第123話 ワーゲンを売るのではない
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年11月10日、火曜日。
朝刊の一面には、地中海を東へ進む船団の図が載っていた。
フランス海軍、第二次インド洋派遣部隊を編成。
軽巡洋艦プリモゲを中心に、大型駆逐艦ミラン、アルバトロス、駆逐艦フーグー、ブーロネ、ブレストワ、フロンドゥールが輸送船団の護衛に加わると報じられている。
輸送船の正確な数と出港日は伏せられていたが、兵員、車両、野戦砲、工兵資材、通信設備、医療品を積み込む作業が、南フランスの港で進んでいるらしい。
陸上部隊を率いるのはアンリ・ジロー将軍だった。
記事では「フランス極東派遣軍司令官」と紹介され、セイロンとインド洋方面へ進出した後、イギリス、オランダ、アメリカの各軍と協議し、将来の仏領インドシナ奪回作戦に備えるとされていた。
その隣には、戦艦ジャン・バールの艤装工程を短縮するという小さな記事がある。
姉妹艦リシュリューに続く東方派遣を海軍省は否定していない。
ヒトラーは新聞を机へ広げた。
「ようやく分かったようだな」
ユンゲが受付から持ってきた郵便物を机の端へ置いた。
「何をでしょうか」
「戦艦一隻を送れば、海が片づくわけではないということだ」
ヒトラーは船団の図を指した。
「護衛艦、輸送船、給油船、工作設備、兵員、車両。大きな艦ほど、周囲に多くのものを必要とする」
「ジャン・バールはまだ完成していないそうです」
「完成していない物を急がせる一方で、先に動ける艦を出す。その順序は正しい」
ブロンディが机の脇で伏せ、鼻先を前脚へ載せた。
「未完成の戦艦を待って、兵士まで港に並ばせておく必要はない」
ユンゲは記事を覗いた。
「ジロー将軍も輸送船に乗るのでしょうか」
「司令官だけ後から飛行機で来ればよいという話ではない。何を積み、何を置いてきたかを見ておくべきだ」
「船酔いするかもしれません」
「将軍が船酔いするかどうかは、この記事には関係ない」
午前9時を過ぎると、製図室ではポルシェⅤ号とⅥ号の模型を囲み、最後の確認が始まった。
クレープスは透視図を説明板の横へ並べた。
カイテルはベルリンの国防省から届いた納入用書類を確認し、ヨードルはポルシェ博士の来訪から梱包、貨物駅への搬入までを工程表へ記入している。
ブルクドルフは二つの木箱を開け、内部の固定具を一つずつ確かめていた。
「博士の確認が終わるまで、模型へ固定金具を付けるな」
ヒトラーが言った。
ブルクドルフは顔を上げなかった。
「付けていません。位置を確認しているだけです」
「穴を開ければ付けたのと同じだ」
「開けていません」
「ならよい」
受付の時計が午前10時を示す少し前、玄関前に車が止まった。
フェルディナント・ポルシェ博士は、設計所の模型担当者二人を連れて現れた。
「おはようございます、ヒトラーさん」
「おはようございます。時間通りです」
「時計を褒められたのでしょうかな」
「遅れていないことを確認しただけです」
博士は外套をユンゲへ預け、製図室へ入った。
二つの模型を目にすると、まず満足そうに頷いた。
Ⅴ号の台座は低く、車体の側面と足回りがよく見えるように作られている。
説明板には鉄道貨車へ積まれた状態、整備中の機関部、橋梁を通過する際の重量制限、泥濘地での牽引作業が並んでいた。
Ⅵ号はさらに大きかった。
正面装甲と88ミリ砲の存在感は隠しようがなかったが、その周囲には工兵が道路を補強する写真、履帯を交換する整備兵、重量を測る試験設備、回収車両の想定図が配置されている。
ポルシェ博士はⅤ号を一周し、次にⅥ号の前へ立った。
しばらく黙って見た後、顎へ手を当てた。
「よくできています」
「当然です」
「しかし」
博士は説明板を見た。
「いささか地味ではありませんかな」
製図室の手が止まった。
ヒトラーは博士の隣へ立った。
「地味でなければ困ります」
「新型戦車の模型ですぞ。もう少し、見る者へ強さを感じさせてもよいのでは」
「砲身を大きく見せ、正面装甲へ光を当てれば、誰でも強そうには見せられます」
「実際に強いのですがな」
「ロンメル将軍は、それだけを見ません」
博士はヒトラーへ目を向けた。
「将軍は模型を眺めて、写真を褒めて帰る男ではない。実車があれば操縦席へ座り、前がどこまで見えるか確認する。車体の下へ潜り、点検口へ手が届くかを見るでしょう」
ヒトラーはⅥ号の足回りを指した。
「履帯が切れれば何人で直すのか。泥にはまれば何で引き出すのか。橋が耐えられなければ、どこを通るのか。貨車に載せる時に何を外すのか。将軍が訊くのは、そういうことです」
博士は工兵作業の写真を見た。
「だから、この写真を残したのですか」
「そうです」
「戦車より工兵の方が大きく写っています」
「それでよいのです。戦車だけで道ができるわけではない」
「もう少し車体を中心に切り取ることもできます」
「切れば、道路を補強していることが分からなくなる」
ヒトラーは次の写真を示した。
「この整備兵も消してはいけません。人間と比べなければ、機関部の大きさが伝わらない」
「ですが、売り込みとしては」
「売り込みではありません」
ヒトラーの声が製図室へ響いた。
「選考です。これぐらい泥臭いものでなければ、ロンメル将軍には見抜かれます。表面を飾って欠点を隠したと思われれば、審査が始まる前に落とされます」
ポルシェ博士は返事をせず、もう一度Ⅴ号からⅥ号まで歩いた。
模型担当者の一人が、説明板へ顔を近づける。
ブルクドルフは木箱の前で腕を組み、クレープスは透視図の脇に立っていた。
やがて博士は小さく息を吐いた。
「確かに、ワーゲンを売り込むのではありませんからな」
「ようやく分かりましたか」
「乗用車なら、客に自分が運転する姿を想像させればよい」
博士はⅥ号の模型へ軽く手を添えた。
「戦車は、買う者と、運転する者と、直す者が違う」
「運ぶ者もです」
「工兵も必要ですな」
「燃料を持ってくる者もいる」
博士は朝刊の船団図が置かれた机を見た。
「フランス艦隊の記事と同じですかな」
「戦艦一隻だけ描いて、後ろの輸送船を消せば、子供向けの絵になります」
「私の戦車模型を、子供向けにするつもりはないと」
「最初からそう言っています」
ポルシェ博士は笑った。
「あなたは、説明する前から相手も理解していると思い込むところがありますな」
「理解できるように配置したのです」
「展示はそうでしょう。会話は別です」
フランツが口元を押さえた。
ヒトラーは彼を見た。
「何だ」
「何でもありません」
その後も確認は続いた。
Ⅴ号の写真を一枚入れ替え、Ⅵ号の説明文を二行短くした。
砲身の角度は変更しない。
工兵作業と鉄道輸送の写真も残す。
博士は最後に確認書へ署名した。
「基本構成は、これで結構です」
ヨードルが時刻を記入する。
「午後から梱包を開始します。明日の朝、貨物駅へ搬入できます」
「ベルリンでは、ほかの会社の模型と並ぶのでしょうな」
ポルシェ博士が言った。
カイテルが答えた。
「Ⅴ号はMAN社とダイムラー・ベンツ、Ⅵ号はヘンシェル社の提出物と同じ審査区画へ運ばれる予定です」
博士の表情がわずかに変わった。
「同じ部屋ですか」
「国防省からの通知では」
「展示台の間隔は」
ヒトラーが尋ねた。
「そこまでは書かれていません」
「模型を詰めて置かれれば、比較にならん」
ポルシェ博士が言った。
「そこまであなたに任せれば、ベルリンへも同行すると言い出しそうですな」
「必要なら行きます」
エルゼが即座に口を挟んだ。
「必要ありません」
「まだ決まっていない」
「旅費の話を始める前に、必要ありません」
確認がすべて終わった時には、正午を少し過ぎていた。
ポルシェ博士は懐中時計を見た。
「思ったより時間がかかりましたな」
「見るべき所が多いからです」
ヒトラーも時計を確認した。
「博士。昼食はどうです」
エルゼが書類を整える手を止めた。
博士は彼女の方を見てから答えた。
「またお誘いいただけるのであれば、お言葉に甘えましょう」
「所長」
エルゼが言った。
「何だ」
「交際費は、税務署へ説明できる範囲に収めてください」
「昼食だぞ」
「前回も昼食でした」
「博士を食堂へ連れて行くだけだ」
「どの食堂ですか」
「まだ決めていない」
「それが心配なのです」
ポルシェ博士は面白そうに二人を見ていた。
ヒトラーは言った。
「戦車模型の最終確認後に、設計上の意見を聞く。正当な業務だ」
「では、領収書の裏にそう書いてください」
「なぜ私が書く」
「会食の目的を一番よくご存じだからです」
「君が書けばよい」
「私は昼食へ行きません」
エルゼは時計を見た。
「それと、夕方から工作連盟の会合がありますからね」
「覚えている」
「午後6時です」
「仕事をしている人間には早い」
「ほかの会員も仕事をしています」
博士が言った。
「私のせいで遅れては申し訳ありませんな」
「博士のせいではありません。会合の開始時刻が悪い」
「午後6時です、所長」
「何度も言わなくてよい」
ヒトラーとポルシェ博士は、事務所から歩いて数分の食堂へ入った。
その前に博士は自分の助手たちに、君らもミュンヘン料理を食べておきなさいと言い財布から、いくらか紙幣を渡し事務所を出ていた。
高級ホテルではなかったが、普段の簡素な食堂よりは落ち着いた店だった。
博士は牛肉料理を選び、ヒトラーは脂の少ない仔牛肉と茹でたジャガイモを頼んだ。
料理を待つ間、博士はナプキンを膝へ広げた。
「MAN社のⅤ号案は、かなり進んでいるようです」
「ご覧になったのですか」
「正式には見ていません。だが、どういう構成かは聞こえてきます」
「どの会社も同じでしょう」
「MANは堅実です。既存の技術を大きく外さず、重量も抑えている。整備兵に説明しやすく、工場も生産工程を組みやすい」
ヒトラーは水を一口飲んだ。
「強敵ですね」
「私の依頼を受けている人が、それを言いますかな」
「模型を派手にして競合を弱く見せる契約はしていません」
「それは承知しています」
博士はパンを切った。
「しかしMAN案は、驚くようなところがない」
「驚かないで済むことが、戦場では長所になります」
「意匠家らしくない意見ですな」
「装飾と驚きを同じものだと思わないでください」
「私の駆動方式は、操向が滑らかです。大きな車体でも扱いやすい」
「工場では、そうなるでしょうな」
「試験場でも動いてくれます」
「泥の中では」
博士はナイフを置いた。
「そのために試験をするのです」
「ロンメル将軍もそう言うでしょう」
料理が運ばれてきた。
博士は肉を切り分けながら続けた。
「Ⅵ号のヘンシェル社も厄介です」
「何がです」
「普通なのです」
「普通であることが、なぜ厄介なのです」
「機械式の構造を一つずつ積み上げている。整備員が知っている部品を使い、工場が知っている方法で組み立てる。新しさは少ないが、説明が早い」
ヒトラーは仔牛肉の表面を確かめた。油の匂いは強くなかった。
「ロンメル将軍が車体の下へ潜った時に、見覚えのある物が並んでいるわけですね」
「そういうことです」
「それは厄介だ」
「私の側がですかな」
「博士の案にも、優れているところはあります」
「にも、という言い方が気になりますな」
「先進的であることと、選ばれることは同じではありません」
博士は少し黙った。
「ヘンシェルは、古い戦車を出しているわけではない」
「使い慣れた物を、必要な分だけ新しくしている」
「MANも同じですな」
「だから正面から砲だけ見せても勝てません」
ポルシェ博士は頷いた。
「私の案が、どこまで運ばれ、何人で直せ、何で牽引できるかまで見せる」
「そうです」
「ワーゲンを売るのではない」
「午前中にも聞きました」
「確認したのです」
主砲と砲塔については、クルップがどの車体案にも対応できるよう準備しているという。
「クルップは賢い」
ヒトラーが言った。
「どちらの車体が採用されても、砲と砲塔を納められる」
「設計者としては面白くありませんがな」
「事業者としては正しい」
「あなたは時々、エルゼさんのようなことを言いますな」
「彼女が私のようなことを言うのです」
食事を終え、博士がコーヒーを頼もうとすると、ヒトラーは時計を見た。
「今なら食後の一杯だけでなく、ケーキやクッキーを頼んでも大丈夫でしょう」
「工作連盟のお時間には大丈夫ですかな」
「時間には余裕がある」
「エルゼさんは、そう思っていないようでしたが」
「彼女は予定表へ余白を作らない」
「あなたは予定表の余白へ、別の仕事を書き込むのでしょう」
ヒトラーは答えなかった。
事務所へ戻ると、ブルクドルフたちは梱包を始めていた。
Ⅴ号模型が固定台へ載せられ、クレープスが透視図を筒へ収める。ヨードルは箱ごとの内容物を記録し、カイテルはベルリン側へ発送時刻を電報で知らせた。
ポルシェ博士は木箱へ収められていく模型を見た。
「地味なまま、競争へ行くわけですな」
ヒトラーは答えた。
「地味なのではありません。余計な嘘を付けていないだけです」
博士は帽子を手に取った。
「結果が出たら、また話しましょう」
「結果が出る前にも修正点は出ます」
「もうベルリンへ送るのですが」
「実車の時の話です」
博士は苦笑し、模型担当者たちとともに帰っていった。
エルゼは領収書を受け取った。
「人数は二人ですね」
「見れば分かる」
「目的は、戦車模型展示の最終確認後の設計協議」
「その通りだ」
「金額も問題ありません」
ヒトラーは彼女を見た。
「最初から問題はない」
「確認して、初めて問題がないと分かります」
夕方、ヒトラーは工作連盟のミュンヘン地区会合へ出席した。
開始時刻の5分前だった。
会議室では、工業製品の展示方法が議題となっていた。
ある会員が、製品の構造を明瞭に示し、余分な装飾を排することが誠実な展示だと主張した。
別の会員は、欠点や修理場面まで見せれば、発注者の購買意欲を損なうと反論した。
ヒトラーは腕を組んで聞いていた。
「故障した写真を製品の横へ置く企業がありますか」
一人が言った。
「展示は売るためにあるのです。不安を与える必要はない」
ヒトラーは机へ身を乗り出した。
「製品がどう使われるかを隠して、何が誠実なのだ」
「構造は示します」
「構造だけでは足りん。その構造を誰が使い、誰が直し、どのように運ぶのかまで見せるべきだ」
「それでは宣伝になりません」
「宣伝だけが展示ではない」
「商業製品なら、まず買ってもらわなければ」
ヒトラーは午前中の模型を思い出した。
泥の中の履帯。
車体の下へ潜る整備兵。
橋を調べる工兵。
貨車へ積まれた戦車。
「われわれは、ワーゲンを売るのではない」
会員たちは一瞬、黙った。
「何の話ですか」
隣の男が尋ねた。
ヒトラーは答えなかった。
机の上では、発言者を示す名札が少し傾いていた。
彼はそれをまっすぐに直した。