第118話 正面を潰す威厳
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
契約書がまとまったのは、正午の少し前だった。
エルゼは応接卓に書類を広げ、監修範囲を一項ずつ読み上げた。
「対象は、ポルシェⅤ号およびポルシェⅥ号の審査用模型、展示台、説明板、透視図、審査用写真の構図、ならびに会場での配置順序です」
ポルシェ博士は書類へ目を落としたまま頷いた。
「結構です」
「車両の機関、駆動装置、懸架装置、武装、防御、重量その他の技術的性能について、当事務所は責任を負いません」
ヒトラーが顔を上げた。
「そこまで書く必要があるのか」
「あります」
エルゼは即答した。
「所長はすでに点検口と砲塔位置へ口を出しています」
「見えたから言っただけだ」
「見えたものへ口を出すことと、責任を負うことは別です。ですから分けました」
ポルシェ博士が微笑んだ。
「よくできた契約書ですな」
ヒトラーは書類を見た。
「褒めると、さらに項目が増えますよ」
「必要なら増やします」
エルゼは真顔で答えた。
模型については、意匠事務所が一時的に預かることになった。
展示台の角度と高さは自由に変更できる。
説明板と透視図も、構成の変更を認める。
ただし模型本体へ手を加える場合は、ポルシェ側の承認を得る。
砲塔を外すこと。
砲身の角度を変えること。
履帯や転輪を加工すること。
点検扉を追加すること。
いずれも勝手には行わない。
「点検扉まで書くのか」
ヒトラーが言った。
「所長が一番触りそうですから」
「模型の点検扉を開けてどうする」
「開かないことを確認するために触るでしょう」
ヒトラーは反論しようとしたが、やめた。
ポルシェ博士は署名欄へ名前を書いた。
ヒトラーも署名する。
エルゼは2人の署名を確認すると、契約書をすぐに引き寄せた。
「これで成立です」
「まだインクが乾いていない」
ヒトラーが言った。
「乾くまで所長の前へ置いておく方が危険です」
搬入作業員は模型の受領書へ署名をもらうと、空になった運搬箱の蓋と固定材を貨物車へ戻した。
大型の箱そのものは、模型を返却する時に必要になるため、事務所の倉庫へ入れられた。
作業員たちはポルシェ博士へ短く挨拶し、貨物車でシュトゥットガルトへ戻っていった。
残ったのは、ポルシェ博士と設計助手2人だった。
製図室では、ポルシェⅤ号とポルシェⅥ号が別々の角度を向いている。
Ⅴ号の下には道路を示す鉛筆線。
Ⅵ号の前には、障害物に見立てた黒い紙片。
まだ試し置きにすぎなかったが、搬入された時のような大小2台には見えなくなっていた。
正午になると、ユンゲが玄関扉の札を裏返した。
ヨードルが工程表を閉じ、クレープスは鉛筆を削ったあと、削りくずを机から払った。
土曜日の事務所は午前勤務だった。
エルゼが帳簿を閉じる。
「本日の勤務は終了です」
ヒトラーは製図室を見た。
「まだ戦車が2台残っている」
「契約したので、月曜日まで逃げません」
「砲塔もある」
「模型です」
「分かっている」
「それなら結構です」
ブルクドルフたちは外套を取り、順に事務所を出ていった。
フランツだけは、ポルシェ側の助手たちと最後の寸法確認をしていた。
ヒトラーはポルシェ博士へ向き直った。
「ポルシェ博士」
「はい」
「シュトゥットガルトから来て、りんご茶だけで帰るつもりですか」
ポルシェ博士は腕時計を見た。
「午後には出る予定ですが、まだ余裕はあります」
「では昼食にしましょう。ミュンヘンまで来て、ミュンヘン料理を食べずに帰す理由はありません」
「御馳走していただけるのですかな」
「販売店以来、10年ぶりです。食事一回分くらいは出します」
エルゼが書類鞄を閉じながら言った。
「交際費にします」
ヒトラーは振り返った。
「今それを言わなくてよい」
「あとで領収書をなくされるよりましです」
「経費に必要なものをなくすことはせん」
「前にもそうおっしゃいました」
ポルシェ博士が笑った。
「やはり、契約書の味がしますな」
「だからコーヒーを出さなかったのです」
昼食には、ポルシェ博士と助手2人、それにフランツが同行した。
店は事務所から歩いて行ける距離にあった。
普段ヒトラーたちが利用する食堂より少し上等だが、観光客向けの店ほど飾り立ててはいない。
木張りの壁。
白い布を掛けたテーブル。
磨かれた真鍮の照明。
壁にはバイエルンの風景画と、古いビール醸造所の版画が並んでいた。
昼時の店内には、焼いた肉とキャベツ、パン、ビールの匂いが満ちている。
ヒトラーは入口で一度、鼻を動かした。
「脂の匂いはするが、前へ出すぎてはいない」
フランツが言った。
「まだ料理を見ていません」
「入口の匂いで、台所の考え方は分かる」
ポルシェ博士は店内を見回した。
「販売店と同じですかな」
「販売店は客に車を買わせる。料理店は、次の皿を頼ませる。違います」
「入口の順序は同じでしょう」
「その言い方を覚えましたね」
テーブルに着くと、ポルシェ博士と助手たちは豚肉のローストを頼んだ。
ジャガイモ団子と赤キャベツが添えられる。
フランツも同じものにした。
ヒトラーは仔牛肉のローストを選んだ。
ソースは別の小さな器に入れるよう注文し、脂身の少ない部分を頼んだ。
ポルシェ博士がメニューを置いた。
「所長は豚肉を召し上がらないのですかな」
「肉が嫌いなのではありません」
「脂が?」
「脂が役者より先に舞台へ出る料理が嫌いなのです」
ポルシェ博士は少し考えた。
ヒトラーは続けた。
「オペラ座のような顔をしていても、見せるべきは役者だと心得ているのならよろしい。舞台装置が立派でも、主役の台詞を消してはいけない」
「料理にも主役と舞台がある」
「料理だからあります」
「機械にも?」
「当然です」
「戦車にも?」
ヒトラーは水を一口飲んだ。
「それを午前中から話しているのです」
料理が運ばれてきた。
豚肉の表面には濃い焼き色がつき、ソースが皿の底へ広がっている。
ヒトラーはポルシェ博士の皿を見た。
「それはよろしい」
「何がです」
「肉が脂に沈んでいない。ソースも横にいる。役者が見える」
「合格ですかな」
「私が食べるのではありません」
「しかし審査はする」
「見えたからです」
フランツは食事を始めた。
所長は戦車の点検口も料理の脂も、同じ調子で見つける。
そこだけは、10年前から変わっていない。
ポルシェ博士の助手の一人が、豚肉を切りながら言った。
「ポルシェⅥ号は、模型でもずいぶん大きく見えます。まるで陸を駆ける戦艦です」
ヒトラーはスプーンを置いた。
「その言い方はよろしくない」
助手は手を止めた。
「何か問題が?」
「戦車と戦艦は違う」
「大きな砲と厚い装甲を持つという意味ですが」
「それは新聞が使う比喩だ。戦艦は橋を渡らない。道路を壊さない。泥にはまって牽引車を待つこともない」
ポルシェ博士が言った。
「しかし、大きな砲を運び、防御力を持たせるために車体が大きくなる点は似ています」
「機械としてはそうでしょう」
ヒトラーは仔牛肉を切った。
「ですが、戦艦には海があります。正面を邪魔するものがない」
「だから形が重要になる?」
「形はどこでも重要です。ただ戦艦は、遠くから見ても言い訳ができない」
フランツが尋ねた。
「言い訳ですか」
「建物なら周囲の街路や隣の建物を理由にできる。戦車なら地形や用途を理由にできる。だが海上には、艦の正面を隠すものがない」
ポルシェ博士はナイフを置いた。
「所長は、どの戦艦がよいと思われますかな」
ヒトラーは少し考えた。
「ビスマルク級です」
「ドイツ艦だからではなく?」
「当然でしょう。国旗で船体の釣り合いは変わりません」
「どこがよいのです」
「前と後ろに重さがある」
ヒトラーはテーブルの上へ、パンを4切れ置いた。
2切れを前。
2切れを後ろ。
中央に塩入れを置く。
「主砲を前後へ分け、その間に艦橋と煙突が立つ。艦首から艦尾まで、全体が自分の長さを心得ている」
助手の一人が言った。
「主砲を一方へ集中した方が、防御上は――」
ヒトラーは手を上げた。
「砲の威力や防御の話はしていない」
助手は黙った。
ポルシェ博士は少し笑った。
「正面と威厳の話ですな」
「そうです」
ヒトラーはパンを並べ直した。
「キング・ジョージⅤ世級も悪くありません」
今度はパンを前に2つ、後ろに1つ置いた。
「前が少し重い。だが艦尾を捨ててはいない。後ろにも主砲があり、船体全体が戦艦として終わっている」
「終わっている?」
「艦首から始まり、中央を通り、艦尾で終わる。最後まで役割があるという意味です」
ポルシェ博士が言った。
「ネルソン級は違うと」
ヒトラーはパンを3つ、塩入れの前へ集めた。
後ろには何も置かなかった。
「これは威厳を前へ集めすぎています」
「主砲を集中した結果です」
「結果として、艦橋と艦尾が主砲を運ぶ台に見える。前を向いているのに、正面が見えない」
フランツがパンの並びを見た。
「砲塔が正面を隠しているのですか」
「隠しているというより、押し潰している」
ヒトラーは塩入れの前に集めたパンを指した。
「威厳が大きすぎて、艦そのものの顔が消えている」
ポルシェ博士が言った。
「リシュリュー級も同じですかな」
「ネルソン級より整理されています。前部の主砲塔も形としてはまとまっている。フランス人は合理を飾りのように見せることがありますから」
「褒めているのですか」
「半分は」
ヒトラーはパンを2つだけ前へ置いた。
「ですが結局、前へ集めすぎています。主砲の威厳が正面を潰している。船体が、砲塔の後ろへ続く付属物に見える」
助手が尋ねた。
「日本の戦艦はどうです」
「大体の日本艦は前後に流れがある。古い形だが、艦全体が見える」
「新しい大型戦艦は?」
「新聞では主砲の大きさばかりだ。艦影も写真も十分に出ていない」
ヒトラーは眉を寄せた。
「主砲だけが先に有名になる艦は、よい始まりではない」
ポルシェ博士が言った。
「実物を見ていないのに厳しいですな」
「見ていないから、記事の見せ方を評しているのです」
フランツが言った。
「アメリカの戦艦はどうでしょう」
「ノース・カロライナ級や新しいサウスダコタ級は、前に2基、後ろに1基だ。キング・ジョージⅤ世級と同じく、艦尾を捨ててはいない」
「では高い評価を?」
「艦橋の周りに必要なものを詰め込みすぎている」
「アメリカらしい?」
「アメリカは、余白を見ると設備を置く」
ポルシェ博士は笑った。
「所長は各国の艦を、人間の性格のように見ますな」
「国の事情が形へ出ているだけです」
「では、私の案のⅤ号とⅥ号には、何が出ていますか」
ヒトラーは食べる手を止めた。
テーブルの上には、前後へ分けられたパンと、前へ集められたパンが残っている。
「ポルシェ博士です」
「私ですか」
「どちらも、最初にあなたの戦車だと分かる」
「設計者が同じですから」
「設計所の展示会なら、それでよいでしょう。しかし国防省の審査では、ポルシェ博士が2台並んでいるように見えてはいけない」
「私は1人で十分です」
「私もそう思います」
助手たちが笑った。
ヒトラーは前へ集めたパンを見た。
「Ⅵ号は、今のままではリシュリュー級に近い」
ポルシェ博士の表情が少し変わった。
「砲塔が前へ出すぎていると?」
「位置だけの話ではありません。砲と正面装甲の重さが、車体の残りを従わせているように見える」
「重突破戦車です。強く見える必要があります」
「威厳を前へ集めれば、強く見えるとは限らない。正面を潰せば、ただ重く見える」
「ビスマルク級のように、前後へ分けることはできません」
「戦車へ後部砲塔を足せとは言っていません」
ヒトラーは少し熱を込めて答えた。
「車体、砲塔、履帯、砲身が、同じ役割を語るように見せるのです。砲塔だけが突破し、車体がその後ろからついて行く顔ではいけない」
ポルシェ博士はしばらく黙っていた。
「Ⅴ号はどうです」
「こちらは逆です」
「逆?」
「車体は標準中戦車として前へ進もうとしている。だが砲塔が、Ⅵ号の弟であることを主張している」
「同じ系統の砲塔設計ですから」
「だから兄弟に見える」
「設計上の共通性は、量産や整備には有利です」
「それは説明板に書けばよい。模型の第一印象まで兄弟にする必要はありません」
料理が少し冷めていた。
ヒトラーはソースを少量だけ仔牛肉へかけた。
脂は前へ出ず、肉の香りが残っている。
「戦艦は海の上へ置けば、それだけで艦全体が見える」
ポルシェ博士が言った。
「戦車には海がない」
「陸があります」
「今朝の模型にも展示台がありました」
「板があるだけです。陸ではない」
ヒトラーはナイフとフォークを置いた。
「Ⅴ号には、道路と部隊が必要です。進み続ける車両だと分からせる」
「Ⅵ号には?」
「道路の終わる場所です」
「障害物を置くのですかな」
「置くだけでは飾りになります。Ⅵ号が、そこへ投入される理由を見せる」
ポルシェ博士はグラスを持ったまま考えた。
「工兵や回収車両も?」
「説明図には必要です」
「重突破戦車を主役に見せながら、周囲の車両も出すのですか」
「主役を孤立させることと、主役を見せることは違います」
ヒトラーは、先ほどの料理の話を思い出したように皿を指した。
「オペラ座のような顔をしていても、見せるべきは役者だと心得ているのならよろしい。しかし役者だけを舞台の中央に立たせ、床も背景も消せば、何の芝居か分からなくなる」
「Ⅵ号には舞台が必要だと」
「Ⅴ号にもです。違う舞台が必要なのです」
ポルシェ博士はゆっくり頷いた。
「それなら、同じ設計思想を隠す必要はありませんな」
「隠してはいけません」
「役割を先に見せ、その後で共通性を示す」
「そうです」
「ロンメル将軍にも?」
ヒトラーは少し顔をしかめた。
「将軍は模型より、試作車の下へ潜るでしょう」
「実用審査委員長ですからな」
「だから模型で騙したと思わせてはいけない。見せる順序を正しくし、その後で好きなだけ疑ってもらう」
「電気駆動も?」
「特にそれをです」
ポルシェ博士は笑った。
「所長は、私の味方ではないのですな」
「意匠の味方です」
「厳しい契約です」
「エルゼの契約書よりは、まろやかでしょう」
昼食を終えた一行は、もう一度事務所へ戻った。
ポルシェ博士と助手たちは、図面鞄と外套を取りに入った。
受付は閉じられ、製図室の机上灯も消されている。
窓から入る午後の光だけが、2台の模型を照らしていた。
Ⅴ号は道路の線に沿って斜めを向き、Ⅵ号は黒い紙片の前で正面を向いている。
ポルシェ博士は2台をしばらく眺めた。
「所長」
「はい」
「ネルソン級やリシュリュー級のようにはしないでください」
ヒトラーは振り返った。
「砲塔を後ろへ動かせという依頼ではありませんよ」
「分かっています。威厳で正面を潰さないように、という意味でしょう」
「お解りなら結構です」
ポルシェ博士は帽子をかぶった。
「模型をお願いします」
「預かったのは模型と説明資料です。戦車そのものを預けた顔はしないでください」
「正しく見えるようになれば、それで十分です」
助手たちとポルシェ博士が事務所を出る。
表の通りで、ポルシェワーゲンのエンジンがかかった。
車が走り去った後、ヒトラーは製図室へ戻った。
2台は静かに置かれている。
砲の威力も、装甲の厚さも、走行性能も、模型からは分からない。
分かるのは、2台が何を見せようとしているかだけだった。
ヒトラーはポルシェⅥ号の前に置かれた黒い紙片を、少し左へ動かした。
次にⅤ号の道路線を長く引き直した。
「威厳は正面ではない」
誰もいない製図室で、彼は呟いた。
「正面を潰さずに残ったものが、威厳なのだ」
窓の外で、午後の光が少しだけ明るくなった。
机の上の2台は、まだ正しく見える途中だった。
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