第122話 看板を残した男
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年11月7日、土曜日。
鏡の中で、ネクタイの結び目がわずかに右へ寄っていた。
ヒトラーはそれを指先で中央へ戻した。
一度離れて見る。
まだ右に見えた。
結び目を緩め、最初から締め直す。
濃い色の背広に黒いネクタイ、白いシャツ。普段の仕事着よりも地味で、布地にも光沢がない。外套と帽子は玄関脇へ用意してあった。
足元では、ブロンディが伏せていた。
ヒトラーが鏡の前を離れるたびに顔を上げ、また戻ると顎を床へ下ろす。それをもう何度か繰り返している。
「動いていない」
ヒトラーは鏡へ向かったまま言った。
ブロンディの耳が動いた。
「君のことではない。結び目だ」
玄関の呼び鈴が鳴った。
ブロンディが立ち上がる。
「待て」
ヒトラーが廊下へ出ると、ブロンディもその後ろをついてきた。
扉を開けると、テレーゼ・マンツィアーリー夫人が立っていた。濃い外套の襟を閉じ、片手に小さな手提げを持っている。
「おはようございます、ヒトラーさん」
「おはよう。寒かったか」
「11月ですから」
夫人は家へ入ると、ブロンディの頭を撫でた。
「おはよう、ブロンディ。今日は私と留守番ですよ」
ブロンディは尻尾を振った。
ヒトラーは扉を閉めながら言った。
「朝の散歩は済ませた」
「ええ」
「昼前に、もう一度短く外へ出してくれ。長く歩かせる必要はない」
「承知しています」
「通りの向こうへ行く時は、先に車が来ていないか見ろ」
「いつも見ています」
「食事は台所にある。量は器の線までだ。それ以上は入れるな」
「いつもの量ですね」
「乾燥肉は散歩の後に一つだ」
「二つはあげません」
「水は冷たすぎるものを出すな」
マンツィアーリー夫人は手提げを台所の椅子へ置いた。
「ヒトラーさん」
「何だ」
「私は今日初めて、この家へ来たのではありません」
「知っている」
「ブロンディの世話も、初めてではありません」
「それも知っている」
「では、任せてください」
ヒトラーはブロンディを見た。
ブロンディはすでに夫人のそばへ座っていた。
「夫人を困らせるな」
マンツィアーリー夫人が答えた。
「困らせるのは、たいていブロンディではありません」
ヒトラーは夫人を見た。
夫人は何でもない顔で台所へ向かい、やかんの水を確かめた。
「昼には戻る」
「葬儀でしょう。急いで戻ることはありません」
「会食が長引かなければ戻れる」
「故人との別れに時計を持ち込まない方がよろしいですよ」
「時計を持ち込むのではない。予定を確認しているだけだ」
マンツィアーリー夫人は返事をしなかった。
ヒトラーは外套を着て、帽子を取った。
扉を開けると、ブロンディも立ち上がった。
いつもの朝なら、そのまま一緒に外へ出る。
今日はヒトラーだけが玄関を出た。
ブロンディは敷居の内側で止まり、こちらを見ている。
「今日は留守番だ」
ブロンディは動かなかった。
「昼には戻る」
後ろからマンツィアーリー夫人が言った。
「聞いていますよ。三度目です」
ヒトラーは何か言い返しかけ、扉を閉めた。
朝のミュンヘンは曇っていた。
雲は低く、建物の上部を押さえつけるように広がっている。通りには土曜日の静けさがあり、平日より人も車も少なかった。
事務所へ着くと、受付にはユンゲがいた。
「おはようございます、所長」
「おはよう」
ユンゲは黒に近い濃紺の服を着たヒトラーを見て、すぐに時計へ目を移した。
「フランツさんとエルゼさんは、すでにいらしています」
製図室には、完成間近のⅤ号とⅥ号の模型が並んでいた。
説明板には写真と図面が仮留めされ、台座の端には小さな修正印が残っている。壁際には、ベルリンへの発送に使う木箱と固定材が置かれていた。
クレープスは透視図の最終確認をしていた。ヨードルは発送までの工程を見直し、カイテルは国防省側の受領書類を机に広げている。ブルクドルフは木箱の内側へ緩衝材を合わせていた。
土曜日の午後には全員引き揚げる予定だった。
ヒトラーは模型の前で足を止めた。
「ポルシェ博士から連絡が来たら、必ず日時を確認しろ」
ユンゲが答えた。
「承知しています」
「博士本人か、設計所の者かも聞け」
「はい」
「模型技術者を連れてくるか。国防省の者も来るのか。確認後、そのまま梱包するのか」
「すべて確認します」
「電話を切る前に復唱しろ」
「いつも復唱しています」
ヒトラーはⅤ号の説明板を見た。
「電話の内容だけではない。博士が何に迷っているかも聞け」
「お電話で分かるでしょうか」
「声で分かることもある」
フランツが外套を着ながら言った。
「所長の電話は、声で何に怒っているか分からないことがあります」
「私は用件を明確にしている」
エルゼが手袋をはめた。
「用件が五つある時に、最初から五つとも怒鳴るからです」
「怒鳴っていない」
「今日はその話をする日ではありません」
ヒトラーは黙った。
ユンゲが予定表を確認する。
「ポルシェ博士から連絡があれば、戻られ次第お伝えします」
「メモでよい」
「承知しました」
「ただし、読める字で書け」
「所長よりは読めます」
フランツが顔を伏せた。
ヒトラーはユンゲを見たが、彼女は真面目な顔をしていた。
事務所前には、濃色のカピテーンが停められていた。
フランツが運転席へ乗り、エルゼが助手席へ座る。ヒトラーは後席に一人で乗った。
ユンゲが玄関先へ出た。
「お気をつけて」
「電話から離れるな」
「昼食には離れます」
「受付で食べろ」
エルゼが窓を開けた。
「ユンゲさん。昼になったら、きちんと休憩を取りなさい」
「はい」
ヒトラーが言った。
「電話が鳴らない時間を選べ」
「その時間が分かるなら、先に教えてください」
フランツは車を発進させた。
カピテーンは朝の通りへ出た。
車内には、いつもの営業先へ向かう時とは違う静けさがあった。
エルゼは前を向き、フランツは必要以上に速度を上げなかった。ヒトラーは窓の外を見ていた。
しばらく走ったところで、古い建物が見えた。
かつて事務所が入っていた建物だった。
一階には別の店が入り、窓には新しい商品が並んでいる。二階の曇りガラスには、もうヒトラーの名はない。
フランツが鏡越しに見た。
「旧事務所です」
「見れば分かる」
エルゼが窓の外を見た。
「二階の窓は変わっていませんね」
「枠が歪んでいる」
「昔からです」
「昔より悪い」
「所長が使わなくなってから、急に悪くなったわけではありません」
カピテーンが建物の前を通り過ぎる。
ヒトラーは首を動かさなかったが、目だけで二階の窓を追った。
「一階の看板の位置が悪い」
フランツが言った。
「店は営業できているようです」
「営業できることと、位置が正しいことは違う」
それ以上、誰も旧事務所の話をしなかった。
教会の前には、すでに多くの参列者が集まっていた。
黒い外套。
暗い帽子。
花輪。
教会の石段脇には、グラーフの事務所、職人組合、劇場関係者、退役軍人会、古い取引先から届いた花が並んでいる。
ヒトラーは車を降りると、花輪の置かれた位置を見た。
「入口を狭くしている」
エルゼが小声で言った。
「今日は所長の現場ではありません」
「分かっている」
「動かしてはいけません」
「動かすとは言っていない」
フランツが車の扉を閉めた。
「顔が言っています」
「君までエルゼの真似をするな」
教会の中は薄暗かった。
祭壇の前には濃い木の棺が置かれ、周囲の蝋燭が金具へ小さな光を落としている。蓋は閉じられていた。
グラーフの家族は前方に座り、その後ろへ親類、元所員、仕事関係者が並んでいる。
ヒトラーたちは少し後ろの席へ座った。
オルガンの低い音が響いた。
神父が祭壇へ進み、死者のための祈りを始める。ラテン語の言葉が、石壁と高い天井へ静かに広がっていった。
ヒトラーは棺を見ていた。
20年前、グラーフは机の向こうに座っていた。
丸められかけた別案。
客が先に見つけた図面。
グラーフの不機嫌な顔。
君はうちの看板の下で働くには騒がしすぎる。
自分の看板で怒鳴れ。
その時の声は、目の前の棺からは聞こえなかった。
神父の説教は長くなかった。
グラーフが長年ミュンヘンで仕事を続け、会館や商店、劇場の形を整え、多くの若い職人と製図者を導いたことに触れた。
若い者を導いた。
ヒトラーの中で、すぐに反論が浮かんだ。
導いたのではない。
追い出したのだ。
だが口には出さなかった。
エルゼもフランツも前を向いていた。
ミサが終わると、神父は棺へ聖水を振り、香を焚いた。
参列者は棺の後について教会を出た。
墓地へ向かう列は、ゆっくり進んだ。
空気は冷たかったが、雨は降らなかった。
墓前で最後の祈りが唱えられ、棺が下ろされた。
家族が土を落とし、その後、参列者が順に前へ進む。
ヒトラーの番が来た。
彼は帽子を胸の前に持ち、墓穴を見下ろした。
小さな土を一度だけ落とした。
音はほとんど聞こえなかった。
「安らかに」
それだけ言い、後ろへ下がった。
埋葬が終わると、グラーフの長男が近づいてきた。
髪はすでに白く、父親と同じように、口元を固く結ぶ癖があった。
「ヒトラーさんですね」
「そうです」
「父の葬儀に来ていただき、ありがとうございます」
「世話になった」
長男はエルゼとフランツにも挨拶した。
「近くの食堂に席を設けています。古い仕事仲間の方々だけですが、よろしければ皆さんも」
ヒトラーは時計を見ようとした。
その前にエルゼが言った。
「伺います」
ヒトラーは彼女を見た。
「事務所にはユンゲさんがいます」
「分かっている」
「ポルシェ博士からの電話も受けられます」
「まだ何も言っていない」
「顔が言いました」
食堂には、長い卓がいくつか用意されていた。
コーヒーと茶、パン、冷たい肉、チーズ、焼き菓子が並んでいる。教会では静かだった参列者たちも、席へ着くと少しずつ声を戻していった。
グラーフの古い仕事。
失敗した舞台装置。
予算の足りなかった会館。
納期の前日に消えた職人。
冬の朝に凍った糊。
話の中のグラーフは、棺の中の老人ではなく、机を叩き、見積書を睨み、職人へ文句を言う男へ戻っていた。
ヒトラーはエルゼとフランツの間へ座っていた。
向かい側の男が、こちらを何度か見ている。
白髪が増え、頬は痩せていたが、目には覚えがあった。
男の方から口を開いた。
「ヒトラー君ではないか」
ヒトラーは少し間を置いた。
「ライター」
マックス・ライターは笑った。
「君は相変わらず、人の名前を呼ぶ時に不満そうな顔をするな」
「老けたので確認していた」
「君もだ」
「私は君ほどではない」
「その言い方も変わらん」
エルゼが挨拶した。
「お久しぶりです、ライターさん」
ライターは目を細めた。
「エルゼさんか。まだこの男の面倒を見ているのか」
「面倒ではありません。経理です」
「昔からそう言っていた」
フランツが名乗ると、ライターは驚いたように見た。
「君も所員か」
「もう長いです」
「何年だ」
フランツが答えると、ライターは指を折りかけ、途中でやめた。
「すると、私が小仕事を回していた頃より、君が一緒にいる時間の方が長いのか」
「そうなります」
「信じられんな」
ヒトラーが言った。
「何がだ」
「人が残ったことがだ」
「必要な者は残る」
エルゼがカップを置いた。
「必要でない者も、時々残ります」
「誰のことだ」
「特定していません」
ライターは声を立てずに笑った。
「グラーフが、君を雇ったと聞いた時から長くは続かないと思っていた」
「なぜだ」
「君が誰かの図面に従っている姿を想像できなかった」
「正しい図面には従う」
「その条件を付けるから続かない」
そこへグラーフの長男が来た。
「父も、ほとんど同じことを言っていました」
ヒトラーは顔を上げた。
長男は空いていた椅子へ腰を下ろした。
「父はあなたのことを、時々話していました」
「悪口だろう」
「腕については認めていました」
長男は少し考え、父親の言葉を思い出すように続けた。
「あの男は、磨けば腕はもっと良くなるだろう。ただし磨き上がる前に、うちの会社が二つに割れる」
ライターがゆっくり頷いた。
「グラーフらしい」
エルゼはヒトラーを見なかった。
普段なら、すぐに反論が出る。
会社を割ろうとしたのではない。
元の案が間違っていた。
客が別案を選んだだけだ。
そんな言葉が、いくつもヒトラーの中へ浮かんだ。
だが、彼はカップへ手を伸ばし、冷めかけた茶を一口飲んだ。
「正しい判断だった」
長男は少し意外そうな顔をした。
「父がですか」
「私を置いておけば、事務所は静かではなかった」
ライターが言った。
「静かで済めばよいがな」
ヒトラーはライターを見た。
それでも言い返さなかった。
長男は続けた。
「父は、あなたの仕事を見ていましたよ」
「私の仕事を?」
「新聞に出るたびに読んでいました。ミュンヘンの公共視聴室も、ブラジル大会の仕事も、防空展も」
「新聞の写真では、全体が見えない」
エルゼが小さく言った。
「所長」
ヒトラーは口を閉じた。
長男は穏やかに笑った。
「父も写真の撮り方には文句を言っていました。あなたとは違う理由でしょうが」
「何と言っていた」
「見せるために作ったものを、新聞が勝手な角度から撮る、と」
ヒトラーはわずかに眉を上げた。
「それは正しい」
「そうでしょうね」
長男はコーヒーカップを両手で包んだ。
「父は、あなたの記事を読むたびに、あの時、自分の看板で怒鳴らせてよかった、と話していました」
ヒトラーはしばらく答えなかった。
食堂の別の卓から、古い職人たちの笑い声が聞こえた。
窓の外では、墓地から戻る人々が通りを歩いている。
「そうか」
ヒトラーはそれだけ言った。
「怒鳴っていない」とは言わなかった。
ライターが横から言った。
「グラーフは、君を追い出したことを後悔していなかったわけだ」
「私も戻ろうとは思わなかった」
「では、珍しく双方の判断が一致した」
「珍しくはない」
「そういうことにしておこう」
会食が終わる頃には、正午を過ぎていた。
店の前でグラーフの家族へもう一度挨拶し、ライターとも別れた。
ライターは帽子をかぶりながら言った。
「今度、君の事務所を見せてくれ」
「なぜだ」
「私は二階の一室しか知らん。新聞では今の大きさが分からない」
「見ても仕事はないぞ」
「舞台仕事と君の展示仕事は、ずいぶん離れたからな」
「なら来る必要はない」
「必要がなければ、見に行ってはいけないのか」
ヒトラーは少し考えた。
「事前に連絡しろ」
「分かった」
「突然来るな」
「分かった」
「製図室へ勝手に入るな」
ライターは笑った。
「まだ行くとも決めていない」
「来ると言っただろう」
「君は昔から、話を決定事項にするのが早い」
ライターは帽子を少し上げ、歩いていった。
帰りのカピテーンでは、往路よりも会話が少なかった。
フランツが運転し、エルゼが助手席に座る。
ヒトラーは後席で窓の外を見ていた。
エルゼが言った。
「グラーフさんは、所長の仕事を見ていたのですね」
「新聞を読んでいただけだ」
「記事が出るたびに」
「新聞は毎日読むものだ」
「そういうことにしておきましょう」
事務所へ戻った時には、午後1時を過ぎていた。
玄関の扉を開けると、受付の机にユンゲが座っていた。
外套は椅子の背に掛けたまま、電話の横に一枚の紙を置いている。
ヒトラーは受付の時計を見た。
次にユンゲを見た。
「まだいたのか」
「お帰りなさいませ。ポルシェ博士からお電話がありました」
「メモを置いて帰れば十分だった」
「博士ご本人からでしたので、直接お伝えした方がよいと思いました」
ユンゲは紙を取った。
「11月10日火曜日、午前10時に来訪されます。設計所から模型担当者が2名同行します。博士の確認で問題がなければ、同日午後から梱包を始め、翌朝の貨物便でベルリンへ発送してよいとのことです」
ヒトラーはメモを受け取った。
「国防省の者は」
「来ません。ベルリンで受け取るそうです」
「博士は何か迷っていたか」
「Ⅵ号の説明板について、工兵支援の写真を残すか尋ねられました」
「残す。大きさだけ見せれば、また英雄の像になる」
「そのようにお伝えしました」
ヒトラーはメモを読んだ。
「十分だ」
「はい」
「この紙を置いて帰ればよかった」
ユンゲは少しだけ姿勢を正した。
「所長が昼頃には戻られると伺っていましたので」
「昼を過ぎている」
「会食があったのでしょう」
「そうだ」
エルゼは受付の時計を確認した。
「ユンゲさん。勤務終了時刻は正午でしたね」
「はい。ただ、電話を待っていただけですので」
ヒトラーが言った。
「時間外をつけろ」
エルゼは頷いた。
「そのつもりです」
「今日の分を正確につけろ。昼までではない。今までだ」
「分かっています」
ユンゲが言った。
「それほど長い時間ではありません」
ヒトラーはメモから顔を上げた。
「長いか短いかではない。勤務時間を過ぎて、事務所の電話を受けたのだろう」
「はい」
「なら仕事だ。働いた時間を無かったことにするな」
エルゼが帳簿を取り出した。
「午後1時15分まで。時間外勤務として記録します」
「15分ではない。私たちが戻ってきたのが15分だった。引き継ぎが終わるまでつけろ」
ユンゲは少し困った顔をした。
「メモをお渡ししただけです」
「いま説明した」
「はい」
「それも仕事だ」
エルゼが言った。
「では午後1時30分までにしておきます」
「勝手に丸めるな」
「15分単位です」
「ならよい」
ユンゲは席を立った。
「では、失礼して帰ります」
「昼食は取ったのか」
「パンを持ってきていました」
「受付で食べたのか」
「はい」
ヒトラーは何か言おうとしたが、やめた。
「月曜日に工程を組み直す。今日はもう帰れ」
「承知しました」
ユンゲは外套を着て、机の上を整えた。
「グラーフさんの葬儀はいかがでしたか」
ヒトラーは少し黙った。
「終わった」
それだけ答えた。
ユンゲはそれ以上尋ねず、挨拶をして帰っていった。
事務所には、土曜日の午後の静けさが残った。
製図室では、2台の戦車模型が火曜日の確認を待っている。
受付には電話があり、机にはポルシェ博士の来訪日時が記された。
ヒトラーは玄関へ向かい、外から曇りガラスの扉を見た。
そこには、自分の名があった。
20年前、グラーフはその看板を作ったわけではない。
文字を選んだわけでも、字間を決めたわけでもない。
ただ、他人の看板の下に置いておけない男を、外へ出した。
ヒトラーは扉を開けた。
奥からエルゼの声がした。
「所長。マンツィアーリー夫人へ、遅くなったと連絡しなくてよいのですか」
ヒトラーは時計を見た。
「昼には戻ると言った」
「もう午後です」
「分かっている」
彼は受付の電話を取った。
グラーフが残した看板の下で、今日の仕事がもう一つ始まった。