第116話 大きすぎる主役
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年10月22日、木曜日。
オペル・カピテーンは、朝のミュンヘンをゆっくりと走っていた。
夜の雨が石畳に薄く残り、通りの建物を曇った鏡のように映している。フランツは水たまりを避けながらハンドルを切り、後席ではヒトラーが新聞を大きく広げていた。
新聞の端が、ときどき前席の背に当たった。
「戦艦デューク・オブ・ヨーク、コロンボ入港、か…」
ヒトラーは見出しを読み上げた。
記事には、マレー沖海戦で損傷したプリンス・オブ・ウェールズが、修理入りしたために生じた戦艦の不在を補うべく、イギリス海軍の新鋭艦がインド洋方面へ展開し、セイロン島のコロンボで対空火器と射撃指揮装置の強化を受けているとあった。
艦の詳しい任務は発表されていない。
船団護衛。
インド洋の港湾防衛。
日本艦隊に対する牽制。
どれも可能性として書かれているだけだった。
「また詳細不明ですか」
フランツが運転しながら言った。
「前回よりは分かる。少なくとも戦艦が港にいる」
ヒトラーは記事に載った写真を見た。
デューク・オブ・ヨークの大きな艦橋と、前甲板の主砲塔が写っている。周囲には小舟と作業船が寄り、岸壁には資材が積まれていた。
「戦艦が港で砲を増やしている」
「航空攻撃への備えでしょう」
「戦艦なのに、上を見ているのか」
「今は飛行機がありますから」
「戦艦は敵の戦艦を見るものだ」
「それだけではないでしょう」
「分かっている。だから腹が立つ」
ヒトラーは新聞を折り直した。
その下には、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場へ、日本海軍の戦艦が艦砲射撃を行ったという記事があった。
夜間、島へ接近。
大口径砲による長時間の砲撃。
滑走路、燃料集積所、航空機に大きな損害。
ただし、飛行場の機能が完全に停止したかは確認されていない。
「こちらの戦艦は、飛行場を撃っている」
ヒトラーが言った。
「日本軍の夜襲ですか」
「イギリスの戦艦は港で空を見上げ、日本の戦艦は島の土を撃つ」
新聞をさらにめくる。
エスペランス岬沖で起きた夜戦の記事には、巡洋艦と駆逐艦の名が並んでいた。
暗い海。
不完全な索敵。
互いに相手の位置を誤認したまま始まった砲撃。
沈没した巡洋艦。
損傷した駆逐艦。
そこには、大型戦艦の名前はなかった。
ヒトラーは三つの記事を横に並べた。
「戦艦が戦艦と撃ち合わず、片方は港で砲を増やし、片方は飛行場へ砲弾を投げ込む。その間に夜の海で殴り合っているのは、巡洋艦と駆逐艦か」
「海戦の主役が変わったのでしょうか」
フランツが尋ねた。
「変わってはおらん」
「では、何です」
「大きすぎるのだ」
ヒトラーはデューク・オブ・ヨークの写真を指で叩いた。
「大きすぎる主役は、どの舞台にも出られるわけではない。港も深さを選ぶ。護衛も艦隊を選ぶ。失えば国じゅうが騒ぐ」
「主役が大きすぎると、出る舞台を選ぶのですね」
「違う」
ヒトラーはすぐに訂正した。
「大きすぎる主役は、自分のために舞台を作らせるのだ」
カピテーンは交差点を曲がった。
しばらくすると、リヒトシュピール・パラストの正面が見えてきた。
上映期間はすでに始まっていたが、館内の追加装飾は、上映前と閉館後を使って続けられていた。
正面には、大きな再上映ポスターが貼り出されている。
深い青の空。
雪をいただいた山々。
光の差す谷。
その奥に建つ、白い僧院のような建物。
そして、山よりも大きく見える題名。
DER VERLORENE HORIZONT(失われた地平線)
ヒトラーは車を降りると、入口へ向かわず、その場で立ち止まった。
ポスターを下から見上げる。
フランツも隣に立った。
「どうです」
「題名が山を押し潰している」
「通りの反対側からも読めます」
「山は読ませるものではない」
ヒトラーは目を細めた。
「それに、チベットらしさが足りん」
「映画のポスターですから」
「シャングリラを名乗っておいて、山と僧院を置けば済むと思っている。ゲッベルスは大きな文字で、足りないものを隠している」
「客には分かりやすいと思います」
「君までヴァイスのようなことを言うな」
ちょうどそのブルーノ・ヴァイスが、劇場の扉から出てきた。
小柄で、髪をきれいに撫でつけ、今日も靴はよく磨かれていた。雨上がりの道を歩いてきたはずなのに、靴先には泥がほとんどついていない。
「お待ちしていました」
ヴァイスはポスターを見上げた。
「よく目立つでしょう」
「目立ちすぎる」
「客が見つけられます」
「チベットらしさが足りん」
ヴァイスは少しも困った顔をしなかった。
「足りなくとも、見に来てくれれば良いのです」
ヒトラーは深く息を吐いた。
「身も蓋もないことを言うな」
「蓋があっても、切符売場は開けておかねばなりません」
「君は劇場の話をするたび、最後に金庫へ戻る」
「金庫が空なら、映画館も閉まります」
ヒトラーは正面玄関へ歩き始めた。
「ゲッベルスと君を一つの部屋へ入れると、広告と金勘定しか残らんな」
「所長が入れば、図面も残ります」
「だから私が呼ばれたのだろう」
「その通りです」
館内へ入ると、木材と塗料と布の匂いが混ざっていた。
客のいないロビーに脚立が立ち、白い壁面装飾が階段の両側へ取りつけられている。奥では職人が照明を調整し、白布に淡い青の光を当てていた。
階段の途中には、ポタラ宮の坂と量塊を参考にした壁面が組まれていた。
本物を再現したものではない。
だが、ただ白い建物を並べただけでもない。
斜めに上る坂。
一度壁の陰へ消える道。
階段を上がるにつれて現れる白い建物。
客がロビーから階段へ進むと、少しずつ見える範囲が変わるようになっていた。
シュタイナー親方は、脚立の上で木枠を調整していた。
ヒトラーが来ても、下りようとはしなかった。
「その木枠を、もう少し奥へ退けろ」
ヒトラーが見え方の指示を出しても、シュタイナー親方は作業を止めずに答えた。
「非常灯を隠す」
「非常灯は見せるな。白い壁の横で赤く光っていたら、理想郷が役所になる」
「消防が怒る」
「ならば、光だけ見せて箱を隠せ」
「出口が狭くなる」
ヒトラーは壁と非常口の間を見た。
「では、上だけ囲え」
「影が落ちる」
「照明を足せ」
「熱がこもる」
ヒトラーはしばらく黙った。
シュタイナー親方は木枠へ釘を打った。
一度。
二度。
「白壁を指一本、こちらへ振る」
ヒトラーが言った。
「それなら通る」
「最初からそう言え」
親方は答えなかった。
階段の上には、薄い雲を模した布が吊られていた。
ヒトラーはその下へ立ち、見上げた。
「この雲は、指二本上げろ」
「梁に当たる」
「なら梁を隠せ」
「布が客の頭に当たる」
「ビアホールではやった」
「だからここではやめる」
フランツは横を向いて笑いをこらえた。
ヒトラーは梁と雲を交互に見た。
「雲を薄くしろ」
「最初からそう言っている」
シュタイナー親方は脚立を一段下りた。
「白布も減らす」
「減らしすぎると雪山に見えん」
「雪山ではない」
「シャングリラだ」
「映画館だ」
ヒトラーは親方を見た。
シュタイナー親方も見返した。
ヴァイスは少し離れた場所で、時計を見ていた。
「初回の上映まで、あと一時間です」
「君は時間しか見ておらんのか」
ヒトラーが言った。
「上映時間を守るのが映画館です」
「芸術は時計だけで動かん」
「上映機は時計で動きます」
「また身も蓋もない」
ヒトラーは階段を上った。
上からロビーを振り返ると、入口のポスターがガラス越しに見えた。
巨大な題名。
雪山。
中央の光。
館内の白い坂と比べると、ポスターの僧院は平たく、軽く見えた。
「外は山を見せているだけだ」
ヒトラーが言った。
「中は坂を見せています」
フランツが答えた。
「外のポスターには、上る理由がない。全部が最初から見えている」
ヴァイスが階段の下から言った。
「外では、まず映画があることを知らせなければなりません」
「だからといって、全部見せるな」
「全部見せても、映画そのものは見せていません」
「君はいつも、客が知らないことを残していると言いながら、知っているものを全部売ろうとする」
「客は買う前に、何を買うか知りたがります」
「理想郷を買わせるな」
「切符なら売ります」
ヒトラーは額へ手を当てた。
「本当に身も蓋もない」
シュタイナー親方が階段の壁を軽く叩いた。
「音が響くな」
ヒトラーはすぐに振り返った。
「空洞か」
「木枠が浅い」
「もっと厚くしろ」
「客席側へ出る」
「内側へ入れろ」
「配線がある」
「配線を避けろ」
「木枠が曲がる」
「曲げろ」
「それでも音が出る」
ヒトラーは壁の前に立ち、指で叩いた。
乾いた音がした。
「この軽さでは威厳がない」
ヴァイスが言った。
「客は壁を叩きません」
「叩かなくても軽さは分かる」
「分からない客もいます」
「分からん客に合わせるな」
「分からない客も切符を買います」
「君は少し黙れ」
ヴァイスは黙った。
ただし、納得した顔ではなかった。
ヒトラーは壁面の坂を見た。
白い建物へ上がる線。
ポスターの山とは違い、ここには客が進む方向があった。
「ポスターは戦艦だ」
突然、ヒトラーが言った。
ヴァイスが顔を上げた。
「戦艦ですか」
「大きく、重く、遠くから見え、近づくと細部が見えん。ゲッベルスは戦艦を入口へ貼った」
シュタイナー親方が脚立の上から言った。
「客が入るなら、結構な戦艦だ」
ヴァイスも頷いた。
「私もそう思います」
ヒトラーは2人を見た。
「この映画館には、海軍が多すぎる」
フランツはとうとう笑った。
ヒトラーが睨む。
「何がおかしい」
「いえ。戦艦の次に雲を直していると思っただけです」
「戦艦も雲も、置き場所を間違えれば邪魔になる」
「戦艦は置き場所を選びますね」
「だから大きすぎる主役は面倒なのだ」
シュタイナー親方は雲を一枚外した。
布が薄くなり、梁の影が少しだけ消えた。
「これでいい」
ヒトラーは見上げた。
「あと半分、右だ」
「変わらん」
「変わる」
「客には分からん」
「私には分かる」
「なら自分で動かせ」
ヒトラーは口を開きかけたが、脚立を見てやめた。
「半分だけ右だ」
シュタイナー親方は無言で雲を動かした。
仕上げの確認が終わる頃には、最初の上映を待つ客が外へ集まり始めていた。
ヴァイスは入口へ向かい、切符売場の準備を確認した。
シュタイナー親方は職人たちに短く指示を出した。
「道具を下げろ」
「布を畳め」
「釘を拾え」
「客を入れる」
ヒトラーは最後に、階段の下から白い坂を見上げた。
ポスターよりも静かだった。
大きな題名も、俳優の顔もない。
それでも、客がどこへ進むかは分かった。
「外よりはよい」
ヴァイスが戻ってきた。
「それはお褒めの言葉ですか」
「外が悪すぎるという意味だ」
「外のポスターで客が来て、中の装飾で所長が満足する。役割分担としては成功です」
「私はまだ満足しておらん」
「では、次の上映までに満足してください」
ヒトラーは帽子を取った。
「君は依頼主でなければ、もっと早く追い出している」
「依頼主だから、まだここにいます」
ヴァイスは平然としていた。
事務所へ戻る頃には、陽がさらに高くなっていた。
カピテーンが建物の前へ着くと、ユンゲが玄関の扉から顔を出した。
ヒトラーとフランツが入るのを待ち、電話メモを差し出す。
「ポルシェ博士からお電話がありました」
ヒトラーは外套を脱ぎながら聞いた。
「車か」
「戦車です」
ヒトラーの手が止まった。
「戦車だと?」
「次のコンペに出す案について、意匠を見てほしいとのことです。軍向けの説明図と模型を持って、近日中に来所したいそうです」
フランツが帽子を掛けた。
「今度は戦車ですか」
ヒトラーは所長室の机を見た。
防空展の控え。
戦闘機の展示図面。
新聞に載った戦艦。
映画館の白い坂。
その上に、今度は戦車の模型が加わるらしい。
「防空展の戦闘機、戦艦の話題ときて、次は戦車か」
ユンゲが言った。
「受けますか」
「断る理由はあるか」
「相談料は支払うとのことです」
奥からエルゼの声がした。
「ならば話は聞けます」
ヒトラーは深く息を吐いた。
「案件だけは国軍並みに揃ってきた」
フランツが笑った。
「その次は船かもしれません」
「今日はもう戦艦を見た」
「では、大砲でしょうか」
「余計なことを言うな。本当に来る」
ユンゲは電話メモの末尾を見た。
「模型は、かなり大きいそうです」
ヒトラーはゆっくりと彼女を見た。
「ポルシェ博士がそう言ったのか」
「はい」
「どの程度だ」
「詳細は聞いていません」
ヒトラーは目を閉じた。
「また詳細不明か」
所長室の机には、まだ大きな主役を置く場所が残っていなかった。
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