第三十四話 赤い薔薇だけが、すき…
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第三十四話 赤い薔薇だけが、すき…
お茶会は、ひつじ夫人の大きなくしゃみをきっかけに、唐突に終わった。
「くしゅんっ!」
その拍子に白い巻き毛がふわりと舞い上がり、赤薔薇の庭園を小さな綿雲のように漂っていく。
「あら、私の毛が」
「薔薇に絡まったら、明日の天気が羊毛色になるわ」
「それは困るわね」
客人たちは口々に騒ぎ始め、なぜかそのままお茶会はお開きになった。
理由はよく分からなかったが、アリスは心からほっとした。
女王の前では、紅茶の味も菓子の甘さも分からないほど緊張していた。いつ笑えばよいのか、カップをどう置けばよいのか、そればかりを考えていた。
まだ正体は暴かれていない。
けれど、女王の赤い瞳には、変装の奥まで見透かされているような気がした。
もしかすると、次のお茶会へ呼ぶのも、アリスの正体を確かめるためなのかもしれない。
「悪くなかったわ、ルーシー」
アザレアは満足そうに笑った。
「ちょうどいい怯え方だったわ」
「褒めてくださっているのでしょうか」
「もちろんよ。また呼ぶわ。母様も退屈していらしたもの」
なんとも不吉な言葉を残し、アザレアは赤紫のドレスの裾を翻して去っていった。
アリスはしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて自分の格好を思い出し、慌てて衣装部屋へ戻った。
このまま図書室へ戻るわけにはいかない。
今のアリスは、淡いピンク色のドレスを身につけていた。裾と袖口には小さな野薔薇と蔦が刺繍され、頬にはやわらかな色が差されている。唇にも淡い紅が乗り、綺麗に結われた灰茶色の髪と、子ぶたの耳には小さなリボンまで飾られていた。
アザレアに整えてもらった姿は、自分でも驚くほど綺麗だった。
けれど、今のアリスには少し華やかすぎる。
衣装部屋へ戻ると、急いでいつもの服に着替え、髪と子ぶたの耳につけられたリボンも外した。
鏡の中には、見慣れたルーシーの姿が戻っていた。
灰茶色の髪と、オリーブ色の瞳。それから、頭から覗く丸い子ぶたの耳。
ノアがかけてくれた変装は、今日もきちんとアリスを隠してくれている。
ただ、着替えることに気を取られ、化粧を落とすことまでは思いつかなかった。
アリスはそれにも気づかないまま、胸元の薔薇のペンダントへそっと触れた。
「大丈夫」
自分へ言い聞かせるように小さく呟き、図書室へ戻った。
*
図書室には、古い紙とインクの落ち着いた香りが満ちていた。
高い本棚の間へ夕方の光が斜めに差し込み、空気の中を漂う埃を金色に輝かせている。女王の庭にいた時とは違う、静かで穏やかな時間が流れていた。
アリスは少しだけ安心し、残っていた仕事へ取りかかった。
古書を種類ごとに分け、傷んでいるものには札をつけていく。
手を動かしているあいだも、女王の赤い髪と、扇子の向こうに浮かんでいた笑みが頭から離れなかった。
『なかなか面白い娘よのう』
あの声が、今も耳の奥に残っている。
女王に興味を持たれてしまった。
それはきっと、喜んでよいことではない。
最後の一冊へ印をつけた、その時だった。
静かな図書室の扉が開き、白い影が入ってきた。
「アリス」
聞き慣れた声に顔を上げる。
そこに立っていたのは、ノアだった。
白銀の髪は少し乱れ、長い白兎の耳も、いつもより落ち着きなく揺れている。
外回りの仕事を終え、急いで戻ってきたのかもしれない。
ノアの赤い瞳は、アリスの姿を見つけると、ほっとしたようにやわらいだ。
「仕事、終わりそう?」
「はい。ちょうど今、終わったところです」
アリスは印をつけ終えた本を閉じた。
ノアは机のそばへ歩み寄り、綺麗に分けられた古書を軽く確かめる。
「ありがとう。ずいぶん片づいたね」
「傷んでいるものには、すべて印をつけておきました。噛む本には触っていません」
「良い判断だね。あの子たちは一度噛みつくと、なかなか離してくれないから」
いつものようなやり取りに、アリスの肩から少しだけ力が抜けた。
やはり、ノアのそばにいると安心する。
そう思った直後、ノアがふと何かに気づいたように、アリスの顔を見つめた。
「……アリス」
「はい?」
「少し、顔を見せて」
「顔、ですか?」
ノアが一歩近づいてくる。
アリスは反射的に身を引きかけたが、すぐ後ろには机があった。逃げる理由などないはずなのに、身体はその場に縫い留められたように動かなくなる。
ノアは少し腰をかがめ、アリスの顔を覗き込んだ。
さらりと落ちた白銀の髪が、頬に触れそうなほど近い。
赤い瞳の中に、自分の姿が小さく映っていた。
近い。
あまりにも近くて、アリスの心臓が大きく跳ねた。
「ノ、ノア……?」
小さく名前を呼んでも、ノアはすぐには離れなかった。
アリスの頬から目元へ、それから淡い紅の乗った唇へと、その視線がゆっくりと移っていく。
「化粧してる?」
「えっ」
言われて初めて、アリスは頬を押さえた。
ドレスを着替えることに夢中で、化粧を落とし忘れていたのだ。
「少しだけ…」
「やっぱり。いつもと違うと思った」
ノアは確かめるように、もう一度アリスの顔を見つめた。
その視線がくすぐったくて、アリスの頬はますます熱くなっていく。
「変……ですか?」
「ううん」
ノアは静かに首を振った。
「綺麗だよ」
それは、いつものように小さな子どもを褒める明るい声ではなかった。
どこか甘さを含んだ、ひどくやわらかな声だった。
ノアの赤い瞳が、もう一度アリスの唇へ落ちる。
その視線に気づいたアリスは、息を止めたままノアを見つめ返した。
二人の視線が重なった瞬間、ノアはようやく我に返ったように目を見開いた。
そして、自分から逃げるように身体を起こし、二人の間へ少しだけ距離を戻した。
ーーー綺麗
たった一言だったのに、アリスの心臓はいつまでも落ち着かなかった。
「あの、ノア」
「うん?」
「このお化粧は……アザレア様にしていただいたんです」
「アザレア様に?」
ノアの表情に、わずかな警戒が浮かんだ。
「はい。それで今日、アザレア様に連れられて、お茶会へ行きました」
その瞬間、ノアの表情がぴたりと止まった。
つい先ほどまで二人の間にあった、やわらかな熱が静かに消えていく。
「お茶会?」
「はい」
「誰の?」
ノアの声は静かだった。
けれど、いつもの穏やかな静けさとは少し違う。底に冷たいものを隠しているようで、アリスは無意識に唇を湿らせた。
「ハートの女王陛下の…です…」
ノアは一瞬、言葉を失った。
甘い笑顔が消え、赤い瞳がわずかに見開かれる。
アリスは不安になり、慌てて言葉を続けた。
「でも、まだ正体を知られたわけではないと思います。私はルーシーとして紹介されました。アザレア様の友達だと……」
「そっか」
ノアはそれだけ答えると、ゆっくりと息を吐いた。
そのまま長い沈黙が落ちた。
危ないことをしたと叱られるかもしれない。
アリスはそう思い、知らず知らず身体を固くした。
けれど、ノアが最初に尋ねたのは、アリスが想像していたこととは違っていた。
「アリス、君は大丈夫だった?」
「え?」
「怖いことはされなかった? 何か変なものを飲まされたり、契約に触れたり、身体におかしなところが出たりしていない?」
心配そうに問いかけるノアを見て、アリスは目を瞬かせた。
「い、いえ。私は特に何もありませんでした」
「何かに名前を書いたり、約束をさせられたりは?」
「ありません」
ノアはようやく、心から安堵したように目を閉じた。
「それならよかった」
その声を聞くと、アリスの胸の中に、ほのかな温かさが広がった。
女王に会ったことを責めるよりも先に、ノアはアリスの無事を確かめてくれた。
大切にされている。
そのことは嬉しい。
それなのに、胸の奥では別の感情も小さく疼いていて、素直に喜ぶことができなかった。
「でも……これから、どうすればいいのでしょう」
アリスは不安を抑えきれずに尋ねた。
「女王陛下は、私を面白い娘だとおっしゃっていました。アザレア様も、またお茶会に呼ぶつもりのようで……」
ノアは片手を口元へ添え、しばらく考え込んだ。
「いつかは、女王陛下の目に入ると思っていたんだ。アザレア様が君に興味を持った時点で、避け続けるのは難しかったからね」
「では、やはり……」
「でも、君がまだルーシーとして扱われているなら、打つ手はある」
ノアは顔を上げると、アリスを安心させるように微笑んだ。
「いい案があるよ」
その言葉に、アリスは思わず身構えた。
ノアの言う「いい案」は、時々とんでもない方向へ転がっていく。
「いい案、ですか?」
「うん。君は、アザレア様に言われた通り、これからもお茶会へ行くんだ」
「行くんですか!?」
驚きのあまり、声が大きくなった。
ノアは落ち着いて頷く。
「女王陛下を避け続ける方が、かえって怪しまれる。アザレア様の友人として自然にお茶会へ出ていれば、君はルーシーのままでいられるからね」
「でも……」
「大丈夫。女王陛下から怪しまれない程度に、好意を向けられたルーシーとして振る舞えばいい」
それでも怖いことには変わりなかった。
アリスの不安に気づいたのか、ノアの声が少し低くなる。
「そのために、アリスには絶対に守ってほしいことがあるんだ」
「守ってほしいこと?」
「女王陛下の前で、ある言葉だけは絶対に口にしないでほしい」
ノアの真剣な表情に、アリスは息を呑んだ。
「ある言葉とは、何ですか?」
ノアは少し間を置いてから、静かに告げた。
「白が美しい、という言葉」
「白が、美しい……?」
「そう」
アリスは不思議に思いながら、首を傾げた。
白。
ノアの家にも、城の中庭にも、白いものはたくさんある。清らかで静かで、アリスにとっては心の落ち着く色だった。
「女王陛下は、白が嫌いなんだ」
「嫌い……」
そう聞いた瞬間、アリスは目の前のノアを見つめた。
白銀の髪に、長い白い兎耳。身につけている上着も白い。
白兎。
女王が嫌っている白には、ノア自身も含まれているのだろうか。
胸の奥に浮かんだ疑問を、ノアはすぐに察したらしい。ほんの少しだけ、苦い笑みを浮かべた。
「それだけじゃない。女王陛下は、誰かの忠誠を試したい時に、こう尋ねることがあるんだ」
「何をですか?」
「赤い薔薇と白い薔薇、どちらが美しいと思うか」
ノアの声が、わずかに低くなった。
「もし尋ねられたら、迷わず答えて。必ず、こう言うんだ」
アリスは背筋を伸ばし、次の言葉を待った。
「白い薔薇は好きではありません。私は赤い薔薇だけが好きです」
アリスは思わず息を止めた。
ただの花の好みを告げる言葉のはずなのに、ひどく冷たく聞こえた。
「いい?」
「……はい」
「女王陛下の前で、白を褒めてはいけない。白い薔薇を美しいと言うのも駄目だよ」
「分かりました」
「それから、答える時に『誓います』や『永遠に』とは、絶対につけないで」
「どうしてですか?」
アリスが尋ねると、ノアは少しだけ表情を曇らせた。
「ここでは、強すぎる言葉が契約になることがあるから。女王陛下の前では、特にね」
ノアは言い聞かせるように、ゆっくりと続ける。
「ただ答えるだけでいい。約束も、誓いもしてはいけないよ」
「……はい」
アリスは頷いたものの、胸は少し重くなっていた。
― ―白い薔薇は好きではありません。
― ―私は赤い薔薇だけが好きです。
それはまるで、目の前にいる白兎を否定する言葉のようだった。
口に出してもいないのに、胸が痛む。
けれど、言わなければならないのだろう。
自分の正体が暴かれないために。そして、ノアの首の錠が、再び彼を苦しめないように。
「アリス」
静かに名前を呼ばれ、アリスは顔を上げた。
「これは、僕を嫌うための言葉じゃないよ」
ノアは少し困ったように微笑んでいた。
アリスの頬が、また少し熱くなる。
ノアは、そんなアリスを安心させるように、やわらかな声で続けた。
「女王陛下の前では、言葉は武器にも盾にもなる。君が赤い薔薇だけを好きだと言うなら、それは君を守るための盾になるんだ」
「盾……」
「本心でなくてもいい。必要な時は、言葉を盾にして自分を守って」
アリスは胸元のペンダントへ触れた。
元の世界では、言葉は気持ちを伝えたり、礼儀を示したりするものだった。
けれどワンダラーでは、言葉はもっと危うい。
契約にも、鍵にも、時には命をつなぐ綱にもなる。
「分かりました」
今度は、しっかりと頷いた。
「白い薔薇は好きではありません。私は赤い薔薇だけが好きです」
教えられた通りに口にしてみる。
やはり、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど言える。
それがノアと自分を守るために必要なのなら。
ノアはほっとしたように目元をやわらげた。
「上手」
その言い方は、とても優しかった。
けれどアリスには、また小さな子どもを褒める声のように聞こえてしまった。
アリスは何も言わず、そっと視線を伏せた。
ノアもすぐに、その小さな変化へ気づいたらしい。
「あ……いや」
何かを言いかけたものの、続く言葉は出てこなかった。
白い兎耳が、困ったようにわずかに揺れる。
アリスも顔を上げられないまま、胸元のペンダントを握っていた。
二人の間へ、言葉にできない沈黙がそっと降り積もっていく。
ほんの少し前までは、触れられそうなほど近くにいたはずなのに。
今はまた、目に見えない細い線が、二人の間に引かれてしまったようだった。
図書室の窓の外には、いつの間にか夜が近づいていた。
ハートの城の黒い石壁が、夕暮れの光を受け、深い赤へと染まっている。空に浮かぶ白い雲さえも、少しずつ薔薇色へ塗り替えられていくようだった。