第6話 使われなかった星
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
絹(76)は、月乃の柄が若い頃に退けられた自作の星図に似ていると明かす。 古典を守るため、新柄を諦めた絹の時間を月乃は知る。 自分の傷と重ねかけた月乃は、分かったふりをせず「使ってよいですか」と尋ねる。 絹は金彩の道具を託す。星柄には願いを運ぶという話が本当らしく思える。
本文
作業場の隅で、月乃は青い練習布を見つめていた。
白抜きの星を結ぶ線は、まだ少したどたどしい。けれど、布を斜めに傾けると、灯りを受けた金の粒が小さくまたたいた。
「ここ、もう少し細くしたほうがいいでしょうか?」
問いかけても、返事はすぐに来なかった。
向かいの机で、絹が手を止めている。老眼鏡の奥の目は、月乃の布ではなく、もっと遠くを見ているようだった。
月乃は筆を置いた。筆先から落ちた水が、受け皿に小さな輪をつくる。
「能勢さん?」
絹は、ゆっくり息を吐いた。
「似ています」
「何に、ですか?」
「あなたの星の並べ方が」
絹は立ち上がり、棚のいちばん下の引き出しを開けた。木がこすれる低い音がする。奥から、薄い和紙に包まれた一冊を取り出した。
机に置かれた帳面は、月乃が見た図案帳よりもさらに古かった。表紙の端がめくれ、藍色の布張りは色を失っている。
「私が若いころのものです」
絹の指が、ためらうように表紙をなでた。
ページが開かれる。
そこには、星があった。
細い線で結ばれた星。空白を広く残した夜の柄。星のそばに、金彩を置く印。月乃の布より整っていて、ずっと静かなのに、目が離せなかった。
「……きれいです」
月乃の声は、思ったより小さかった。
絹は笑わなかった。
「そう言ってくれる人は、当時はいませんでした」
作業場の時計が、こつ、と針を進める。
「古典の柄ではない。着物に夜空を広げるのは落ち着かない。余計なことをするな、と」
絹は、図案の端に残った鉛筆の線を見た。
「私も、そうかもしれないと思いました。守るべきものがあるのなら、自分の考えは引っ込めるべきだと」
月乃の胸が、きゅっと縮んだ。
言いたいことがあるのに、言えば誰かに迷惑をかける気がする。間違っていると決められる前に、自分から諦めてしまう。
その感覚が、喉の奥まで上がってきた。
「……私も」
月乃は口を開きかけて、閉じた。
違う。
自分の痛みと、絹の時間を、同じ形にしてはいけない。
月乃は膝の上で握っていた手をほどいた。爪の跡が、手のひらに赤く残っている。
「分かった、とは言えません」
絹が、顔を上げた。
月乃は図案帳から目をそらさずに続けた。
「でも、この星図を見せてくださったことは……忘れません」
少しだけ間を置く。
「私のポーチに、使ってよいですか?」
絹の眉が、わずかに動いた。
「そのままではなくて。私が考えた柄として、ちゃんと作ります。でも、ここにある星の置き方とか、空白の残し方を……教えてもらってもいいですか」
言い終えると、指先が冷たくなった。
勝手に受け取るのではなく、許されるのを待つ。その返事が怖い。
絹はしばらく、帳面を閉じなかった。
窓の外を走る車の光が、壁を一度だけ横切る。
「あなたは」
絹の声が、かすかに揺れた。
「若いから、何でも新しくしたいのだと思っていました」
月乃は顔を上げた。
「でも、そうではないのですね」
「私は、友禅が遠いものにならないようにしたいです」
言葉が、今度はまっすぐ出た。
「着物を持っていない人にも。誰かが描いた線を、なかったことにしないためにも」
絹の口元が、ほんの少しほどけた。
「なかったことにしない、ですか」
絹は帳面を閉じ、隣の箱を引き寄せた。
蓋を開けると、金色の光が、夜の灯りを受けて静かに揺れた。細い筆。小さな皿。箔を扱うための、見慣れない道具。
月乃は息をのんだ。
「金彩の道具です」
絹は一本の筆を、両手で持った。
「星には、金を置きなさい。光は、ただ目立つためにあるのではありません」
月乃は手を出せずにいた。
「……私が、預かっていいんですか?」
「預けます」
絹は月乃の手のひらへ、そっと筆を載せた。
柄はひんやりとしていた。けれど、掌に収まる重みは不思議に確かだった。
「星柄には、願いを運ぶものだという話があります」
絹は、月乃の練習布を見た。
「本当かどうかは知りません」
月乃も、白抜きの星を見た。
布の上の小さな光は、声を上げない。ただ、夜の色の中に残っている。
「……本当みたいです」
月乃がそう言うと、絹は目を細めた。
月乃は金彩の筆を両手で包み、深く頭を下げた。