第三十五話 僕の許可なく…
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第三十五話 僕の許可なく…
その時、図書室の扉が開いた。
古い蝶番が、きい、と小さく鳴る。
夕暮れの光が差し込む入り口に、ガルが立っていた。黒茶色の髪は少し乱れ、普段よりも呼吸が浅い。鋭い青い瞳は、図書室へ入るなり、まっすぐアリスの姿を探していた。
アリスには、すぐに分かった。
心配して来てくれたのだ。
アザレアに連れられたあと、自分がどこへ行き、何をされたのか。女王の赤薔薇の庭園から、無事に戻ることができたのか。
それを確かめるため、急いで様子を見に来てくれたのだろう。
けれど、ガルはアリスのそばに立つノアを見つけた瞬間、表情を変えた。
瞳に浮かんでいた焦りが、すっと消える。
狼の耳がわずかに動き、顔から温度が抜け落ちた。瞬く間に、いつもの硬く隙のない側近の顔へ戻ってしまう。
「どうしたの、ガル。そんなに慌てて」
ノアは何食わぬ顔で尋ねた。
声は、いつもと同じように柔らかい。
それなのに、アリスには、その奥に薄い氷のような冷たさが潜んでいるのが分かった。
ガルは小さく咳払いをした。
「……忘れ物をしたので、取りに来ました」
「君が忘れ物? 珍しいね」
「ええ。ですが、ここにはなかったようです。失礼します」
ガルはそれだけ言うと、すぐに図書室を出ていこうとした。
しかし、ノアが静かに呼び止める。
「ちょっと待って」
ガルの足が止まった。
アリスの胸も、同時にきゅっと縮む。
ノアはにこりと笑った。
「そういえば、君たちはまだ、きちんと顔を合わせていなかったね」
その言葉に、アリスはぎくりとした。
本当は、もう会っている。
鍵をかけられた執務室で。
ガルはノアを疑いながらも、アリスに忠告をしてくれた。そして、何かあった時のために銀色の狼の鈴まで渡してくれた。
けれど、今ここでそのことを話すわけにはいかなかった。
ノアに黙っていた理由を、うまく説明できる自信がない。
アリスが唇を結んでいると、ノアは穏やかな口調のまま続けた。
「この子はルーシー。僕の家で家事を手伝ってもらっているんだ。最近は、城の仕事も少し任せている」
アリスはぎこちなく礼をした。
「……初めまして。ルーシーと申します」
ガルも、ほんの一瞬だけ迷ったあと、深く礼を返した。
「初めまして。ガルです」
二人は、初めて会ったふりをした。
自分たちでも分かるほど、下手な芝居だった。
図書室に、妙な沈黙が落ちる。
高い本棚の間では、古書たちがひそひそと囁いている。窓の向こうでは、夕暮れがハートの城の黒い石壁を深い赤へと染めていた。
ノアはゆっくりと机へ目を向けた。
「君の忘れ物って、もしかしてこれ?」
白い指が、机の端に残されていた二つの小さな包みを摘み上げる。
ポップンキャンディの空袋だった。
アリスの心臓が跳ねた。
ガルと一緒に食べた時、そのまま置き忘れてしまったのだ。
ガルの表情も、かすかに強張る。
ノアは二つの包みを指先で揺らし、甘く笑った。
「二人とも、僕に隠し事?」
声は優しい。
けれど、赤い瞳は少しも笑っていなかった。
「ずいぶん仲良くなったみたいだけど」
「それは……」
アリスは言葉に詰まった。
ガルと話したこと。
ノアを心配していると聞いたこと。
ポップンキャンディを分けて、一緒に笑ったこと。
何ひとつ悪いことではないはずなのに、ノアの前では、重大な秘密を隠していたような気持ちになってしまう。
アリスが言葉を探していると、ガルが一歩前へ出た。
「申し訳ありません、ノアさん」
低く、落ち着いた声だった。
「ルーシーさんに声をかけたのは、私の判断です」
ノアの視線が、ガルへ移る。
ガルはまっすぐに、その赤い瞳を受け止めた。
「あなたが何かを隠していることは分かっていました。それを確かめるため、私が独断でルーシーさんに話を聞きました。彼女に責任はありません」
アリスは驚いてガルを見た。
庇ってくれている。
自分ひとりに責任を負わせないように。
ガルは、踏み越えてはならない線を守りながら、すべてを自分の責任にしようとしていた。
ノアは小さく首を傾げる。
「そう。でも、二人で飴を分け合うくらいには、親しくなったんだね」
「違います」
ガルの声が、少しだけ強くなった。
「私は、ただあなたが心配だったのです」
図書室の空気が変わった。
アリスは思わずガルを見つめる。
ガルはノアだけを見ていた。
青い瞳は硬く張りつめていたが、その奥には確かな熱が宿っている。
「あなたがハートの女王陛下に目をつけられ、また何か危険なことをしようとしているのではないかと、気が気ではありませんでした」
ノアの顔から、わずかに笑みが薄れた。
それでも、ガルは続ける。
「私は幼い頃、あなたに命を助けてもらいました」
その言葉に、アリスの胸が震えた。
白い霧の中で見た記憶。
泥だらけの幼いガルの手を引き、城へ連れてきたノア。女王に責められても、その手を離そうとしなかった白兎。
あれは確かに、ノアの記憶だったのだ。
「その恩を、一生忘れることはありません」
ガルの声は静かだった。
けれど、その一言には、長い年月が込められていた。
「ですから、あなたが危険な道へ進もうとしているのを、黙って見過ごすことはできません。ルーシーさんへ話しかけたのは、すべて私の判断です。どうか、私が勝手にしたこととしてお受け取りください」
そう言って、ガルは深く頭を下げた。
図書室が静まり返る。
古書たちの囁きすら、止まったように感じられた。
ノアはしばらく何も言わず、ガルを見つめていた。
甘い笑顔は、かすかに残っている。
けれど、その赤い瞳からは、すべての温度が消えていた。
「ガル」
やがて、ノアが口を開く。
「今、何歳になった?」
唐突な問いだった。
ガルはわずかに眉を動かしたが、すぐに答えた。
「二十になりました」
「そっか」
ノアは小さく息を吐く。
「もう立派な大人だね」
その声は、ほんの一瞬だけ柔らかかった。
泥だらけで怯えていた、小さな狼の子を今も覚えている人の声だった。
しかし、次の瞬間には、その温度は跡形もなく消えていた。
「なら、分別くらいつくよね」
ガルの表情がわずかに強張る。
ノアは微笑んでいた。
砂糖菓子のような、いつもの笑顔。
それなのに、図書室の空気が冷えていく。
「僕に黙って、僕の家にいる子へ近づいた」
アリスの胸が、どくんと鳴った。
僕の家にいる子。
それは守る者を示す言葉のようでいて、どこか所有物を指す響きを含んでいた。
「それを心配という言葉で包めば、許されると思った?」
「……そのようなつもりはありません」
「そう」
ノアは軽く首を傾げた。
「なら、どういうつもりだったのかな」
声は柔らかい。
けれど、その柔らかさが怖かった。
ガルは唇を引き結ぶ。
「あなたを危険から遠ざけたかっただけです」
「うん。そういうところは、昔から変わらないね」
ノアは少しだけ懐かしそうに言った。
けれど、目は冷たいままだった。
「でも、迷惑だよ」
ガルの青い瞳が揺れた。
アリスも息を呑む。
「ノア……」
呼びかけても、ノアはアリスを見なかった。
ただ、ガルだけを見ている。
「君の忠誠も、心配も、恩返しも、今はいらない」
あまりにも冷たい言葉だった。
「僕が欲しいのは、余計なことをせず、命令に従う部下だ」
ガルの狼の耳が、わずかに伏せる。
その姿を見ても、ノアは表情を変えなかった。
「ルーシーには近づかないで」
静かな声だった。
「必要のない話をしないで。二人きりにならないで。彼女のことで、僕に黙って動くことも許さない」
「……彼女は、あなたの物ではありません」
ガルの声に、かすかな怒りが滲んだ。
ノアは笑った。
「知っているよ」
甘い声だった。
「でも今は、僕が預かっている」
アリスの指先が、冷たくなる。
横目でノアを見る。
けれど、その綺麗な横顔は少しも崩れなかった。
「僕の許可なく、彼女へ近づかないで」
凍るような声だった。
ガルの目が見開かれる。
アリスの背筋にも、冷たいものが走った。
ノアは微笑んだまま、さらに続ける。
「君が悪い子じゃないことは知っている。だから、今のうちに言っているんだよ」
その言葉だけを聞けば、優しさにも思える。
けれど、その声音は刃物のようだった。
「次は、こんなに穏やかには言わない」
ガルはしばらく黙っていた。
悔しさ。
傷ついた痛み。
それでも、命を救ってくれたノアに強く逆らうことのできない自分への苛立ち。
そのすべてを飲み込むように、深く頭を下げる。
「……承知しました」
「いい子だね」
ノアは優しく言った。
昔の小さなガルへ向けるような言葉。
けれど今は、目に見えない首輪を締める言葉のように聞こえた。
ガルはもう一度だけ礼をした。
「失礼いたします」
そして、アリスを見ることなく図書室を出ていった。
扉が閉じる。
あとに残ったのは、重い沈黙だけだった。