第124話 贈り物の続き
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1942年11月20日、金曜日。
朝刊の一面には、夜の海に引かれた何本もの航跡が載っていた。
ソロモン海域で、日本とアメリカの艦隊が再び激突した。
日本海軍は戦艦の比叡と霧島を喪失。アメリカ側も巡洋艦と駆逐艦に大きな損害を受けたが、日本軍の輸送作戦は阻止され、ガダルカナル島の飛行場はアメリカ側に残ったと報じられている。
記事の中心に描かれていたのは、霧島と戦艦ワシントンの航跡だった。
電波探知装置を用いたワシントンが、サウス・ダコタへ砲撃を集中していた霧島へ接近し、夜陰の中から主砲射撃を浴びせた。霧島は操舵能力を失い、翌朝までに沈没したという。
ヒトラーは海戦図を机へ引き寄せた。
「この線は太すぎる」
ユンゲが新聞を覗き込んだ。
「ワシントンの航跡ですか」
「これでは最初から誰の目にも見えていたように見える。実際には見えていなかったから、この位置まで入れたのだ」
「読者が分かりやすいように描いたのでは」
「分かりやすくするために、起きたことを変えてどうする」
ヒトラーは指先で霧島とサウス・ダコタの位置を示した。
「霧島は正面の敵へ集中した。その外から、別の戦艦に撃たれた」
「ワシントンの方が大きな砲を持っていたからでしょうか」
「砲の大きさだけなら、撃つ前から決まっている。先に相手を見つけ、相手に見つからない位置へ入った方が勝った」
机の脇では、ブロンディが新聞の端へ鼻先を寄せた。
ヒトラーは紙を少し持ち上げた。
「新聞を噛んではならんぞ」
ブロンディは床へ伏せ直した。
海戦記事の下には、アメリカ防空巡洋艦ジュノーが戦闘後に消息を絶ったという記事があった。
昼間には多数の両用砲で航空隊を迎え撃つために造られた艦が、夜間の至近戦へ投入され、魚雷を受けた。さらに離脱中に爆発した可能性があるが、アメリカ海軍は乗員の安否を発表していない。
記事の最後には、その艦にアイオワ州出身のサリバン家の5人兄弟が勤務していたと記されていた。
ユンゲの目がそこで止まった。
「5人とも、同じ艦に乗っていたのですか」
「そう書いてある」
「全員が行方不明なのでしょうか」
「まだ分からん」
ヒトラーは新聞を畳もうとしたが、ユンゲは記事から目を離さなかった。
「一つの家から、5人も」
「兄弟だから離れないと主張したのかもしれん」
「それを認めた海軍も、今ごろ困っているでしょうね」
ヒトラーは返事をしなかった。
艦の損失を数字で整理することはできる。だが、一つの家に同じ知らせを5通届けることを、同じようには並べられなかった。
国際面の隅には、モナコ公国の記事があった。
ルイ2世が、イタリアから流入する避難民の一時滞在を認め、宗教や出身地だけを理由とする引き渡しには応じないと表明したという。
モンテカルロ歌劇場では、太平洋方面へ派遣されたフランス兵の家族と傷病者を支援する慈善公演が予定されている。
「海の向こうでは戦艦が沈み、こちらでは、そのために舞台を飾る」
ヒトラーが言った。
フランツが製図台から顔を上げた。
「何もしないよりはよいでしょう」
「客が戦争を忘れるだけの舞台でなければな」
ヒトラーは新聞を畳んだ。
その日の事務所は、戦艦よりも紙の星とモミの枝で埋まっていた。
ポルシェ博士の模型を送り出した場所には、地元の玩具店から預かった小型汽車が置かれている。菓子店の飾り窓には、雪を模した白布と木製の家を並べる予定だった。
衣料品店からは、クリスマス用の贈答箱を大きく見せたいという注文が来ていた。
ヒトラーは下図を見て眉をひそめた。
「箱が商品を隠している」
クレープスが答えた。
「贈答用であることを強調したいそうです」
「箱を売るのか」
「中身は手袋と婦人用の襟巻きです」
「なら手袋と襟巻きを見せろ。贈り物だからといって、包み紙だけ置いてどうする」
フランツが贈答箱を少し下へ描き直した。
「これならどうでしょう」
「まだリボンが太い」
「店主は大きなリボンを希望しています」
「店主はリボン屋ではない」
午前11時を過ぎた頃、受付の扉が開いた。
ユンゲが応対し、すぐに所長室へ顔を出した。
「所長。ボルマンさんがお見えです」
「約束はない」
「もうお一人、ご一緒です」
「誰だ」
ユンゲは少し戸惑ってから答えた。
「ブロンディの繁殖家だそうです」
ヒトラーが顔を上げた。
「繁殖家?」
ブロンディも名前に反応して耳を立てた。
扉の向こうから、ボルマンが入ってきた。
いつものような調子のよい笑顔はなかった。帽子を両手で持ち、顔色が明らかに悪い。
その後ろには、革製の書類鞄を持った初老の男が立っていた。
「所長」
ボルマンが口を開いた。
「少々、手続き上の問題がありまして」
ヒトラーは二人を見比べた。
「何だ、その顔は」
「いえ、私が特に何かをしたではなく…」
初老の男が横から言った。
「一年半です」
ボルマンが口を閉じた。
ヒトラーは椅子から立った。
「何が一年半だ」
男は帽子を取り、名乗った。
「エルンスト・ケラーと申します。ブロンディを繁殖し、ボルマンさんへお渡しした者です」
「それは分かった。それで」
ケラーは書類鞄を開いた。
「この犬の所有者変更が、一年半にわたって完了しておりません」
ヒトラーはゆっくりボルマンを見た。
ボルマンは言った。
「血統書は、確かに所長へお渡ししました」
「確かにもらった」
「ですから、私は手続きも済んでいるものと」
ケラーが机へ書類を置いた。
「紙を渡せば、空欄が自分で埋まるわけではありません」
エルゼが経理室から出てきた。
「何の書類ですか」
「ブロンディの個体登録証と譲渡証明です」
ケラーはヒトラーが保管していた登録証と、自分が持参した控えを並べた。
登録上の犬名。
犬舎号。
生年月日。
性別。
毛色。
繁殖家名。
登録番号。
譲渡日。
そこまでは記されていた。
しかし新所有者の欄は空白だった。
エルゼは一目見て言った。
「ボルマンさんですね」
ヒトラーも言った。
「ボルマンだ」
「私は、所長のお名前を書いてよいものか確認を」
「確認に一年半かかったのか」
「すぐにお返事をいただけると思いまして」
ケラーが淡々と付け加えた。
「こちらから4度、手紙を差し上げました」
「4度?」
ヒトラーの声が上がった。
ブロンディが顔を上げる。
ケラーは犬を見てから言った。
「犬の前で大声を出す必要はありません」
「これはボルマンへ言っている」
「犬には、誰に向けた声かは分かりません」
ヒトラーは言葉を止めた。
ボルマンは少しだけ息をついたが、ヒトラーが視線を戻すと、再び姿勢を固くした。
「続けろ」
ケラーはもう一つ、大きく折り畳まれた紙を取り出した。
「こちらが血統台帳から取った系譜です。お渡しした個体登録証には、犬自身の情報しか記載しておりません。これは父母、祖父母、その前の世代までを示したものです」
彼は製図台の空いた場所へ紙を広げた。
線で分けられた枠の中央に、ブロンディの登録名がある。
そこから左右へ、父犬と母犬の名が伸びていた。
ヒトラーは最初、所有者欄の空白だけを見ていた。
やがて父犬の欄で目を止めた。
「……アドルフ?」
ケラーが答えた。
「父犬の名です」
ヒトラーは紙へ顔を近づけた。
「犬の名がアドルフなのか」
「そう登録されています」
「私の前で、ひどく平然と言うな」
「名前は犬が選んだものではありません」
エルゼが隣から血統表を見た。
「母犬はアネットですね」
父犬、アドルフ。
母犬、アネット。
ヒトラーは二つの名を交互に見た。
「アドルフとアネットから、ブロンディが生まれたのか」
「登録上は」
「妙な組み合わせだ」
「何か問題がありますか」
「問題ではない。妙だと言っている」
ケラーには、何がそれほど妙なのか分からない様子だった。
ユンゲとフランツも血統表を覗き込んだ。
ヒトラーはケラーへ尋ねた。
「このアドルフは、どんな犬だった」
ケラーは持参した記録帳を開いた。
「中型で、脚が強く、歩様が安定していたとあります。性格は落ち着いていて、主人の指示をよく待つ犬でした」
エルゼが言った。
「所長とはあまり似ていませんね」
ヒトラーが顔を上げた。
「どこがだ」
「落ち着いた性格です」
フランツが俯いた。
ユンゲは口元を引き締めた。
ボルマンだけは、笑ってよいのか分からず、青ざめた顔のまま立っていた。
ヒトラーは血統表へ視線を戻した。
「母犬は」
「アネットは警戒心が強く、見知らぬ者には慎重だったそうです。ただし家族にはよく従った」
ヒトラーはブロンディを見た。
ブロンディも彼を見返した。
「性格は母親似か」
「血統表だけでは決められません」
「では父親から何を受け継いだ」
「体格、毛色、脚、耳、歩き方。可能性はいくつもあります」
ボルマンが、場の空気を和らげようとした。
「所長と同じ名の父犬ですから、何か縁があったのかもしれません」
ヒトラーはゆっくり顔を上げた。
「君は父犬の名を知っていて、私へ贈ったのか」
「いえ。それは今日、初めて知りまして」
「血統を確かめずに犬を選んだのか」
「健康で、人に慣れた雌犬をとお願いしました」
ケラーが訂正した。
「選んだのは私です。ボルマンさんは、明るい毛色の雌で、都市部でも人と暮らせる犬を希望されました」
ヒトラーはケラーを見た。
「君は父犬の名を知っていた」
「私が記録した血統ですから」
「なぜボルマンに説明しなかった」
「尋ねられませんでした」
ボルマンは目を閉じた。
ヒトラーは血統表を上から下まで見た。
父犬。
母犬。
祖父母。
曽祖父母。
いずれにも犬舎号と登録番号が付いている。
「犬の曽祖父まで名前がある」
「血統表ですから」
「それなのに、今の所有者だけが空白だ」
ケラーはボルマンを見た。
「そのために来ました」
エルゼもボルマンを見た。
ユンゲも見た。
フランツとクレープスまで、製図台の向こうからボルマンを見た。
ボルマンは帽子を握り直した。
「大変、申し訳ありません」
ケラーは、書類へ署名をもらう前に、ブロンディの状態を確認したいと言った。
ヒトラーは不機嫌そうに答えた。
「獣医には定期的に診せている」
「獣医の診断と、繁殖家の確認は別です」
「書類だけ直せばよいのではないか」
「書類上、まだ私の責任にある犬です。どこで、どう育っているかを見ずに名義だけ変えるつもりはありません」
ケラーはブロンディの前へしゃがんだ。
無理に触れず、まず手の匂いを嗅がせる。
ブロンディは鼻先を寄せたあと、ヒトラーを一度見た。
「よし」
ヒトラーが言うと、ブロンディはケラーの手へ近づいた。
ケラーは耳、歯、毛並み、脚、爪を確認した。
短く歩かせ、戻るよう指示すると、ブロンディはすぐヒトラーの脇へ戻った。
「よく育っています」
「当然だ」
エルゼが言った。
「食事量を決めているのは獣医とマンツィアーリー夫人です」
「私も世話をしている」
「散歩はされています」
「それも世話だ」
ケラーは所長室の敷物、水入れ、窓、床を見た。
製図室には、針金、木片、糊、塗料、モミの枝が並んでいる。
「このような材料を使う時は、犬をどうしていますか」
ブルクドルフが答えた。
「所長室へ入れます。床へ針金や工具を残さないよう、作業後に確認しています」
クレープスが言った。
「模型にも近づかないよう教えています」
ヒトラーが付け足した。
「私の指示だ」
「日中は毎日ここに?」
「ほぼ毎日だ」
「散歩は」
「朝、昼、夕方。昼は仕事の都合で変わる」
ユンゲが言った。
「所長が手を離せない時は、所員が交代で連れていきます」
「基本は私だ」
エルゼが訂正した。
「基本は、です」
ケラーはブロンディの伏せている敷物を踏まず、周囲を一周した。
ヒトラーが訊いた。
「絨毯の値段は聞かないのか」
「犬には値段は分かりません」
「では何を見る」
「滑らずに歩けるか。静かに休めるか。水があるか。人と接する時間があるか」
ケラーはブロンディを見た。
「犬は家具ではありません」
ヒトラーの眉が動いた。
製図室の者たちは、また怒鳴るのではないかと身構えた。
しかしヒトラーは、ブロンディの敷物を見て答えた。
「それは正しい」
ケラーは頷いた。
「この犬の暮らしについては、問題ありません」
ボルマンがようやく息を吐いた。
ヒトラーはすぐ彼を見た。
「君の問題がなくなったわけではない」
「はい」
所有者変更の書類は、ユンゲが清書した。
エルゼが登録番号と譲渡日を確認し、ヒトラーが新所有者欄へ署名する。
ケラーも受領欄へ署名した。
「これで登録上も、あなたの犬です」
ヒトラーはペンを置いた。
「一年半前から私の犬だ」
「今日から、台帳にもそう記録されます」
ケラーは血統表を畳もうとした。
ヒトラーが止めた。
「それは持って帰るのか」
「原本ではなく台帳の写しです。必要なら、こちらをお渡しできます」
「置いていけ」
ユンゲが訊いた。
「父犬の名前が気になるのですか」
「血統表だから保管する」
「アドルフだからではなく?」
「犬の名に反応してどうする」
「最初に反応されたのは所長です」
「仕事へ戻れ」
ケラーが書類鞄を閉じた。
「良い環境で暮らしていることは確認できました」
ヒトラーは少し満足そうに頷いた。
しかしケラーは続けた。
「ただし、新しい所有者にも、受け取った書類を確認する責任があります」
ヒトラーの頷きが止まった。
ボルマンがほんの少しだけ顔を上げた。
「私へ渡されたのは個体登録証だけだ」
「新所有者欄が空白であることは見れば分かります」
「贈った者が済ませたと思うだろう」
「思うだけでは、記録は変わりません」
ヒトラーは血統表と登録証を見た。
しばらく黙ったあと、
「それも正しい」
と言った。
ボルマンの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
ヒトラーはそれを見逃さなかった。
「君は残れ」
安堵は消えた。
「まだ何か」
「贈り物は、渡せば終わりではない」
ヒトラーは空欄のなくなった登録証を指した。
「受け取った者が困らないところまで済ませて、初めて贈り物だ。君は一年半、続きを放置した」
「申し訳ありません」
「そこへ座っていろ」
その時、受付の呼鈴が鳴った。
ユンゲが応対し、所長室へ戻った。
「所長、菓子店の方がお見えです。クリスマスの飾り窓について」
ヒトラーは時計を見た。
「通せ」
ボルマンが尋ねた。
「私は」
「座っていろと言った」
ボルマンは製図室の隅へ座った。
周囲には紙の星、モミの枝、木製の家、赤いリボンが積まれている。
菓子店主が下図を広げると、ヒトラーは何事もなかったように説明を始めた。
「この包み箱が大きすぎます」
「クリスマスらしく、贈り物を目立たせたいのです」
「贈り物だからといって、箱だけを見せるな。中に何があるのか分からなければ、客は立ち止まらん」
ブロンディは血統表の置かれた机の下で伏せた。
父犬アドルフ。
母犬アネット。
その先へ何代もの名前が並び、最後に、新しい所有者の名前が加わった。
贈り物の続きは、ようやくそこで終わった。