第55話 元日の独裁者
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1941年1月1日の朝、ミュンヘンは静かだった。
静かというより、まだ街が本当に年を越したのか確かめていないような朝だった。窓の外には薄く雪が残り、屋根の端からは水が落ちていた。通りを歩く人影は少なく、馬車の音も自動車の音も、いつもより遠く聞こえた。
ヒトラーは鏡の前で身支度をしていた。
白いシャツ。濃色の古風な背広。襟元を整え、短い口ひげの形を確かめる。ネクタイは一度結び、気に入らず、ほどき、もう一度結んだ。
結び目がわずかに右へ寄っていた。
「新年早々、だらしない」
誰に言うでもなく呟き、結び直した。
机の上には、前の晩に片づけたはずの書類がまだ一束残っている。ドナウ安全保障展、ハンガリー協議参加、展示地図、トランシルヴァニアの斜線処理。年を越しても紙は勝手に消えなかった。
彼はその束を見た。
そして、ふと思い出した。
何年か前の元日である。
あのとき、朝のまだ早いうちにヒムラーがやってきた。新年の挨拶という顔をして、実際には案件を持ってきた。予備提案、関係者の意向、まだ正式ではないが急ぎたい話。元日という言葉を、仕事を持ち込むための柔らかい包装紙にしていた。
ヒトラーはコートを取った。
「元日に机の前にいる者は、元日に仕事を持ち込まれる」
そう判断すると、帽子を被り、手袋を持ち、家を出た。
外気は冷たかった。歩道には凍りかけた水が残っている。街路樹の枝には雪が薄くつき、朝の光を受けて鈍く白かった。教会の鐘が遠くで鳴っていたが、その音も今日は少し遠慮がちに聞こえた。
行きつけの食堂は開いていた。
扉を開けると、温かい空気とスープの匂いが入ってきた。店内には数人の客がいるだけだった。年配の男が新聞を読んでおり、窓際では若い夫婦らしい二人が黙ってコーヒーを飲んでいた。
店主が顔を上げた。
「おや、元日からお早いですね」
ヒトラーは帽子を脱いだ。
「開いているほうが悪い」
「開けておけば、来る人がいますので」
「だから来た」
店主は慣れた顔で頷いた。
「いつもの席で?」
「窓から遠い席だ」
「寒いですからね」
「窓のせいではない。隙間風の処理が悪い」
「今年もよろしくお願いします」
「よろしくと言われると、何かを頼まれる気がする」
店主は笑って、奥へ引っ込んだ。
ヒトラーは壁際の席に座った。パン、卵、温かいスープ、茹でたジャガイモを頼んだ。食堂の朝食としては飾り気がない。だが、元日の朝にはそれでよかった。皿の位置がきちんとしていれば、なおよかった。
新聞を手に取る。
一面には新年の挨拶と、年末から続く国際面の見出しが並んでいた。
ルーズベルト大統領3選後のアメリカ。日本の仏印問題と物資統制。地中海でのイギリス空母艦隊の展開。イタリアのギリシャ方面圧力。ドナウ安全保障協定とハンガリーの条件付き協議参加。
新年の紙面でさえ、祝っているだけではなかった。
店主が皿を運んできた。
「新聞はまた難しい話ばかりですか」
「新聞が易しかったことなどない」
「元日くらい、よい話だけでもよさそうですが」
「よい話だけ載せる新聞は、悪い話を隠している」
「それでは食事が冷めます」
「それは正しい」
ヒトラーは新聞を畳み、スープを飲んだ。
温かかった。
その一点については、食堂の勝ちだった。
食事を終え、店を出た時には、街に少し人が増えていた。元日の午前らしく、歩き方はゆっくりしている。家族連れ、年配の夫婦、帽子を深く被った男、明るい色のスカーフをした女。冬のミュンヘンは灰色が多いが、それでも人はどこかに色を残していた。
ヒトラーは映画館へ向かった。
元日の朝に映画館へ行くのは、彼にとって珍しいことではなかった。目的は本編ではない。ニュース映画を見るためだった。時事の映像、見出しの順番、地図の出し方、式典の撮り方、人をどの高さから映すか。彼はそこを見る。
ついでに、短いアニメ映画を見ることもあった。
アニメーションの線は、時々ばかげていたが、線そのものは正直だった。人間よりも、椅子や机や階段の動きのほうが見やすいこともある。
映画館の入口には、新年上映の貼り紙が出ていた。
週間ニュース映画
短編アニメ映画
チャールズ・チャップリン新作
Der große Führer(偉大なる指導者)
Napoloni und der Pastawirt(ナパロニとパスタ屋)
ヒトラーは足を止めた。
大きなポスターには、チャップリンの顔が二つ並んでいた。
片方は、ローマ風の大きすぎる椅子に座る地中海の独裁者。胸を張り、顎を上げ、背後には柱と旗と地図がある。もう片方は、白いエプロンをつけたパスタ屋の親父。厨房で粉まみれになり、麺棒を持ち、少し困った顔をしている。
同じ顔だった。
ヒトラーは顔をしかめた。
「正月から指導者を見る趣味はない」
切符売り場の女が聞いた。
「ご覧になりますか」
「ニュース映画だけだ」
「同じ券です」
「本編前に出る」
「かしこまりました」
彼女は少しも驚かなかった。元日の映画館には、いろいろな客が来る。
館内は暗く、暖かかった。
ヒトラーは通路側の席に座った。途中で出るためである。椅子は少し柔らかすぎた。背もたれの角度も気に入らなかった。だが、元日の朝から椅子の文句を係員に言うほど、彼も暇ではなかった。
まず、ニュース映画が始まった。
アメリカ大統領選挙後の映像。ワシントン。群衆。新聞の見出し。ルーズベルト3選。太平洋政策。海軍拡張。中国支援。
次に、日本の映像が流れた。
紀元2600年式典の場面。整列した群衆。旗。式典会場。だが、ナレーションは仏印問題と物資統制にも触れた。祝典の華やかさの外側に、生活と外交の硬い線が見える。
地中海では、イギリス空母艦隊の映像が出た。
艦上に並ぶ機体。海上を進む艦隊。港の遠景。ナレーションは演習と航行の自由を語っていたが、字幕にはイタリアへの牽制という文字があった。
ヒトラーは小さく言った。
「撃たない艦は、撃つ艦より場所を取る」
隣の男がちらりと見た。
ヒトラーは黙った。
ドナウ安全保障協定の映像も短く流れた。会議室。地図。記者団。ルーマニアと英仏独の代表。ハンガリーの条件付き協議参加。トランシルヴァニア問題。地図の斜線。
彼はそこで少しだけ姿勢を変えた。
斜線の角度が悪かった。
ニュース映画が終わると、短編アニメ映画が始まった。
小さな犬が骨を追い、椅子が勝手に動き、ピアノが階段を落ちる。客席から笑いが起こった。ヒトラーは笑わなかったが、椅子の動きだけは見ていた。落ちる角度が正しかった。
そして、明るくなりかけた館内で、彼は立ち上がろうとした。
そのとき、本編のタイトルが出た。
Der große Führer
大きな文字だった。
大きすぎた。
ヒトラーは立ったまま、画面を見た。
続いて、ローマ風の大階段が映った。柱、旗、巨大な机、過剰な胸像、大きすぎる椅子。階段の上から、チャップリン演じる地中海の独裁者ナパロニが登場した。小柄な身体を大きく見せるために、周囲のものが全部大きく作られている。椅子も、机も、扉も、地図も。
観客が笑った。
ヒトラーは座った。
「椅子が大きすぎる」
隣の男がまた見た。
「どうかしましたか?」
「何でもない」
映画は進んだ。
ナパロニは、地中海を自分の庭のように語った。巨大な地図の前で、海岸線を指し、港を指し、島を指し、何度も手を広げた。彼の身振りは大きい。声も大きい。だが、机の上の書類はそれより多く、従者はそのたびに紙を落とした。
ナパロニは怒鳴った。
地図を丸めようとして失敗し、巻かれた地図に自分が巻き込まれた。
観客は笑った。
ヒトラーは笑わなかった。
だが、目は画面から離れなかった。
「地図の紙が薄すぎる」
彼は呟いた。
次に、パスタ屋の親父が出てきた。
白いエプロン。小さな店。狭い厨房。粉袋。麺棒。湯気の立つ鍋。壁にかかった古い写真。常連客が文句を言い、警官が検査に来る。店の外では、独裁者の祝典行列の準備が進んでいる。大通りには旗が飾られ、厨房には小麦粉が足りない。
パスタ屋は、麺を伸ばす。
同じ顔のナパロニは、地図を伸ばそうとする。
映画は二つを交互に見せた。
片方は国をこねるつもりで、片方は小麦粉をこねている。
ヒトラーは前のめりになった。
「同じ顔を、椅子と厨房で分けたか」
今度は隣の男が聞かないふりをした。
作中には、ドイツ風の軍服官僚も出てきた。
肩章、命令書、儀礼、印章。小国の権威主義者のような男だった。大きな命令を出したいのに、机が狭く、書類が多い。彼は書類に埋もれ、印章を探し、帽子を落とし、命令書と昼食の注文を取り違える。
観客は大きく笑った。
ヒトラーはその場面で、少しだけ鼻を鳴らした。
「机が正しい」
隣の男が、とうとう我慢できずに聞いた。
「正しい?」
「広い机では笑えん。狭い机に書類を積むから笑える」
男は困った顔をした。
「映画に詳しいのですか」
「机に詳しい」
男はそれ以上聞かなかった。
映画の中盤で、東方の寒い国から来たという笑わない男が現れた。
彼は派手ではなかった。
大きな声も出さない。手も広げない。笑わない。暗い外套のような服をまとい、護衛らしき男たちを後ろに置き、ただ部屋に入ってくる。地中海の独裁者が笑い、ドイツ風官僚が慌てる中で、その男だけが動かない。
彼は地図の東の端に指を置いた。
それだけだった。
客席の笑いが少し止まった。
ヒトラーは低く呟いた。
「余白を食う」
笑わない顔の周りには、たしかに余白ができていた。画面の中の人物たちが騒ぐほど、その男の沈黙だけが大きくなる。チャップリンはそこへカメラを寄せた。寄るな、とヒトラーは心の中で言った。
カメラは寄った。
「だから映画は危険だ」
今度は誰も聞き返さなかった。
終盤、パスタ屋の親父は独裁者と取り違えられる。
同じ顔。同じ背丈。違う服。違う台。
厨房にいた男が、大広間の壇上に立たされる。巨大な旗、大階段、大きすぎる椅子、地図、拡声器。彼は最初、逃げようとする。だが、目の前には群衆がいる。厨房の客ではない。国民という名で集められた人々だった。
彼は話し始める。
映画の笑いは、そこで少し静かになった。
演説は長かった。
ヒトラーは途中で何度か眉を動かした。
長い。
言いすぎだ。
正面が近すぎる。
だが、席を立たなかった。
画面の中のパスタ屋は、旗や地図や命令のためではなく、人間のために声を使えと言った。大きな椅子に座る者ではなく、狭い厨房で働く者の目で世界を見ろと言った。地図の線を濃くする前に、その線の上で暮らす者の食卓を見ろと言った。
観客の何人かは笑わなくなっていた。
映画が終わった。
館内が明るくなる。
ヒトラーはしばらく座っていた。
隣の男が立ち上がりながら言った。
「よい映画でしたね」
ヒトラーは答えなかった。
映画館を出ると、昼近くになっていた。
元日の空気は少し緩んでいる。通りには家族連れが増え、映画館の前では若者がポスターを見ながら笑っていた。子どもがナパロニの大げさな歩き方を真似して、母親に叱られている。
ヒトラーはポスターを見上げた。
独裁者ナパロニは巨大な椅子に座り、パスタ屋の親父は麺棒を持っていた。
同じ顔だった。
「顔ではない。台だ」
彼は呟いた。
それから、昼食を取りに行くことにした。
朝と同じ食堂に戻る気にはならなかった。別の店に入ろうと、少し歩いた。元日でも開いている店は多くない。だが、駅に近い通りの食堂には明かりがあり、入口の横に昼の献立が出ていた。
扉を開けようとしたとき、背後から声がした。
「所長?」
ヒトラーは振り返った。
ユンゲだった。
外出用のコートを着て、帽子を被り、隣には同じ年頃の女性が立っている。二人とも手袋をしていた。ユンゲの足元は、今日も黒革の乗馬ブーツだった。元日の通りにも、雪と泥はまだ残っている。
ヒトラーは一瞬、映画館よりも面倒なものに出会った顔をした。
「ユンゲ君」
「お一人ですか」
「見れば分かる」
「元日から映画ですか」
「ニュース映画だ」
ユンゲは少しだけ笑った。
「本編はご覧にならなかったのですか」
ヒトラーは答えなかった。
ユンゲの隣の女性が、丁寧に会釈した。
「マルタ・ライナーと申します。クララとは乗馬で知り合いました」
「乗馬」
ヒトラーはユンゲの足元を見た。
「やはり騎兵隊の仲間か」
ユンゲは困ったように言った。
「今日はただの散歩です。天気がよければ、郊外まで行くつもりでしたが」
マルタが笑った。
「この道では馬より私たちのほうが滑りそうでした」
ヒトラーは扉を見た。
「では、滑る前に中へ入れ」
言ってしまってから、彼は少し後悔した。
ユンゲは自然に受け取った。
「よろしいのですか」
「寒い場所で会話を続けるよりはましだ」
三人は食堂に入った。
店内は混んでいなかった。窓際の席に座ると、給仕が水と献立を持ってきた。ヒトラーは窓際を嫌がったが、他に空いた席がなかった。仕方なく、窓の隙間風の角度を確認してから座った。
ユンゲとマルタは温かい料理を頼んだ。ヒトラーはジャガイモ料理と肉少々、スープを頼んだ。
マルタはコートを脱ぎながら、ユンゲに言った。
「この方が、例の所長さん?」
「はい。アドルフ・ヒトラー意匠事務所の所長です」
ヒトラーはすぐに言った。
「例の、とは何だ」
ユンゲは平静に答えた。
「私が職場の話をすると、たいてい所長の話になりますので」
「するな」
マルタは笑った。
「いえ、悪い話ではありません」
「悪くない話ほど、形が悪いことがある」
「変わった言い方をなさるんですね」
ユンゲが小さく言った。
「いつもです」
マルタは市内の保険会社に勤めているという。統計と契約書の整理を担当している。ワイマールの頃から、母親は娘が勤めに出ることを当然のように思っていたわけではないが、今では家族も慣れた、と彼女は話した。
「女がずっと家にいる時代でもありませんし」
マルタはそう言った。
「もちろん、上司の中には古い考えの人もいます。でも、数字を扱える人間を、性別だけで机から遠ざけるほど余裕のある会社も少ないです」
ヒトラーはスープを見ていた。
「机は性別を見ない」
ユンゲが少し驚いた顔をした。
「所長にしては、まともな発言です」
「机の話だ」
マルタは笑った。
「でも、よい机ですね」
「よい机とは、寸法の合った机だ」
「それも大事です」
料理が運ばれてきた。
食堂の中は温かく、窓の外は灰色だった。元日の昼食としては、悪くなかった。ユンゲは友人といるせいか、事務所にいる時より少し表情が柔らかかった。ヒトラーはそれに気づいたが、何も言わなかった。
マルタが言った。
「そういえば、パリ大会の公共視聴室、私も見に行きました」
ユンゲが顔を上げた。
「本当?」
「ええ。閉会式ではなく、途中の競技の日でしたけれど。人が多くて、映像は荒くて、でも案内が分かりやすかったです。どこに並ぶか、どこで待つか、画面が見えない人のための掲示がどこにあるか。ああいう場所は、ひどいと本当に疲れますから」
ヒトラーはジャガイモを切る手を止めた。
ユンゲが少し得意げに言った。
「うちの仕事です」
「分かります」
マルタは頷いた。
「派手ではありませんでした。でも、困らなかった。それが一番良かったです」
ヒトラーは皿を見たまま言った。
「困らないことを褒めるのは、褒め方が地味だ」
マルタは微笑んだ。
「でも、公共の場所では一番大事です」
ユンゲが言った。
「所長、褒められています」
「分かっている」
「では、ありがとうございますと」
「なぜ君が指示する」
マルタは笑った。
「意匠事務所の方は皆さん、こういう感じなのですか」
ユンゲは少し考えた。
「いえ。所長だけです」
ヒトラーは不満そうにした。
「公共視聴室は、画面が悪かった。音も遅れた。椅子の列も、あと半歩ずらせた」
マルタは首を振った。
「でも、見えました」
「見えただけでは足りない」
「いいえ。あの日は、見えたことが大事だったんです」
ヒトラーは言い返そうとして、やめた。
パリはミュンヘンに来なかった。
だが、あの小さな窓を通して、ミュンヘンはパリを見た。
それを言ったのは自分だった。
言った以上、反論しにくかった。
マルタは続けた。
「私は映画も好きですが、ニュース映画は疲れることがあります。こちらがどう見ればいいか、先に決められている気がして。でも、あの視聴室は違いました。画面は小さかったけれど、人が自分で見る余地がありました」
ヒトラーは少しだけ顔を上げた。
「見る余地」
「はい」
「余白を残しただけだ」
「それが良かったのだと思います」
ユンゲは黙っていた。
記録帳があれば書いていただろう。
だが今日は元日で、彼女は仕事の鞄を持っていなかった。
ヒトラーはそれに気づき、少し安心した。
昼食が進むにつれ、会話は乗馬の話になった。ミュンヘン近郊の道、冬の泥、馬具、郊外の空気。マルタは仕事の休みを使って乗る程度だと言った。ユンゲも、裕福な趣味としてではなく、昔からの知人関係の中で身についたものだと話した。
「だから、このブーツも実用品です」
ユンゲは足元を少し引いた。
「分かっている」
ヒトラーは言った。
「元日から騎兵隊を編成する気はない」
マルタが笑った。
「でも、今日は助かりました。街の靴では歩きにくかったでしょ」
「ガロッシュでもよかったのですが」
ユンゲが言った。
「ガロッシュは足元を太くする」
ヒトラーが思わず言った。
ユンゲとマルタが同時に彼を見た。
「何だ」
ユンゲが言った。
「所長、女性の足元に意見を」
「線の話だ」
マルタは面白そうに言った。
「クララから聞いていた通りですね」
「何を聞いた」
「何でも配置と線にする方だと」
「間違っていない」
食事を終える頃、外の空は少し明るくなっていた。雪は止み、歩道には水が残っている。元日の午後が、ゆっくり街に広がり始めていた。
会計をしようとすると、ユンゲが自分の分を払うと言った。マルタも当然のように財布を出した。
ヒトラーは少し眉を動かした。
「私は招待した覚えはない」
「ですので、自分で払います」
ユンゲは即答した。
マルタも頷いた。
「私も勤め人ですから」
ヒトラーは何か言いかけて、やめた。
店の外に出ると、冷たい空気が戻ってきた。
ユンゲは手袋をはめ直した。
「所長、この後は事務所ですか」
「行かない」
「珍しいですね」
「元日に事務所へ行くと、元日に仕事があると思われる」
「それは正しいと思います」
マルタが聞いた。
「映画は、いかがでした?」
ヒトラーは少し黙った。
映画館の椅子。ローマ風の階段。大きすぎる机。パスタ屋の狭い厨房。笑わない東方の男。地図を伸ばす独裁者と、麺を伸ばす親父。
「長かった」
ユンゲは言った。
「最後までご覧になったのですね」
「椅子が悪かった」
「椅子のせいですか」
「立つ角度を逃した」
マルタは笑った。
「それは映画が面白かったという意味では?」
「違う」
ヒトラーは映画館のほうを振り返った。
「独裁者を笑っていたのではない。独裁者を大きく見せる道具を笑っていた」
ユンゲは思わず鞄を探すような動きをした。
記録帳はなかった。
ヒトラーはそれを見て、少しだけ満足した。
「今日は書けまい」
ユンゲは静かに言った。
「覚えておきます」
ヒトラーの満足は消えた。
三人はそこで別れた。
ユンゲとマルタは、滑らない道を選びながら歩いていった。黒い乗馬ブーツが、雪解けの道に細い跡を残した。二人の勤め人の女性が、元日の午後に自分の足で街を歩いていく。その姿は、新聞の大きな祝典よりも小さく、だが確かだった。
ヒトラーはしばらくそれを見ていた。
それから、自分の家のほうへ歩き出した。
元日のミュンヘンには、まだ仕事の気配は少なかった。
だが、机の上には書類が残っている。
映画館には、独裁者を笑う椅子があった。
食堂には、自分で会計を払う女たちがいた。
年は変わった。
線は、まだ残っていた。
だが、その線の上を歩く者たちも、まだ残っていた。