第三十七話 白薔薇のクッキーと小さなアリス
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
〜不思議の国のアリスをモチーフにした作品です〜 白兎に導かれて“不思議の国”へ迷い込む、十四歳の少女アリス。 そこにいたのは、甘く優しい白兎の美青年ノア。 アリスを守る彼は、この国に隠された秘密を知っていた。失われた記憶を巡り物語が再び動き出す。 可憐で不穏な、童話ファンタジー。 白兎は、私を救いに来たの? それとも、もう二度と帰さないために迎えに来たの?
本文
第三十七話 白薔薇のクッキーと小さなアリス
あの日から、数日が過ぎていた。
ノアとアリスは、図書室での出来事には触れないまま、少しぎこちない日々を過ごしていた。朝になれば同じ食卓を囲み、並んでハートの城へ向かう。
けれどあれ以来、ノアはアリスの髪を撫でることも、頬に触れることもなくなった。アリスも、首の錠がまた閉まるかもしれないと思うと、あの抱擁の意味を尋ねられずにいた。
ガルとも、あの日から一度も顔を合わせていない。
そうしてお互いの間に見えない距離を残したまま、時間だけが静かに過ぎていた。
*
その日、ハートの城の執務室に、小さなピンク色の箱が届いた。
ノアは女王に呼ばれ、席を外している。執務室にはアリスひとりだったため、城の使いから代わりに箱を受け取った。
「アザレア様からです」
使いはそれだけ告げると、すぐに去っていった。
箱には赤いリボンがかけられ、結び目には小さな薔薇の飾りがついている。可愛らしいけれど、どこか意味ありげな贈り物だった。
その上には、一枚のカードが添えられていた。
『早く食べて』
「……早く?」
首を傾げながら箱を開けると、中にはハート型のクッキーが並んでいた。
薄いピンク色のもの。赤い砂糖をまぶしたもの。白いアイシングで、小さな薔薇が描かれたもの。
よく見ると、一枚一枚に小さな文字が書かれている。
『いいから』
『食べて』
『すぐに』
アザレアは気まぐれに見えて、意味のないことはしない。
女王のお茶会へ連れていき、ルーシーを友達として紹介したことにも、きっと意図があった。
これだけ何度も「早く食べて」と書かれているのなら、何か急ぐ理由があるのだろう。
「……きっと、何か意味があるのよね」
アリスは少し迷ったあと、白い薔薇の描かれたクッキーを口へ入れた。
さくり、と軽い音がする。
バターと砂糖の甘さに、ほのかな薔薇の香りが混じった。
「おいしい……」
そう呟いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
「えっ……?」
机が急に高くなる。
椅子の背もたれが遠ざかり、床が近づいてくる。
違う。
机や椅子が大きくなったのではない。
自分の身体が、小さくなっているのだ。
アリスは机の端へ手を伸ばそうとしたが、身体はみるみる縮み、着ていた服だけが元の大きさのまま、巨大な布のように覆いかぶさってきた。
「きゃっ……!」
服の中へ埋もれるようにして、床へ落ちる。
両手で布を押しのけ、ようやく顔を出すと、執務室は見たこともないほど巨大になっていた。
ノアの机は塔のように高く、本棚は崖のようにそびえている。
今のアリスは、小指ほどの大きさしかなかった。
「どうしよう……」
声まで、鈴の音のように小さくなっている。
ノアを呼ぼうか。
そう考えた瞬間、あの日の言葉が蘇った。
『最初のように執務室へ鍵をかけて、家からも出さないで。僕の目の届くところにだけ置いておけば、君は危ない目に遭わずに済む』
ノアなら、きっと助けてくれる。
けれど、また何もかもを彼ひとりで決められてしまうような気がした。
「……今は、ノアには頼りたくない」
その時、広がった服の向こうで、何かが淡く光った。
スカートのポケットから、細い銀色の鎖が覗いている。
ガルから渡された、銀色の狼の鈴だった。
アリスは布の山をかき分け、皺に足を取られながら、何とかポケットの縁までよじ登った。
暗い奥にある鈴の鎖へ両手でしがみつき、身体全体を使って引っ張る。
「重い……」
ちり……ん。
かすかな音が鳴った。
「ガルさん……」
アリスはもう一度、力いっぱい鎖を引いた。
ちりん。
*
しばらくして、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
人目を引かないよう抑えながらも、急いでいる足音だった。
執務室の扉が開く。
「ルーシーさん?」
「ガルさん!」
ガルは床へ散らばった服を見つけると、表情を険しくした。
「ここです!」
アリスがもう一度鈴を鳴らすと、ガルは音のした服の前へ膝をついた。
「中にいるのですか?」
「はい。ポケットの中です」
「怪我は?」
「ありません。でも、身体が小さくなってしまって……」
ガルは服へ手を伸ばしかけ、その指を途中で止めた。
「ノアさんを呼びます」
静かに告げられ、アリスは慌ててポケットから顔を出した。
「待ってください」
ガルの青い瞳が大きく見開かれる。
視線が合った瞬間、アリスは自分が服を着ていないことを思い出し、慌てて布の中へ身体を隠した。
「み、見ないでください!」
ガルは即座に顔を逸らした。
「失礼しました!」
狼の耳の内側が、わずかに赤くなっている。
「ノアを呼ばないでください」
「ですが、このままにはできません」
「だから、ガルさんに助けてほしいんです」
「私に?」
自分を助ければ、ガルへまた迷惑がかかるかもしれない。
けれど、ここでガルを遠ざければ、あの日ノアが口にした言葉を、本当の命令として残すことになる。
ガルはノアを大切に思っている。
ノアも、本当はガルを大切にしているはずだ。
それなのに、このまますれ違い離れてしまうことは、アリスにとっても、きっとガルにとっても望んだことではない。
「ガルさん」
アリスは布の陰から、小さな顔を上げた。
「ノアは、ガルさんを本当に遠ざけたいわけではないと思います」
ガルの青い瞳が揺れた。
「だからこそ、あの言葉に私たちが従ってしまうのは違うと思います」
「ですが……」
「私は、自分でガルさんに助けてほしいと思って、鈴を鳴らしました」
アリスは銀色の鎖を握りしめた。
「今は、ノアではなく、ガルさんに助けてほしいんです」
ガルはしばらく黙っていた。
やがて静かに息を吐き、もう一度アリスへ手を差し伸べる。
「……緊急事態です」
「はい」
「それなら、見過ごすことはできません」
大きな掌が、アリスの前へ差し出された。
「手を貸します」
「ありがとうございます」
アリスは自分の意志で、その手へ一歩踏み出した。
その時だった。
廊下の向こうから、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。
この足音は、ノアではない。
重く、美しく、誰もが道を譲ることを当然としている足音。
ガルの表情が一変した。
「……まずい」
床へ広がった服を素早く持ち上げ、その布ごと小さなアリスを腕の陰へ隠す。
「動かないでください」
直後、扉が開いた。
入ってきたのは、ハートの女王だった。
豊かな赤い髪に、妖艶な紅い唇。深紅のドレス。
女王がそこに立つだけで、執務室の空気が変わった。
「何をしておる、ガル」
扇子の先が、ガルへ向けられる。
「ノアさんに確認したいことがあり、参りました。ですが、今は席を外しているようです」
「それは知っておる」
アリスの心臓が跳ねた。
「わらわが会いに来たのは、ここにいるルーシーという娘じゃ」
やはり、女王は自分を怪しんでいる。
ノアがいない時間を狙って、探りに来たのだ。
ガルは一瞬も間を空けずに答えた。
「ルーシーさんも、ただいま席を外しております」
女王の眉が、不満そうにわずかに動いた。
「……おらぬのか」
「今日は別の場所で、仕事を頼まれていると聞いております」
女王の赤い瞳が、すっと細くなる。
アリスは布の中から、ガルの上着を小さな手で掴んだ。
女王はしばらくガルを見つめ、やがて扇子を鋭く閉じた。
「まあよい。薔薇は、咲けばいずれ目につく。あとは、摘み取る時を待てばよい」
低く甘い声に、アリスの背筋が冷えた。
女王はそれ以上何も言わず、深紅の裾を揺らして去っていった。
足音が完全に遠ざかってから、ガルはようやく息を吐いた。
「……大丈夫ですか」
「はい……たぶん」
そしてアリスは、ようやく気づいた。
アザレアは、女王がここへ来ることを知っていたのだ。
だからクッキーを送った。
ルーシーの姿を消し、執務室にいないように見せるために。
方法は無茶苦茶だったが、助かった。
「ここにいると、女王陛下が戻ってくるかもしれません。私の執務室へ移動しましょう」
アリスは頷いた。
「お願いします」
*
ガルの執務室は、ノアの部屋よりも簡素だった。
大きな机と棚。整然と並ぶ書類。壁には剣と、城の巡回図が掛けられている。
ガルはアリスを机の上へ置くと、棚から薄い布を取り出し、小さなハサミで切った。
「今のあなたが着られるものを作ります」
切った布を机へ置き、すぐに後ろを向く。
「簡単なものですが、服の代わりにしてください」
「ありがとうございます」
アリスは布を身体へ巻き、肩と腰で結んだ。
「……もう大丈夫です」
振り返ったガルは、アリスの顔より少し上を見ている。
真面目すぎて、かえって気まずい。
「それで、どうして小さくなったのですか?」
「アザレア様から届いたクッキーを食べたら、突然……」
「小さくなるクッキーですね。普通は、大きくなるものと対になっています」
「では、それを食べれば元に戻れるんですね?」
「おそらく。ただし、大きくなるクッキーは、アザレア様が持っているはずです」
アリスは固まった。
「……どうして、普通に説明してくださらないのでしょう」
「アザレア様ですから」
短い答えだけで、納得できてしまうのが怖い。
「アザレア様を探しましょう」
ガルは机の上へハンカチを広げた。
「外から姿を隠します。中へ入ってください。私が運びます」
「……また包まれるんですね」
「申し訳ありません」
「いえ。もう、この際ぜいたくは言いません」
アリスは小さく息を吸った。
女王からは逃れられた。
ノアはまだ、何も知らない。
そしてアリスは、自分の意志でガルへ助けを求めた。
小指ほどの大きさになって、二人でアザレアを探しに行くことになった。
不思議の国では、普通の日なんて一日もない。
アリスは心の中でそう呟きながら、ハンカチの中へそっと身を隠した。