第115話 多すぎる詳細不明
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年10月8日、木曜日。
ミュンヘンの朝は、すでに秋の匂いを含んでいた。
窓の外の光は薄く、通りを行く人々の上着も少し厚くなっている。事務所の受付前には、朝一番の郵便物と新聞が置かれていた。ユンゲはそれを整え、重要そうな記事に小さな紙片を挟んでから、所長室の前へ持っていった。
ヒトラーは机の上に広げられた図面から顔を上げた。
リヒトシュピール・パラストの平面図。
ビアホール装飾の後始末用の控え。
そして、まだ仮の線ばかりが引かれた映画館ロビーの透視図。
「また太平洋か」
「太平洋と、ドナウと、ロケットと、アメリカの新型爆撃機です」
「新聞屋は、朝から空と川と海を全部持ってくる気か」
ユンゲは返事をせず、新聞を机に置いた。
ヒトラーはまず一面を見た。
大きな見出しではなかった。
しかし、目につく記事がいくつも並んでいた。
ドナウ方面に展開していたロンメル将軍が、健康上の理由により指揮を一時委任し、療養のため帰任したという記事。
ガダルカナル方面では、アメリカ軍が昼間の制空権を握り、日本軍は夜間に高速艦艇で兵員と物資を送り込んでいるという記事。
アメリカで新型大型爆撃機が試験飛行したという短い航空記事。
バルト海沿岸の陸軍実験場で、液体燃料ロケットA4の高高度試験が成功したという科学欄の記事。
そして紙面の端には、スターリングラード周辺で行われたソ連軍大演習後の部隊配置について、続報が途絶えつつあることを伝える小さな解説があった。
ヒトラーは眉をひそめた。
「病状詳細不明」
クレープスが横から言った。
「戦況詳細不明」
ヨードルも新聞をのぞいた。
「爆撃機性能詳細不明」
フランツが続けた。
「ロケット到達高度詳細不明」
カイテルが紙面の端を指した。
「ソ連軍撤収状況詳細不明」
ヒトラーは新聞を両手で持ち上げ、しばらく黙って紙面を見つめた。
やがて、低い声で言った。
「新聞は、いつから世界の不明辞典になった」
誰もすぐには答えなかった。
クレープスはすでに、製図台の端に新しい表を作っていた。
表題には、小さく「未確認事項」と書かれている。
ヒトラーはそれに気づき、目を細めた。
「君は、分からんことまで表にするのか」
「分からないことが増えてきましたので」
「増えたから表にするのか」
「その方が、後で確認できます」
「何を確認する。分からなかったことが、やはり分からなかったと確認するのか」
「それも記録です」
クレープスは真面目に答えた。
ヒトラーは新聞を机へ叩くように置いた。
「腹立たしいほど正しい」
最初に見たのはロンメルの記事だった。
写真には、ドナウ方面の司令部を視察するロンメルの姿が小さく載っていた。軍帽をかぶり、地図を持った幕僚に囲まれている。記事には、長期にわたる視察、夜間移動、演習立会い、各国代表との会議が重なり、医師の勧めで一時療養に入ったとある。
「戦争をしておらんのに、もう倒れたのか」
ヒトラーが言った。
カイテルは落ち着いて答えた。
「戦争をしていないから、倒れる前に戻せたのです」
「本人は戻りたがったのか」
「記事では不明です」
「また不明か」
「軍人が療養を喜んで認めることは、あまりありません」
ヒトラーは記事を読み返した。
「ドナウ方面の指揮は、一時的に副官へ委任。任務継続に支障なし。病状の詳細は公表されず」
「その通りです」
「支障なしなら戻す必要がない。戻す必要があるなら支障はある。新聞の文章は、いつも椅子を二脚並べて真ん中に座ろうとする」
フランツは少し笑いそうになり、すぐに口を閉じた。
次にヒトラーはガダルカナルの記事を見た。
小さな地図が載っていた。
島の上には、ヘンダーソン飛行場の位置が示されている。周囲の海には、日本艦艇による夜間輸送の推定航路と、アメリカ機の昼間行動範囲が描かれていた。
「昼はアメリカ、夜は日本」
ヒトラーは指で地図をなぞった。
「島が、時計で所有者を変えている」
クレープスが言った。
「日本側は夜間に高速艦艇を使って兵員と物資を送っています。連合国側の通信では、いわゆる東京急行と呼び始めているようです」
「急行なら駅が必要だ」
「海上での揚陸です」
「ならば急行ではない。夜道を走る荷馬車だ」
「しかし、速度は速いようです」
「速くても、荷を降ろせなければ意味がない」
ヒトラーは飛行場の記号を指した。
「ワスプを沈めても、この飛行場は沈まん」
「はい」
「艦は海へ沈む。飛行場は、穴を埋めるとまた滑走路になる。日本は夜に船を走らせ、アメリカは昼に飛行機を飛ばす。どちらも相手を完全には消せない」
「膠着、と書かれています」
ヨードルが言った。
「膠着ではない」
ヒトラーは地図を見たまま言った。
「昼と夜で、別の図面を使っているだけだ」
紙面の下には、アメリカの新型大型爆撃機についての記事があった。
ボーイング社の新型機が試験飛行を行った。
高高度、長距離飛行を目指す大型爆撃機である。
詳細な性能は公表されていない。
ヒトラーは、記事に載った小さな影のような写真を見た。
ぼやけた機影が、滑走路の上を離れている。
「これで何が分かる」
「大きいことは分かります」
フランツが言った。
「大きい飛行機の記事で、大きいことだけ分かってどうする」
「アメリカは、太平洋を広く見ているのでしょう」
カイテルが言った。
「島から島へ飛ばすには、航続距離が要る」
「アメリカは、島を飛行場にするだけでは足りず、飛行機そのものを長い橋にする気か」
ヒトラーは写真を机に置いた。
「橋なら、どこへ架けるか書け。飛行機なら、どこまで飛ぶか書け」
「軍事機密です」
「ならば新聞に載せるな」
次はロケットの記事だった。
バルト海沿岸の実験場で、液体燃料ロケットA4の高高度試験に成功。
高層大気研究、長距離飛行技術、精密誘導の基礎となる成果。
飛行距離、最高高度、誘導方式は明らかにされず。
ヒトラーは記事を読んで、深く息を吐いた。
「空へ飛んだが、高さは言えない。遠くへ飛んだが、距離は言えない。まっすぐ飛んだかどうかも言えない」
クレープスが表へ書き込んだ。
「A4ロケット。試験成功。詳細不明」
「君の表は、黒い穴を整理しているようだ」
「黒い穴にも位置はあります」
「その言い方をするな。妙に正しい」
最後に、スターリングラード周辺の記事が残った。
先月まで比較的大きく扱われていたソ連軍大演習の記事は、今では紙面の端へ追いやられていた。ヴォルガ沿いの演習は終了したとされるが、参加部隊の完全な撤収は確認されていない。補給線、鉄道輸送、野営地の残存について、各国の観測筋は慎重な見方を示している。
「続報なし」
ヒトラーは言った。
「はい」
「大演習が終わったなら、帰ったと書けばよい。帰っていないなら、帰っていないと書けばよい」
「確認できないのでしょう」
「確認できないなら、演習が終わったとも書くな」
カイテルが少しだけ首を傾けた。
「それは新聞に厳しすぎます」
「新聞が私に不明ばかり寄こすからだ」
ヒトラーは新聞を畳み、図面の上へ押しやった。
「もういい。世界が分からんことは分かった」
「それも記録しますか」
クレープスが言うと、ヒトラーは睨んだ。
「するな」
その日の午前、所長室には紙が山のように積まれていた。
新聞。
戦況表。
未確認事項表。
ビアホールの装飾図。
リヒトシュピール・パラストのロビー図。
そして、ホフマン写真館へ頼んでいたチベット関係の資料を待つための空き場所。
ビアホールのシャングリラ風装飾は、オクトーバーフェストの間、客から好評だった。
雪山を模した白い布。
照明で青く見せた雲。
奥へ続く谷を思わせる席の配置。
それらは祭りの中では十分に働いた。
ただし、ヒトラーは満足していなかった。
あれは、本物のチベットを参考にしたのではない。
『失われた地平線』の文章と、ゲッベルスが持ち込んだ映画ポスターと、客が勝手に思い浮かべる「山の奥の理想郷」をつなぎ合わせたものだった。
客には受けた。
店主も礼を言った。
しかし、ヒトラーには、どうにも軽く見えた。
威厳が足りない。
坂が足りない。
上へ向かう線が足りない。
何より、奥へ入っていく感覚が足りなかった。
ユンゲがビアホールから届いた礼状を読み上げた。
「店主より、祭り期間中の装飾は好評。特に谷の奥を思わせる席配置と青い照明が客の評判を呼んだ、とのことです」
「雲はどうした」
「少し低かったようです」
「低かったのではない。低く吊ったのだ」
「何人か、頭に当たったそうです」
ヒトラーは顔を上げた。
「なぜ先にそれを読まない」
「しかし、客はそれも面白がっていたとあります」
「客が笑えば、事故が装飾になると思うな」
ユンゲは礼状を畳んだ。
「ビアホールの装飾は好評でした。雲が頭にぶつかることはありましたが、それも含めて評判は悪くなかったようです。映画館も、同じ雰囲気を踏襲してよいのではありませんか」
ヒトラーは、リヒトシュピール・パラストの図面へ鉛筆を置いた。
「あの踏襲では、スクリーンのシャングリラを見る前に客が雪山で遭難する」
「遭難まではしないと思います」
「する。少なくとも目が遭難する。雲、布、山、旗、ポスター、全部が同じ高さで客に飛びかかる。どこを見ればよいか分からん」
「祭りですから、分かりやすさも必要です」
「だからビアホールでは許した。酔った客には、山より出口の方が大事だ」
フランツは思わず頷きかけた。
ヒトラーは図面の階段部分を指した。
「映画館では違う。入口から客席までが、すでに映画の前だ。切符を買い、ロビーを通り、階段を上る。その間に、客は山へ入っていなければならん」
「映画はスクリーンで始まるのでは」
ユンゲが言った。
「凡庸な映画館ではな」
ヒトラーは即座に言い返した。
「リヒトシュピール・パラストは、少なくとも凡庸でないように見せる必要がある」
そこへ受付の扉が開いた。
エヴァが現れた。
彼女は写真館の包みを両手で抱えていた。いつもの服よりも華やかで、胸元と袖に民族衣装を思わせる装飾があり、スカートも明るい。完全な祭り衣装というほどではないが、明らかにディアンドル風だった。
ヒトラーは資料の包みより先に、服装を見た。
「君まで祭りの残り香を着て来たのか」
エヴァは少しだけ笑った。
「写真館では、この格好の方が客に喜ばれるんです。オクトーバーフェストの記念写真がまだ残っていましたから」
「客は何でも衣装にする。ビールを飲むにも、写真を撮るにも、理想郷へ行くにも」
「でも、中身は衣装ではありません」
エヴァは包みを机へ置いた。
「頼まれていたチベットの写真です。シェーファー隊の記録写真の写しと、ラサ、ポタラ宮、山道、僧院建築。ホフマンが知り合いから借りて、焼き増しできるものだけ用意しました」
ヒトラーはすぐに包みを解いた。
写真は大きさも紙質もまちまちだった。
山の斜面。
白い壁。
段々に重なる建物。
坂道。
階段。
遠くに見えるポタラ宮。
人の姿が小さく写った街路。
ヒトラーは一枚を手に取り、黙った。
新聞の不明欄を読んでいたときとは、顔つきが違っていた。
怒りが消えたのではない。
別の場所へ移った。
「これだ」
彼は写真の中の坂を指でなぞった。
「こちらには線がある」
エヴァは横からのぞいた。
「ずいぶん急な坂ですね」
「急だからよい」
「客に映画館の階段でこれを感じさせるんですか」
「感じさせる。登らせはしない」
ユンゲが言った。
「本物のチベットに近づけるのですか」
「近づけるのではない」
ヒトラーは写真を図面の横へ置いた。
「借りるのだ。映画の嘘を支えるために、本物の線を借りる」
フランツはその言葉を聞いて、鉛筆を持ち直した。
ヒトラーは写真を並べ始めた。
ポタラ宮を正面から写したもの。
斜め下から見上げたもの。
山肌に沿う白い建物の塊。
道を行く人々。
建物はただ上にあるのではなかった。
坂によって近づく。
壁によって遠ざかる。
階段によって一度見えなくなる。
そして、また現れる。
「ビアホールには、これがなかった」
ヒトラーが言った。
「白い布と雲だけだ。あれでは理想郷ではなく、洗濯物の多い山小屋だ」
エヴァが笑いをこらえた。
「お客さんには好評だったんですよね」
「客は好評という便利な言葉で、何でも許す」
そのとき、再び受付の扉が開いた。
今度は、ブルーノ・ヴァイスだった。
小柄で、髪をきれいに撫でつけ、よく磨かれた靴を履いていた。外は湿った秋の道だったが、靴には泥がほとんどついていない。彼がどう歩けば靴を汚さないのか、フランツには分からなかった。
ヴァイスは帽子を取り、事務所の中を一瞥した。
芸術家というより、やはり商売人だった。
劇場の匂いより、金庫の匂いが似合う男。
フランツは、以前も同じことを思ったのを思い出した。
あの時も、ヒトラーは図面を広げていた。
「枠組みが整わなければ、主役も安く見える」
「客は女優の顔を見に来ます」
「女優の顔だけを見せたいなら、窓に顔写真を貼ればよい」
「それで客が入るなら、私はそうします」
あのやり取りを見て、フランツは嫌な相手だと思った。
所長の言葉に怯えない。
怒鳴られても、あまり効かない。
しかも商売の数字を持っている。
ヴァイスは今回も、まったく同じ顔でやって来た。
「失礼します。上映の数字を持ってきました」
ヒトラーは写真から顔を上げた。
「数字か」
「映画館ですから」
ヴァイスは平然と言った。
「初日は悪くありませんでした。夜の回は満席です。翌日も落ちていません。ポスターの効果もあるでしょう。ゲッベルスさんは喜ぶと思います」
「君の客は映画を見に来たのか、ポスターを見に来たのか」
「切符を買ったなら、どちらでも構いません」
フランツは、やはり嫌な相手だと思った。
ヒトラーは不機嫌そうに椅子へ腰を下ろした。
「君は相変わらず、劇場の話を金庫の言葉で話す」
「劇場が金庫を持たなければ、フィルムは借りられません」
「フィルムは借りられても、劇場が安く見えれば客は戻らん」
「戻るかどうかも数字で分かります」
「すべてを数字へ戻すな」
「所長はすべてを線へ戻します」
ヴァイスは言い返した。
ヒトラーは黙った。
ユンゲは、机の上の写真と図面を少し整えた。
ヴァイスはポタラ宮の写真に目を落とした。
「これが、今度の飾りの資料ですか」
「本物のチベットだ」
ヒトラーが言った。
「客はポタラ宮を知りません」
「だから見せるのだ」
「知らないものを見せても、客は分かりません」
「分からなくても、線は感じる」
「感じた結果、切符を買うなら結構です」
「君はすべてを切符へ戻すな」
「映画館ですから」
ヴァイスは当然のように答えた。
エヴァは横で少し笑った。
ヒトラーはそれに気づき、彼女を睨む。
「笑うところではない」
「すみません」
「笑うなら、もっと後にしろ」
そこへ、約束していたわけでもないのにゲッベルスが現れた。
彼は新しい小型の広告案を抱えていた。リヒトシュピール・パラスト用の新聞広告と、街頭に貼る小型ポスターの修正版だった。
「ちょうどよかった。ヴァイスさんもいらしている」
「あなたは、また文字を大きくしましたね」
ヴァイスが言った。
「映画館は遠くから見える必要がありますから」
ゲッベルスは広告案を広げた。
「近づく前に客の目をつかまなければならない」
「遠くから見えれば、近くで読む必要がありません。便利です」
「それは褒めているんですか」
「客が入れば褒めます」
ヒトラーは机を叩いた。
「お前たちは2人とも、客を入口まで運ぶことしか考えていない」
ヴァイスが答えた。
「入口まで来なければ、所長の導線も見ません」
ゲッベルスも頷いた。
「入口で足を止めさせるのが広告です」
「足を止めすぎるから邪魔になるのだ」
ヒトラーはポスター案を取り、机に置いた。
「題名が大きすぎる」
「前にも聞きました」
ゲッベルスが言った。
「聞いたなら直せ」
「直した上で、まだ大きいのです」
ヴァイスは広告案を見た。
「大きい方が売れます」
ヒトラーはヴァイスを見た。
「君は黙っていろ」
「依頼主です」
「だから腹が立つ」
ヴァイスは帽子を膝の上で回した。
「ビアホールの装飾は好評だったと聞いています。こちらも分かりやすい方向でよいのではありませんか。雪山、雲、白い宮殿。客にはそれで伝わります」
ユンゲが小さく頷きかけた。
ヒトラーはすぐに気づいた。
「君もまた頷くのか」
「ビアホールは成功しましたから」
「成功したから踏襲するというのは、失敗の入口だ」
「なぜです」
「場所が違う。客が違う。座る目的が違う」
ヒトラーはビアホール装飾の図を引き寄せた。
「ビアホールでは、客は飲みに来る。騒ぎに来る。山を見て笑い、雲に頭をぶつけ、白い布にビールをこぼす。それで済む」
次に映画館の図面を置いた。
「映画館では、客は暗い箱へ入る。そこへ入る前に、こちらで目を整えなければならん。入口、切符売場、ロビー、階段、客席。順番がある」
彼はポタラ宮の写真を持ち上げた。
「見ろ。坂がある。建物へ向かう線がある。上へ行く理由がある」
ヴァイスは写真を見た。
「これを全部、劇場に入れるのは無理です」
「誰が全部入れると言った」
「所長は時々、全部入れようとします」
「君は時々、何も入れずに売ろうとする」
「売れれば、それも方法です」
「シャングリラと書けば客は入る、という顔だな」
「それで客が入るなら、私はそうします」
フランツは、その言葉に以前の会話を思い出した。
女優の顔。
窓。
顔写真。
同じだ。
この男は何年たっても、客が入るならやると言う。
そして本当に、やる。
ヒトラーも思い出したのか、口元をゆがめた。
「君は変わらんな」
「劇場を続けるには、変わらない部分も必要です」
「では、変わる部分はどこだ」
ヴァイスは少し考えた。
「客の不安です」
ヒトラーは黙った。
「以前なら、客は女優を見に来た。今は、戦況記事を読んだ後で、別の場所へ行きたがっている。遠い場所。安全な場所。美しい場所。名前は何でも構いません。シャングリラでも、地平線の向こうでも」
ゲッベルスが満足そうに頷いた。
「そのための広告です」
「お前が満足するな」
ヒトラーはゲッベルスへ言った。
「ヴァイスは金庫の話をしているだけだ」
「金庫は正直ですよ」
ヴァイスが言った。
「新聞よりは」
クレープスが未確認事項表を見た。
ヒトラーはその表を一瞥し、少しだけ嫌そうな顔をした。
「たしかに、今日の新聞よりは正直かもしれん」
エヴァが写真の束を整えた。
「では、この写真を使うんですね」
「使う」
ヒトラーは答えた。
「ただし、写真展にするのではない。映画館だ。客に本物を説明するのではない。嘘の理想郷へ入るための線を与える」
ゲッベルスが言った。
「その説明、広告文句に使えますね」
「使うな」
「嘘の理想郷へ入るための線」
「絶対に使うな」
「少し短くします」
「短くしても使うな」
ヴァイスは数字の紙を鞄へしまった。
「では、入口まではゲッベルスさんの広告で客を呼ぶ。切符は私が売る。入口から先は所長が導く。そういうことでよろしいですか」
ヒトラーはポタラ宮の写真を机に置いた。
「よろしいとは言っていない」
「では、どういうことでしょう」
「入口までは君らの仕事だ」
ヒトラーはロビー図面の上へ定規を置いた。
「入口から先は、私の仕事だ」
フランツはその線を見た。
正面入口から、切符売場へ。
切符売場から、少し斜めにロビーへ。
そこから階段へ。
階段の途中、壁面に置かれる白い量塊。
見えすぎない宮殿。
見えなさすぎない坂。
客は真正面から理想郷を与えられるのではない。
少し探し、少し上り、少し見失い、また見つける。
ヒトラーは鉛筆を走らせた。
「雲は上だ。頭へ当てるな。白布は壁沿いに置け。客の肩へ触れさせるな。ポスターは正面ではない。斜めだ。真正面に貼れば、入口で終わる」
クレープスが寸法を書き始めた。
「階段の中段に、ポタラ宮風の壁面を入れますか」
「風でよい。本物を真似るな。本物の重さを借りろ」
「重さを借りる、ですか」
「映画の嘘は軽い。軽い嘘を吊るすには、重い線が要る」
ヴァイスは腕を組んだ。
「客はそこまで考えません」
「考えなくてよい」
ヒトラーは言った。
「考えずに進めばよい。進んだあとで、なぜ進んだか分からなければ、それで成功だ」
ゲッベルスが小声で言った。
「それも広告文句に」
「使うな」
ユンゲは予定表へ書き込んだ。
「では、リヒトシュピール・パラストの追加装飾案は、明日までに初稿。ビアホールの片付け確認は午後。ホフマン写真館には写真の借用延長を連絡します」
「延長料を確認しろ」
エルゼが奥から声をかけた。
「資料にも金がかかります」
ヴァイスが頷いた。
「そこは重要です」
ヒトラーは嫌そうにヴァイスを見た。
「君は、金の話になると本当に良い顔をする」
「劇場の顔です」
「劇場の顔は、もっと暗がりに似合うべきだ」
「暗がりでは切符が数えにくい」
フランツはまた、これは嫌な相手だと思った。
しかし、以前ほど嫌ではなかった。
所長が怒鳴っても壊れない客。
ゲッベルスの広告にも簡単には乗せられない商売人。
そして、数字を持ってくる男。
そういう相手がいるから、図面は現実の建物へ近づくのかもしれなかった。
午後が近づく頃、ゲッベルスとヴァイスはそれぞれの紙を持って帰った。
エヴァは写真の残りを整理し、借りた資料の扱いについてユンゲに説明した。
所長室には、また新聞と図面だけが残った。
新聞には相変わらず、詳細不明の文字が並んでいる。
ロンメルの病状。
ガダルカナルの戦況。
アメリカ新型爆撃機の性能。
A4ロケットの高度。
スターリングラード周辺のソ連軍部隊。
どれも輪郭がぼやけていた。
ヒトラーは新聞を机の端へ押しやった。
代わりに、ポタラ宮の写真を中央へ置いた。
「こちらは分かる」
彼は言った。
「坂があり、壁があり、入口がある」
ユンゲが横から言った。
「世界情勢より、映画館の入口の方が所長には分かりやすいのですね」
ヒトラーは鉛筆を止めなかった。
「世界情勢が映画館の入口ほど正直なら、私も怒らん」
「映画館も、客を夢へ連れていく場所です。正直と言えるでしょうか」
ヒトラーは少し考えた。
そして、写真の坂から図面の階段へ線を移した。
「嘘をつくなら、せめて線を正しく引け」
ユンゲはそれを書き留めなかった。
その代わり、図面の端へ落ちそうになっていた新聞を静かにどけた。
所長室では、世界の詳細不明を押しのけるように、映画館の入口へ一本の線が引かれていた。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。