
「展示内容案です。第一室、ルーマニアとドナウ流域。第二室、ベッサラビア・北ブコヴィナ問題。第三室、英仏独の技術協力。第四室、油田・鉄道・橋梁・通信・防空。第五室、通商と市民生活。最後に、ドナウ安全保障協定の概要」
フランツは資料を見た。
「かなり大きな展示ですね」
「巡回も検討されています。ミュンヘン、ニュルンベルク、フランクフルト、ケルン、場合によってはベルリン」
エルゼがすぐ聞いた。
「予算は」
ヒムラーは微笑んだ。
「まだです」
「帰ってください」
今度はエルゼが言った。
ヒトラーは少しだけ満足そうだった。
ヒムラーは慌てなかった。
「ですから、予備提案です。正式な予算要求の前に、展示の骨格と名称案が必要なのです」
「つまり、まだ金はないが、案はほしい」
エルゼの声は冷たかった。
「簡単に言えば」
「簡単に言わないでください」
ヒトラーは資料を手に取った。
「展示地図は誰が描いた」
ヒムラーは少し間を置いた。
「商工会の紹介した印刷所です」
「駄目だ」
「まだ見ていませんよ」
フランツが言った。
「見る前に分かる。ドナウを真っ直ぐ描きたがる」
ヒムラーは封筒から試案の地図を出した。
ヒトラーは一目見た。
「ほら見ろ」
地図は、分かりやすかった。分かりやすいが、川がただの線になっていた。国境と鉄道と矢印が目立ち、川はそれらを支える棒のように描かれている。
ヒトラーは指で叩いた。
「これは川ではない。棚の横木だ」
ユンゲは書いた。
「ドナウを棚の横木にするな」
「それは書くな」
「要点です」
「要点ではない。川だ」
フランツが思わず言った。
「所長、それが要点では」
「君まで言うな」
ゲッベルスは楽しそうに見ていた。
「この展示、受けるのですか」
ヒトラーは資料を見たまま答えた。
「名称を直せ。地図を直せ。責任者を一人にしろ。予算を出せ。話はそれからだ」
ヒムラーは満足そうに頷いた。
「では、可能性ありと伝えます」
「伝えるな」
「伝えなければ進みません」
「進む前に止まれ」
「止まるためにも、進む必要があります」
ヒトラーは心底嫌そうな顔をした。
「あなたのそういうところが嫌いだ」
ヒムラーは静かに微笑んだ。
「よく言われます」
製図室の机には、新聞、仮地図、展示案、封筒、号外の切り抜きが広がっていた。
日本は南へ進み、ドイツはその線から手を離そうとしていた。
イタリアはギリシャ方面で自分の舞台を作ろうとしていた。
ルーマニアはソ連を恐れ、西へ手を伸ばしていた。
英仏独は、ドナウの流れに安全保障の柵を立て始めていた。
フランツは紙面と資料を見比べた。
「9月は、パリ大会の会場図ばかりでしたね」
ユンゲが頷いた。
「椅子、受像機、掲示板、入口、暗幕」
「10月は、川と国境と鉄道ですか」
ヒトラーは地図を見ていた。
「線の種類が変わっただけだ」
「同じ線ですか」
「違う。競技場の線は、走るために引く。地図の線は、止めるために引く」
ユンゲは、その言葉を書いた。
ヒトラーは新聞を畳もうとして、また手を止めた。
折り目がバルカン半島にかかる。
彼は苛立ったように畳み直した。
「線の上で折るな」
ユンゲは言った。
「新聞です」
「新聞だからだ」
ヒトラーは丁寧に紙面を整えた。
「線の上で折ると、破れる」
夕方、ゲッベルスとヒムラーが帰ったあとも、製図室の机にはドナウの仮地図が残っていた。
エルゼはそれを見て言った。
「正式依頼ではないものを、机の真ん中に置かないでください」
ヒトラーは答えた。
「真ん中に置くな。端に置け」
「受ける気ですか」
「直す気だ」
「それは、受ける気とほぼ同じです」
ヒトラーは不満そうに黙った。
ユンゲは、記録帳を閉じる前に最後の一行を書いた。
「日独防共協定、見直し。イタリア、ギリシャ方面圧力。ルーマニア、英仏独へ支援要請。ドナウ安全保障協定展示、予備提案。所長、ドナウは防共の看板柱ではない、と発言」
ヒトラーが横から見た。
「最後だけ消せ」
「要点です」
「要点ではない。川だ」
フランツが小さく笑った。
9月の線は、トラックの白線だった。
10月の線は、地図の上に戻っていた。
そして地図の線は、誰かが踏み越えるために、いつも少しだけ濃く描かれていた。