第121話 暖房は問題ない
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年11月5日、木曜日。
11月に入ると、ミュンヘンの朝は急に色を失った。
雲は低く、通りの建物は薄い灰色に沈んでいる。石畳には夜露が残り、通勤する人々の靴が、乾かない音を立てていた。
ヒトラーはブロンディを連れ、事務所の正面玄関を入った。
ユンゲはすでに受付にいた。
「おはようございます、所長」
「おはよう」
「おはよう、ブロンディ」
ブロンディはユンゲの声に耳を動かしたが、足を止めなかった。毎朝通っている場所なので、もう受付を珍しがることもない。そのまま廊下を進み、所長室の扉の前で振り返った。
「勝手に先へ行くな」
ヒトラーが扉を開けると、ブロンディは中へ入り、いつもの敷物の上へ座った。
机の右前方には、まだ新聞がなかった。
ヒトラーは上着を脱ぎながら、机の端を見た。
「新聞は」
「いま、お持ちします」
ユンゲは受付へ戻り、朝刊を抱えてきた。
一面には、太い見出しが二つ並んでいた。
日本、大東亜省を新設。
アメリカ中間選挙、共和党が伸長。
その下には、日本の占領地域を示した地図と、アメリカ議会の議席数を示す表が載っていた。
ヒトラーは椅子へ座り、まず日本の記事を読んだ。
「土地を増やしたので、役所も増やしたのか」
ユンゲは記録帳を開いた。
「占領地域の行政を統一するためだそうです」
「統一するために組織を一つ増やす。役人は棚を整理するために、もう一つ棚を買う」
「管轄が分かれていたのでは」
「分かれた管轄をまとめるなら、古い机を減らせ。新しい看板だけ掛けても、廊下を歩く者が増えるだけだ」
ヒトラーは隣の記事へ目を移した。
アメリカ中間選挙では、民主党が議会の多数を維持する見通しだが、共和党が大きく議席を増やしている。太平洋戦争の遂行、物価、軍需生産、徴兵、政権の長期化が争点となったと書かれていた。
「日本は省を増やし、アメリカは民主党の椅子を減らした」
「選挙ですから」
「世界は朝から家具の配置を変えている」
ブロンディが敷物の上で前脚を伸ばした。
ヒトラーは一面を折り返し、国際面、経済面、文化欄と順に目を通した。
地方欄へ移ったところで、指が止まった。
紙面の下方に、黒い枠で囲まれた死亡広告があった。
オットー・グラーフ。
ミュンヘンにおいて長年、店舗、会館、劇場その他の装飾設計に携わった夫、父、祖父が、85歳にて安らかに生涯を閉じたことを、ここにお知らせいたします。
葬儀は11月7日土曜日、午前10時より、聖ミヒャエル教会にて執り行います。
ヒトラーはしばらく、その小さな欄を見ていた。
ユンゲは、新聞を読む音が途切れたことに気づいた。
「何かありましたか」
「グラーフが死んだ」
ユンゲはすぐには誰のことか分からなかった。
「…グラーフさんですか?」
「オットー・グラーフだ」
製図室から入ってきたエルゼが、その名に反応した。
「グラーフさんが?」
ヒトラーは死亡広告を指した。
エルゼは机の横に立ち、静かに読んだ。
「85歳」
「私を追い出してから、20年以上生きた」
「追い出しただけではありません」
エルゼは紙面から顔を上げた。
「部屋を紹介し、仕事先をいくつか回し、当座の費用まで出してくださいました」
「外注先を一つ作っただけだ」
「その外注先が、20年以上続きました」
ヒトラーは新聞を閉じなかった。
「葬儀は土曜日か」
「午前10時ですね」
ユンゲが予定帳を確認した。
「午前中は、ポルシェ博士の来訪に備えた最終確認となっています。ただし博士の来訪日は、まだ正式には決まっていません」
「土曜日には来ん」
「確認しておきます」
その時、受付側から工具箱の金具が鳴った。
ヨハネス・ヘンチェルが入ってきた。
厚い作業上着を着て、片手に点検鞄、もう片方に記録板を持っている。
「おはようございます。暖房設備の確認に来ました」
ヒトラーは新聞を机に置いた。
「遅い」
ユンゲが時計を見た。
「予定時刻の5分前です」
「冬は予定より早く来る」
ヘンチェルは平然と答えた。
「暖房は予定通り動いています」
製図室では、ポルシェⅤ号とポルシェⅥ号の模型が、それぞれ完成に近づいた展示台へ置かれていた。
Ⅴ号の台座は低く、横に長い。説明板には道路を進む車列、整備中の車両、貨車へ積載された姿を示す写真が並ぶ予定だった。
Ⅵ号の台座は短く、周囲の余白が広い。巨大な砲や厚い前面装甲を英雄的に見せる写真は外され、橋梁の確認、道路幅、輸送、工兵作業を示す資料が選ばれている。
ベルリンの国防省へ送るための梱包箱も、壁際に用意されていた。
ポルシェ博士自身が最終確認し、問題がなければ、そのまま模型、展示台、説明板、透視図、写真資料を梱包して発送する。
クレープスは最後の透視図を製図台へ広げていた。
ヨードルは博士の確認日、梱包日、貨物便の時刻を工程表に書き込んでいる。
カイテルは国防省側の受領担当者から届いた確認書を読んでいた。
ブルクドルフはⅥ号模型の固定具を調べ、揺れを確かめるため、台座の端を慎重に押していた。
ヒトラーが入ってくると、ブルクドルフは手を離した。
「揺らすな」
「揺れないことを確認しています」
「確認のために壊すな」
「それぐらいでは壊れません」
ヘンチェルは壁際の放熱器に手を当て、弁の開閉を確認した。次に窓際へ移り、温度計を掲げる。
「製図室、問題ありません。窓際は室内中央より少し低いですが、通常の範囲です」
「模型が邪魔をしていないか」
「暖房には関係ありません」
「人の流れには関係する」
ブルクドルフが言った。
「博士の確認が済めば、箱に入ります」
ヨードルが工程表を見た。
「確認翌日の午前に梱包、午後の貨物便で発送できます」
カイテルが書類を持ち上げた。
「国防省側の搬入口と受領担当者も決まっています」
クレープスは透視図へ定規を当てたまま言った。
「こちらも、あと1枚です」
ヘンチェルは製図室を出て、応接、受付、倉庫、所長室を順に確認した。
配管。
弁。
放熱器。
換気口。
窓の隙間。
最後に記録板へ線を引き、鉛筆を耳へ戻した。
「暖房は問題ありません」
ヒトラーは腕を組んだ。
「本当にないのか」
「ありません」
「技術者が問題はないと言う時は、見つけられなかっただけの場合がある」
「見つけるために全部確認しました。ありません」
ヒトラーは製図室を見回した。
暖められた室内。
何台もの製図机。
壁の予定表。
電話。
書類棚。
工具箱。
そして中央を占める2台の戦車模型。
「最初の事務所に比べれば、格段の進歩だ」
ユンゲが記録帳から顔を上げた。
「最初の事務所というのは、一階に受付を設ける前でしょうか」
「そのとおりだ。二階だけだった頃だ」
「私は、その頃を知りません」
「知る必要もない。狭く、寒く、階段が悪かった」
エルゼが言った。
「家賃は安かったです」
「部屋も安かった」
「同じことです」
ユンゲは製図室の人数を見た。
「その部屋に、皆さんが入っていたのですか」
ヒトラーはカイテル、ヨードル、クレープス、ブルクドルフを順に見た。
「最初から、これほどいたわけではない。こいつらが勝手に増えた」
エルゼが即座に否定した。
「勝手ではありません。全員、雇用記録があります」
「記録ができた時には、すでにいた」
カイテルが書類を机へ置いた。
「私は退役軍人会館の管理室にいました」
「知っている」
「所長が会館側への届け出、警察との確認、来賓の出入口、鍵の受け渡しを、毎回こちらへ持ってきました」
「会館の仕事だったからだ」
「そのうち、映画館と商工会と販売店の確認まで頼まれるようになりました」
「君が電話を切らなかったからだ」
「それで所長が、『毎回呼ぶのは面倒だ。ここへ机を置け』と」
エルゼが補足した。
「その翌月から給与を支払っています」
ヒトラーはヨードルを見た。
「ヨードルは、退役軍人会の進行係だった」
「進行補助です」
「同じだ」
「違います」
「君は式典の時刻だけ見ていればよかった」
「所長が同じ日の同じ時刻に、二つの現場確認を入れるまでは、そうでした」
フランツが笑った。
「ありましたね」
「私は移動時間を計算していた」
ヨードルは淡々と答えた。
「その頃にポルシェワーゲンが有っても、同時に二か所へは行けません」
「それで勝手に予定板を壁へ掛けた」
「所長が予定を確認するようになったので、そのまま残りました」
次にクレープスが顔を上げた。
「私は、臨時の清書助手でした」
「一組の図面だけだった」
「三組です」
「同じだ」
「違います」
ヨードルが小さく頷いた。
クレープスは続けた。
「三組を清書した後、所長から次の図面を渡されました。その次も、その次もです」
エルゼが言った。
「毎週仕事を渡しておいて、いつまでも臨時扱いにはできません」
「線が使えたから渡した」
「それを雇用と言います」
ブルクドルフは工具を箱へ戻しながら言った。
「私はシュタイナー親方のところから来ていました」
「使いだった」
「見習いです」
「木材と伝言を運んでいた」
「所長の伝言をそのまま職人へ伝えると、現場が止まりました」
ヒトラーの眉が動いた。
「私は明確に指示した」
「全員、違うことを聞きました」
フランツがまた笑った。
ブルクドルフは構わず続けた。
「それで、所長が言ったことを、現場でできる言葉に直していました。いつの間にか、親方の工房より、こちらの現場にいる時間の方が長くなったんです」
「シュタイナーが手放したのだ」
「所長が借りたまま返さなかったんです」
ユンゲは4人を順に見た。
「それで二階が手狭になったのですね」
「カイテルが客を連れてきた」
ヒトラーは指を折りながら言った。
「ヨードルが壁へ紙を貼った。クレープスが製図台を増やした。ブルクドルフが工具箱を床へ置いた」
「所長が全部必要としたからです」
エルゼが言った。
「帽子屋が店を畳んだので、一階を借りた」
「手狭だったから借りたのです」
「空いていたからだ」
「空いていても、必要がなければ借りません」
ヒトラーは答えず、製図室を見た。
最初の二階には製図台が一つ。
机が二つ。
中古の棚。
傾いた床。
近くに座れば暑く、窓際に座れば外と変わらないストーブが一つ。
そこから人が増えた。
書類が増えた。
工具が増えた。
客が増えた。
仕事が増えた。
そして今、室内にはベルリンの国防省へ送られる2台の戦車模型が置かれている。
「最初の部屋には、これを2台置く場所などなかった」
ユンゲが言った。
「皆さんの机も置けなかったでしょうね」
「こいつらの机がなければ、置けたかもしれん」
「その頃には、この模型はありません」
「仮定の話だ」
ブロンディが所長室から出てきた。
話が長くなったためか、製図室の入口で一度止まり、ヒトラーの方を見る。そのまま入ってきて、Ⅴ号の台座の近くで匂いを確かめようとした。
「そこへ近づくな」
ブロンディは足を止めた。
ブルクドルフが言った。
「模型には触っていません」
「触る前に止めたのだ」
ヒトラーはブロンディを自分の足元へ呼んだ。
「最初の事務所を始めた時には、犬を連れて毎朝出勤するようになるとも思わなかった」
エルゼが帳簿を抱え直した。
「事務所を始めた時には、ブロンディは生まれていません」
「そういう話ではない」
「事務所の設備でもありません」
「分かっている」
ユンゲが予定帳を開いた。
「土曜日の葬儀には、ブロンディも同行しますか」
ヒトラーはすぐに顔をしかめた。
「教会へ犬を連れて行けるか」
「では、事務所で預かりましょうか」
「土曜日の午前は、エルゼとフランツも出る。博士の確認準備もある。事務所へ残すわけにはいかん」
ブロンディは自分の名を聞き、ヒトラーを見上げた。
「マンツィアーリー夫人に頼まねばならんな」
ユンゲは予定帳に書き込んだ。
「11月7日土曜日、午前。マンツィアーリー夫人へブロンディの世話を依頼」
「世話だけではない。朝の散歩と、昼までの留守番だ」
「承知しました」
「食事は決めた量だけだ。散歩の後の乾燥肉も一つだ」
ユンゲはペンを止めた。
「それは食事表に入っていますか」
「報酬だ」
エルゼが言った。
「食事表外ですね」
「犬にまで帳簿を持ち込むな」
「所長が量を指定しました」
ヘンチェルは点検鞄を閉じた。
「では、私はこれで。暖房は問題ありません」
「何度も言わなくてよい」
「記録のためです」
ヘンチェルはユンゲの記録帳を見た。
「問題なし、と書いてください」
「はい」
彼が帰ると、製図室には再び紙と鉛筆の音が戻った。
クレープスは透視図へ線を引く。
ヨードルは博士の来訪候補日と発送日を分ける。
カイテルはベルリンへの確認書を封筒へ収める。
ブルクドルフは梱包箱の中へ固定材を並べる。
ヒトラーは所長室へ戻り、新聞の死亡広告をもう一度見た。
「ユンゲ君」
「はい」
「この欄を切っておけ」
「資料としてですか」
「そうだ」
ユンゲは新聞を受け取り、どの分類へ入れるべきか少し考えた。
「創業関係でしょうか」
「創業以前だ」
「グラーフ氏、葬儀。11月7日午前10時」
ユンゲは予定帳へ記した。
そのすぐ下には、ポルシェ博士の最終確認候補日と、ベルリンへの模型発送予定が書かれていた。
一つの看板を持たせた男の葬儀。
その看板の下で仕上げられた模型の発送。
ヨードルが予定帳を覗いた。
「時間は重なっていません」
ヒトラーは言った。
「近すぎる」
「日付は動かせません」
ブロンディが敷物の上へ戻り、身体を丸めた。
製図室の暖房は静かに動き続けていた。
問題はなかった。
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