まだ白紙の僕らへ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
二十八歳、大学中退。仕事も長続きせず、恋愛もうまくいかなかった。 「このままじゃダメだ」 そう思った松澤柚葉は、二年制のデザイン系専門学校への入学を決める。 周囲は十代ばかり。自分の年齢を気にしながら始まった学生生活で出会ったのは、今回が最後の挑戦だという二十五歳の榊原遥斗と、幼い頃から数々の賞を受賞してきた、圧倒的な絵の才能を持つ十九歳の飯村ミオだった。 優しい線を描く柚葉。 丁寧な線を重ねる遥斗。 そして、感情をそのままぶつけるような線を描くミオ。 年齢も、才能も、抱えているものも違う三人。 夢を追うには遅すぎるのか。 才能がなければ諦めるしかないのか。 才能があれば幸せになれるのか。 それぞれの不安を抱えながら、三人は少しずつ互いの人生に触れ、支え合い、自分だけの「描き方」を見つけていく。 まだ何者でもない。 未来だって決まっていない。 だからこそ、何度だって描き直せる。 これは、人生の途中で立ち止まった三人が、真っ白なキャンバスにもう一度未来を描き始める、二年間の青春群像劇。 『まだ白紙の僕らへ』 ――その白紙に何を描くのかを決めるのは、いつだって自分自身だ。
本文
第12話「四人目の距離」
玲奈が転入してきてから一週間が過ぎた。
最初の数日は教室中から質問攻めにされていた玲奈も、今ではすっかりクラスの中に馴染んでいた。
もともと人と話すことが苦手ではないらしく誰かに声をかけられれば普通に答え、自分から話しかけることもある。昼休みになればいつの間にか柚葉たちのところへ来るようになり、放課後は文化祭の準備で四人が実習室へ集まることも当たり前になっていた。
三人だった場所に四人目が加わる。
最初は少し不思議だったその光景も、一週間も経てばそれほど珍しくは感じなくなっていた。
「だからここはこっちの方がいいって」
玲奈が紙の上を指差す。
「でもそれだと暗くなりすぎない?」
柚葉が首を傾げる。
「暗くするんじゃなくて締めるの。全部明るいと中心が分からなくなるでしょ」
「なるほど」
「分かってる?」
「半分くらい」
「半分なんだ」
玲奈が笑う。
向かい側では遥斗が別の紙へ構成を書き込んでいて、その隣ではミオが色の候補を作っていた。
文化祭へ向けた四人の作品は少しずつ形になり始めていた。
テーマは『居場所』。
最初にその言葉を出したのは柚葉だった。
学校でも家でもなく、自分がここにいていいと思える場所。
それを一枚の大きな作品にしたい。
最初は漠然とした案だったが四人で話していくうちに、それぞれが思う居場所を一つの景色へ重ねることになった。
柚葉は人の温度を。
遥斗はそこへ続く道を。
ミオは時間と共に変わる色を。
玲奈はその中にいる人を描く。
四人で一枚の絵を完成させる。
簡単ではない。
それでも柚葉はこの案を気に入っていた。
「なんか私たちっぽくない?」
最初にそう言ったとき遥斗は少し笑い、ミオは「そうですか?」と首を傾げ、玲奈は「面白いと思う」と答えた。
そこから少しずつ今の形になった。
放課後の実習室には筆が紙を擦る音が静かに響いていた。
柚葉が色を作りながら隣を見る。
玲奈は迷いなく人物の下描きを進めている。
「玲奈って描くの早いよね」
「そう?」
「早い。私だったらこの辺で三回くらい消してる」
「柚葉は考えながら描くからじゃない?」
「玲奈は考えないの?」
「考えるよ。でも描いてから考える」
「逆じゃん」
「消せばいいし」
玲奈はそう言いながら線を一本足した。
迷いがない。
その線を見て柚葉は少しだけ羨ましくなる。
「いいなあ」
「何が?」
「そういう描き方」
「柚葉もすればいいじゃん」
「できたらしてるよ」
「じゃあやってみれば?」
「失敗したら?」
「失敗したら消す」
玲奈は当然のように言った。
柚葉は少し黙った。
簡単な言葉なのに妙に残った。
失敗したら消す。
それだけ。
絵ならそれができる。
「玲奈って結構適当?」
「柚葉には言われたくない」
「私そんな適当かな」
少し離れた場所から遥斗が顔を上げる。
「かなり」
ミオも続ける。
「かなりですね」
「何で二人とも即答なの」
玲奈が吹き出した。
四人の笑い声が実習室へ広がる。
最近はこんな時間が増えていた。
「休憩しません?」
しばらくして遥斗が言った。
柚葉は待ってましたと言わんばかりに筆を置く。
「賛成」
「一番作業してない人が一番嬉しそうですね」
「ちゃんとしてたよ」
「十分くらい玲奈さんと喋ってましたよね」
「相談」
「雑談です」
「ミオまで」
玲奈が笑いながら椅子から立った。
「飲み物買ってくるけど何かいる?」
「私行く」
柚葉も立ち上がる。
「二人は?」
遥斗は財布を出した。
「じゃあコーヒーお願いします」
ミオも少し考える。
「水で」
「了解」
柚葉と玲奈は二人で実習室を出ていった。
扉が閉まる。
急に静かになった。
遥斗は机の上の紙を整理しながらミオを見る。
「玲奈さん馴染みましたね」
「そうですね」
「柚葉さんとも仲良くなったし」
ミオの手が一瞬だけ止まる。
「……そうですね」
遥斗は気づかず作業を続ける。
「最初はどうなるかと思いましたけど四人も悪くないですね」
「小宮さんはそう思いますか」
「え?」
遥斗が顔を上げる。
ミオは色見本を見ていた。
「何でもないです」
「そうですか」
それ以上は続かなかった。
ミオ自身も何を聞きたかったのか分からなかった。
四人も悪くない。
自分もそう思っている。
玲奈は話しやすい。
絵の話もできる。
一緒に作品を作るのも楽しい。
それなのに時々、夏の頃を思い出す。
三人だけだった時間を。
それが恋しいというほどではない。
ただ少し遠くなったような気がするだけだった。
自動販売機は校舎の一階にある。
柚葉と玲奈は並んで階段を下りていた。
「ミオってさ」
突然玲奈が言った。
柚葉が振り返る。
「ん?」
「昔からあんな感じ?」
「昔って言っても春からしか知らないけど」
「そうなんだ」
「どうしたの?」
玲奈は少し考えた。
一週間前に見つけた写真。
数年前の展覧会。
そこにあった作品と作者名。
まだ確信はなかった。
本人に聞けば早い。
でも何となく聞けずにいた。
昼休みに名字を尋ねたときのミオの一瞬の表情が引っかかっている。
「絵すごく上手いよね」
玲奈が言う。
柚葉の顔が少し明るくなる。
「でしょ?」
「何で柚葉が嬉しそうなの」
「なんか嬉しい」
「本人じゃないのに?」
「うん」
玲奈は横を歩く柚葉を見る。
「好きなんだね。ミオの絵」
「好きだよ」
迷いのない返事だった。
「初めて見たときびっくりしたもん」
「どんな絵だった?」
「窓」
「窓?」
「実習室の窓から見える景色。ほんとに普通の絵だったんだけど、なんかずっと見てたくなった」
柚葉は思い出すように少し笑った。
春。
まだミオとまともに話したこともなかった頃。
一人で絵を描いていたミオ。
あの日から随分時間が経った。
「でも本人は絵が好きか分からないって言うんだよね」
玲奈の歩みが少し遅くなる。
「好きじゃないの?」
「前は好きじゃないって言ってた」
「今は?」
「分かんない。でも前より描くの楽しそう」
柚葉はそれだけ言って階段を下りていく。
玲奈はその背中を見ながら考えていた。
あの作品を描いた人間が絵を好きじゃない。
どうしても結びつかなかった。
飲み物を買って戻る途中、玲奈は廊下の窓から校庭を見た。
「柚葉」
「何?」
「三人っていつから一緒にいるの?」
柚葉は少し考える。
「春からかな」
「最初から?」
「最初は私と遥斗が一緒にいて、途中からミオが来た感じ」
「へえ」
「ミオ最初すごかったよ」
「何が?」
「全然喋ってくれなかった」
「想像できる」
「でしょ?」
二人で笑う。
「でも今は違う」
柚葉の声が少しだけ柔らかくなった。
「前より笑うようになったし、自分から話すことも増えたし。夏なんてうちに泊まったからね」
「泊まったの?」
「雨すごくて帰れなくなって。遥斗も一緒だったけど」
玲奈は少し驚いた。
「本当に仲いいんだ」
「うん」
また迷いのない返事だった。
玲奈は何となく羨ましくなった。
転校する前の学校にも友達はいた。
一緒に昼を食べる相手も遊ぶ相手もいた。
それでも柚葉たち三人を見ていると自分が今まで知っていた友達とは少し違って見える。
言葉にしなくてもそこにいていいと分かっているような距離。
その中へ今、自分も少しずつ入ろうとしている。
「私が入って大丈夫だった?」
玲奈が何気なく聞いた。
柚葉は立ち止まった。
「何が?」
「三人だったんでしょ」
「うん」
「邪魔じゃない?」
柚葉は数秒だけ玲奈を見た。
それから笑った。
「何で?」
「何でって」
「四人になっただけじゃん」
あまりにも簡単な答えだった。
「三人が四人になっただけ。玲奈がいるから誰かがいなくなるわけじゃないし」
玲奈は何も言えなかった。
「それに私、玲奈といるのも楽しいよ」
柚葉はそう言ってまた歩き始める。
玲奈は少し遅れてその隣へ並んだ。
「柚葉って変な人だね」
「急に悪口?」
「褒めてる」
「それミオもよく言う」
「じゃあ合ってるんじゃない?」
「二対一にしないで」
二人は笑いながら実習室へ戻った。
文化祭の準備は日が経つにつれて本格的になっていった。
放課後の校舎には遅くまで生徒が残り、あちこちから作業する音が聞こえる。
四人の作品も少しずつ大きな紙へ移され始めた。
一人で描くときとは違う。
誰かが引いた線の上に別の誰かが色を重ね、その隣にまた違う人が新しいものを描いていく。
最初はまとまるのか不安だった。
けれど少しずつ一枚の景色になっていった。
中心には四人の人物。
その周囲には学校や街、湖や夜空のような景色が混ざり合っている。
夏に三人で見たものも自然と入り込んでいた。
湖。
夕暮れ。
夜の街灯。
祭りの光。
玲奈はその景色を知らない。
それでも柚葉たちから話を聞きながら描いていく。
「ここが湖?」
玲奈が聞く。
「うん。夏休みに三人で行った」
柚葉が答える。
「どんな色だった?」
「青」
「それだけ?」
「めっちゃ青」
「参考にならない」
玲奈が笑う。
「ミオは?」
ミオは少し考えた。
「青だけじゃなかったです」
「じゃあどんな色?」
「空の色と木の色が映っていて、場所によって少し緑に見えました。夕方になると黄色も混ざってました」
玲奈は一瞬黙った。
「……全然違う」
柚葉が不満そうにミオを見る。
「私もそれくらい覚えてたよ」
「じゃあ言えばよかったじゃないですか」
「言葉にできなかっただけ」
「便利ですね」
玲奈は笑いながら筆を取った。
「でも分かった」
湖へ色を置いていく。
ミオがその手元を見る。
玲奈の描く湖は自分が見たものとは違う。
けれど嫌ではなかった。
自分の記憶を誰かが別の形にする。
それが少し面白かった。
その日の作業が終わった頃には外はもう暗くなっていた。
遥斗と柚葉は先生に呼ばれ、作品の展示場所について話をするため先に実習室を出ていった。
残ったのは玲奈とミオだった。
二人で画材を片づける。
しばらく会話はなかった。
玲奈は何度かミオを見た。
聞くなら今しかない。
そう思った。
「ミオ」
「何ですか」
「一つ聞いていい?」
ミオは筆を洗いながら答える。
「内容によります」
玲奈は少し迷った。
それでも口を開く。
「昔コンクールに出てた?」
ミオの手が止まった。
水の中で筆先だけが揺れる。
玲奈はその反応を見て確信した。
「やっぱり」
「……何の話ですか」
「数年前の展覧会で見たことがある」
ミオは顔を上げない。
「作品の写真が残ってた。名前も」
実習室が急に静かになったように感じた。
廊下の向こうから聞こえていた声さえ遠くなる。
「名字も見た」
その瞬間ミオが玲奈を見た。
今まで見たことのない目だった。
怒っているわけではない。
怯えているわけでもない。
ただ触れてほしくないものへ触れられた人の目だった。
玲奈は少し言葉に詰まる。
「誰にも言わないでください」
ミオが言った。
「え?」
「柚葉さんにも小宮さんにも」
「でも」
「お願いします」
声は静かだった。
それなのに玲奈はそれ以上何も言えなかった。
「分かった」
短く答える。
ミオは再び筆へ目を落とした。
玲奈は少し迷ってから聞く。
「どうして隠してるの?」
返事はなかった。
「何かあった?」
それでもミオは答えない。
玲奈はそこでやめた。
「ごめん」
ミオが少しだけ目を上げる。
「勝手に調べたみたいになって」
「別に」
「でも一つだけ」
玲奈はミオを見る。
「あの絵、すごく好きだった」
ミオの表情が僅かに動いた。
「……どの絵ですか」
「雨の絵」
その言葉にミオの手が完全に止まった。
玲奈は続ける。
「窓の向こうに雨が降ってて、部屋の中に女の子が一人いるやつ」
覚えている。
ミオは忘れたことなどなかった。
「あれ見たとき悔しかった」
玲奈が笑う。
「同い年くらいの人がこんなの描けるんだって」
ミオは何も言わない。
「だから今日会ったときびっくりした。まさか同じ学校にいると思わなかった」
「昔の話です」
「そうかもしれないけど」
玲奈は少しだけ笑った。
「私は今でも好き」
その言葉だけを残して玲奈は片づけを続けた。
ミオは水の中にある筆を見つめていた。
好き。
柚葉にも言われた。
玲奈にも言われた。
昔はその言葉が嫌いだった。
上手い。
すごい。
才能がある。
将来が楽しみ。
そんな言葉を聞くたびに次も同じものを求められているような気がした。
もっと上手く描かなければいけない。
期待に応えなければいけない。
いつの間にか絵を描くことが楽しいのかどうかさえ分からなくなった。
けれど。
柚葉の「好き」は違った。
玲奈の「好き」も少し違う。
何が違うのか。
まだミオには分からなかった。
実習室の扉が開いた。
「終わったー」
柚葉が戻ってくる。
その後ろに遥斗もいる。
「展示場所決まったよ」
柚葉は嬉しそうに二人へ近づいた。
「結構いいところ」
ミオはいつもの顔へ戻る。
玲奈も何も言わなかった。
二人だけの秘密が一つできた。
それが良いことなのか悪いことなのかはまだ分からない。
「何話してたの?」
柚葉が聞く。
玲奈はミオを見る。
一瞬だけ目が合った。
「絵の話」
玲奈が答えた。
嘘ではない。
「珍しい組み合わせ」
「そう?」
「二人だけで話してるの初めて見た」
柚葉は何も疑わず笑った。
ミオも小さく笑う。
その横で玲奈だけが少し複雑な顔をしていた。
帰り道。
四人はいつものように駅へ向かった。
柚葉と遥斗が前を歩き、少し後ろをミオと玲奈が歩く。
「本当に言わないから」
玲奈が小さな声で言った。
ミオは前を向いたまま答える。
「ありがとうございます」
「でもいつか自分で話した方がいいと思う」
ミオは何も言わなかった。
「柚葉なら」
そこまで言ったところでミオが玲奈を見る。
玲奈は少しだけ笑った。
「まあ私が言うことじゃないか」
前を歩く柚葉が振り返る。
「二人何話してるの?」
玲奈が答える。
「秘密」
「え、何それ」
柚葉が立ち止まった。
「私にも教えて」
「嫌」
「何で!」
玲奈が笑いながら歩く速度を上げる。
柚葉が追いかける。
「玲奈!」
「秘密は秘密」
「ミオ!」
柚葉が助けを求めるように振り返った。
ミオは少しだけ迷ってから答える。
「秘密です」
柚葉が本気で驚いた顔をした。
「ミオまで!?」
遥斗が横で笑う。
「珍しいですね」
「笑ってないで遥斗も聞いてよ」
「俺は巻き込まれたくないです」
「裏切り者!」
四人の声が夕暮れの道へ広がっていく。
その光景だけを見れば何も変わっていなかった。
むしろ四人になって前より賑やかになっていた。
それでも。
それぞれの胸には少しずつ誰にも見せていないものが増えていた。
遥斗は柚葉への想いを。
ミオは過去を。
玲奈はその秘密を。
そして柚葉だけはまだ何も知らない。
駅へ向かう途中、秋の風が四人の間を抜けていった。
夏より少し冷たい風だった。
季節は確かに進んでいる。
三人だった関係も四人になり、少しずつ形を変え始めていた。
それが壊れるための変化なのか。
もっと強くなるための変化なのか。
今はまだ誰にも分からなかった。
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