第58話 4月20日の犬
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1941年4月20日は、日曜日だった。
ミュンヘンの朝は静かで、通りを走る自動車の数も少なかった。石畳には春の光が当たっていたが、風はまだ冷たかった。外套を脱ぐには早く、帽子を深くかぶるには少し遅い。そんな中途半端な天気だった。
事務所の曇りガラスの扉には、1年前と同じ文字があった。
Adolf Hitler Entwurfsbüro(アドルフ・ヒトラー意匠事務所)。
その文字は、もう新しすぎる顔をしていなかった。貼られたばかりの頃のように、扉の上で浮いて見えることもない。通りの一部として、ようやく落ち着き始めていた。
ユンゲは鍵を開け、事務所へ入った。
日曜日なので、通常の業務日ではない。だが、前週から続くドナウ安全保障展の資料が机に残っており、月曜の朝に慌てないため、彼女は少しだけ整理に来ていた。外套を脱ぎ、受付机の上を整え、記録帳を開く。
製図机の上には、まだ地図があった。
ドナウ川。ルーマニア。ハンガリー。ブルガリア。ユーゴスラビア。黒海。カルパチア山脈。プルート川。淡い青、土色、冷たい灰色。赤はなかった。
ユンゲは地図の端を押さえ、丸まろうとする紙をそっと伸ばした。
その時、奥の所長室の扉が開いた。
「ユンゲ君」
ヒトラーが立っていた。
彼は休日の朝にしては、いつも通りの暗色の背広を着ていた。少しだけ襟元が緩い程度で、仕事場に出る時の姿とほとんど変わらない。
「おはようございます、所長」
「今日は業務日ではない」
「はい。資料の整理だけです」
「整理だけと言う者は、たいてい余計な紙を動かす」
「動かす前に確認いたします」
ヒトラーは製図机の方を見た。
「地図には触るな。昨日の線がまだ乾いていない」
「鉛筆ですので、乾くものではございません」
「比喩だ」
「承知しました」
彼は不満そうに鼻を鳴らし、机の上の地図を見た。しばらく眺め、それから壁の方へ目をやった。
そこには、1枚の写真が飾られていた。
1940年4月9日、新事務所の正式開業日に、エヴァ・ブラウンが撮った集合写真だった。通りに面しAdolf Hitler Entwurfsbüroと掲げられた事務所の正面。その前に並ぶ所員たち。ヒトラーは中央にいたが、いかにも中央に立つのが当然という顔ではなく、中央の幅がまだ気に入らないという顔をしていた。
ユンゲはその写真を見るたびに、1年前の朝を思い出した。
扉の文字がまだ落ち着かず、机の位置も少し硬く、応接の椅子も新しい場所に慣れていなかった日。ヒトラーが、写真を撮る直前まで椅子の角度に文句を言っていた日。
「もう1年ですね」
ユンゲが言った。
「正式開業からは11日過ぎている」
「はい。4月9日でした」
「ならば今日を一周年と言うのは、日付の堕落だ」
「本日は別の日付でもあります」
ヒトラーは彼女を見た。
ユンゲは淡々と言った。
「お誕生日、おめでとうございます」
ヒトラーはすぐに顔をしかめた。
「仕事場に誕生日を持ち込むな」
「本日は仕事場にいらっしゃるので」
「私が来たのは地図のためだ。誕生日のためではない」
「承知しております」
「承知しているなら祝うな」
「記録上、申し上げただけです」
「誕生日を記録するな」
ユンゲは記録帳を閉じた。
「では、記録には残しません」
ヒトラーはそれでも不満そうだった。
しばらくして、エルゼが来た。
彼女は小さな箱を持っていた。中には菓子が入っていたが、リボンも派手な包装もない。実用的で、甘すぎず、人数に対して少し足りないくらいの量だった。
「おはようございます」
「今日は業務日ではない」
ヒトラーは同じことを言った。
エルゼは平然と答えた。
「はい。契約控えを取りに来ました。それと、これは菓子です」
「なぜ菓子が契約控えと一緒に来る」
「同じ鞄に入ったからです」
「鞄の中で日付を混ぜるな」
エルゼは箱を応接机に置いた。
「お誕生日おめでとうございます、所長」
「君まで言うのか」
「言うだけなら無料です」
「無料のものほど後で高くつく」
「では、菓子代は私費です。経費には入れません」
ヒトラーは一瞬言い返そうとしたが、言葉を失った。
やがてフランツとクレープスも顔を出した。ヨードルは資料を返しに来たと言い、カイテルは「近くまで来たので」と言った。ブルクドルフは暖房の配管具合を見に来たと主張したが、4月の昼前にそれを信じる者はいなかった。
事務所は、休日にしては人が増えていた。
誰も大げさな祝いはしなかった。机に花束はなく、歌もなかった。ユンゲは新しい記録用紙の束を、エルゼは菓子を、フランツたちは小さなカードを持ってきただけだった。
ヒトラーはカードを見て、まず紙質を確認した。
「悪くない」
フランツが少し笑った。
「文面ではなく紙ですか」
「文面は後で読む。紙は今分かる」
「それもありがとうございますと受け取ってよろしいですか」
「よくない」
そう言いながら、彼はカードを捨てなかった。
昼前、扉の外で足音がした。
重い足音だった。だが、その足音とは別に、もっと軽い、落ち着きのない音があった。爪が石畳を小さく叩くような音。
ユンゲが扉を開けると、そこにボルマンが立っていた。
いつも通り、少し大きすぎる自信を着込んだような顔をしていた。手には革の引き紐を持っている。その先に、小さな黒っぽい犬がいた。
まだ子犬だった。
耳は少し大きく、足元は頼りない。だが、目だけは妙にまっすぐで、扉の中を見て、鼻を動かしていた。
ボルマンは帽子を脱ぎ、にこやかに言った。
「所長のお誕生日と、新事務所正式開業一周年を兼ねまして」
ヒトラーは一歩も動かずに言った。
「正式開業は4月9日だ。今日は4月20日だ。祝い事まで間取りの悪い部屋に押し込むな」
ボルマンは少しも怯まなかった。
「祝い事はまとめた方が、贈る側にも受け取る側にも印象に残ります」
「君は人の誕生日まで不動産条件で測るのか」
「贈り物にも立地はございます」
エルゼが小さくため息をついた。
「ボルマンさん、まさか、その犬を」
「はい」
ボルマンは誇らしげに引き紐を少し持ち上げた。
「ブロンディと申します。まだ子犬ですが、賢い犬です。所長のご自宅も、犬を飼うには差し支えない環境ですし、こちらの事務所も1階で出入りがよい。階段で犬が困ることもありません」
ヒトラーの目が細くなった。
「なぜ私の自宅の環境を君が判断する」
「私がご紹介した物件ですので」
「それを誇るな」
「庭ではありませんが、近くに歩かせられる道もございます。建物の管理も悪くありません。所長が犬を飼われても、問題は少ないかと」
「勝手に問題を少なくするな」
子犬はその間にも、扉の前で鼻を動かし続けていた。
ヒトラーは犬を見た。
犬も彼を見た。
しばらく、どちらも動かなかった。
フランツが小声で言った。
「かわいいですね」
ヒトラーはすぐに振り向いた。
「仕事場でかわいいという言葉を使うな」
「では、よくできた犬です」
「家具のように言うな」
ボルマンがすぐに口を挟んだ。
「忠実な番犬としても」
「番犬とも言うな。まだ子犬だ」
「もちろん、将来的に」
「犬に将来計画を押しつけるな」
エルゼが乾いた声で言った。
「では、まず水を出しましょう。将来計画より先です」
ユンゲはすぐに奥へ向かった。小さな鉢を洗い、水を入れて戻ってくる。子犬はそれを見ると、ボルマンの足元から離れ、まっすぐ水の方へ歩いた。
引き紐が伸びた。
ボルマンが慌てて手を緩める。
ブロンディは水を飲んだ。まだ子犬らしく、少しこぼしながら飲んだ。床に小さな水滴が落ちる。
ヒトラーはそれを見た。
「床に布を敷け」
ユンゲがうなずいた。
「はい」
「入口ではない。ここだ。水を飲む場所を入口に近づけるな。来客の靴と混ざる」
ボルマンが笑顔で言った。
「さすが所長、犬の導線も」
「黙れ」
それでも、ヒトラーは犬を追い出せとは言わなかった。
ブロンディは水を飲み終えると、事務所の中を歩き始めた。
まず受付机の下を嗅いだ。ユンゲの鞄の近くで一度止まり、記録帳の端へ鼻を寄せようとした。ユンゲがそっと帳面を上げる。
「これは食べ物ではありません」
ブロンディは理解したのかどうか分からない顔で、次に応接椅子の方へ向かった。椅子の脚を嗅ぎ、エルゼの靴の近くで止まった。
エルゼは腕を組んで見下ろした。
「餌代は経費に入れませんよ」
ボルマンがすぐに言った。
「宣伝効果としては」
「入れません」
「所長室の印象が柔らかく」
「入れません」
「来客の緊張を」
「入れません」
ボルマンは黙った。
ヒトラーは少し満足そうだった。
ブロンディは次に製図机の下へ入りかけた。フランツが慌てて図面を持ち上げる。
「そこは駄目だ。紙があるからね」
ヒトラーが言った。
「紙が床に近すぎるからだ」
「犬ではなく、私が悪いのですか」
「犬は図面を読まん。だが、隙間風と紙の匂いは読む」
クレープスが子犬の動きを見ながら言った。
「迷いませんね」
「この事務所には階段がない」
ヒトラーは言った。
「犬でも分かる。人間より賢い場合もある」
「旧事務所なら」
ユンゲが言いかけて、やめた。
ヒトラーは続きを引き取った。
「旧事務所なら、踊り場で止まる。上か下かで迷う。引き紐が絡む。水を持って上がる者がこぼす。犬にまで縦の敗北を味わわせるところだった」
ボルマンはすかさず言った。
「ですから、こちらの物件は」
「君が言うと腹が立つ」
「しかし、お役に立っております」
「さらに腹が立つ」
ボルマンはそれを褒め言葉のように受け取った。
ブロンディは製図机を離れ、所長室の扉の前へ行った。
扉は半分開いていた。中には、机、椅子、棚、書類、窓際の小さな空き場所があった。暖房の熱がわずかに残り、床はほかの場所より少しだけ温かかった。
子犬は迷わず中へ入った。
ヒトラーは反射的に歩き出した。
「そこは」
だが、ブロンディは机の脇を通り、窓際の壁に近い場所で丸くなりかけた。
ヒトラーは立ち止まった。
その場所は、来客の導線を邪魔しない。椅子を引く時にも足に当たらない。窓からの冷気は少しあるが、壁際なので落ち着く。暖房の熱も届く。所長の机に近すぎず、遠すぎない。
子犬はあくびをした。
そして、そこで座った。
エルゼが小さく言った。
「自分で場所を決めましたね」
ヒトラーは黙っていた。
ボルマンが得意げに言った。
「なかなか目のある犬でございましょう」
「犬は目で場所を選ばん。鼻と足で選ぶ」
「では、鼻と足のよい犬です」
「君が言うと安くなる」
ブロンディはすでに眠そうだった。
ヒトラーは所長室へ入り、その場所を見下ろした。しばらく考え、机の横に置いてあった古い布を取った。以前、模型を包むのに使っていたものだった。
彼はそれを床に敷いた。
少し斜めになった。
すぐに直した。
もう一度直した。
さらに半歩ずらした。
フランツが入口から見ていた。
「犬の寝場所にも正面があるんですか」
「ある」
ヒトラーは即答した。
「寝る場所に正面がないと、起きた時に迷う」
エルゼが後ろで言った。
「犬は迷わないと思います」
「人間が迷う。犬の場所を見て、人間が迂回する。迂回するなら、最初から迂回しやすい角度に置け」
ユンゲは記録帳を開きかけたが、やめた。
これは業務記録ではない。
だが、やはり覚えておくことにした。
ブロンディは布の上に乗った。少し匂いを嗅ぎ、前足で押し、丸くなった。子犬らしく、まだ体の収まりが悪い。それでも、そこが自分の場所だと決めたようだった。
ヒトラーはその様子を見ていた。
「よろしい」
小さな声だった。
誰も聞き返さなかった。
昼過ぎ、応接机に菓子とパンが並べられた。
ヒトラーは最初、休日に人を集めるな、祝いを仕事場に持ち込むな、菓子は図面から離せ、皿の位置が悪い、と一通り文句を言った。だが、最後には椅子に座った。
エルゼが小さな菓子を切り分けた。
「52歳ですね」
ヒトラーは嫌そうに言った。
「年齢を切り分けるな」
「菓子です」
「菓子でもだ」
フランツがカードを差し出した。
「所員一同からです」
ヒトラーは受け取り、今度は紙ではなく文面を読んだ。
短い祝いの言葉だった。余計な賛辞はない。事務所の1年、正式開業からの案件、今後の仕事について簡潔に書かれていた。ユンゲの文字で清書されている。
ヒトラーはしばらく読んでから、机の端に置いた。
「悪くない」
フランツが言った。
「文面ですか」
「字間だ」
ユンゲが少しだけ目を伏せた。
エルゼは菓子を皿に乗せた。
「それは、褒め言葉として受け取っておきましょう」
ボルマンも皿を受け取ったが、エルゼに見られて姿勢を正した。
「このたびは、所長にも事務所にもふさわしい贈り物を」
「ふさわしいかは、犬が決める」
ヒトラーは言った。
「人間が決めるな」
ボルマンは少し笑った。
「では、ブロンディがこちらを気に入れば」
「その時は、犬が許可したことになる」
「所長が許可したことには」
「まだならん」
その時、所長室の方から小さな音がした。
ブロンディが起き出し、布の上で前足を伸ばしていた。眠っていた時間は短かったが、場所に慣れたらしい。扉のところまで歩いてきて、応接机の方を見た。
フランツが菓子を少し持ち上げた。
「これは駄目ですよね」
ヒトラーが即座に言った。
「当たり前だ」
「では、犬用のものを」
「勝手に与えるな。犬の食事まで会議にするつもりか」
エルゼが冷静に言った。
「必要なら、餌の手配先を決めましょう。繰り返しますが、経費には入れません」
「分かっている」
ヒトラーは不機嫌そうに答えた。
「自宅で飼う」
ボルマンの顔が明るくなった。
「では、お受け取りに」
「君の勝利のように言うな」
「失礼しました」
「ただし、日中は事務所にいることもある」
「もちろんです。こちらは1階ですし、出入りも」
「説明するな。知っている」
ボルマンは黙ったが、満足そうだった。
ヒトラーはブロンディを見た。
「子犬のうちは、場所を覚えさせる。水は受付近くには置かない。紙の下にも入れるな。所長室の布は、もう少し厚いものにする。窓際の冷気は、午後に確認する」
エルゼが言った。
「完全に受け入れておられますね」
「環境を確認しているだけだ」
「犬の環境を」
「犬も環境の中で暮らす」
ユンゲはその言葉だけ、心の中で記録した。
午後になると、所員たちは少しずつ帰っていった。
フランツはカードを置いて帰り、クレープスはブロンディに手を振った。ブルクドルフは「番犬にはまだ小さいな」と言い、ヒトラーに「番犬と言うな」と怒られた。ヨードルとカイテルはドナウ安全保障展の資料を確認してから帰った。
エルゼは最後まで残り、菓子の皿と包み紙を片づけた。
「餌代、布代、首輪、登録関係。私費ですね」
「分かっていると言った」
「念のためです」
「君は念のためで人を刺す」
「経理ですので」
ボルマンも帰る支度を始めた。
「所長、ではブロンディをよろしくお願いいたします」
「犬を置いて帰る者が、よろしくと言うな」
「贈り物ですので」
「贈り物は歩いてこちらへ来た。君はただ紐を持っていただけだ」
ボルマンは一礼した。
「それでも、よい日になったかと」
ヒトラーは答えなかった。
ボルマンはそれを否定と受け取らず、満足した顔で出ていった。
夕方、事務所にはヒトラーとユンゲだけが残った。
ブロンディは所長室の布の上で、また眠っていた。時々耳が動く。外を通る馬車の音、自動車の音、人の声に反応しているらしかった。
ユンゲは記録帳を開いた。
「本日の記録ですが」
「誕生日は書くな」
「正式開業一周年については」
「日付がずれている」
「では、事務所近況として」
ヒトラーは少し考えた。
「書くなら、犬の名前だけにしろ」
ユンゲはペンを取った。
1941年4月20日。
ボルマン氏来所。
ブロンディを受け入れ。
そこまで書いて、顔を上げた。
「受け入れ、でよろしいですか」
ヒトラーは所長室の方を見た。
「まだ試験配置だ」
「犬に試験配置ですか」
「人間の家具でも試験配置はする。犬ならなおさらだ」
「では、ブロンディ試験配置」
「妙な言葉にするな」
ユンゲは少しだけ口元を緩めた。
「では、ブロンディ、所長室に配置」
「犬を家具のように書くな」
「では、ブロンディ、所長室で休む」
ヒトラーは黙った。
しばらくして、短く言った。
「それでよい」
ユンゲは記録した。
ブロンディ、所長室で休む。
外の通りは夕方の色になっていた。
映画館へ向かう人影があり、パン屋の前で立ち止まる者があり、本屋の棚を覗く者があった。保険会社は休みで、扉は閉じていた。新聞にはまだ日ソ中立条約の余波と、ドナウ方面の協議が載っていた。世界は紙の上で、相変わらず線を引き直していた。
事務所の机にも、地図が残っていた。
色を塗れない地図。
川だけが流れる地図。
国境線を太くできない地図。
その横で、子犬が眠っていた。
ヒトラーは外套を着た。手袋を取り、帽子を持った。それから所長室に入り、ブロンディの引き紐を手に取った。
ブロンディは目を覚まし、彼を見上げた。
「帰るぞ」
子犬は意味を理解したのかどうか分からないまま、立ち上がった。まだ足元は少し頼りなかったが、扉の方へ歩き始めた。
ユンゲが明かりを落とした。
曇りガラスの扉の文字が、夕方の光に沈んでいく。
ヒトラーは外へ出る前に、一度だけ振り返った。受付、応接、製図机、棚、所長室。すべて同じ階にあった。1年前、正式開業の日に撮られた写真の中の事務所と、ほとんど同じだった。
ただ、ひとつ増えていた。
所長室の隅に、小さな布が敷かれていた。
1941年4月20日。
その日、事務所には大きな贈り物はなかった。
花も、演説も、派手な祝いもなかった。
ただ、黒い子犬が一匹、歩いて入ってきた。
そして、所長室の隅に、自分の場所を見つけた。