第4話 星図の余白
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
月乃(16)は故人会員の図案帳に、未完成の星座柄を見つける。 夜の帰り道、暗い空ほど星が美しいと気づく。 若者向け店で小物ポーチを見た月乃は、着物を持たない自分にも光を持ち歩ける星座柄ポーチを思いつく。 能勢絹(76)は慎重に反対するが、月乃は星柄小物ポーチの理由を語る。練習布での試作は許す。青は乾くと沈む。
本文
月乃は、図案帳の最後のほうで手を止めた。
古びた紙は、めくるたびに小さく鳴る。墨の線はところどころ薄れ、ページの端には、何度も指で押さえられたような丸い跡が残っていた。
「それは、もう亡くなった会員さんのものです」
紗江が、机の向こうからそっと言った。
「途中まで描いて、体調を崩されてね」
月乃は返事をせず、開いたページを見つめた。
丸く連なる星。細い線で結ばれた形。12の区画らしいものがあるのに、半分ほどは下描きだけで止まっている。星のそばには、小さく色の印があった。藍、白、銀。
けれど、名前は書かれていない。
「星座、ですか」
「そう見えますね」
紗江は月乃の隣へ来たが、図案帳には触れなかった。
「この方、夜空の柄がお好きだったそうです。完成したものは、残っていなくて」
月乃は、線の途切れたところを目で追った。
描き手は、ここから先に何を置くつもりだったのだろう。星を増やすのか。空白のままにするのか。
聞けない相手の図案帳を、勝手に続きを考えることが、少しだけ怖かった。
帰るころには、商店街の明かりもまばらになっていた。
閉じた店のシャッターが、夜気を冷たく返してくる。月乃は鞄を胸の前で抱え、いつもの道を歩いた。
住宅の灯りが途切れた角で、ふと足を止める。
見上げた空は、昼よりずっと暗かった。
だからなのか、星がいくつも見えた。
白く強く光るもの。目を凝らして、ようやく見つかる小さなもの。黒い空が広いほど、星は逃げずにそこにいた。
「……きれい」
吐いた息が、すぐに薄くほどけた。
数日後、月乃は駅前の若者向けの店で立ち止まっていた。
棚には、スマートフォン用の小さな袋や、化粧品を入れるポーチが並んでいる。透明な星が散ったもの、銀色の金具がついたもの、淡い色の布に刺繍をしたもの。
月乃は一つのポーチを手に取った。軽い。手のひらに収まる。着物のように特別な日に身につけるものではなく、毎日、鞄の中に入れられる大きさだった。
友禅の色を、持ち歩けたら。
着物を持っていない自分でも。夜の空を見上げたときの、あの光を。
保存会の作業場で、月乃は図案帳を机の端へ置いた。
「小物のポーチに、星座の柄を使うのはどうでしょうか」
言ったあとで、心臓が強く鳴った。
藤原が目を細める。紗江は口元に手を当て、月乃の次の言葉を待っている。
能勢絹が、ゆっくり湯のみを置いた。
「小物に、ですか」
絹の声は静かだった。
「友禅は、何でも飾ればよいというものではありません。若い人向け、と言って軽くしてしまったら、残す意味が薄くなります」
月乃の背筋が固くなる。
けれど、目をそらさなかった。
「軽くしたいわけではありません」
声は少し震えた。それでも、続けた。
「着物を着る人だけのものにしたくないんです。私も、友禅はきれいだと思っても、自分には遠いものだと思っていました」
指先が、図案帳の表紙をそっとなでる。
「でも、ポーチなら、毎日持てます。苦しい日でも、鞄を開けたときに、星みたいな柄が見えたら……少しだけ、自分の光を持っていられる気がします」
部屋に、染料を混ぜる音だけが残った。
絹はすぐには答えず、月乃の前にある未完成の星座柄を見た。
「その図案を、そのまま使うつもりですか?」
「いいえ」
月乃は首を振った。
「残された線は大切に見ます。でも、勝手に完成させるんじゃなくて……今の私たちが考えた柄として、作りたいです」
絹の眉が、わずかに動いた。
「何に入れるポーチですか?」
「文房具でも、鍵でも。好きなものを」
「星座を知らない人でも?」
「知らなくても、夜の空が好きな人なら」
絹はしばらく黙っていた。
やがて、図案帳の端を指で押さえ、小さく息をつく。
「本番の布は、まだ早いです」
月乃の喉が鳴った。
「……はい」
「練習布で試すなら、止めません」
月乃は顔を上げた。
絹は、机の脇に置かれた藍の染料を見た。
「ただし、青は乾くと沈みます。塗ったときのきれいさだけで決めないことです」
月乃は、深くうなずいた。
机の上の白い練習布が、夜の灯りの下で静かに待っていた。