まだ白紙の僕らへ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
二十八歳、大学中退。仕事も長続きせず、恋愛もうまくいかなかった。 「このままじゃダメだ」 そう思った松澤柚葉は、二年制のデザイン系専門学校への入学を決める。 周囲は十代ばかり。自分の年齢を気にしながら始まった学生生活で出会ったのは、今回が最後の挑戦だという二十五歳の榊原遥斗と、幼い頃から数々の賞を受賞してきた、圧倒的な絵の才能を持つ十九歳の飯村ミオだった。 優しい線を描く柚葉。 丁寧な線を重ねる遥斗。 そして、感情をそのままぶつけるような線を描くミオ。 年齢も、才能も、抱えているものも違う三人。 夢を追うには遅すぎるのか。 才能がなければ諦めるしかないのか。 才能があれば幸せになれるのか。 それぞれの不安を抱えながら、三人は少しずつ互いの人生に触れ、支え合い、自分だけの「描き方」を見つけていく。 まだ何者でもない。 未来だって決まっていない。 だからこそ、何度だって描き直せる。 これは、人生の途中で立ち止まった三人が、真っ白なキャンバスにもう一度未来を描き始める、二年間の青春群像劇。 『まだ白紙の僕らへ』 ――その白紙に何を描くのかを決めるのは、いつだって自分自身だ。
本文
第10話「夏祭り」
夏祭りの日は朝からよく晴れていた。
昼間は外へ出るのをためらうほど暑かったが夕方になるにつれて日差しは少しずつ弱まり、駅前には浴衣姿の人が増えていた。子供たちは小さなうちわを手に走り回り、遠くからは笛や太鼓の音も聞こえてくる。
待ち合わせは午後五時半だった。
遥斗が駅前へ着いたときにはミオがすでに改札近くに立っていた。
薄い水色の浴衣に白い帯。普段はそのまま下ろしている長い髪も今日は後ろで緩くまとめられている。学校で毎日のように顔を合わせているはずなのに制服ではないというだけで少し違って見えた。
「ミオさん」
声をかけるとミオが顔を上げた。
「小宮さん」
「早いですね」
「普通です」
遥斗は駅前の時計を見た。
「まだ二十分前ですけど」
「今日は人が多いので遅れたら困るかと思って」
「やっぱり早いですよ」
ミオは答えず駅前の人混みへ目を向けた。
二人だけになると普段より少し会話が少なくなる。気まずいわけではない。ただ三人でいるときの会話の中心には大抵柚葉がいた。
柚葉が何かを言って遥斗が返し、その横でミオが呆れる。
いつの間にか三人の間にはそんな形ができていた。
「柚葉さんまだですね」
遥斗が言う。
「あと十五分あります」
「そうなんですけど」
「小宮さん落ち着かないですね」
「そう見えます?」
「はい」
遥斗は少し笑った。
「祭り久しぶりなんですよ」
「そうなんですか」
「中学以来かもしれません」
「私はもっと久しぶりです」
「ミオさん人多いところ苦手ですもんね」
「好きではないです」
遥斗は少しだけ心配そうにミオを見た。
「今日大丈夫ですか」
ミオは一度周囲を見てから答えた。
「三人なので」
その言葉に遥斗は少しだけ目を細めた。
ミオ本人は特別なことを言ったつもりもないようで、また駅前を眺めている。
そのとき人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「ごめん!」
二人が同時に振り返る。
柚葉がこちらへ走ってきていた。
「間に合った!」
二人の前まで来ると少し息を切らしながら笑った。
「五分前!」
「走ったら危ないですよ」
遥斗が言う。
「だってミオ絶対もういると思ったから」
「だからって走らなくてもいいです」
「ほらやっぱいた」
柚葉は笑いながら顔を上げた。
その瞬間、遥斗の言葉が止まった。
柚葉も浴衣だった。
淡い黄色を基調に小さな花が散った浴衣。髪も普段とは違って軽くまとめられていて耳元が少し見えている。
いつもの柚葉だった。
顔も声も笑い方も変わらない。
それなのに遥斗はなぜか目を逸らせなかった。
「遥斗?」
呼ばれて我に返る。
「……はい」
「何?」
「いや別に」
「変なの」
柚葉は気にした様子もなくミオを見る。
「ミオかわいいじゃん」
「急ですね」
「浴衣似合ってる」
「柚葉さんも似合ってます」
「ほんと?」
「はい」
柚葉は嬉しそうに笑った。
「遥斗は?」
突然振られて遥斗は少し遅れて答えた。
「似合ってますよ」
「何その間」
「普通に似合ってるって意味です」
「怪しい」
柚葉が笑う。
ミオは黙って二人を見ていた。
ほんの一瞬だったが遥斗の視線がいつもより長く柚葉に留まっていた。
それがなぜか気になった。
祭りの会場へ近づくにつれて人の数は増えていった。
神社へ続く道の両側には屋台が並び、焼きそばやたこ焼きの匂いが混ざっている。射的や金魚すくい、かき氷やりんご飴の店まで続き、赤や黄色の提灯が頭上を照らしていた。
「すごい人」
柚葉が言う。
ミオは少しだけ眉を寄せた。
「思ってたより多いです」
「大丈夫?」
「今のところは」
三人は人の流れに合わせてゆっくり歩いた。
「はぐれそうだね」
「子供じゃないんだから大丈夫ですよ」
遥斗が言った直後、大きな集団が三人の間を横切った。
柚葉が少し流されるように離れる。
「あ」
遥斗が反射的に柚葉の腕を掴んだ。
「危ない」
柚葉が振り返る。
「ありがと」
それだけ言って笑った。
遥斗はすぐに手を離したが、自分の手に残った感触が妙に気になった。
少し後ろにいたミオはその一部始終を見ていた。
また同じだった。
遥斗は柚葉を見ている。
普段と少し違う目で。
ミオは何も言わず二人の横へ並んだ。
最初に足を止めたのはたこ焼きの屋台だった。
「食べたい」
柚葉が言う。
「来てすぐですか」
ミオが呆れる。
「お腹すいた」
「さっき駅で何か食べてませんでした?」
「小さいパン」
「食べてるじゃないですか」
「あれは前菜」
「祭りに前菜ってあるんですか」
遥斗が笑う。
「俺も買います」
「ほら」
「何がほらなんですか」
結局三人分を買って少し人の少ない場所へ移動した。
柚葉は一つ口へ入れた瞬間、慌てて口元を押さえた。
「熱っ」
「当たり前ですよ」
ミオが言う。
「早く言ってよ」
「見れば分かります」
遥斗が笑いながら飲み物を渡す。
「どうぞ」
「ありがと」
柚葉は一口飲んで大きく息を吐いた。
「助かった」
そんなやり取りをミオは何となく眺めていた。
何もおかしくはない。
春からずっと同じだった。
遥斗は優しく柚葉は誰にでも自然に頼る。
そのはずなのに今日は少し違って見える。
原因が何なのかミオにはもう分かり始めていた。
次に三人が向かったのは射的だった。
柚葉が景品の小さなぬいぐるみを見つけてどうしても欲しいと言い始めたからだった。
「絶対取る」
銃を構える。
一発目は外れた。
「今のは調整」
二発目も外れる。
「風」
「屋台の中ですよ」
ミオがすぐに返した。
三発目もかすりもしない。
遥斗は横で笑いを堪えていた。
「笑うな」
「全部言い訳するからですよ」
「遥斗やってよ」
「俺ですか」
「取って」
遥斗は銃を受け取った。
「俺も上手くないですよ」
一発目は外れた。
二発目は景品に当たったが倒れない。
三発目で小さなぬいぐるみが棚から落ちた。
「え、すご!」
柚葉が声を上げる。
遥斗は店員から受け取ったぬいぐるみをそのまま柚葉へ渡した。
「はい」
「いいの?」
「欲しかったんですよね」
「やった。ありがと!」
柚葉は素直に喜んでぬいぐるみを眺めている。
遥斗も笑っていた。
その顔を見た瞬間、ミオの胸の奥に小さな違和感が生まれた。
嫌だったわけではない。
柚葉が喜んでいることも遥斗が楽しそうなことも、本来なら嬉しいはずだった。
三人で来て三人で楽しんでいる。
望んでいた通りなのに、自分の知らない何かが二人の間に生まれ始めているような気がした。
日が完全に落ちる頃には祭りの会場は昼間とはまるで違う景色になっていた。
提灯の明かりが道を照らし、屋台の光が人々の顔を赤や黄色に染めている。
三人は人混みを避けて神社の奥にある少し高い場所へ移動した。
ここからなら少し離れてはいるが花火がよく見えるらしい。
芝生の上へ並んで座る。
左から遥斗、柚葉、ミオ。
柚葉はさっき取ってもらったぬいぐるみを膝に置いていた。
「楽しかった」
まだ花火は始まっていないのに柚葉が言った。
「もう終わったみたいに言わないでください」
遥斗が笑う。
「だって結構回ったじゃん」
「まだ花火あります」
ミオが空を見る。
「そうそう」
柚葉も空を見上げた。
三人で座っていると祭りのざわめきが少し遠く聞こえる。
「来てよかったね」
柚葉が言う。
遥斗が頷いた。
「ですね」
ミオも小さく頷く。
「はい」
その瞬間、夜空に最初の光が上がった。
一拍遅れて大きな音が響く。
三人が同時に顔を上げた。
花火が夜空いっぱいに広がる。
赤、青、黄色、白。
色が広がっては消え、そのあとを追うようにまた次の光が昇っていった。
柚葉は子供のように目を輝かせている。
「すご」
次の花火が上がり、その光が柚葉の横顔を照らした。
遥斗は空を見ていたはずだった。
気づけば柚葉を見ていた。
花火の光が消えるたびにその横顔も暗闇へ戻り、また光が上がるたびに明るくなる。
楽しそうに笑っている。
その笑顔を見た瞬間、遥斗の中で今まで名前をつけないようにしていたものが急に輪郭を持った。
柚葉といるのは楽しい。
それはずっと分かっていた。
ミオと三人でいる時間も好きだったし、この関係が続けばいいと思っていた。
けれどそれだけではない。
今日浴衣姿を見た瞬間、目を逸らせなかった。
人混みで腕を掴んだときも、ぬいぐるみを渡したときも、柚葉が笑ってくれたことが思っていた以上に嬉しかった。
もしかするとずっと前から少しずつそうだったのかもしれない。
遥斗は戸惑うように視線を落とした。
認めたくないわけではなかった。
ただ認めてしまえば何かが変わる気がした。
三人でいることが当たり前だった今までに別の意味が生まれてしまう。
「遥斗?」
柚葉の声がした。
顔を上げる。
「何?」
「花火見てないじゃん」
「見てますよ」
「嘘。下見てた」
柚葉は笑った。
「もったいないよ」
何も知らないまま、また空を見る。
その横顔に遥斗はもう一度目を奪われた。
今度は自分でも分かっていた。
ミオはそんな遥斗を見ていた。
花火を見ながら柚葉を見て、その横で遥斗も見ていた。
遥斗の視線がどこへ向いているのか、もう分からないふりはできなかった。
遥斗は柚葉が好きなのだと思う。
本人がどこまで自覚しているのかは分からない。
それでもあの目が自分へ向けられたことはない。
そのくらいはミオにも分かった。
隣にいる柚葉を見る。
柚葉は何も気づいていない。
花火が上がるたびに笑い、遥斗に対してもいつも通り友達として接している。
少なくとも今の柚葉にはそれ以上のものは見えなかった。
胸の奥に小さな不安が生まれた。
もし遥斗が柚葉へ気持ちを伝えたら。
もし柚葉がそれに答えたら。
三人はどうなるのだろう。
柚葉が断ったとしても今までと同じように三人でいられるのだろうか。
春から少しずつ作ってきたものが頭に浮かぶ。
昼休み。
帰り道。
画材屋。
湖。
何でもなかった夜。
柚葉の家。
全部が今の三人につながっている。
それが変わるかもしれない。
そう思った瞬間、ミオは自分でも驚くほど強く思った。
このままがいい。
今の三人をなくしたくない。
大きな花火が夜空へ上がった。
それまでよりずっと大きく広がり視界いっぱいに光が咲いた。
「綺麗」
柚葉が言う。
「ですね」
遥斗が答える。
ミオも夜空を見た。
「はい」
三人の声は今までと変わらない。
それでも胸の中にあるものは少しずつ違い始めていた。
花火が終わり、三人は駅へ向かって歩いた。
祭り帰りの人で道は混雑している。
行きよりも人が多く、はぐれないよう三人は近い距離を歩いた。
「今日楽しかったね」
柚葉が言う。
「はい」
遥斗が答える。
「ミオは?」
柚葉が振り返る。
ミオは少しだけ笑った。
「楽しかったです」
以前なら「悪くないです」とか「普通です」と答えていたかもしれない。
今日はちゃんと言った。
柚葉も嬉しそうに笑う。
「よかった」
駅が見えてくる。
このまま歩けばいつものように三人は別れる。
柚葉は少し名残惜しそうに祭りの明かりを振り返った。
「来年も来ようよ」
遥斗とミオが同時に足を止める。
柚葉は二人を見る。
「三人で」
何の迷いもなく言った。
遥斗は一瞬答えに詰まった。
今日、自分の気持ちに気づいた。
それでもこの関係を壊したいとは思わない。
むしろ気づいてしまったからこそ壊したくなかった。
「そうですね」
遥斗は笑った。
「来ましょう」
柚葉も笑ってミオを見る。
「ミオもね」
ミオは二人を見た。
遥斗の気持ち。
何も知らない柚葉。
このままでいたいと思っている自分。
「……はい」
小さく頷く。
「また三人で」
柚葉は満足そうに笑った。
駅前の交差点で信号が赤になった。
三人は並んで足を止める。
夏の夜。
祭りの音はもう遠い。
道路の向こうには駅の明かりが見えている。
少しして信号が青へ変わった。
三人は同時に歩き出した。
これまでと何も変わらないように同じ道を同じ歩幅で進んでいく。
夏が始まった頃、三人は同じ景色を見ていた。
今は少しだけ違う。
柚葉は三人で過ごした楽しい夏を見ている。
遥斗はその隣で笑う柚葉を見始めている。
ミオはそんな二人を見ていた。
三人とも今の関係を壊したくない。
ただその理由だけが少しずつ違い始めていた。
帰りの電車でミオは窓の外を眺めていた。
花火の残像がまだ目の奥に残っている。
赤や青や白の光が夜空へ広がり、すぐに消えていった。
鞄の中にあるスケッチブックへ手を伸ばしかけてやめる。
今日は描きたいと思えなかった。
描いてしまえば、さっき見た遥斗の視線まで紙の上に残ってしまいそうだった。
少し離れた車両では遥斗も窓の外を見ていた。
スマートフォンには今日三人で撮った写真が表示されている。
柚葉。
ミオ。
自分。
いつもの三人。
それなのに気づけば柚葉ばかり見ている自分がいた。
遥斗はそっと画面を閉じた。
柚葉は何も知らないまま、今日もらった小さなぬいぐるみを鞄から取り出して嬉しそうに眺めていた。
三人で過ごした最初の夏は、ほんの少しだけ形を変えながら終わりへ近づいていた。
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