第114話 ミュンヘンの理想郷
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年9月18日、金曜日。
朝刊は、南太平洋でアメリカ艦隊が受けた被害を大きく伝えていた。
最初の報道では、ソロモン諸島東方で日本潜水艦がアメリカ空母を攻撃した、とだけ書かれていた。翌日には空母が炎上したという記事が加わり、その次には戦艦と駆逐艦も損傷したらしいという通信が入った。
今朝になって、沈没した空母の名がワスプであることが報じられていた。
クレープスは新聞を製図台へ広げ、その隣に戦果表を置いていた。
「空母ワスプ、沈没」
鉛筆で慎重に書き込む。
その下には、
「戦艦ノースカロライナ、損傷」
と記した。
さらに少し間を空け、
「駆逐艦1隻、損傷。艦名未確認」
と続ける。
ヒトラーは所長室から出てくると、表の前で足を止めた。
「全部、同じ潜水艦なのか」
「日本側はそう発表しています」
クレープスが答えた。
「アメリカ側の記事でも、ほぼ同じ時刻に複数の艦が被雷したとあります。ただし、同じ斉射によるものかは確認中です」
「魚雷を何本撃った」
「6本だそうです」
ヒトラーは新聞の図を見た。
アメリカ艦隊の大まかな位置関係と、魚雷の進路を推測した矢印が描かれている。
「6本撃って、空母と戦艦と駆逐艦へ当てたのか」
「空母を狙った魚雷が、その後ろの艦隊まで進んだ可能性があります」
「潜水艦が3隻を狙ったのではない。艦隊の方が、魚雷の通り道へ並んでいたわけだ」
クレープスは表へ目を戻した。
「駆逐艦の損傷については、まだ注意書きにしておきます」
「空母は」
「沈没が確認されています」
「戦艦は」
「沈没とは書かれていません」
「ならば損傷だ。勝手に沈めるな」
「はい」
ヒトラーはワスプの写真へ顔を近づけた。
飛行甲板から黒煙が上がり、艦尾側には火が広がっている。
「一隻の潜水艦が、空母と戦艦と駆逐艦の予定を同時に変えた」
ヨードルが新聞をのぞき込んだ。
「ワスプはガダルカナルへの増援を支援していました。ノースカロライナも修理のため後退するでしょう」
「日本は島を取り返せるのか」
「それは別の問題です」
カイテルが答えた。
「飛行場は依然としてアメリカ軍が保持しています。日本軍は夜間に増援を送っていますが、昼間はアメリカ軍機が飛んでいる」
「海では空母を沈め、島では飛行場を取れんのか」
「潜水艦の魚雷と、島の食料は別ですから」
ヒトラーは地図へ視線を落とした。
小さなガダルカナル島の周囲に、艦隊、輸送路、飛行場の記号が密集している。
「日本は、夜の海を持っている。アメリカは、昼の空を持っている」
「だいたい、そのような状況です」
「では島は、朝と夕方にどちらのものになる」
誰も答えなかった。
ヒトラーは地図の上へ指を置いた。
「一日の中で所有者が変わる土地など、長く持つものではない」
受付の扉が開いた。
ゲッベルスが、大きな筒と封筒を抱えて入ってきた。
「おはようございます。正式に決まりました」
ヒトラーは振り返った。
「何がだ」
「『失われた地平線』の再上映です」
ゲッベルスは返事を待たず、製図台へ筒を置いた。
「リヒトシュピール・パラストを中心に、市内数館で再上映します。まずは旧作を知る客を呼び、その後に若い客へ広げる。新聞広告、街頭ポスター、映画館正面の装飾を統一します」
「海で空母が燃えている朝に、君は雪山を持ってきたのか」
「だからこそです。客は戦果表を見たあと、別の場所を見たくなる」
ゲッベルスは筒からポスター案を取り出した。
白い山々の間に、光の差す谷があり、その奥には僧院らしい建物が描かれている。上部には大きく作品名が置かれ、その下に、
「世界の騒音から遠く離れて」
という文句が入っていた。
ヒトラーはすぐに眉をひそめた。
「騒音から離れたい客へ、大きな文字で叫ぶな」
「遠くから読めなければ広告になりません」
「理想郷へ入る前に、題名が山を隠している」
「題名を小さくすれば、何の映画か分からない」
「山を小さくしたから分からなくなったのだ」
ゲッベルスは別の紙を出した。
「映画館からも、正式な依頼があります」
封筒には、リヒトシュピール・パラストの名があった。
ヒトラーはそれを見ると、ポスターより先に封筒を取った。
リヒトシュピール・パラストは、昔からヒトラーが通っている映画館だった。ニュース映画と短編だけを見るつもりで入り、チャップリンの独裁者を笑う作品では長編にもかかわらず最後まで居残ることもあった。オーナーとは、事務所を始めて間もない頃からの付き合いだった。
依頼書には、再上映に合わせて正面入口とロビーを装飾したいと書かれていた。
客が入口をくぐった瞬間から、山の向こうの谷へ入ったように感じられること。
階段を、僧院へ続く道のように見せること。
青白い照明と、雲を模した布を使うこと。
ポスター掲示面にも、チベット風の意匠を加えること。
ヒトラーは読み終えると、紙を机へ置いた。
「映画を見るだけなのに、山を越えさせる気か」
「雰囲気作りですよ」
ゲッベルスが言った。
「客は椅子へ座る前に疲れる」
ユンゲが受付から声をかけた。
「リヒトシュピール・パラストのオーナーから、先ほど電話もありました。できれば今日の午後、正面を見てほしいそうです」
「君は受けたのか」
「視察の希望を聞いただけです」
エルゼが依頼書を受け取った。
「設計料は前金。施工費は別です。既存の設備を傷つけないことも条件に入っています」
ヒトラーはゲッベルスを見た。
「お前が口を出したな」
「古い劇場ですから、オーナーが気にしているんです。所長なら壊さずに済むでしょう」
「私なら、という言い方をするな。君なら壊すように聞こえる」
「私は広告屋です。壁を壊すのは施工屋ですよ」
「壊せと言うのはお前だ」
ゲッベルスは肩をすくめた。
そのとき、受付の電話が鳴った。
ユンゲが受話器を取る。
「はい、アドルフ・ヒトラー意匠事務所です」
しばらく相手の話を聞き、手元の紙へ書き始めた。
「はい。先日の件ですね。オクトーバーフェスト用の装飾として……雪山、雲、谷、異国風の柱」
ヒトラーが顔を上げた。
ユンゲは受話器を少し離し、ヒトラーを見た。
「ビアホールの店主です。正式に相談したいそうです」
「断れ」
「聞こえていると思います」
受話器の向こうで、店主の笑い声がした。
ユンゲは困った顔のまま話を続けた。
「所長は、検討すると申しております」
「申しておらん」
「明日の午前ですね。はい、図面をお持ちください」
ユンゲは受話器を置いた。
ヒトラーは映画館の依頼書と、ビアホールの相談内容を並べた。
片方には、静かな雪山と白い僧院。
もう片方には、ビール樽の間に置く雲と谷。
「ビアホールに映画館まで、理想郷に染まりすぎだ」
ゲッベルスは満足そうにポスターを整えた。
「流行とはそういうものです」
「お前が流行にしたのだ」
「私は、客が求めていたものへ名前を与えただけです」
「名前を与えたあと、ミュンヘン中へ雪を降らせている」
フランツが映画館の依頼書を手に取った。
「同じシャングリラでも、映画館とビアホールでは違いますね」
「当たり前だ」
ヒトラーはすぐに答えた。
「片方は客を静かに座らせ、片方はビールを飲ませる。片方では200年生きたラマ僧が階段を上り、片方では酔った男が階段から落ちる」
ゲッベルスが笑った。
「どちらも長く記憶に残ります」
「同じ記憶にするな」
クレープスがポスターの山を見た。
「チベットの建物は、本当にこういう形なんですか」
「これは映画の中の建物だ」
ヒトラーは言った。
「シェーファーの調査隊が持ち帰った写真を見ただろう。ラサもポタラ宮も、こうではない」
数年前、ドイツの学術調査隊がチベットから帰国したあと、動植物標本や写真、測量記録を紹介する展覧会が各地で開かれていた。
ヒトラーは民族や人種の分類には大して興味を示さなかったが、山地に建つ建築物の配置と、高低差を利用した導線には目を留めていた。
ヒムラーは展覧会を見た後、住居、衣服、家畜、食習慣、頭部形状まで分類した資料を持ち込み、ヒトラーに追い返されていた。
ゲッベルスが言った。
「客が求めているのは正確なチベットではありません。チベットらしさです」
「正確でないものを、らしさと呼んで逃げるな」
「映画は記録映画ではありませんよ」
「だからといって、山の上へ何でも積めばよいわけではない」
ヒトラーは映画館の階段案と、ビアホール用に書き取られた装飾要望を交互に見た。
「この調子では、そのうちオーバーザルツベルクにポタラ宮が出来るぞ」
フランツが顔を上げた。
「なぜオーバーザルツベルクなんです」
「山があり、景色がよく、ミュンヘンから人が行ける。そこへ白い宮殿を建てれば、見物人が列を作って登る」
ゲッベルスが顎へ手を当てた。
「観光事業としては悪くありませんね」
「お前は黙っていろ」
「巡礼路として宣伝すれば、ベルヒテスガーデンの宿も潤います」
「もう巡礼者まで作ったのか」
「理想郷には、たどり着くまでの物語が必要です」
「ビールを飲むのに物語を要求するな」
ヒトラーはポスターを丸め、ゲッベルスの前へ押し返した。
「題名を小さくしろ。山を見せろ。雲は減らせ。谷の入口を中央へ置くな」
「中央では駄目ですか」
「理想郷の入口が正面から丸見えでは、誰でも入れる。少し探させろ」
ゲッベルスは修正箇所を書き取った。
「映画館の装飾は受けるんですね」
「まだ決めておらん」
「もう入口の位置を決めましたよ」
ヒトラーは答えず、リヒトシュピール・パラストの古い平面図を広げた。
ロビーから客席へ向かう通路。
正面階段。
切符売場。
ポスター掲示面。
非常口。
ヒトラーの指が、ひとつずつ位置を確かめていく。
「この階段は狭い」
「前からそうです」
フランツが言った。
「再上映で客が増えれば、休憩後に詰まる。僧院へ続く階段に見せる前に、人間が通れるようにしろ」
「広げるんですか」
「壁は動かせん。照明と装飾で、入口側を広く見せる。客を中央へ集めるな。左右から流せ」
クレープスが新しい紙を取り出した。
「下書きを始めますか」
「現地を見るのが先だ」
ヒトラーは時計を見た。
「午後に行く」
ユンゲが予定表へ書き込んだ。
「ビアホールは明日の午前です」
「雪山を2つ続けて見るのか」
「理想郷です」
ゲッベルスが言った。
「君の理想郷は、相談料を払うのか」
エルゼが答えた。
「どちらも前金です」
ヒトラーは少し黙った。
「ならば、入口だけは作ってやる」
午後、ヒトラーとフランツ、クレープス、ユンゲはリヒトシュピール・パラストへ向かった。
映画館の正面には、まだ通常上映のポスターが並んでいた。オーナーは入口で待っており、ヒトラーを見ると両手を広げた。
「所長さん、待っていました。ここを、山の向こうへ入る門にしたいんです」
ヒトラーは正面を見上げた。
「この正面は映画館だ。山門ではない」
「それでも、入る前からシャングリラを感じさせたい」
「感じさせることと、建物の身分を変えることは別だ」
オーナーはロビーへ案内した。
「階段の上へ、白い宮殿を置けませんか」
「階段の上に物を置くな。客が見る」
「見るための装飾です」
「見ながら歩けば転ぶ」
「では、壁に」
「壁ならよい。ただし宮殿を正面へ置くな」
館主が不思議そうにした。
「なぜです」
「シャングリラは、最初から見えていてはいかん。入口で全部見せたら、客は映画を見る前に着いてしまう」
ヒトラーは階段の途中へ立ち、ロビーを振り返った。
切符売場から入った客が、どこを見るか。
どこで足を止めるか。
どこに人が溜まるか。
どの角度からポスターが見えるか。
「雲は上へ置け。客の頭へ垂らすな。白い布は壁沿いに使う。青い照明は弱くしろ。病院の廊下に見える」
クレープスが寸法を記録した。
フランツは階段幅を測り、ユンゲは館主の要望を書き取った。
ヒトラーはロビー奥の壁面を指した。
「宮殿は、ここだ」
「入口からは見えません」
館主が言った。
「階段を上った者だけに見せる」
「なるほど」
「理想郷は、少し歩いた者へ見せろ」
館主は満足そうに頷いた。
ヒトラーはもう一度、階段の下から壁面を見た。
朝の新聞では、一隻の潜水艦が見えない海中から魚雷を放ち、空母と戦艦と駆逐艦の進路を変えていた。
この映画館では、見えない壁の向こうに白い宮殿を置き、客の足を階段の上へ導こうとしている。
太平洋では、夜と昼がひとつの島を分けていた。
ミュンヘンでは、映画館とビアホールが、それぞれ別の理想郷を作ろうとしていた。
館主が尋ねた。
「所長さん、入口の看板には何と書きます」
ヒトラーは正面玄関を振り返った。
「作品名だけでよい」
「宣伝文句は?」
「いらん」
「ゲッベルスさんが、何か考えてくると思いますよ」
ヒトラーは露骨に嫌な顔をした。
「その前に作れ」
館主が笑った。
外では、次の上映を待つ客が集まり始めていた。
まだ雪山も雲も白い宮殿もなかった。
それでもミュンヘンには、すでに理想郷の入口が増え始めていた。
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