第119話 観光地ではない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年10月25日、日曜日。
朝のミュンヘンには、薄い雲がかかっていた。
雨になるほど暗くはない。
しかし日差しは弱く、窓の外の屋根も街路樹も、色を少し失って見えた。
ヒトラーは自宅の食卓で朝刊を広げていた。
傍らには、薄く切った黒パンとゆで卵、りんごの保存煮。それにウイキョウ茶がある。
ブロンディは食卓から少し離れたところに座っていた。
すでに自分の朝食は済ませている。
それでも、ヒトラーが卵の殻をむくたび、わずかに鼻を動かした。
「君の分は終わった」
ブロンディは動かなかった。
「座っていれば、追加が出ると思っているな」
耳が少し動いた。
ヒトラーは卵を半分に切り、塩をわずかに振った。
朝刊の一面には、相変わらず太平洋の地図が載っている。
ガダルカナル島。
ヘンダーソン飛行場。
日本軍の夜間輸送。
アメリカ軍の航空攻撃。
日本側が飛行場奪取のため、大規模な地上攻撃を開始した可能性があると書かれていた。
だが、兵力も戦果も明らかではない。
「また詳細不明か」
ヒトラーは記事を読み進めた。
日本側は夜間に前進し、アメリカ側は昼間の航空優勢を維持している。
海上では、双方の空母部隊が行動しているとの観測もある。
位置は不明。
規模も不明。
交戦の有無も不明。
「分かっていることは、騒がしいということだけだ」
ブロンディは新聞に興味を示さなかった。
国際面には、エレノア・ルーズベルトのイギリス訪問の続報があった。
病院。
女性労働者の施設。
軍需工場。
民間防衛組織。
アメリカ大統領夫人は、ロンドン滞在中に多くの施設を視察するとされていた。
ヒトラーは写真を見た。
「この人は、どこへ行っても視察する場所を見つける」
ブロンディが立ち上がった。
「まだ散歩ではない」
国内面には、ロンメルの人事記事が載っていた。
本日付で、国防省新型戦車実用審査委員長に正式就任。
療養を終えたロンメル将軍は、次期標準中戦車および重突破戦車の実用審査を統括する。
ヒトラーは昨日、事務所に残してきた2台の模型を思い出した。
ポルシェⅤ号。
ポルシェⅥ号。
同じ灰色。
同じ設計者。
同じ技術思想。
だが、異なる役割。
「日曜日から委員長になって、何を審査するのだ」
ブロンディはもう一度、入口の方を見た。
「分かった。散歩だ」
ヒトラーは朝刊を折った。
「ただし、新聞を読ませなかった分だけ長く歩くと思うな」
ブロンディの尻尾が動いた。
朝食を終えると、ヒトラーは外套を着た。
帽子をかぶり、ブロンディに首輪とリードをつける。
玄関を出ると、空気は思ったより冷たかった。
歩道には、前日の風で落ちた葉が残っている。
日曜日の街は、平日ほど急いでいなかった。
教会へ向かう人。
新聞を小脇に抱えた男。
買い物袋を持つ女性。
子どもの手を引く家族。
ブロンディは初めのうち、ヒトラーの左横をおとなしく歩いていた。
角を曲がるたび、匂いを確かめる。
時折立ち止まり、また進む。
ヒトラーは最初、自宅近くを一周するつもりだった。
だが、二つ目の通りを過ぎたところで、少し遠回りをした。
さらに次の角でも、家とは反対へ曲がった。
「運動が足りん」
ブロンディに向かって言った。
ブロンディは前を見て歩いている。
「私が行きたいのではない。君の散歩だ」
やがて、リヒトシュピール・パラストの看板が見えた。
映画館の前には、午前の上映を待つ客が集まり始めている。
『失われた地平線』の再上映は続いていた。
入口には、チベット風の柱と布飾り。
奥へ進むにつれて、白い宮殿を思わせる装飾が見える。
ただし正面からすべてを見せず、階段と通路の先に少しずつ姿を現すよう配置されていた。
ヒトラーは通りの反対側で一度立ち止まった。
「少し近くを通るだけだ」
ブロンディは映画館の方へ歩いた。
「君が決めるな」
入口前では、若い男女が写真を撮っていた。
女性がチベット風の柱の脇に立ち、男性が小型カメラを構えている。
その後ろには、子どもを連れた家族が順番を待っていた。
別の夫婦は、白い宮殿が見える位置を探して、入口の中央を行ったり来たりしている。
ヒトラーの眉が寄った。
「何をしているのだ」
ブロンディは写真を撮る人々を見た。
「映画を見る前に、入口を塞いでいる」
映画館の通用口扉が開き、ブルーノ・ヴァイスが出てきた。
相変わらず髪はきれいに撫でつけられ、靴は日曜日の朝からよく磨かれている。
ヴァイスはヒトラーとブロンディを見つけると、満足そうな顔をした。
「所長。お見えになると思っていました」
「なぜだ」
「昨日、装飾の最終調整が終わりましたから」
「確認に来たのではない。犬の散歩だ」
ヴァイスはブロンディを見た。
「ずいぶん遠くまで歩く犬ですな」
「運動が必要なのだ」
「映画館の前を通る運動ですか」
ヒトラーは答えず、入口を見た。
また一組、写真を撮り始めている。
ヴァイスはそちらへ顎を向けた。
「好評ですよ」
「何がだ」
「装飾です。上映時刻より早く来て、ゆっくり見る客もいる。写真を撮る客も増えました」
「私は観光地を作ったのではない」
「分かっています」
「威厳を作ったのだ」
「その威厳が好評なんでしょう」
「背景にされている」
「背景としても好評です」
ヒトラーはヴァイスを見た。
ヴァイスは少しも悪びれていない。
写真を撮り終えた男女は、笑いながら映画館へ入っていった。
後ろで待っていた家族が、今度は同じ場所へ立つ。
子どもが柱へ手を置き、父親らしい男が姿勢を直してやる。
ヒトラーはしばらくそれを見ていた。
装飾を壊しているわけではない。
映画を見ずに帰るわけでもない。
客は入口で立ち止まり、宮殿を眺め、写真を撮り、それから館内へ進んでいる。
順序そのものは、意図した通りだった。
「客入りはどうだ」
「良いです」
ヴァイスは即答した。
「再上映にしては、かなり良い。装飾目当ての客もいます」
「客入りが良いことは、意匠が正しい証明にはならん」
「間違っている証明にもなりません」
「それを何度言うつもりだ」
「所長が何度も同じことをおっしゃるので」
ヴァイスは入口脇の掲示板を指した。
そこには上映時刻と料金。
その下に、小さく「新装飾も好評」と書かれている。
ヒトラーは顔をしかめた。
「誰が書いた」
「広告社です」
「ゲッベルスだな」
「よく分かりましたな」
「分からない方がおかしい」
その時、写真を撮ろうとしていた別の客が、入口の中央へ三脚を置いた。
入館しようとした人々が左右へ分かれる。
ヒトラーはすぐにそちらを指した。
「見ろ。中央を塞いでいる」
ヴァイスも見た。
「写真を撮っているだけでしょう」
「撮るだけで入口が広がるのか」
「係員に動かさせます」
「柱の外側に撮影位置を決めろ。待つ者は壁際へ並ばせる。入口の正面には立たせるな」
ヴァイスがヒトラーを見る。
「写真を撮る場所まで設計するんですか」
「決めなければ、客が勝手に中央を作る」
「観光地ではないのでは」
「観光地ではない」
「では、撮影場所は要らないでしょう」
「すでに撮っている。ならば邪魔にならんようにしろ」
ヴァイスは笑いをこらえるような顔をした。
「分かりました。今日中に印をつけさせます」
「床へ安い色の線を引くな。柱と壁の位置で分からせろ」
「看板を出した方が簡単です」
「看板を増やすな」
「注文が多いですな」
「入口が狭いからだ」
ヴァイスは係員を呼び、撮影客を柱の外側へ誘導するよう伝えた。
三脚が移される。
入口の中央が再び空いた。
ヒトラーは少しだけ満足した。
ヴァイスが扉を示した。
「今日はご覧になりますか」
ヒトラーはブロンディを見た。
「犬を連れて映画を見る者があるか」
「事務室で預かっても構いませんよ」
「君に預けて、上映後に売店の看板犬にされては困る」
「犬を飾る趣味はありません」
「客が増えると分かれば、君は検討する」
ヴァイスはすぐには否定しなかった。
「少なくとも、入場券は売りません」
「当たり前だ」
ヒトラーは装飾をもう一度見た。
写真を撮る家族の向こうに、白い宮殿がある。
遠い山間の理想郷。
その入口で、ミュンヘンの家族が笑っている。
「装飾は崩れていないな」
「毎朝確認しています」
「布は」
「固定し直しました」
「非常灯は隠していないな」
「シュタイナー親方に何度も言われました」
「ならよい」
ヴァイスは微笑んだ。
「つまり、御満足いただけた」
「そうは言っていない」
「客入りは良い。装飾は崩れていない。入口も空いた。それでも?」
「写真を撮っている」
「それが何より気に入らない?」
ヒトラーは少し考えた。
「皆、笑いすぎている」
「記念写真ですから」
「威厳の前で歯を見せるな」
「そこまでは指示できませんよ」
ヒトラーはブロンディのリードを少し引いた。
「帰るぞ」
ブロンディは映画館の入口を一度振り返った。
ヴァイスが言った。
「また来週、お待ちしています」
「待つな」
「犬の散歩で偶然通られるでしょう」
ヒトラーは答えず、映画館を離れた。
歩き出してしばらくすると、昼が近くなった。
ブロンディはまだ元気だったが、歩調は朝より落ち着いている。
ヒトラーは行きつけの食堂へ向かった。
店内は日曜日らしく、家族連れが多かった。
平日には労働者や商店員が座る長机にも、今日は子どもがいる。
煮込み料理の匂い。
焼いた肉。
ジャガイモ。
パン。
そして、わずかに石炭ストーブの匂い。
店の主人はヒトラーとブロンディを見ると、壁際の席を示した。
「今日は一緒ですか」
「散歩の途中だ」
「映画館まで行ったのですか」
ヒトラーは足を止めた。
「誰から聞いた」
「誰からも。そっち方面の道から来たからさ」
「犬を連れて映画を見る者があるか」
「見たとは言ってないよ」
主人は笑い、机の下へブロンディ用の水を置いた。
「いつものにしますか」
「スープと、脂の少ない肉を少し。ソースは別にしてくれ」
「犬には?」
「味をつけていない肉があれば、それを少しとジャガイモを」
「所長より豪勢になりそうだ」
「脂身は出すな」
「犬は喜ぶと思うが」
「喜ぶことと、よいことは別だ」
ブロンディは水を飲んだ。
ヒトラーは新聞を借り、壁際の席へ座った。
紙面には、今朝読んだものと同じ太平洋の記事。
ロンメルの人事。
そして小さな映画広告。
『失われた地平線』
リヒトシュピール・パラスト。
新装飾も好評。
ヒトラーは広告を折り、見えないようにした。
主人がスープを運んできた。
「装飾、本当に評判らしいな」
「観光地ではない」
「映画館だろう」
「分かっているなら、それでいい」
「写真を撮っている人が多いそうじゃないか」
「入口を塞がなければ構わん」
主人は少し意外そうにした。
「そこは構わないのか」
「構わんことはない。だが追い出すほどでもない」
「難しいな」
「君が簡単に言いすぎるのだ」
スープは温かく、塩気も強すぎなかった。
ヒトラーはスプーンで一口飲み、何も言わなかった。
主人はそれを見て、
「今日は文句がないようだ」
と言った。
「文句がない時まで話しかけるな」
「それなら静かに食べてくれ」
やがて肉料理が来た。
肉は脂身の少ないところを薄く切り、ソースは小さな器に分けてある。
付け合わせはジャガイモと温野菜。
ヒトラーは皿を見た。
「よろしい」
主人が眉を上げた。
「今日は褒める日か」
「オペラ座のような顔をしていても、見せるべきは役者だと心得ているのならよろしい」
「肉の話かい」
「他に何がある」
「朝から映画館へ行った人の話だからね」
主人はブロンディの前にも、小さな皿を置いた。
味のついていない肉を細く切ったものと、茹でたジャガイモをほぐしたものだった。
ブロンディはヒトラーを見る。
「待て」
ブロンディは動かなかった。
数秒後、ヒトラーは言った。
「よし」
ブロンディはすぐに食べ始めた。
主人が笑った。
「犬の方が素直だ」
「食事の前だけだ」
昼食を終えると、ヒトラーは自宅へ戻る道を歩き始めた。
空は朝より明るくなっていた。
雲の間から、ときどき薄い日差しが落ちる。
公園へ続く角へ来た時、ブロンディがそちらを見た。
ヒトラーはまっすぐ歩こうとした。
ブロンディは少し遅れた。
「家は反対だ」
尻尾が動く。
「映画館まで歩いた。昼も食べた。十分だろう」
ブロンディは公園の方を見続けた。
ヒトラーはしばらく動かなかった。
「食後すぐに寝かせるのはよくない」
誰に言うでもなく呟いた。
「少しだけだ」
公園には、日曜日の午後を過ごす人々がいた。
ベンチに座る老人。
子どもを遊ばせる家族。
新聞を読む男。
何頭かの犬もいる。
ブロンディは公園へ入った途端、足取りを速めた。
遠くにいた一頭の犬が、こちらへ顔を向ける。
灰色がかった大きな雑種犬だった。
耳は片方だけ少し垂れ、体格はブロンディと同じくらい。
何度かこの公園で会ったことがある。
相手の犬もブロンディに気づき、飼い主を引くように近づいてきた。
「引くな。見えている」
ブロンディは前へ出た。
2頭は鼻を近づけ、互いの匂いを確かめた。
次の瞬間、ブロンディが前脚を低くした。
相手の犬も同じ姿勢を取る。
それから2頭は、落ち葉を蹴り上げて走り出した。
ブロンディが追う。
相手が曲がる。
今度は相手が追い、ブロンディが逃げる。
ヒトラーは絡まりかけたリードを外した。
「遠くへ行くな」
2頭は聞いていなかった。
円を描いて走り、木の間を抜け、また戻ってくる。
事務所で静かに伏せている時とは、まるで違う。
ブロンディは口を開け、尻尾を大きく動かし、何度も相手の犬へ飛びかかるような仕草をした。
相手の飼い主がヒトラーの横へ来た。
40代ほどの男だった。
厚い上着を着て、帽子を少し後ろへずらしている。
「今日はずいぶん元気ですね」
「いつものことだ」
「家では静かなんですか」
「静かにさせている」
「それで、ここへ来ると全部出すんでしょうな」
ヒトラーは答えなかった。
ブロンディが相手の犬に追いつき、横へ並んで走る。
「仲がいいですね、この2頭は」
男が言った。
「犬同士のことは分からん」
「でも、毎回こうでしょう」
「会えば走る。それだけだ」
「それを仲がいいと言うんですよ」
ヒトラーは面倒そうに男を見た。
男は気づかないのか、気にしないのか、話を続けた。
「お宅の犬、前より大きくなりましたね」
「まだ成長している」
「足も速くなった」
「体重が増えただけではないか」
「よく見てますね」
「飼っているのだから当然だ」
ブロンディが少し離れすぎた。
ヒトラーはすぐに声を上げた。
「ブロンディ。戻れ」
ブロンディは一度振り返り、相手の犬と一緒に戻ってきた。
だがヒトラーの前で止まらず、また反対方向へ走る。
男が笑った。
「戻っては来ましたね」
「止まれとは言っていない」
「次はそう言った方がいい」
「助言は要らん」
少し沈黙があった。
ヒトラーは、このまま男が黙ることを期待した。
しかし男は公園の外、映画館のある方角を見た。
「さっき、リヒトシュピール・パラストの前を通りました」
ヒトラーは顔を動かさなかった。
「ずいぶん立派になりましたね」
「立派になったのではない。映画へ入る前の正面が整えられたのだ」
「写真を撮っている人が大勢いました」
「知っている」
「評判なんでしょうな」
「観光地ではない」
男は少し不思議そうな顔をした。
「でも、皆楽しそうでしたよ」
ヒトラーは走るブロンディを見た。
朝、映画館の前で写真を撮っていた家族も楽しそうだった。
今、ブロンディも同じくらい楽しそうに走っている。
どちらも、ヒトラーが決めた使い方ではない。
だが、入口は塞がれていなかった。
犬も公園の外へは出ていない。
「楽しむのは構わん」
ヒトラーは言った。
「通行の邪魔をしなければ」
男は笑った。
「犬にも同じですか」
「公園の外へ出なければな」
2頭はしばらく走り続けた。
やがてブロンディの速さが落ち、舌を出したままヒトラーのところへ戻ってきた。
相手の犬も飼い主の足元へ戻る。
ブロンディは座ったが、まだ相手の犬を見て尻尾を動かしている。
「満足したか、ブロンディ」
男が言った。
「満足した顔ですね」
「疲れただけだ」
「では、また来週」
ヒトラーはすぐには答えなかった。
「予定は決めていない」
「私は、日曜の昼過ぎならだいたいここにいます」
「そうか」
「犬たちは決めているようですが」
ヒトラーはブロンディを見た。
相手の犬が飼い主と歩き始めると、ブロンディは名残惜しそうにその後ろ姿を見ている。
「こちらの予定を犬に決めさせる気はない」
男は帽子を上げて別れた。
「では、また」
ヒトラーは返事をしなかった。
ブロンディにリードをつけ直す。
「帰るぞ」
帰り道のブロンディは、朝とは違って落ち着いていた。
ヒトラーの少し前を歩き、落ち葉を追わない。
他の犬の匂いを見つけても、強く引っ張らない。
「人間の話まで私に聞かせるとは思わなかった」
ブロンディが一度振り返る。
「君のためだ」
尻尾が動いた。
「次は自分で会話をしろ」
ブロンディは前を向いた。
午後遅く、自宅へ戻った。
ブロンディは水を飲むと、窓際の敷物へ身体を落ち着けた。
公園で走り回った疲れが残っているのか、前脚へ顎を載せ、すぐに目を閉じる。
ヒトラーは外套を掛けた。
「人間の話まで私に聞かせて、自分は眠るのか」
ブロンディの耳が一度だけ動いた。
ヒトラーはウイキョウ茶を淹れ、ラジオをつけた。
午後のニュースが始まっていた。
最初は太平洋方面だった。
ガダルカナル島では、日本軍の攻撃が激しくなっている。
ヘンダーソン飛行場周辺で地上戦が続き、夜間には日本海軍による輸送と砲撃が行われている模様。
海上でも日米両軍の艦隊が行動中との情報がある。
ただし位置、兵力、交戦の有無、戦果はいずれも確認されていない。
ヒトラーはカップを持ったまま、ラジオを見た。
「昼はアメリカ、夜は日本。日曜日まで同じか」
ブロンディは眠っていた。
放送は国内ニュースへ移った。
本日付で、ロンメル将軍が国防省新型戦車実用審査委員長へ正式に就任した。
療養を終えた将軍は、日曜日にもかかわらず午前中から国防省へ登庁し、次期標準中戦車および重突破戦車に関する各社提出資料の検討に着手したという。
ヒトラーは茶を飲む手を止めた。
「本当に働いたのか」
放送は続いた。
ロンメル将軍は、戦車は単体の性能だけでなく、鉄道輸送、燃料補給、野戦整備、回収、乗員教育を含め、部隊の一部として評価されなければならないと述べた。
ヒトラーは眉を寄せた。
昨日、ポルシェ博士と見た模型を思い出す。
ポルシェⅤ号。
ポルシェⅥ号。
正面。
威厳。
道路。
障害物。
そして模型だけでは見えない、燃料と整備と乗員。
「ポルシェ博士の説明板を、最初から全部読む気だな」
ブロンディが寝返りを打った。
「君には関係ないか」
今度は耳も動かなかった。
ヒトラーは窓の外を見た。
映画館では、客がチベット風の柱を背景に笑っていた。
公園では、ブロンディが仲のよい犬と落ち葉の上を走った。
ベルリンでは、ロンメルが日曜日から戦車の書類を読んでいる。
太平洋では、日曜日もなく、飛行場と海をめぐる戦いが続いている。
ヒトラーはラジオの音量を少し下げた。
「観光地ではない。休日でもない。どこも、自分で決めた名前の通りには使われん」
ブロンディは静かに眠っていた。
ヒトラーは朝刊をもう一度開き、ロンメルの記事を見た。
「明日は、こちらも仕事だ」
日曜日に休んでいたのは、製図室に残された2台の模型だけだった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。