第59話 新聞の中の戦艦
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1941年5月の朝は、犬の鼻で始まるようになった。
ヒトラーはそれを認めていなかった。彼に言わせれば、朝は予定で始まるべきであり、靴紐、襟、新聞、鍵、道順、事務所の扉という順番で整えられるものだった。
だがブロンディは、その順番を理解しなかった。
黒茶のジャーマン・シェパードの子犬は、自宅の玄関を出るとまず敷石の匂いを嗅いだ。次に道端の草を嗅いだ。さらに昨夜そこを通ったらしい犬の痕跡を見つけ、ヒトラーの足を止めた。
「そこは今日の予定に入っていない」
ブロンディは聞かなかった。
「出勤とは目的地へ向かう行為だ。地面の検閲ではない」
ブロンディは鼻を動かした。
ヒトラーは引き紐を軽く引いたが、強くは引かなかった。強く引けば、今度は子犬が不満そうに足を踏ん張る。それは余計に時間を食う。彼は数日で、その程度のことは学んでいた。
「犬の散歩は導線ではない。交渉だ」
誰に聞かせるでもなく、彼はそう言った。
ミュンヘンの通りは、5月らしく明るくなっていた。パン屋の前では朝の客が並び、本屋はまだ扉を開ける前だった。保険会社の窓には、受付順と記入台の案内が新しく貼られていた。ブロンディはそれらを一つ一つ確かめるように歩いた。ヒトラーはそのたびに待たされた。
事務所に着くころには、予定より少し遅れていた。
曇りガラスの扉を開けると、ユンゲが受付で顔を上げた。
「おはようございます、所長」
「犬のせいで3分遅れた」
ユンゲはブロンディを見た。
「おはよう、ブロンディ」
ブロンディは尻尾を振った。
ヒトラーは外套を脱ぎながら言った。
「挨拶の順番が逆ではないか」
「所長には先に申し上げました」
「ならばよろしい」
ブロンディは事務所の中へ入ると、まず受付机の下へ向かった。ユンゲはもう水の器を用意していた。子犬は少しこぼしながら水を飲み、それから製図机の脚を嗅ぎ、エルゼの鞄の近くで止まり、最後に所長室へ入っていった。
所長室の隅には、ブロンディの敷物が置かれていた。
最初に敷いた古い布では薄すぎるとヒトラーが判断し、数日前に少し厚いものへ替えた。角は壁に対してまっすぐ置かれている。扉から見ても、机から見ても、通路を邪魔しない。ヒトラーが何度も測り直した配置だった。
ブロンディはその上に乗り、くるりと回り、斜めに寝た。
ヒトラーは所長室の入口で立ち止まった。
「正面に収まらん」
ユンゲは記録帳を開きかけた手を止めた。
「寝ておりますので」
「寝ていても正面はある」
「犬にはないのでは」
「ないのではない。従わんのだ」
ブロンディは目だけを少し開け、すぐに閉じた。
ヒトラーは敷物を直したそうな顔をしたが、結局直さなかった。寝ている犬を動かすと、さらに別の角度で寝る。それも数日で学んでいた。
その朝の新聞は、海軍の記事が大きかった。
エルゼが新聞を広げ、見出しを読んだ。
「戦艦ビスマルク、北海・バルト海合同演習へ参加。ティルピッツ、就役後の習熟訓練進む」
フランツが近づいた。
「ティルピッツは就役から3か月ほどでしたか」
ヨードルが記事を覗き込んだ。
「大きな艦を2隻も動かすとなると、演習だけでも相当なものです」
ヒトラーは新聞写真を見た。
ビスマルクの艦影が、紙面の中央に大きく載っていた。艦首が斜めに切り込むように写り、砲塔が海の上に重く置かれている。波は白く、艦の影は黒い。読者の目を引く写真ではあった。
ヒトラーは眉を寄せた。
「艦を大きく写すな。海が小さくなる」
フランツが言った。
「戦艦の記事ですから、艦が大きいのは」
「大きい艦をさらに大きく写す必要はない。海が背景になる。海を背景にするな。艦は海の上にある」
エルゼは別の記事を読んだ。
「各国の建艦競争も扱っています。イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、日本……」
「日本?」
「極東で新型主力艦の建造が進んでいるとの観測、だそうです。排水量も主砲も従来艦を上回るのではないか、と」
カイテルが新聞を受け取った。
「確証は薄い記事ですね」
「薄い記事ほど、艦を大きくする」
ヒトラーは言った。
「見えない艦は、紙の上でいくらでも膨らむ」
ユンゲはその言葉を書いた。
見えない艦は、紙の上で膨らむ。
ブロンディが所長室から出てきた。新聞の端が床に近かったため、鼻を寄せる。ヒトラーはすぐに新聞を持ち上げた。
「踏むな」
ブロンディは尾を振った。
フランツが笑いをこらえた。
「新聞の中の戦艦より、床の上の子犬の方が強いですね」
「新聞は踏まれるために作られていない」
エルゼが言った。
「読み終えた新聞は、包み紙にもなりますけど」
「それは第二の用途だ。第一の用途を果たす前に踏むな」
その時、電話が鳴った。
ユンゲが受話器を取った。
「アドルフ・ヒトラー意匠事務所でございます。……はい。少々お待ちください」
彼女は受話器を押さえた。
「ゲッベルス広告社です。これから伺いたいとのことです」
ヒトラーは顔をしかめた。
「電話で済む用件ではないのか」
ユンゲは受話器に戻り、短く確認した。
「ポスターをお持ちになるそうです」
「何のポスターだ」
少し間があった。
「海軍募集ポスター、とのことです」
ヒトラーは新聞のビスマルクを見た。
「嫌な予感がする」
予感は当たった。
30分ほどして、ゲッベルスが筒を抱えてやって来た。彼はいつものように、自分の仕事がすでに成功したかのような顔をしていた。
「お邪魔いたします。今回はそちらの案件ではございません。海軍募集のポスターを、当社で請け負いまして」
「ならばなぜ来た」
「仕上がりを、所長にもご覧いただこうかと」
「自慢か」
「確認です」
「自慢だな」
ゲッベルスは否定しなかった。
彼は製図机の上を少し空けてもらい、筒からポスターを取り出した。紙が広がると、そこに大きな戦艦が現れた。
ビスマルクだった。
艦首は画面の下からせり上がり、波を割って進んでいる。主砲は読者の方へ向けられ、砲身は実物以上に太く長く見えた。空には雲、下部には若い水兵の横顔、標語は力強い活字で組まれている。
ゲッベルスは誇らしげに言った。
「内陸の若者に海を見せるには、これくらいの迫力が必要です」
ヒトラーは黙って見た。
長い沈黙だった。
ゲッベルスの笑顔が、少しだけ固まった。
「いかがでしょう」
「砲が大きすぎる」
「迫力です」
「違う。寸法の嘘だ」
「広告では、多少の強調は」
「多少ではない。これでは16インチ砲だ。ネルソンと撃ち合わせるつもりか」
ヨードルが思わずポスターへ顔を近づけた。
「たしかに、38cm砲には見えませんね」
ゲッベルスは肩をすくめた。
「ミュンヘンの若者は、38cmと16インチの差で志願をやめません」
「差で志願をやめる者はいない。だが、嘘で入った者は、嘘を見る目を覚える」
ゲッベルスは一瞬黙った。
その沈黙を見て、エルゼが小さく言った。
「また売り文句にする顔ですね」
ゲッベルスは笑った。
「鋭いですね、ホフマンさん」
ヒトラーはポスターの下部を指した。
「標語も大きすぎる。海軍募集なのに、文字が艦を押し返している。波も高すぎる。砲を誇張して、波でさらにごまかしている」
「では、波を少し低く」
「波で解決するな」
「砲を細く」
「最初からそうしろ」
「若い水兵の顔は」
「悪くない。だが、視線が砲を見ている。見る者まで砲を見る。海を見せろ」
ゲッベルスはポケットから鉛筆を出し、ポスターの余白にメモを始めた。
「砲を細く。波を低く。標語を抑える。水兵の視線を海へ」
「私の机で勝手に修正会議を始めるな」
「しかし、有益です」
「有益だから腹が立つ」
ブロンディがポスターの端に近づいた。
ゲッベルスが子犬を見て、笑みを浮かべた。
「これはこれは。新しい所員ですか」
ヒトラーが即座に言った。
「犬を雇うな」
「海軍犬にも向いているかもしれません」
「犬まで募集するな」
ブロンディはポスターの角を嗅ぎ、前足を乗せかけた。ヒトラーがすばやく持ち上げる。
「踏むな。まだ直す前だ」
ゲッベルスが言った。
「直す前なら踏んでもよろしいのでは」
「直す前だから踏む価値もない」
ゲッベルスはまたメモしようとした。
「それも」
「書くな」
彼は笑いながら鉛筆をしまった。
しばらく、事務所では戦艦の話が続いた。
ビスマルク。ティルピッツ。イギリスのネルソン級。フランス、イタリア、アメリカの新鋭艦。日本の巨艦。新聞に載る艦影はどれも大きく、ポスターに描かれる砲はさらに大きくなる。
カイテルが言った。
「艦というのは、政治より先に影が大きくなりますな」
ヒトラーはポスターを見たまま答えた。
「影を売る者がいるからだ」
ゲッベルスは悪びれなかった。
「影は人を振り向かせます」
「振り向かせた後で、何を見せるかが問題だ。砲だけ見せるなら、港に置いた大砲でよい」
フランツが新聞の別の面を開いた。
「こちらにはフランス領インドシナの記事があります」
エルゼが目を通した。
「タイとフランス領インドシナの国境紛争について、東京で停戦議定書がまとまった、とありますね」
ユンゲが確認した。
「議定書…条約とまでは書かれていませんね」
「議定書か」
ヨードルが新聞を受け取った。
「日本は仲裁を主張しているようですが、フランス側は国境調査と停戦線の確認にとどめた、という書き方ですね」
エルゼが続けた。
「タイ側は一部地域の扱いをなお協議。フランスは本国政府の承認を条件とする。イギリス、アメリカ、オランダも監視姿勢、と」
ゲッベルスが肩をすくめた。
「東京で看板を出した割に、文字は小さいですね」
ヒトラーは新聞を見た。
「大きな仲裁ほど、紙面では標語に似る」
「所長、それは」
「使うな」
「まだ何も」
「顔が使うと言っている」
ゲッベルスは笑った。
ヒトラーは記事の周囲を指でなぞった。
「日本は仲裁者の顔をしたい。タイは失ったものを取り戻した顔をしたい。フランスは押し切られていない顔をしたい。紙面の上で、全員が顔を作る」
「外交記事とはそういうものでは」
エルゼが言った。
「だから読みにくい。写真より悪い。写真は少なくとも、艦が大きすぎると分かる」
ユンゲは、新聞の海軍記事と仏印記事を並べて見た。
片方には巨大な戦艦。もう片方には小さな地図。
北海、バルト海、極東、仏印、東京。紙の上では、どれも同じ机に乗る。現実には遠すぎるものが、新聞の折り目ひとつで隣り合っていた。
ブロンディがまた新聞に鼻を寄せた。
今度は仏印の記事の端だった。
ヒトラーは新聞を少し上げた。
「そこも踏むな」
フランツが言った。
「戦艦も仏印も駄目ですか」
「新聞を読んでからだ」
「読んだ後なら」
「包み紙にするか、敷物の下にする」
エルゼがすかさず言った。
「敷物にするなら、犬用の布代が節約できますね」
「新聞を犬の敷物にするな。インクがつく」
「では私費で布を」
「分かっている」
ゲッベルスはポスターを巻き直し始めた。
「修正版を作ります。砲は少し控えめに、しかし若者の胸は高鳴るように」
ヒトラーは言った。
「胸を高鳴らせる前に、寸法を守れ」
「寸法で胸は高鳴りません」
「高鳴りすぎる胸は、すぐ別の広告に移る」
ゲッベルスは楽しそうに一礼した。
「また勉強になりました」
「学ぶな。盗むだけだろう」
「広告では、学びと盗みの境界は細いものです」
「太くしろ」
ゲッベルスは笑い、ポスター筒を抱えて帰っていった。
彼が出ていくと、事務所は少し静かになった。
新聞はまだ机に広がっていた。
ビスマルクの艦影。ティルピッツの訓練。極東の巨大戦艦の噂。東京の停戦議定書。タイと仏印の地図。大きな艦も、小さな国境線も、同じ紙の上では簡単に折り畳まれていた。
ヒトラーは新聞写真をもう一度見た。
「戦艦を中央に置くと、海が脇役になる」
ユンゲは記録帳を開いた。
「本日の記録に入れますか」
「入れるな。海軍募集ポスターは当事務所の案件ではない」
「では、ゲッベルス広告社来所、海軍募集ポスター意見交換」
「意見交換ではない。向こうが勝手に見せ、こちらが勝手に怒った」
「そのまま書くと、記録らしくありません」
「記録らしさで嘘をつくな」
ユンゲは少し考え、こう書いた。
ゲッベルス広告社来所。海軍募集ポスター試案確認。艦砲表現、構図、標語位置について所長指摘。
ヒトラーはそれを見て、少しだけうなずいた。
「よろしい」
ブロンディは所長室へ戻っていった。敷物の上に乗り、また斜めに寝た。今度は頭を入口に向け、後ろ足を壁側へ伸ばしている。正面にはまったく収まっていない。
ヒトラーはしばらく見ていた。
「直らんな」
エルゼが言った。
「犬ですから」
「犬でも配置は覚える」
「覚えたうえで、好きに寝ているのでは」
ヒトラーは返事をしなかった。
夕方になり、新聞は畳まれた。ビスマルクも、ティルピッツも、極東の巨艦も、東京の議定書も、紙の折り目の中へ入った。
事務所の机には、まだドナウ安全保障展の地図が残っていた。川は青く、鉄道は細く、国境線は太くならないように押さえられていた。その横に、海軍記事の切り抜きが置かれた。フランツが資料として残すために切ったものだった。
ヒトラーはそれを見て言った。
「艦影は小さく切れ」
「記事の大きさが」
「大きな記事をそのまま貼ると、資料が記事に負ける」
フランツは切り直した。
ブロンディが所長室から出てきて、切り落とされた新聞の細い紙片を見つけた。鼻で押した。紙片は床を少し滑った。
「それは遊ぶものではない」
ヒトラーが言うと、ブロンディは紙片から顔を上げた。分かったような、分かっていないような顔だった。
ユンゲは明かりを落とす準備を始めた。
外では、夕刊を抱えた人々が通りを歩いていた。誰かは戦艦の記事を読み、誰かは仏印の記事を読み、誰かは見出しだけ見て畳んだだろう。海も、極東も、東京も、ミュンヘンの通りでは薄い紙になって人の手に収まっていた。
その紙の中で、戦艦は大きかった。
実際の海よりも、写真の中で大きく見えた。
実際の砲よりも、広告の中で太く見えた。
まだ遠い極東の艦は、噂の中でさらに大きくなった。
東京の会議は、地図の端を小さく折り曲げようとしていた。
ヒトラーは新聞を畳み、所長室の敷物を半歩だけ直した。
ブロンディは戻ってきて、その上に乗った。
そして、やはり斜めに寝た。
ヒトラーはしばらく黙って見ていた。
「正面に収まらん」
ユンゲは明かりを消しながら言った。
「それでも、場所は覚えたようです」
ヒトラーは返事をしなかった。
窓の外には、5月の夕方があった。新聞の中の戦艦は畳まれ、机の上の地図は押さえられ、所長室の隅では黒茶の子犬が眠っていた。
海は遠かった。
だが紙の上では、どの海もすぐそこにあった。