第54話 祝典の外側
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
12月のミュンヘンは、朝から雨とも雪ともつかないものを降らせていた。
窓に当たる音は雨に近い。だが、歩道の端には白いものが残り、馬車の車輪と自動車のタイヤがそれを灰色に押しつぶしていた。事務所の入口には、外から持ち込まれた水気が細い線になって伸びている。
エルゼはそれを見て、まだ何も言わなかった。
言わなかったが、見ていた。
フランツはそれに気づき、早々に自分の靴跡ではないことを確認するように足元を見た。
「私ではありません」
「まだ何も言っていません」
エルゼはそう言ったが、声はすでに帳簿を開くときのものだった。
製図室の暖房は入っていた。だが、窓際は冷える。クレープスは製図板の位置を少し内側へ寄せ、ブルクドルフは入口脇の敷物を直していた。ヨードルはドナウ安全保障展示の工程表を机に広げ、カイテルは市側との打ち合わせ予定を確認している。
所長室の扉は半分開いていた。
ヒトラーは新聞の到着を待っていた。
そのとき、事務所玄関の外から控えめな足音がしてきた。
革の硬い音だった。
ユンゲが入ってきた。コートの裾に水気がつき、手袋も少し濡れている。足元には、黒革の乗馬ブーツを履いていた。街中の通勤には少し目立つが、今日のような雪混じりの雨には、いかにも合理的だった。泥水を跳ねても、靴の上から覆いをかけるよりずっと確実に足を守る。
エルゼは床を見た。
「そこで一度、足元を拭いてください」
「はい」
ユンゲは慣れた動作で入口脇の敷物に足を置いた。
ヒトラーが所長室から顔を出した。
彼はまず新聞を見た。次にユンゲの足元を見た。
「ユンゲ君が騎兵隊になる時期になったか」
ユンゲは新聞を抱えたまま、少しだけ首をかしげた。
「道路が泥になっておりますので」
「道路が悪いのではない。道路の扱いが悪い」
「それは市にお伝えしますか」
「伝えるな。余計な仕事が来る」
フランツが笑いをこらえた。
エルゼは淡々と言った。
「騎兵隊でも歩兵でも、床に泥の導線を作らなければ構いません」
ヒトラーはすぐに反応した。
「泥の導線など作るな」
「作っておりません」
ユンゲはまじめに答えた。
「では新聞を」
「はい」
ユンゲは所長室に入り、新聞を机の右前方に置いた。そこは、すでに習慣というより測量に近い場所だった。
ヒトラーは一面を開いた。
12月の新聞は、厚みがあるわりに重かった。紙の重さではない。載っているものの重さだった。
「ルーズベルト大統領、3選」
「アメリカ、継続政権のもと太平洋政策を強化へ」
「日本、紀元2600年式典を盛大に挙行」
「仏印問題、祝典に影落とす」
「イギリス空母艦隊、地中海で大規模展開」
「ローマ、ギリシャ方面での圧力を否定せず」
「ハンガリー、ドナウ安全保障協定への条件付き協議参加を検討」
ヒトラーは黙って読んだ。
ユンゲは記録帳を開き、待った。
「12月の新聞は」
ヒトラーがようやく言った。
「祝典と警告を同じ紙に載せる」
ユンゲは書いた。
「祝典と警告を同じ紙に載せる」
フランツが所長室に入ってきた。
「ルーズベルト大統領の3選ですか」
「そうだ」
ヒトラーは紙面を指で押さえた。
「アメリカ人は、同じ顔をもう一度選んだ」
「安定を選んだのでしょうか」
「安定とは、椅子を動かさないことではない。動かす者が同じということだ」
ユンゲはペンを止めた。
「それは記録しますか」
「するな」
「少し分かりにくいので」
「なら、なおさらするな」
フランツは別の記事を見た。
「日本の紀元2600年式典も大きく載っています」
ヒトラーはそちらへ目を移した。
紙面には、東京で行われた式典の写真が載っていた。整然とした群衆、旗、式典会場、祝賀の文字。だが、その横には仏印問題と物資統制の記事が並んでいる。華やかな祝典の写真の下に、生活物資、皮革、金属、輸入品、配給、統制という語が並んでいた。
「自分の誕生日を大きく飾る者は」
ヒトラーは低く言った。
「隣家の窓を割ったことを忘れたがる」
ユンゲは少し迷ってから書いた。
フランツが言った。
「国の祝典ですから、誕生日とは少し違うのでは」
「違わん。大きな旗と大きな数字で、自分の都合を祝っている」
エルゼが所長室に顔を出した。
「物資統制もされているようですね」
「読んだ」
「日本では服地や皮革も厳しくなっているようです」
ヒトラーはユンゲのブーツをちらりと見た。
「では、ユンゲ君は東京では騎兵隊になれんな」
ユンゲは返した。
「東京の道路事情は存じません」
「道路より、統制のほうが問題だ」
エルゼが言った。
「こちらも、贅沢ばかりできるわけではありません」
「贅沢の話ではない」
ヒトラーは新聞を畳みかけ、また開いた。
「選べるかどうかだ」
その言葉は、いつものような怒鳴り声ではなかった。
製図室の入口で、受付のベルが鳴った。
ユンゲが出ると、そこにエヴァが立っていた。
ホフマン写真館からの使いだった。片手に防水布で包んだ写真袋を持ち、もう片方の手には細い箱を抱えている。帽子には雨粒がつき、頬は外気で少し赤くなっていた。
「おはようございます。写真館からです。現像が上がりました」
「ありがとうございます。今日はひどい天気ですね」
「ええ。靴がだめになるかと思いました」
エヴァはそう言って、ユンゲの足元を見た。
目が少し明るくなった。
「それ、乗馬ブーツですか」
ユンゲは一瞬、困ったように笑った。
「今日は道路がひどいので。お洒落ではありません」
「でも合理的です」
エヴァはすぐに言った。
「ガロッシュやオーバーシューズより、ずっと線がきれいに見えます。濡れた靴を隠している感じがしません」
ユンゲは自分の足元を見た。
「線、ですか」
「写真だと分かります。オーバーシューズは、どうしても足元だけ重く写ります。でもこれは、最初からそういう形として見えます。実用なのに、不自然ではありません」
ヒトラーが所長室から出てきた。
「服を写真のために着るな」
エヴァは振り返った。
「写真に残るなら、写真のことも考えます」
「写真は記録だ」
「記録でも、人は写ります」
「人を写すと、線が乱れる」
「人がいない写真は、広告には少し寂しいです」
ゲッベルスなら喜びそうな会話だったが、まだ来ていなかった。
エヴァは写真袋をユンゲに渡した。
「パリ視聴室の閉会式後の写真、祝賀飛行展の数枚、それからドナウ展示用に使えそうな資料写真の試し焼きです」
フランツが受け取った。
「早いですね」
「写真館も仕事ですから」
エヴァはもう一度ユンゲの装いを見た。
「ただ、上が少し暗めですね」
「暗めですか」
ユンゲは自分のコートと服を見た。
「雨雪の日は、汚れにくいものにしています」
「それは分かります。足元は黒でいいんです。合理的ですから。でも、襟元かスカーフだけでも明るい色があると、写真では顔が沈みません。黒いブーツに濃い服だと、全部ひとつの影になります」
ユンゲは少し考えた。
「泥の日に明るいものを着ると、汚れます」
「だから全部ではなく、顔の近くです。足元は守って、上で明るくするんです」
エルゼが横から言った。
「実用的な提案ですね」
エヴァは嬉しそうにうなずいた。
「お洒落は、全部を飾ることではありません。どこを守って、どこを明るくするかです」
ヒトラーは不満そうに新聞を持っていた。
「まるで展示の壁面だな」
エヴァは笑った。
「そうですか?」
「見せる場所と守る場所を分ける。服でも壁でも同じことを言う」
エルゼが言った。
「所長が女性の服装に理解を示す日が来るとは」
「理解などしていない。配置の話だ」
ユンゲは笑わないようにした。
エヴァは新聞の一面に目を落とした。
日本の紀元2600年式典の写真が見えた。
「日本では、こういう話はしにくくなっているのでしょうね」
「服の色の話ですか」
ユンゲが尋ねた。
「服の色も、写真も、広告も」
エヴァは紙面の写真を見た。
「国の祝典が大きくなると、個人の色は小さくされます」
製図室が少し静かになった。
エルゼは小さく息を吐いた。
「こちらも、いつまでも自由というわけではないでしょう」
「もちろんです」
エヴァは答えた。
「でも、選べる余地があるかどうかです」
ヒトラーは新聞から目を離さなかった。
「大きな旗の下では、小さなリボンは目立たん」
エヴァは穏やかに言った。
「だからこそ、明るい色を残したくなるんです」
ヒトラーは少し黙った。
それから、写真袋を指で示した。
「写真を見せろ」
フランツが袋を開けた。
最初に出てきたのは、ミュンヘン公共視聴室の写真だった。閉会式後のホール。椅子の列。暗い受像機台。壁に残ったパリ大会ポスター。観客が去った後の静けさが写っていた。
次は祝賀飛行展の写真だった。空を見上げる市民。小さく写る機体。入口の控えめな看板。ライチュの姿も遠くに見える。
ヒトラーはその写真を手に取った。
「よろしい。空が残っている」
エヴァは言った。
「写真館でも、これは良いと言っていました。看板が前に出すぎていないので」
「看板は空に勝つな」
「写真でもそうでした」
ヒトラーは少しだけ満足そうにした。
その次に出てきたのは、ドナウ安全保障展示のための資料写真だった。川、橋、貨物船、鉄道、港、油田施設、地図資料の複写。まだ展示用の完成写真ではない。だが、仕事の匂いはあった。
そこへ、ゲーリングが来た。
来た、というより、入ってきた。
彼が来ると、入口の空気が少し広くなる。実際には大柄な身体が場所を取っているだけなのだが、本人はそれをまったく気にしない。
「ひどい天気だな。空が低い」
ヒトラーは即座に返した。
「あなたが来ると、部屋も低くなる」
ゲーリングは大笑いした。
「今日も機嫌が悪いようだ」
「天気のせいだ」
「新聞のせいだろう」
ゲーリングは手袋を外しながら、新聞の地中海記事を見た。
「イギリス人が空母を動かした」
フランツが記事を確認した。
「地中海で大規模な艦隊展開。演習名目ですが、イタリアへの牽制と見られる、とあります」
ゲーリングは鼻を鳴らした。
「要港のタラントを爆撃しにきたわけではない。だが、やつらは空母を見せた。撃たずに見せる。イギリス人らしい」
ヒトラーは新聞の地図を見た。
「撃たない艦は、撃つ艦より場所を取ることがある」
ゲーリングは少し感心した顔をした。
「それは分かる。港に入らない艦隊ほど、地図の上で大きい」
「あなたにも地図が読めるのか」
「飛行機は地図なしでは飛べん」
「そのわりに、あなたの話はいつも雲の上にある」
ゲーリングは笑って受け流した。
「ローマは面白くないだろうな。ギリシャに圧力をかけようとしたところへ、イギリス空母だ。海に浮いた飛行場を見せられている」
エヴァが小さく言った。
「飛行場を海に浮かべる、ですか」
ゲーリングは満足そうにうなずいた。
「そうだ。空母とはそういうものだ」
ヒトラーは言った。
「撃たなくても見えるなら、看板と同じだ」
「空母を看板扱いするな」
「看板も位置を間違えると戦争になる」
ゲーリングの笑いが、少しだけ短くなった。
彼はエヴァが持ってきた写真のうち、ミュンヘンでの祝賀飛行の分を受け取ると、案内もされないのに応接椅子に腰かけて眺め始めた。
しばらくして、ヒムラーが来た。
今日は一人ではなかった。市の担当者らしき男と、商工会関係者、退役軍人会の代表らしい老人を伴っている。保守系団体の名刺も数枚見えた。
エルゼはそれを見た瞬間、顔を引き締めた。
「正式依頼ですか」
ヒムラーは穏やかに言った。
「正式に近い予備協議です」
「近い予備協議という言葉はありません」
「では、予備協議です」
「予備なのですね」
「予備ですが、かなり前向きです」
ヒトラーは所長室から出てきた。
「逃げ道を言葉で飾るな」
ヒムラーは微笑んだ。
「逃げ道ではありません。入口です」
「なら、入口に責任者の名前を書け」
市の担当者が咳払いをした。
「ドナウ安全保障展示について、具体的な検討に入りたいと考えております」
「展示名は」
ヒトラーが聞いた。
ヒムラーが答える前に、エルゼが見た。
ヒムラーは少しだけ表情を変えた。
「前回のご指摘を踏まえ、仮称は『ドナウ安全保障展』としています」
ヒトラーは黙った。
フランツが小声で言った。
「通りましたね」
「まだだ」
ヒトラーは資料を受け取った。
展示案は前回より整っていた。第一室、ドナウ流域と通商。第二室、ルーマニアとベッサラビア・北ブコヴィナ問題。第三室、英仏独による軍事顧問・技術援助。第四室、鉄道、橋梁、油田、防空、通信。第五室、ハンガリーの協議参加と少数民族権利保証。
その第五室で、ヒトラーの手が止まった。
「ハンガリーを入れたのか」
ヒムラーは頷いた。
「完全参加ではありません。条件付きの協議参加です。ブダペスト側は、トランシルヴァニアのハンガリー系住民の権利保証を求めています。一方、ルーマニア側は、領土問題に触れすぎることを嫌がっています」
商工会の男が言った。
「通商路の安定には、ハンガリーを完全に外すわけにもいきません」
退役軍人会の老人が低く言った。
「だが、ルーマニアを刺激しすぎれば、協定の意味がなくなる」
エルゼが小さく言った。
「また、責任者が少ない仕事ですね」
ヒトラーは地図案を広げた。
ドナウ流域、ルーマニア、ハンガリー、トランシルヴァニア。前回よりはましだった。だが、色分け案には問題があった。ルーマニアの色、ハンガリーの色、協議地域の斜線。塗れば誰かが怒る。塗らなければ誰かが分からない。
フランツが尋ねた。
「この地域は、どちらの色にしますか」
ヒトラーは即答した。
「塗るな」
クレープスが製図板の前から顔を上げた。
「塗らないと地図になりません」
「塗ると政治になる」
ユンゲが言った。
「展示そのものが政治では」
「だから塗るなと言っている」
エヴァが、横から地図を見た。
「でも、色がないと見えません」
ヒトラーはエヴァを見た。
「見せるための色と、奪うための色を混ぜるな」
エヴァは少し考えた。
「では、服の色と同じですね」
「違う」
「少し似ています。全部を塗るのではなく、見なければいけないところにだけ色を置く」
ヒトラーは反論しようとして、止まった。
フランツが言った。
「薄い斜線ではどうでしょう。領有を示す色ではなく、権利保証と協議対象を示す線として」
ヒトラーは地図を見た。
「濃い色は使うな」
クレープスが鉛筆を持った。
「では、薄い斜線で」
「境界線を太くするな」
「はい」
「地名を大きくするな」
「はい」
「川を切るな」
「はい」
エルゼが言った。
「注文が多いほど、費用は増えます」
ヒトラーは返した。
「間違った地図ほど、あとで高くつく」
ヒムラーは満足そうにそれを聞いていた。
「では、第五室は、トランシルヴァニアを協議対象地域として扱い、少数民族権利保証、鉄道・通信協力、国境紛争凍結を説明する方向で」
「言葉が多すぎる」
「政治が多いものですから」
「政治を減らせ」
「展示でですか」
「文字を減らせ。図を直せ。川を残せ」
ゲーリングが横から言った。
「地中海の空母も入れるか?イタリアへの注意書きとして」
ヒトラーは睨んだ。
「ドナウに空母を入れるな」
ゲーリングは笑った。
「冗談だ」
エルゼが言った。
「冗談でも展示項目が増えると困ります」
ゲーリングは肩をすくめた。
「この事務所では、冗談にも予算がつくのか」
「つきません。だから困るのです」
製図室には、いつの間にか人が多くなっていた。
濡れたコートの匂い。紙の匂い。写真の薬品の微かな匂い。暖房の金属臭。外の雨雪が窓を叩く音。机の上には、日本の紀元2600年式典の新聞写真、ルーズベルト3選の記事、地中海の空母展開、ドナウ安全保障展の地図案、ハンガリーの協議参加資料、エヴァの届けた写真が並んでいた。
祝典の写真の外側には、統制の記事があった。
安全保障協定の外側には、領土問題があった。
空母演習の外側には、ギリシャへの圧力があった。
服の色の外側には、選べる余地があった。
ユンゲは記録帳を開いた。
「1940年12月。ルーズベルト大統領3選。日本、紀元2600年式典後も仏印問題と物資統制が続く。イギリス空母艦隊、地中海に展開しイタリアを牽制。ハンガリー、ドナウ安全保障協定に条件付き協議参加。トランシルヴァニア問題、展示地図に反映。所長、見せるための色と奪うための色を混ぜるな、と発言」
ヒトラーが横から見た。
「最後だけ消せ」
「要点です」
「最近、君は何でも要点にする」
「所長が要点を言われるからです」
ヒトラーは不服そうに新聞を畳んだ。
また、折り目が地図にかかった。
彼は畳み直した。
エヴァはユンゲの襟元を見て、そっと言った。
「明るいスカーフ、本当に似合うと思います」
ユンゲは少しだけ笑った。
「泥の日でなければ」
「泥の日だからです。足元を守って、顔の近くに色を置くんです」
ヒトラーは聞こえないふりをしていた。
だが、少ししてから言った。
「赤はやめろ」
エヴァが尋ねた。
「なぜですか」
「目立ちすぎる」
「では、青か明るい灰色ですね」
ユンゲは困ったように笑った。
「検討します」
エルゼが言った。
「購入するなら、領収書を」
「私物です」
ユンゲが即座に言った。
「では結構です」
ヒトラーは新聞を机に戻した。
「地図に塗る色と、人が着る色を同じにするな」
エヴァは微笑んだ。
「でも、どちらも見られます」
「だから面倒なのだ」
外では、雨雪がまだ降っていた。
12月の地図には、まだ戦線はなかった。
だが、濃く引かれなかった線ほど、長く残ることがある。
そして大きな祝典の外側で、小さな色を選ぶ余地だけが、まだ人の側に残っていた。