第134話 自分の運転席
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
1943年2月。
ミュンヘンの冬は、まだ終わる気配を見せていなかった。
朝になると屋根の端に薄く雪が残り、石畳には夜の冷え込みで固まった水が白く光った。昼になれば少し緩むが、夕方にはまた凍る。
ヒトラーは、この中途半端さを嫌った。
「雪なら雪で積もれ。水なら水で流れろ」
所長室の窓から通りを見ながら、そう言った。
ユンゲは新聞を机の右前方へ置いた。
「天候への苦情は、どちらへ提出しますか」
「提出するとは言っていない」
「では、記録しません」
「天気まで記録する必要はない」
ヒトラーは新聞を開いた。
一面には、アメリカの国内経済についての記事が載っていた。
戦争の長期化に伴い、経済安定政策の対象はさらに広がっている。物価統制、配給、民間消費の制限。靴を含む生活用品にも配給制度が広がり、加工食品についても新たな配給帳による管理が準備されているという。
ヒトラーは記事を読んだ。
「靴まで配給か」
ユンゲは自分の靴へ一瞬だけ目を落とした。
「戦争ですから」
「食料なら分かる。燃料も分かる。靴まで番号で渡されるのか」
「歩くには必要です」
「必要だからこそ、合わない靴を渡されたら困る」
「配給制度は、所長の足型に合わせて作られてはいません」
ヒトラーは新聞を下ろした。
「君は朝からよく言うな」
「所長が朝からよくおっしゃるので」
ユンゲはそう答えて、記録帳を閉じた。
その日の午前、ヒムラーが来た。
持ってきたのは、年明けから詰めていた展示企画の修正版だった。
最初の仮題は「東方脅威展」であった。
ヒトラーは、その題名を見た時から気に入っていなかった。
「入口で結論を叫ぶな」
そう言って、何度も突き返した。
ドナウ安全保障協定によって、ドイツ、イギリス、フランス、ルーマニアの間には、少なくとも南東方面の安全保障について一定の枠組みができている。
だからこそ、その先にあるソ連の軍備、交通、工業、国境地域、鉄道網、軍事演習、周辺諸国との関係を、冷静に見せる必要がある。
恐怖を煽るための展示ではない。
備えるための展示である。
応接卓に置かれた新しい企画書の表紙には、こう書かれていた。
東方情勢と欧州の安全
ヒトラーはしばらく見ていた。
ヒムラーが尋ねた。
「いかがでしょう」
「ようやく入口で怒鳴らなくなった」
「内容はほとんど変わっていません」
「題名が変われば、客の入り方が変わる」
ヒムラーは資料を開いた。
「軍事関係についてですが、参加団体から監修についての推薦がありました」
「誰だ」
「陸軍のヴァイトリング少将と言います。砲兵畑で、東部方面の交通、観測、部隊展開にも詳しい。軍事資料の監修を引き受けていただけることになりました」
ヒトラーは椅子の背へ少し体を預けた。
「展示を大砲で埋める将軍ではないだろうな」
「むしろ数字に厳しい方だと聞いております」
「数字に厳しいならよい」
ヒムラーは頷いた。
「一度、こちらへ来ていただけるそうです」
「先に資料を送れ。人間が来てから山ほど紙を見せるな」
「承知しています」
「君の場合、“承知しています”と言った時ほど紙が増える」
ヒムラーは否定しなかった。
数日後。
雪混じりの雨が降った。
朝から路面はひどく、歩道には灰色の水が溜まっていた。
ユンゲが事務所へ入ってくると、ヒトラーは受付の前で足元を見た。
黒革の乗馬ブーツだった。
膝下まである、よく手入れされたものだった。雪と泥を避けるには都合がよく、入口で水気を拭けば、革靴の上へ履くオーバーシューズより床を汚さない。
それでもヒトラーは言った。
「ユンゲ君。今日もまた騎兵隊か」
ユンゲはコートを脱ぎながら答えた。
「馬は連れてきておりません」
「それは前にも聞いた」
「では説明は不要ですね」
エルゼが帳簿から顔を上げた。
「今日はそちらの方が床が濡れません」
ヒトラーは何も言わなかった。
ユンゲは受付机へ新聞を置いた。
その中に、アメリカ海兵隊の記事があった。
女性予備隊を新たに設ける。
事務、通信、輸送その他の勤務に女性を充て、男性海兵を戦闘任務へ回すためだという。
ヒトラーは記事を読み、ユンゲを見た。
もう一度、足元を見る。
「ユンゲ君なら、海兵隊より騎兵隊の指揮官になれそうだ」
ユンゲは少し考えた。
「では、私は士官ですね」
「なぜそうなる」
「指揮官なのでしょう」
「仮定の話だ」
「それなら、所長は伍長勤務上等兵の階級でしたから、私の方が上になりますね」
ヒトラーの眉が動いた。
フランツが製図台から顔を上げた。
エルゼは帳簿から顔を上げなかった。
「誰が君を士官にした」
「所長です」
「私は騎兵隊の指揮官と言っただけだ」
「指揮官なのに兵卒なのですか」
「君は話を広げるな」
「所長が始めた話です」
ヒトラーは新聞を畳んだ。
「仕事をしろ、ユンゲ君」
「はい、所長」
ユンゲは何事もなかったように受付へ戻った。
フランツは俯いたまま鉛筆を削っていた。
「フランツ」
「はい」
「何がおかしい」
「鉛筆の芯が少し曲がっていました」
「なら削り直せ」
「そうします」
その日の午後、ヒトラーは自動車学校へ行った。
教習も、もう終わりに近かった。
発進。
停止。
右折。
左折。
坂道。
狭い道。
歩行者。
自転車。
交差点。
教官が隣に座り、必要な時だけ短く指示を出す。
最初の頃のように、クラッチをつなぐたびに顔をしかめることもなくなった。
運転用の眼鏡にも慣れた。
ミラーを合わせるたびに、自分の顔がヒムラーに似て見えると言っていた頃ほど気にもしなくなった。
教習を終えると、教官が言った。
「もう試験を受けてよいでしょう」
ヒトラーは聞き返した。
「もう?」
「ええ十分に経験を積んだとみてよいでしょう」
「まだ教えることがあるのでは」
「あります」
「なら」
「あるとしても、免許を取った後に実際に道路で覚えることです」
ヒトラーは黙った。
教官は書類に印をつけた。
「試験では、普段通りに運転してください」
「普段通りという言葉は信用できん」
「では、教習通りに」
「それなら分かる」
事務所へ戻った時には、雪は止んでいた。
翌朝。
ヒトラーは建物の前で足を止めた。
壁に紙が貼られていた。
白い紙だった。
大きくはない。
新聞より少し小さい。
文字が密に並んでいる。
ヒトラーは一瞬、内容を見る前に怒った。
「誰だ!」
入口を開けようとしていたフランツが振り向いた。
「何ですか、所長」
「こんなものを人の事務所の壁に勝手に貼ったのは!」
ユンゲも近づいてきた。
紙には署名がなかった。
政治的な文章だった。
政府。
議会。
自由。
軍備。
若者。
責任。
共和国。
そうした言葉が、長い文章の中に詰め込まれている。
ユンゲは読んだ。
「また、あのビラでしょうか」
ミュンヘンでは以前から、正体不明の政治ビラが時折貼られていた。
誰が作っているのか。
誰が配っているのか。
学生なのか。
市民団体なのか。
複数人なのか。
はっきりしない。
新聞では、小さく話題になる程度だった。
ヒトラーは紙の端をつまんだ。
「剥がせ」
フランツが手を伸ばした。
その時、ヒトラーが止めた。
「待て」
彼は読み始めた。
一段落。
二段落。
三段落。
顔つきが変わった。
政治的な内容に怒っている顔ではなかった。
もっと身近な何かに腹を立てている顔だった。
「長い」
ユンゲが尋ねた。
「文章ですか」
「一文目だ。どこまで読ませるつもりだ」
フランツは紙を覗いた。
「確かに長いですね」
「確かに、ではない。悪い」
ヒトラーは内ポケットへ手を入れた。
鉛筆を出した。
ユンゲが見た。
「所長?」
「ここで切る」
紙の上に縦線を入れた。
「この形容詞はいらん」
線を引く。
「同じことを二度言っている」
消す。
「この段落を前へ持ってこい。結論が遅すぎる」
矢印を書く。
フランツが言った。
「所長、剥がすんじゃなかったんですか」
「こんな状態で剥がしたら、書いた者が何も学ばん」
「誰が書いたかも分からないんですよ」
「誰が書いても文章は文章だ」
ユンゲは記録帳を開いた。
「政治ビラ、所長添削」
「それは書くな」
「事務所の壁です」
「だから何だ」
「事務所で発生した出来事です」
ヒトラーはさらに一か所直した。
「なら、“無断掲示物に修正指示”と書け」
「承知しました」
紙は、そのまま残された。
夕方になっても貼られていた。
ヒトラーは帰り際にも一度見た。
「ここも直せたな」
フランツは言った。
「明日でいいんじゃないですか」
「明日まであるとは限らん」
翌朝、紙はなくなっていた。
糊の跡だけが壁に残っていた。
ヒトラーはそこを見た。
「持っていったな」
フランツが言った。
「清掃されたんでしょう」
「私の鉛筆書きまで持っていった」
「紙ごと取れば、そうなります」
ヒトラーは不満そうに事務所へ入った。
その日の新聞には、インドの記事があった。
ガンジーが拘禁先で断食に入った。
イギリス政府への抗議。
健康状態への懸念。
インド国内外の反応。
ヒトラーは記事を読み、
「非暴力主義とは食べないことまで政治にするのか」
と言った。
エルゼが答えた。
「所長は食事を忘れて仕事を政治にすることがあります」
「私は抗議で食べないのではない」
「結果は同じです」
「違う」
「では昼食は取ってください」
昼食は取った。
さらに数日後。
新聞にはアメリカの記事が続いた。
ジョー・ディマジオ、兵役入り。陸軍航空軍に配属へとのことであった。
ヒトラーは写真を見た。
「野球選手を陸軍の航空部隊へ入れて何をさせる」
フランツが答えた。
「体育指導ではないでしょうか」
「飛ばないのか」
「選手本人は飛ばないと思います」
「なら、航空部隊という名前は紛らわしい」
「そこは所長が決めることではありません」
「分かっている」
翌日の新聞には、宋美齢の写真が載った。
アメリカ議会で演説。
中国への支援。
日本との戦争。
アジア情勢。
議場を埋める議員たち。
ヒトラーは写真を見た。
「アメリカまで行って、議会そのものを演壇にしたのか」
ゲッベルスが、ちょうど打ち合わせに来ていた。
「最高の場所ですよ。新聞、写真、議員、ラジオ。広告屋なら誰でも欲しがります」
「議会は広告塔ではない」
「演説が新聞の一面になるなら、十分広告です」
「君は何でも広告にする」
「所長は何でも構図にします」
ヒトラーは否定しなかった。
その日の夕方。
フランツが外から戻ってきた。
「所長」
「何だ」
「来てください」
「いったいどうした」
「紙です」
事務所の壁に、新しいビラが貼られていた。
ヒトラーは近づいた。
読んだ。
一文目。
短くなっていた。
二段落目。
前へ移っている。
余分な形容詞。
消えている。
同じ内容を重ねていた部分。
整理されている。
ヒトラーは黙った。
フランツも横で読んだ。
「読みやすくなっていますね」
「当然だ」
「所長の直した通りです」
「全部ではない」
ヒトラーは紙へ顔を近づけた。
「ここはまだ甘い」
ユンゲも出てきた。
「添削が反映されていますね」
「反映という言い方をするな」
「では、採用されています」
「それも気に入らん」
ヒトラーはポケットへ手を入れた。
フランツが言った。
「また直すんですか」
「ここだけだ」
鉛筆が出た。
ユンゲは記録帳を開いた。
「第2回修正」
「回数をつけるな」
「継続案件ですので」
「案件ではない!」
通りを歩いていた人が振り返った。
ヒトラーは声を少し落とした。
「ここだ。この行は不要だ」
そして線を引いた。
2月も後半に入った。
試験の日は、よく晴れた。
雪は道端に残っていたが、車道は乾いている。
ヒトラーは運転用の眼鏡をかけ、試験車の運転席に座った。
教官ではない男が隣にいる。
試験官だった。
いつもの教習より、車内が少し静かだった。
「始めてください」
ヒトラーはミラーを合わせた。
正面。
左。
右。
ギア。
クラッチ。
発進。
車は動いた。
最初の角を曲がる。
停止。
確認。
再発進。
狭い道。
交差点。
歩行者。
右左折。
坂道。
試験官はほとんど何も言わなかった。
それが気になった。
気になったが、聞かなかった。
余計なことを言って失敗するほど、もう初心者ではなかった。
最後に指定された位置へ車を止めた。
エンジンを切る。
試験官が書類を見た。
ヒトラーは待った。
しばらくして、試験官が顔を上げた。
「結構です」
「何がだ」
「合格です」
ヒトラーは少し黙った。
「それだけか」
試験官は彼を見た。
「おめでとうございます」
「いや、試験は」
「終わりました」
ヒトラーは前を見た。
あれだけ時間をかけて教習を受けた。
雪の日も乗った。
眼鏡も作った。
クラッチも覚えた。
標識も覚えた。
なのに最後は、ひどく簡単だった。
「もっと何かあると思っていた」
「安全に運転できれば、それで十分です」
ヒトラーは少し考えた。
「それは正しい」
数日後。
ヒトラーは正式に免許証を受け取った。
事務所へ戻ると、全員が一度は見た。
フランツが言った。
「本当に取ったんですね」
「何だ、その言い方は」
「取るとは思っていました」
「なら最初からそう言え」
ユンゲは免許証を見た。
「写真が少し右へ寄っていますね」
ヒトラーはすぐに取り返した。
「私もそう思った」
「免許の効力には影響しません」
「分かっている」
エルゼは帳簿を開いた。
「これで所長本人を運転者として保険契約へ加える手続きができます」
「そこからか」
「そこからです」
「祝うとかないのか」
「経費が増えます」
「もうよい」
その日の午後。
事務所前に車が出された。
ケンプカが運転席側へ回ろうとした。
ヒトラーが先に扉を開けた。
ケンプカは止まった。
「所長」
「今日は私が運転してみる」
「私が出さなくていいのですか」
「免許を取った」
「存じています」
「なら、私が運転する」
ケンプカは少し笑った。
「では、私は助手席ですね」
「そうなる」
二人は乗った。
ヒトラーは眼鏡をかけた。
ミラーを合わせる。
ケンプカは何も言わずに見ていた。
「何だ」
「いや特になにも」
「構わん言え」
「最初に乗られた時より、ずいぶん手つきが変わりました」
「最初と比べるな」
「では、今日からで」
ヒトラーはエンジンをかけた。
車が動き出す。
事務所の窓から、フランツとユンゲが見ていた。
エルゼは見なかった。
正確には、帳簿から一度だけ顔を上げて、すぐ戻した。
車は通りへ出た。
ヒトラーは慎重にギアを上げた。
少し先の交差点で止まる。
信号を確認する。
発進する。
ケンプカが言った。
「急がなくて大丈夫です」
「急いでいない」
「それなら結構です」
「君は教官ではないだろう」
「運転手としての助言です」
その言葉に、ヒトラーは少しだけ黙った。
3月1日から、ケンプカは新しい職場へ行く。
事務所との契約も、もう間もなく終わる。
だから、今は助手席にいる。
ヒトラーは前を見た。
自分でハンドルを握っている。
その日の行き先は、ヒムラーとの打ち合わせだった。
「東方情勢と欧州の安全」。
その展示には、やがてヴァイトリング少将が監修に入る。
ヒムラーは資料を増やす。
ヴァイトリングは数字を直す。
自分は見せ方を直す。
そして事務所の壁には、またあの紙が貼られるかもしれない。
ヒトラーはハンドルを少し切った。
ケンプカが前を見たまま言った。
「所長」
「何だ」
「自分で運転するのは、いかがです」
ヒトラーはすぐには答えなかった。
車は冬のミュンヘンを進んでいた。
道路の端にはまだ雪が残っている。
その間を、自分で選んだ位置を走る。
「悪くない」
ヒトラーは言った。
そして少し間を置いた。
「ただし、前の車は中央へ寄りすぎだ」
ケンプカは笑わなかった。
「所長なら、そうおっしゃると思いました」
車はそのまま、次の交差点へ向かった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。